2019年5月29日水曜日

悪の読書日記 事象そのものへ! 池田晶子(著)

2019年 5月 29日

やっとのこと池田晶子『事象そのものへ』を読み終えた。古本屋の店頭の木箱にて百円並べてで売られていた本ながら、これほど読みごたえがあると百円しか払っていない事に後ろめたさがあるが、古本屋はただ同然で買い取ったからいいのかと思い。会ったことのないと思われる新品での本の購入者にも申し訳ない、へへへ・・・と思ってみたが、肝心のこの本を書いた今は亡き著者はあの世でどう思っているのか?と考えてみると、あの世なんてあるんか?となる。
というのがあり著者の主張であり、あんたあの世行ったことあるんか?、誰も行ってきて帰ってきたことないやろ?と言うのよう内容を著者が常日頃書はよく書いていたのだから、著者には失礼かもしれないが100円という価格ながら素晴らしい本に巡り合った。



50才にも届かない歳でこの世を腎臓癌で去った著者は死ぬ寸前本当に恐怖を感じなかったのか?自分がコトバにした想いは本当に自分の本当のココロからの本心だったけど最後まで貫いたのだろうか?本人に聴くにも既に他界し死後の世界の存在なんかワケわからんのに確かめられず。そんなことを考えるのが失礼だなとここまで書いて申し訳ない気持ちになった、やっぱり俺がおかしい・・・最近、自分の死について考える事が多く、やたらこんな事が気になる。

ただ、著者の数々の書籍から感じとれるコトバの重さから、池田晶子は死ぬことは遂に自分のこれまでのコトバで表現し確立した世界を確めてやるという気持ちを持ってこの世を去ったと思うのである。著者はそんな方なんだと思っている。


難しいことばかり書いてある本なのだが、時折好きな言葉が突然現れる・・・
『詩人とは、ことばと宇宙が直結していることを本能的に察知してる者をいう・・・』
『意識でありながら歴史であること、普遍でありながら個別であること、これは私たちの人生のまぎれも無い事実である・・・』
しかし、殆どが理解するには一苦労する。

元格闘家の須藤元気氏は誰か忘れたが有名な哲学者の本を常に鞄に入れているらしい、精神科医の名越先生は道元の難しい本を鞄に入れているらしい、小生もこの池田晶子『事象そのものへ!』をいつも鞄に入れておきたい、なぜなら前述のとおり解らないこと知らない事がいっぱいだからである。
解らないこと、知らないことを知りたい、考えたいのである。
気分がいつもよりおかしくなったら、いや普通以上になったら鞄からこの本を取り出し読んで、考えて考えて考えたい。
問題はハードカバーの単行本なので重いのである。

この本の最後の章『禅についての禅的考察』の最後にこうかかれている、
神や宇宙や始原について考えるのは宗教だけではない。何ということもなく日々を暮らしてゆく人々が、ふと「なぜ」と問えば、それは既に、神と宇宙と始原の問題だ。生まれてきた理由も、死ななければならない理由も、生きてゆかなければならない理由も、わからない。そんな問いを問うてしまう理由もわからない。これらの「なぜ」を「神」に答えるのが宗教であり、答えず問い続けるのが哲学であり、そして問いも答えずもせずに、とぼけてそのまま生きていくのが禅というものなのだ。

いくら読んで考えても答えはないのだ、考え続けて苦しくなったらとぼけて、また考えるだけなのだ。
それが死ぬまで続くのである。

2019年5月20日月曜日

悪の読書日記 あたりまえのことばかり 池田晶子(著)

2019年 5月 21日

ソクラテスは、正義のために死刑になることに自分の主張を覆さなかったのではなく、死刑…『死』については解らなかった、『死』とはなにか?恐れべきものなのか知らない。知らないことを知ってるようなものであるかのように恐れるのは正しいことではない・・・



先日より自分のSNSで何度か死について書いたことがある。
死なれた方の人生が短い人生だったのか、長い人生だったのか、それを言えるのは死んだ本人だけしかなく、その答えを述べるべき本人はすでに存在しないのである・・・と。
そんな事を書いていた矢先、元スターリンの遠藤ミチロウ氏が4月に他界していた事が、5月1日なって公表された・・・・彼の人生が長いものであったのかどうか、まだまだやる事があった短い人生だったのかは前述の通り、本人しか解らない。我々が言えるのは彼の記憶からみての個人的見解でしかない。
本書の『生きているとはどういうことか』、『死ぬのは不幸なことなのか』、『他者の死はなぜかなしいか』を何度読みなおしても、死についての自分の答えは見つからない。見つかる訳はないのである・・・読めば読むほど混乱するばかり、「これはちょっと違うのでは?」と思ったりもするのだが、とにかく言えることはただひとつ、死んだらどうなるのか誰も解らないのである。
解らない事に上手くぴったりと嵌り込んだ宗教というのは、悪く言えば凄いビジネスなのかも知れず。『死』とは肉体が滅んだこととなっているが、それ以外は何処へいくのだろうか?と。
 
