2021年12月4日土曜日

惡の読書日記『あふれでたのは やさしさだった 奈良少年刑務所 絵本と詩の教室』 寮 美千子(著)

2021年 12月 3日 

今週末に友人が開催する読書会があり、今回の指定図書というかテーマ本は本書なのである。そして『惡』である小生には全く別次元の本である。数週間前読書会の主催者より、次回は寮美千子さんの『あふれでたのは やさしさだった』だと言われれ、ふと作者の名前が気になった。よく考えていくと、小生のSNSのフォロワーの方ではないか?どういう訳で小生みたいな惡と繋がったのか記憶もなく。これは次回の読書会も絶対参加だな!となり、早々本書を入手したて読破した次第だ。


実は今ではサラリーマンという隠れ蓑で普通の人ぶった生活をしている小生であるが、以前は騒音×雑音×爆音みたいなルール無用の音楽をやっていて、やっている音楽が音楽(意味不明の音楽であり、インプロビゼイションであったこともあり)だけに、コトバの世界は全く信用していなかったというか、コトバの世界があまり好きではなかったのだ。
それは20年以上前から今に至る話で、最近やっと色々なことからコトバのパワーについて考えることが多く、自分の考えは現実とはかけ離れていた、間違っているのではないか?と思う今日この頃なのである。


本書は以前、奈良県にあった少年刑務所で受刑者に『詩』を教えていた著者の体験談と、そこで受刑者である少年が創った詩が掲載されている。
まずは、とにかく説明不要で、はっきり言って受刑者の少年達のコトバはストレート、そのものなのだ。

少年刑務所の受刑者、と考えただけで危ない奴と連想してしまう。だがそうではないのが現実のようである。まず、彼らが犯した罪の被害者の気持ちを一旦切り離して考えて見る必要があると思うのだが(被害者、被害者の家族から見れば、そんなことは関係ないやろ!という話になるのだと思うが)。どうやら個人的な予想や想像とは異なり、実際は彼らがある意味社会の被害者であり、自ら好き好んで犯罪者に向かったのでなく、犯罪者になるように追い詰められた悲しい存在なのだと言うことである。この本を読むまではそんなことは知らず、単なるお金欲しさや快楽を求めて罪を犯しただけの、最強に柄の悪い20歳前後の若者だと想像してしまうのだが、本当は自分自身をうまく表現できない純粋なひとりひとりの人間なのである。著者である寮さんは、実際に授業をやってみて驚いたそうだ。その点については実際に本書を読んでみるのが一番確実である。計18期(半年×9年)に渡り、全てが感動だったそうである。

少年達が服役するまでのこれまでの人生は、育児放棄される、小学校にも行っていない、父親に殺されかける・・・・など、親の『愛情』ってなんですか?の世界で生きてきた人が多く。そんな体験が幼少期にあれば、誰だって社会から外れていくだろう(だからと言いって犯した罪は償わなくてはいけないのだが)。現在の我々は日本は福祉国家と言いながら、そういった子供の存在を知らなかった、知っていたけど知らないふりをしていたのではないだろうか?『宿題(しゅくだい)』って何ですか?ってどう考えてもありえない。小学校へ通ってもいないのだ。
そんな、小学校にも行っていない、行かしてもらえていない、暗い幼少期や子供のころの思い出が多い彼らの『今』放つコトバには、ギミックもなければ、裏返した表現もない。
あるのは、今、この瞬間の感情をストレートに表現したコトバの世界なのであると。

著者の別の本で、彼らの詩を編纂した『空が青いから白をえらんだのです』は、彼らが創った詩でありコトバである。詩のタイトルではないし、著者である寮さんの創った詩でもない。少年の詩なのである。まさに、『一発でキメた!』というコトバである。
どうすればこんな素敵なコトバを奏でられるのか?しかも書いた本人は刑務所のなかで服役している罪を犯した少年である。
おそらく、このコトバを表現するまでには、彼らのこれまでの苦しい生き方を振り返り、詩の授業で心を整理する過程から出てきたストレートな表現なのだと思う、それを導きだしたのは著者である寮さんの才能であるといえる。
さらに本書は単に思い出話を書いている本ではなく、ところどころに著者のストレート過ぎる、心にくる表現が散りばめられている。流石である。それを含めても本書のコトバのパワーは絶大だと言える。

そして、我々の社会はどうやって、少年犯罪を減らして、誤って罪を犯した少年達の心を浄化させて社会へ戻してやれば良いのだろうか?
本当にコトバは強いのだろうか? いや強いのだ。

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