2021年12月4日土曜日

惡の読書日記『あふれでたのは やさしさだった 奈良少年刑務所 絵本と詩の教室』 寮 美千子(著)

2021年 12月 3日 

今週末に友人が開催する読書会があり、今回の指定図書というかテーマ本は本書なのである。そして『惡』である小生には全く別次元の本である。数週間前読書会の主催者より、次回は寮美千子さんの『あふれでたのは やさしさだった』だと言われれ、ふと作者の名前が気になった。よく考えていくと、小生のSNSのフォロワーの方ではないか?どういう訳で小生みたいな惡と繋がったのか記憶もなく。これは次回の読書会も絶対参加だな!となり、早々本書を入手したて読破した次第だ。


実は今ではサラリーマンという隠れ蓑で普通の人ぶった生活をしている小生であるが、以前は騒音×雑音×爆音みたいなルール無用の音楽をやっていて、やっている音楽が音楽(意味不明の音楽であり、インプロビゼイションであったこともあり)だけに、コトバの世界は全く信用していなかったというか、コトバの世界があまり好きではなかったのだ。
それは20年以上前から今に至る話で、最近やっと色々なことからコトバのパワーについて考えることが多く、自分の考えは現実とはかけ離れていた、間違っているのではないか?と思う今日この頃なのである。


本書は以前、奈良県にあった少年刑務所で受刑者に『詩』を教えていた著者の体験談と、そこで受刑者である少年が創った詩が掲載されている。
まずは、とにかく説明不要で、はっきり言って受刑者の少年達のコトバはストレート、そのものなのだ。

少年刑務所の受刑者、と考えただけで危ない奴と連想してしまう。だがそうではないのが現実のようである。まず、彼らが犯した罪の被害者の気持ちを一旦切り離して考えて見る必要があると思うのだが(被害者、被害者の家族から見れば、そんなことは関係ないやろ!という話になるのだと思うが)。どうやら個人的な予想や想像とは異なり、実際は彼らがある意味社会の被害者であり、自ら好き好んで犯罪者に向かったのでなく、犯罪者になるように追い詰められた悲しい存在なのだと言うことである。この本を読むまではそんなことは知らず、単なるお金欲しさや快楽を求めて罪を犯しただけの、最強に柄の悪い20歳前後の若者だと想像してしまうのだが、本当は自分自身をうまく表現できない純粋なひとりひとりの人間なのである。著者である寮さんは、実際に授業をやってみて驚いたそうだ。その点については実際に本書を読んでみるのが一番確実である。計18期(半年×9年)に渡り、全てが感動だったそうである。

少年達が服役するまでのこれまでの人生は、育児放棄される、小学校にも行っていない、父親に殺されかける・・・・など、親の『愛情』ってなんですか?の世界で生きてきた人が多く。そんな体験が幼少期にあれば、誰だって社会から外れていくだろう(だからと言いって犯した罪は償わなくてはいけないのだが)。現在の我々は日本は福祉国家と言いながら、そういった子供の存在を知らなかった、知っていたけど知らないふりをしていたのではないだろうか?『宿題(しゅくだい)』って何ですか?ってどう考えてもありえない。小学校へ通ってもいないのだ。
そんな、小学校にも行っていない、行かしてもらえていない、暗い幼少期や子供のころの思い出が多い彼らの『今』放つコトバには、ギミックもなければ、裏返した表現もない。
あるのは、今、この瞬間の感情をストレートに表現したコトバの世界なのであると。

著者の別の本で、彼らの詩を編纂した『空が青いから白をえらんだのです』は、彼らが創った詩でありコトバである。詩のタイトルではないし、著者である寮さんの創った詩でもない。少年の詩なのである。まさに、『一発でキメた!』というコトバである。
どうすればこんな素敵なコトバを奏でられるのか?しかも書いた本人は刑務所のなかで服役している罪を犯した少年である。
おそらく、このコトバを表現するまでには、彼らのこれまでの苦しい生き方を振り返り、詩の授業で心を整理する過程から出てきたストレートな表現なのだと思う、それを導きだしたのは著者である寮さんの才能であるといえる。
さらに本書は単に思い出話を書いている本ではなく、ところどころに著者のストレート過ぎる、心にくる表現が散りばめられている。流石である。それを含めても本書のコトバのパワーは絶大だと言える。