そんな日、ネットの動画サイトを観て知ったのだが、死刑囚の死刑執行は、死刑当日の朝9時に死刑囚に伝えられるらしい。つまり、今日あなたは死刑執行されるのですよ!と言われるのと同じである。人の命を奪った死刑囚だが(おそらくというか多分)、死刑が執行されるのは突然である・・・いつ死ぬのか毎日待っているような気がする。犯罪を犯したときは悪人でも、何年も刑務所の独房にいると善人に変わっているかもしれず。
いまは善人となった人を殺すのはよくないというのは死刑反対論の理由の一部であると思う。しかし、過去に大きな罪を犯したのだから死刑になるのは当然であるというのは死刑を肯定する人の意見の理由の一部だろうと予想する。死刑を執行されるより、執行される日を待っている日々の方が残酷な気もするが、それはそれなりの罪を犯したから当然であるという意見もあるだろう。
死刑執行が決まったあと、お寺の関係者というか、それなりの方が来て死刑囚を説得して心を落ちつかせるそうだが、アメリカのドラマで死刑執行前に牧師さんがやってくるのと同じようだ。果たしてどんな事をいうのだろうか?どんな話をするのだろう? 悪い言い方をすれば、死刑囚は大きな罪を犯しておきながら、死の恐怖を和らげるかの如く ・・・これでは死に勝ちかもしれず。

池田晶子曰く、「死」とは「死」というコトバだけでしか存在していないという。死んだあとの世界、その世界がるのかどうかさえ解らず、行って帰ってきた人さえいないのである。肉体は消えたが本人は何処へいったのか?

亡くなった方に会えない悲しさ、記憶の中でしか会えない悲しさ・・・それが死ぬという悲しさなのか。その逆の悲しさもあるだろう。それは恐怖なのかもしれない・・・

子供の頃、幼稚園くらいの頃だった。死んだらどうなるのか夜中に一人考えて怖くなって泣いた事がある。
来月50歳になるが、いまでも死んだらどうなるのか、解らない。
つまり、死ぬまで解らないのである。死んでみなくては解らないのである。

2019年5月11日土曜日

悪の読書日記 クマのプー A.A.ミルン(著)

2019年 5月 12日

先日の「図書室の落語会」、第二部の読書会のテーマはA.A.ミルン(著)『クマのプーさん』であった。クマのプーさんと言えば、元ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが、ミルンの自宅を購入していたという位しか知識は無い。


「なんでプーさんやねん?」と思い、開催日の当日朝にやっと読み終えたという本であったが、やっとではなく2時間もあれば十分読める本であった。しかし、いままで『クマのプーさん』なんぞ読んだ事がなく、読んでみると荒唐無稽な話に驚くばかりである。
登場人物は「クマのプーさん」とピンクの子豚だけであとは悪徳ディスニーが勝手に作ったキャラかと思っていたが、実際にプーさん、子豚、ロバ、虎・・・・云々のキャラクターは原作に登場しているのであった。しかも驚くのは、プーさんは熊でなく、熊のぬいぐるみなのである、さらに他のキャラほとんどがぬいぐるみなのであること。
そして話にはクリストファー・ロビンという人間の子供がでてくる。

読めば読むほど、クマのプーさんが解らない。『アホやね〜ん!』と自ら自分の事をおつむの弱いくまやね~んと言いながら、趣味は詩を書くことであると。詩を書くプーさん『教養あるやん』。いったいあんたはなにもんやねん?と思わせる行動の数々・・・好きなのものは『はちみつ』と食べることに掛けては最優先で他の大事な要件さえも忘れてしまう・・・・そんなんでええんか?あんた?と思っても、そこはメルヘンの世界というか架空の世界。
読みながら子供が自分の部屋で一人、熊やうさぎや子豚のぬいぐるみを並べて遊びながら、話を思いつくまま一人で人形遊びに熱中している様子が頭のなかで浮かんでくる、それをこっそり覗き見している父親で作者のミルンがこそこそとメモ書きをしている様子も・・そしてお母さんが「ごはんですよ〜!!クリストファー!!」とクリストファー・ロビンを呼び出すので話はプッツリとそこで終わる、あとは父親ミルンが話を適当に終わらせる、みたいな・・・そんな光景が頭の中で走るのである。それがクマのプーさんの土台なんでは?と。