そして、我々の社会はどうやって、少年犯罪を減らして、誤って罪を犯した少年達の心を浄化させて社会へ戻してやれば良いのだろうか?
本当にコトバは強いのだろうか? いや強いのだ。

2021年10月3日日曜日

惡の読書日記 シド・ヴィシャスの全て VICIOUS―TOO FAST TO LIVE… アラン・パーカー(著)

 2021年 10月 2日


ブログを更新するのを忘れていたわけでなく、ブログに載せるべき本を読んでいなかっただけである。「シド・ヴィシャスの全て VICIOUS―TOO FAST TO LIVE… アラン・パーカー(著)」



言わずと知れた、セックス・ピストルズのメンバーの一人である「シド・ヴィシャス」のお話である。本書にてはじめて知ったことも多く、あのナンシーがユダヤ人だったこと。スリッツのヴィヴと付き合っていたこと。クラッシュのミック・ジョーンズは本当にいい人。そしてナンシーを殺害したのはシドでなくとある男で、そいつは俺がナンシーを殺したなどと言ってたらしいが、結局何年か前に死んでしまって今ではナンシーは誰が殺害したのか解らず事件は迷宮入り(アメリカは時効がないけど)となっている。だが例え現時点でそいつが犯人であるという事実が解ったとしても、シドの無罪を信じていたシドの母親も、シドもナンシーもこの世にはいない。面白いのは、セックス・ピストルズのどの本を読んでもマルコムは最低の男として書かれ、そう評価されていると言うこと。

セックス・ピストルズが世間にゲロを撒き散らした僅か数年のごく一部にしか参加していないシド・ヴィシャス。唯一のアルバムでもベースを弾いているのはごく一部の曲だけで、スティーブ・ジョーンズがオーバーダブをしているので、シドのベースは殆ど聞こえてい無いに近いらしい。最後のライブ盤(アメリカでのライブ音源)を聴いても、下手過ぎるベースの音が時々聞こえてくるだけで、弾いてない部分も多い。シドはセックス・ピストルズででも、パンクの時代の流れでも、ミュージシャンでなくシドの存在自体が全てであり、悪い意味で象徴だったような木がする。さらにジャンキーであり、早くに(21歳)亡くなってしまったので、彼の死がさらにパンクでの存在感を倍増させてより象徴的な存座に死後ものし上げてしまって今に至るようだ。

人生の途中で、シドは自分の生き方について考え、このままジャンキーでいるのは間違っていると気づいたらしく後戻りをしたかったらしく、当時のバンド関係者に悩みを打ち明けたが、打ち明けられた人物もどうすればいいのか答えようがなかったそうだ。そしてこの世を早過ぎる死で駆け抜けてしまった。後日相談された人はきちんと答えてやることが出来なかったことを後悔し、10代のヤク中毒者の復帰をサポートする仕事についたらしい。立場は変わるがグレイトフルデッドのガルシアも、バンドを辞めてひっそりと生活をしたかったのだが、グレイトフルデッドと言う存在がスタッフを雇いそのスタッフの生活とスタッフの家族の生活を考えると、バンドを解散してやすやすと隠居生活することができずに続けるしかなく日々コカインに走っていたらしい。

結局、音楽活動というのは親しい友達と楽しみでスタートするのだが、バンドが大きくなる、シーンが大きくなる、会社組織になると見えるようで見えないけど存在だけど、自分ではコントロールできない大きな存在になってしまっているのだと。ファンが見ている世界よりも、実際の話は音楽に関する本は何を読んでもこういった恐ろしい話が見えてくるのはなんだか音楽産業の最大の問題点をこっそり覗いている感覚になる。

ジョン・ライドン(セックス・ピストルズのヴォーカリスト)がいつも、メディアの前で思ってもしないこと(嘘)ばかりいう理由を思い出した。本当のことを言っても誰も信じないからメディアに書かれないので本当に思っていることは言わないらしい。セックス・ピストルズの再結成の記者会見でジョン・ライドンがシドのことをあまり良いように言わなかったので、シドの母親はその夜に涙したらしいが、ジョン・ライドンは本当のことをメディアで言うことはないので、涙することはなかったのだと思う。

2021年6月20日日曜日

惡の読書日記 ワインの染みがついたノートからの断片 チャールズ・ブコウスキー(著)

 2021年 6月 19日


コロナ騒動もあり、色々なイベントや何やらと制限を受けている日常生活。しかし、そんな生活をいかに楽しみながら生きることを見つけて楽しまない限り苦しく疲弊してしまうのではないだろうか。幸か不幸か、通っていたフィットネスジムが休館したり、営業を再開してもフルタイムで働いている人が通える時間帯ではないので通えないときた、ということもありこちらのフィットネスジムは一時休会として24時間営業しているジムへ入会し朝からフィットネスクラブへ行っては走り込む日常生活を送り、コロナがなければ朝活というか、朝からフィットネスジムへ行ってランニングはしなかなかっただろう・・・ランニングが歯磨きと同じ位の日常になっているという生活を送っている。



そんな日常で、以前より読み進めていた尊敬する詩人、チャールズ・ブコウスキーの死後に発表された未収録+未発表文献集『ワインが染み付いたノートからの断片』をようやく読み終えた。ブコウスキーの日常は小生の日常とは真逆である。これまでこの本を読み終わるまで相当の時間を費やした。約400ページで字ばっかりの書籍である。これまで新聞や地方紙などに掲載されていた文献や、死後に発見された数々の未発表文献を一冊にまとめた内容であるが、これまでブコウスキーの未発表文献集がどれほど発表、発売されていることかと、おそらくまだまだ相当存在すると思われる。この本が2016に発売された書籍で、これ以外に数冊日本で発売されているが、海外ではこれ以上、特に詩集に関しては相当冊数が発売されていることから音楽で言えば、フランク・ザッパ並に未発表作品が残っていると思われる。
両者にとって共通点は、発表された未発表作品のクオリティは凄くいいことである。よく日本の昭和時代の歌手により未発表音源が収録された音盤を耳にする事があるが、こちらは「こりゃ未発表になるわな」という作品であると感じる事が多いんだが。

ブコウスキーの短編小説は主人公が、ブコウスキー本人が主人公である事が殆どの為、エッセイを読んでもこれがエッセイなのか、短編小説なのか、短編小説に見せかけたエッセイなのか区別がつかない事が多い。荒唐無稽の話は、これは短編小説だな・・・と判断できるのだが。
それがブコウスキーの文章の魅力であると思うのである。
また数々のブコウスキーの小説を読んでいると、過去に読んだ小説の内容のメモというか、プロトタイプ的なブコウスキーの小説の断片を読んでいる気になる。特に登場する女性については、ブコウスキーの女性遍歴を小説にした自叙伝的小説「women」に描かれたあれだな、と容易に判断というか想像できる次第。
それにしても相当の女性遍歴である。
俺はどうしてこんな今は居ないブコウスキーとなる人物のコトバを追いかけているのか?特に彼の詩に関しては殆ど日本で詩集が発売れていない(2冊しか発馬されていない)ので、勝手に自分で彼の詩を翻訳してネットのnoteにアップロードをしているしだい。
わざわざ、ブコウスキーの本を読みたいから、コロナシフトで平日の休暇には某所で籠ってブコウスキーの本を読み漁る行動にまで至っている。いったい俺は何者なのだ?と時々思うこともあるのであるが、この男の書くコトバにハマってしまったのだ。