結局、読み終えると、ほのぼのとした気持ちだけが残る。

この本が出版されたのは1920年代の英国、時に第一次世界大戦で疲れ果てた英国人の方々がこれを読んで同じ気持ちになったようで、爆発的ヒットに至ったといのも納得できる。


そして続編『プー通りの家』も早々に購入して一気読みである。


ようやく虎のキャラクター『ティガ』が登場したり、前巻のエピソードがこに登場したりと、クリストファー・ロビンと動物のぬいぐるみたちのお話は収束していく。
僕が一番好きなことは『なんにもしないこと』・・・とプーに伝えるクリストファー・ロビン。
そして『なんにもしないこと』が出来なくなのるので、これで終わりにしようと、クリストファー・ロビンとプーさんは別れるのである。これである『なんにもしないこと』、そんな事を永遠に続けられるのは、生まれながらの大富豪の末裔か、霞を喰べて暮らす仙人でしかない。本当なら、みんなほのぼのと暮らせばいいのであるが、現実的にそんな事はありえない。そんなことは解っているのだが、ミルンは解りきったことをあえて言っているのだろうか…

既に作者がこの世を去って何十年、クマのプーさんをベースにしたビジネス書や研究本が相当発売されているが(日本だけなのかどうか不明)、作者が居ない今となっては作者がこの本を書いた想いは解らず、何を書いても自由だが果たしてそれは作者ミルンの思っていた世界なのかどうか?。

結局、『なんにもしないこと』の大事さが心に突き刺さるも、ほのぼのとした気持ちがそれを上回るのである。

2019年5月6日月曜日

悪の読書日記 哲学入門 三浦つとむ(著)

2019年 5月 5日

今年のゴールデンウィークは久しぶりに休んだ気がする、それは色々な意味でである。
自宅の書斎には積ん読(未読本のストック)が大量に準備されている、近頃はアマゾンKINDLEの中にでさえ積ん読(未読本)が増えてきた傾向にあるのも事実である。ゴールデンウィークはとりあえずご存知の通り、読みまくりの一週間であったが、主にマインドフルネスの本や小説が殆どで折角の一週間が読んだけどあんまり思考する事に力を注がなかったのではないか?と今更後悔してしまった、今日は5月5日であるにも関わらず・・・。で、積んどくから一冊の本を抜いてみた『哲学入門』三浦つとむ(著)、どうやら新品である。実は購入した記憶があるのだが、何をきっかけに購入に至ったたのか全く記憶にない。佐藤優氏の本で推奨されていたのかどうか?佐藤氏の本をひっくり返す事が面倒くさいし、AMAZONが奨めたかもしれないので、とりあえず読み始めることにした。



本書は戦後(1948年)に出版された本の復刻版であるが、発行は1975年、本書は1998年第6刷:累計12000部と記載されているので再発分だけで約20年間に12000刷というのは少ない気もすると考えるが、この種類の本ではどうなのだろう?
出版された時代が時代だけに、内容は興味深い、大東亜戦争後の裁判で裁かれた戦犯に関して相当批判的であり、さらに過去の哲学者が大東亜戦争に加担したことをかなり批判している。

しかし、その批判が論理的なのである・・・
哲学には二種類存在する。「科学的な哲学」そして「神がかりな哲学」。前者は唯物論で後者は観念論であると、過去の哲学者は大東亜戦争で、神がかりな哲学を悪用して国民を戦争に巻き込んだ事に相当怒りがあるようだ、そのうちの一人の哲学者に至っては昨年、佐藤優氏の哲学に関する本によく書かれており、哲学はマインドコントロールに悪用出来ると佐藤氏が警告していれう哲学者であり、一昨年佐藤氏は『学生を戦地へ送るには: 「悪魔の京大講義」を読む』という本も出されている。
確かに、神がかりな哲学は悪用すれば、マインドコントロールに使えるので、この延長で三浦氏は宗教団体の関係者への批判もエピソードとして書かれている。