そしてもう一つ、ブコウスキーは50歳にして作家になったのである。正確には、郵便局で働いていたが一応作家をもしていて、作家では殆ど生活できていなかったかったが、知り合った編集者から依頼を受けて50歳の時に郵便局の仕事をやめて作家一本で生活を始めたそうだ。そして詩を書き、小説を書き、アメリカでは普通である読書会へ行ってライブをやって作家として日々暮らしたそうである。奥さん(最後の)は彼の朗読会にやってきた客人である。年齢なんてのは、人生にそれほど意味がないのではないのか?ってブコウスキーが言ってる気がするのだ。
これは、アメリカンドリームでもなければ、カーネルサンダースおじさんのケンタッキーフライドチキン創業に至る定年後に地道に足で稼いで偉業を成し遂げたコツコツ真面目に努力する結果は素晴らしいという美談では全くない。
単にブコウスキーが日々ビールやワインで酔っ払いながら毎夜、毎夜、詩をカキ、コトバを綴り、タイプライターを押しまくっていた(タイプライターを売ってしまった時期もありこの期間はカクことはなかったそうだ、どんな作家やねん)・・・コトバで想像するのが好きな男がマネタイズをそれほど気にせず、カキまくり続けた結果、好きなことは誰に何を言われても続けるに限るという日々の生活の結果、時代がブコウスキーみたいな作家を求めていたことと偶然繋がったということだろう。ブコウスキーを作家でデビューさせた編輯者の才能も高く評価されるべきだと思う。

ブコウスキーのエッセイを読んでいると、真面目には程遠い日常でなのである。趣味は競馬(どれほど競馬の内容が小説、エッセイに出てくるか・・・)で、殆どコトバの中でも日常でもビールかワインを飲んでいる。さらに本書ではドラックまで手を出している(ドラックの使用については小説かエッセイか不明だった)。女性との話は前述の内容だ。カーネルサンダースの愚直な話とは正反対だ(年齢の差もあるのだが)。いつ何が起こるか解らないから、適当にでも準備しておけば対処できるということを過大評価すればブコウスキーの人生から学ぶ事ができるのだが、小説の内容から見ると過大評価の過大評価かもしれない。

しかし、
どんなことになっても、好きなことは絶対に続けるべきなのであろう、誰がなんと言おうと。
ブコウスキーの如く、日々アル中で酔っぱらっていても、
タイトルは『ワインが染み付いたノートからの断片』と、さまになるのである。

2021年5月16日日曜日

惡の読書日記 ラスベガス★71  ハンター・S・トンプソン(著)

 2021年 5月 16日


やっと読み終えた、ハンター・S・トンプソンの『ラスベガス★71』、映画のタイトルは『ラスベガスをやっつけろ』である。監督はモンティパイソンのテリー・ギリアムである。『未来世紀ブラジル』『12モンキーズ』など、どう見ても決して超商業的に大成功したという映画ではなく、どこか考えさせる映画を作らせるおっさんである。つまり、この『ラスベガス★71』も同様である・・・。



小説『ラスベガス★71』を読み始めたが、なんという話なのか、全くついてけなではないか。著者はジャーナリストと言われているではないか?いや、ゴンゾージャーナリスト、それ何ですか?
どうやらジャーナリストでも、ゴンゾージャーナリストって事件(ものごと)の当事者側(仮に犯人側とする)に入り込んで、事実を当事者から見た視点で本質に迫る報道するジャーナリズムらしい。

で、本書がそのゴンゾージャーナリズムの視点から描かれたそうであるが、訳者後書きによるとゴンゾージャーナリズムとしては失敗作だと著者も認めているらしい。

本で読み進めても解らないから、映画で見てからと考えて、アマゾンprimeビデオでレンタルして観たのだが、これまた前述の通りどう観ても・・・・なのである、主演がジョニー・デップであっても。

ジョニー・デップ主演=商業的成功作品でないと解っていたが、どうしてジョニーデップはこの映画に乗ったのだ?というような映画である。映画の冒頭は本の冒頭と同じ、ジョニー主演のジャーナリストと連れの弁護士がクスリを大量に車のトランクへ詰め込んで、砂漠のオートバイレースの取材にいくというところから始まる。でドラックまみれの無茶苦茶な話が始まっていくのである。
映画を観た後にもう一度最初から本書を読み始めたがやはり謎は深まるだらけのストーリー。しかし、ゴンゾージャーナリズの本質というところから考えると、1960年代末期から1971年のアメリカってこんな感じだったのではなかったのだろうか?
ベトナム戦争で疲れ切った感で、その反動からか反戦運動〜ドラックが流行りだして、当時はクリントン元大統領も若かりし頃は葉っぱ吸ってたという事実。でも肺には入れてないらしいとインタビューで公言する始末、言い返せば葉っぱの吸い方を知らない糞野郎だと言える(このジョークは中学の水泳部の直系に位置する先輩で、アメリカでコメディアンをやって活躍していた先輩がテレビで話をしていたジョークである)。まあ、そんな時代であると言えるのだが、その事実の中心に迫った内容がこの本、『ラスベガス★71』だったのかもしれない。
但し、著者がいうように明らかに失敗作であると自分は思う。結局ジャーナリズム云々よりも、ドラッグカルチャーのグチャグチャな世界をクスリをやっている側の視点から描いたのだけれどけったいな小説になってしまったというのが正直なところではないだろうか?
しかし、その世界を気に入ってしまったのが、テリー・ギリアムで同じような世界を映像化してしまったのだと思う。ジョニー・デップがこんなアホな役を真面目にやっているという面白さが見れる映画と思えばそれは映画としては成功なのかもしれず、個人的には、著者の『ヘルスエンジェル』を読んでみたいです、ひょっとこれこそゴンゾージャーナリズムでは無いのだろうか?という想いだ。

残念ながら著者はすでにこの世にはおらず、
事実は小説よりも奇なりなのか、小説の方が奇なのかは確かめることはできず。

2021年2月20日土曜日

惡の読書日記 フェイス・イット デボラ・ハリー(著)

2021年 2月 20日

昨年下旬より、ミュージシャンの自伝や、自殺でこの世を去ったミュージシャンを調査して書かれた模擬自伝みたいな書籍をよく読んでいる。実質は小説的だったりしたりするのだが世間で売れまくっている恋愛小説やちょっとしたビジネス書や自己啓発書よりも遥かに強烈な内容が出てきたりする。勿論学ぶところは非情にかつ非常に多い。そこには普段考えられような価値観の世界や、華やかなジョービジネスの世界の裏側や、華やかでも無いパンクロックの世界の汚い真実など描かれていて実際はこうだったのか?と思うだけでなく、考えさせる部分が大きい。そしてこのての本はやはり翻訳家の素晴らしき業績で成り立っているということも自覚して読み進める必要がある、翻訳の浅倉卓弥氏の素晴らしき業績で本書は日本語版として成り立っているのである。


本書はデボラ・ハリーの凄まじき自伝である。デボラ・ハリーは1970年代半ばにブロンディーというバンドで世界を股に掛けて活動していたバンドのヴォーカリストで、中心的人物の一人である。今年で70云々歳であるが、ブロンディーは今でも活動を続けている。もし、ブロンディーがこの世に居なかったら、マドンナも居なかったという位のレベルのバンドであり、ミュージシャンである。それ程ブロンディーの影響力は大きかったのである。

もっと凄いのは、ブロンディーはレコード会社が中心となって結成されたバンドなんかではなく、ニューヨークのアンダーグラウンドシーンから現れて、地道な活動の末に結果として世界を股に掛けるバンドになったことである。

このデボラ・ハリーの自伝を読んで、今まで認識していたブロンディーについての幾つかの事が間違っていたり、知らなかった以外な事実が幾つもあったことだ。

1つは、ブロンディーは完全なパンクパンドであること・・・
デボラ・ハリーは今まで誰もやったことのないことに挑戦していた。それが彼女がいう生まれながらのパンクということである。音的に言えば、キーボードをメンバーに加えたり、ラップもロックに取り入れたのは実はブロンディーが最初だったりと、規定の概念を壊して行くこそがデボラ・ハリーの信念だったそうだ。彼女のソロアルバムは、ブロンディーが活動中に製作され、黒人と白人を同時に扱ったアルバムを作りたかったという理由だそうだ。その為、プロデュースは当時無名であった黒人ミュージシャンのナイル・ロジャースに依頼したのであった(後にデビッド・ボウイやマドンナを世界的に有名にしたプロデューサーである)。1980年にそんなコンセプトで音楽を製作しているミュージシャンなんて居なかったのが事実であり、今だからそれが普通なのである。ジャケットも当時映画エイリアンで有名になったハンク・R・ギーガに依頼して描いてもらったのだが、レコード店からはこのジャケットでは店頭に並べられないと苦情が来たくらい出来過ぎたジャケット、これぞパンクである。

 また、相棒のギターリストであるクリスは写真家でもあり、その彼との人間関係も上手くバンドの活動に好機をもたらしたと言える。

2つめは、ブロンディー解散後にデボラ・ハリーが破産したこと・・・
あれほど売れまくったバンドがバンド解散後に破産したと言えば、バンド活動中に投資に失敗したとか考えてしまうがそうではなく、雇っていた金融関係者がきっちりと税金を納めていなかったり、納めていないのに税金対策で家を買うように推めて豪邸を買わされたりと、未納の税金の支払なんかで破産に追い込まれたらしい。ブロンディーの活動中は忙しすぎて休みもなく働いていたので、知らない間にとんでも無いことになっていたそうだ。解散の理由の一つがパートナーであり、ギターリストのクリスの大病にもかかわらず、闘病中に政府によって健康保険を剥奪されるなど実に怖ろしい話なのである。彼女曰くレコード会社はブロンディーが売れれば売れるほどブロンディーから貪り続けたそうである。英米のミュージシャンの話でよくマネージャーの手腕でバンドが売れる、売れないという話がよく出てくるが、ブロンディーが契約したマネージャーが相当酷い人間だったらしいが複数年契約していた為、馬車馬の様に余裕もなく働かされていたそうだ。もし、違ったマネージャーでもブロンディーは売れていただろう。そして音楽性はもっと多様性のある音楽になっていたのでは無いだろうか・・・。

3つめは、デビッド・ボウイとイギー・ポップがブロンディーを前座にしてツアーをしていたこと・・・
70年代後半のボウイとイギーのライブツアーの前座はブロンディーだったらしく、彼らからのオファーだったそうだ。最近このボウイとイギーの音源が公式盤で発売されたが、実は前座はブロンディーだった。ボウイもイギーもブロンディーが好きだったらしく、前座なのに相当扱いが良かったらしい。やはりボウイは本当にいい人なのだと改めて認識したしだい。ちなみにこのツアーはボウイはひたすらキーボードを弾いているだけである。

と、あれこれ書いていけば切りがない。面白すぎるし、何かと考えさせられるのだ。

そしてブロンディーの再結成は、ただ昔を懐かしく懐メロを演奏するバンドでなく、新譜もだしてきっちりとしたバンドとして活動するとい条件で再度活動再開をしたそうである。まさにこれこそである、俗にいる過去の曲ばかり演奏して客受けを狙うことはしないというデボラ・ハリーのパンク精神は晩年も健在なのである。
映画「死ぬまでにしたい10のこと」でニルヴァーナのライブで出会った二人が結婚して生活を送っているストーリーでお祖母ちゃん役で出演しているデボラ・ハリーであるが、実際に年齢で言えばお祖母ちゃんだけど、それ以前に真のパンクなのだとデボラ・ハリーの事が心から好きになった。


最後に、この自伝に書かれた二節が、自分のココロから離れない・・・この二節の為に本書を読んでも十分である。

今の時代ロックンロールで生きていこうとしている人々は、なんというか私なんぞからすると、物事を相当四角四面に取り合い過ぎているに見えて仕方がない。だって、今やそいつは学校の教材の一つまでになっているのだ。でも、そういう持ち出され方はやっぱり全然違うと思う。私達はただ、あの頃のニューヨークで起きていた経済の衰退の、そのただ中に浮いたあぶくのさらにその内側へと閉じたこめられてしまっていたようなものだけだった。そしてそれがむしろ芸術面での強さでもあった。
(p.119より抜粋)

私は革新的な事をやりたかった。自分たちのことをニューウェーブと呼ぶつもりすらそもそもなかった。そいうい分類をしたのは多分批評家たちである。私たちが採っていたのは常にパンクの方法論だった。ただ目の前をぶち壊すのだ。ほかの人間が私に望んだり、あるいは期待したりしているようなことをやるのはうんざりだった。
(p.214より抜粋)


まさにデボラ・ハリーはパンクだ。
本書が、死ぬまえに読むべき10冊の本のうちの一冊になればと。

惡の読書日記 Into the deep forest  海の森、森の海へ  安達 建之(著)

 2021年 2月 20日

今回は写真集であります。写真と電子書籍は新しいコミニュケーションツールである。尊敬するクリエイターは写真は「言語」に匹敵するとまで言っている・・・。

80年代後半、サイバーというコトバが出現してから、サーバーというコトバと共にサイバー空間なんていう、ネットワーク上の架空の世界をそう呼ぶことがあったりするのだが、その空間は実際には存在しない人が意図してネットワーク上に最新テクノロジーを使って創りだした架空の世界と言えば良いのか、簡単に言えばネットワーク上にある非現実な架空の空間と言えるだろう。



今回発売された『Into the deep forest 海の森、森の海へ。』で撮影された世界は、架空の世界でも無ければ、人が意図して創りだした世界でもない。現実に存在している世界なのである。あえていえば最新のテクノロジーも使って撮影をされた一瞬の世界なのである。
それが何とも言えない美しさで、何枚かの写真は観たこともないような世界が写っているのである。

我々は架空の世界での出会いや繋がりと偶然性を中心に、間関係を求めている事が多いと感じるのだが、もっと身近な自国での素晴らしい現実の世界を体験・経験し、そこから次の世界を作らなければいけない段階に入っているのではないのかと感じでしまった。勿論、サイバー空間でなくリアルな世界であり、はたまた別の世界かもしれずだが。
本書は日本の熱帯雨林のジャングルや海の中などで撮影された写真であり、著者である安達 建之氏が天然のカカオを求めて南米アマゾンへ行った歳に撮影してきた写真もあるかと思えばそれは全く無く、すべて国内で撮影された写真だそうである。著者は写真家でも無ければ探検家でもなく、起業家で「green bean to bar CHOCOLATE」を創業したりしている方である。

 個人的に海の中の写真、この世界こそが本当のリアルなサイバー空間ではないのかと、感じざるを得ない。これこそ無限の世界であるサイバー空間そのものだ!

もし、可能であるならばこの本をタブレットやキンドルで読むのでなく、高画像の大画面で観れたらどれだけ素晴らしいのかと。やはり写真と電子書籍は新しいコミニュケーションツールであると実感したしだい。

 

 

ご興味があれば、サンプルもダウンロード出来ます。


 

2020年12月31日木曜日

惡の読書日記 自由への手紙 オードリー・タン(語り)

 2020年 12月 31日


年末年始は、貯まった積み上げられた本を読みまくる予定だったが、ここに来て本を更に買いまくる日々である。自己投資ほど利回りが高い投資が無いと解っているなら、やらない手はないので自己資産を本代に回してアウトプットするのだが、結局それをどうやって現金化するのか解らないのであるが、株を買っていつ売ればいいのかが完璧な判断が出来ないのと同様ではと納得しているが、マネタイズするのはこれからである。



一昨日購入した、オードリー・タン(語り)の『自由への手紙』。雑誌クーリエ・ジャパンがオンラインにて台湾のオードリー・タン氏に数回のインタビューを行い出来上がったこの本は、日本に住む若い世代に向けて出版社が製作した本であるが(帯によると)、実際読んでみると若い世代に向けにするのは明らかにナンセンスの講談社だと、既にこの時点でオードリー・タンの「自由」というコトバの意味から外れている。(単なる宣伝文句ならいいのだが、本当に若い世代向けのつもりだったら?)
本書を読むと、本当に日本は将来大丈夫かと心配になる。台湾は国土が日本よりも小さいから、日本よりも政策の浸透性が速いと考えていたら、それは狂気のさたである。台湾の政治は透明性で多種多様な文化やなんやらを受け入れている。恥かしいながら台湾にには20もの文化(言語)があるそうで、そこへ大陸からやってきた漢民族も含めて人種のるつぼなのである。色々な文化をお互い認識しあって進む政策は中国の様に、漢民族しか存在しないという思想のもとで巨大な土地と人口を動かす不透明な国家とは真逆なのである。いくらスピードがあっても中国の政府は日本と同じ不透明であり、実質は進まないのと同じである。
つまり、日本は中国よりも国土も人口も小さく、台湾よりも国土は大きいし、人口も多い。しかし政治が不透明。多種多様性を認めない、移民なんてもってのほか難民なんてこないで!といってる国なんである。これで国家ととして進歩も前進もあるのかと。

今年、いわゆる今回のコロナ騒動で日本という国の愚かさ、政府の愚かさ、国民の偶民化が非情にも理解できた。日本も台湾もマスクが不足したという同じ状況になったがどうやってそこを抜け出したか。その点は説明不足の内容なので詳細は書かないが、単にマスクが国民にうまく行き渡るシステムを速攻作り上げた台湾だが、そこには年寄りが薬局に並ばなくてもいいような細い配慮も含んでの複雑なシステムでありながら見事に解決して成り立っているということ。また小学生の男子にピンク色のマスクが渡ったことで、小学生男子にしてみれば、ピンク=女子という感じで、マスクを付けて登校することが恥ずかしく登校拒否なった子供の為にした政策が面白く、前述の多様性を認める一貫であると考えるのは想像しやすく決して難しくはない。
こういったことを日本でも出来るのか?出来たのかと考えると?考えるだけ無駄な気がする。気がするのではなく事実であり現実である。

昔は、台湾の人が日本に追いつけだったり、日本の事例を参考にしてきたが、そんな時代は過去の話である。我々は一歩も二歩も周りの国より遅れているのである。隣の韓国には文化で追い越され、台湾にはテクノロジーで追い越され、中国には経済で追い越されてている、にも係わらずいまだに日本の実力はこんなものでは無いと自信満々な人々と現実を理解していない人が多いのは驚きだ。

追い越し追い越されという低次元な議論を外して、日本が正常になるには、「自由」になることだと、日本に住む我々が自由にならなければいけない。「えっ?自由って何?」それにはどうすればいいのだろうか?何から「自由」になればいいのだろうか?とそのヒントがこの本にはいくつか載っているのだと思う。
オードリー・タン曰く、自分が自由になれるだけでなく、みんながみんなを自由にする為に行動を起こせたら、凄いことです。自由をお互いにシェアしよう、と。
 
勿論本書のどの自由を選ぶかは、読み手の自由である。