しかし、そういった部分を仮に、仮にである。削除したとしてもこの本は『哲学入門』というタイトルから見れば、入門書としては非常に良く出来ている。
義経と弁慶はどっちが偉い?。裸の王様、吾輩は猫であるは、嘘をついて本当の事を教えている。落語の『一つ目の国』をもとに技術や科学が発達するという事はどういうことか。実に分かりやすく解説している。
弁証法については、ヘーゲルの大論理学からの定義をそのまま引用しながら、『・・・事実を正しくとらえてはいますが、それは一面の真理だけであって、全く反対の、対立した規定で補われてはじめて本当の本当の正しい規定である』、『対立した規定がその統一においてほんとうの真理であり、これが弁証法的な考え方なのです』・・・と、自ら解説しながら、前述の牛若丸と弁慶のエピソードも使って説明しています。
併せてレーニンのノートからも引用をしていますが、レーニンは書籍を持って移動できなかったので、本を読んで学んだことで大事なことはノートに書いて持ち歩きしていたということを最近何かの本で読んだのですが、そのノートのことだと思います。
また、マルクス=エンゲルスのエピソード等も引用しているので、それらから考えても本書は入門書と適していると思います。しかしマルクス主義を一押しし過ぎているように思いますが、その点は少し距離を置いて読むほうがいいのかもしれません。既にソ連は崩壊して、中国もご都合主義に移行し、既に世界的に資本主義は行き詰まって貧富の差が開くばかりの現実問題が大きな問題になってきています。

つまり、そんな時代だから哲学が必要なのだと思います、神がかりでない哲学が・・・。

2019年5月5日日曜日

悪の読書日記 地図にない町 フィリップ.K.ディック(著)

2019年 5月 5日

P.K.ディックの小説、短編小説を読むのは久しぶりである。数ヶ月前に「高い城の男」という長編小説を読んで以来のP.K.ディックの作品であるが短編はいつ読んだのか記憶がない。所有するディックの短編小説は多分、アーノルド・シュワレツネッガーが出演した鬼才バンホーベン監督の「トータルルコール」が公開された前後に買った短篇集ではなかろうか(しかし、表紙はHRギーガのなんでか角川文庫のハズ)。ディックといえば前述の通りハリウッド製作のSF映画の原作にされる作品が数多く、もし生きていたら大金持ちになっていたのだろうと思う日々で、多分ハリウッドなんどは原作に困ったらP.K.ディックを読め!みたいね風潮や傾向があるのだろうと勝手に想像している。なんせ読むきっかけが.AMZONビデオで配信しているP.K.ディック原作の映像ストーリー「エレクトリック・ドリーム(1話完結全11話)」を観てからである。おそらくAMZONはこれを観たからと言ってディックの作品がバカ売れして、アマゾンの売上に貢献するなんてなことは全くといって考えていないはずだ。もしこんな事を考える発想があるのは日本企業くらいだろう・・・。
前述の「高い城の男」はAMZON・プライムビデオで映像化(連続ドラマ化)されている。



今回読んだ『地図にない町』は日本語版で発行されたのが昭和51年、今回購入したのは昭和62年の10刷版であり、平成とかいう時代のさらに前である。おそろく過去に相当売れた本であると思える。SFファンだけでなく、映画「ブレードランナー」の原作者の短篇集というふれこみで当時早川書房が宣伝活動をしたかもしれない。兎に角、当時はP.K.ディックの短篇集や長編が早川書房から相当発売されている。確かにSF小説の老舗といえば早川書房であるのは間違いのない事実である。

前述のAMZONビデオの「地図にない町」などを観て、再びP.K.ディックの本を読みたくなり古本で探した短篇集が本書である、タイトルの「地図にない町」以外に「エレクトリック・ドリーム」で観た「ありえざる星」が収録されている事で、1冊で2本の原作が読めるというお得感だけで本書を選んだわけである。はっきり言えば、読みたかった2本の短編以外に、流石のP.K.ディック、あと50年分のハリウッドのSF映画の原作があるのでは?と思うくらいまだまだ映像化P.K.されていない作品があると感心し、短篇集「地図になち町」は充実した一冊である。

書かれた頃の時代背景もあり、やはりP.K.ディックの作品はアメリカとソ連が核戦争した後の設定などが多いのは事実だ。本短篇集に収録された「クッキーおばさん」の様な怪談ちっくな話もこんな話も作ってしまうのかと感動。「おもちゃの戦争」は多分、日本の某有名な漫画の中で使われた元ネタであると想像できる。「森の中の笛吹」は実に個人的に興味深く、落語にアレンジ出来るような感じがするのだが、落語にしては面白い笑える部分が無い・・・と言えるか。などと想像力を掻き立てられる。

P.K.ディックの小説にアメリカとソ連の核戦争後の設定が多い理由はよくわからないし、P.K.ディックが平和主義者だったのかどうかもよくわからない。亡くなられたのは1980年代初頭、まだアメリカもソ連もピリピリしていた時代。ただ知っていいるのはP.K.ディックがドラック・ジャンキーだったこと、特に昔々に読んだ長編「ヴァリス」にはその影響が強くでている。

これ以上P.K.ディックの小説を読んで、読み直してディックの世界を深めたいのであるが、部屋の積毒(読)を解消しなければならない事を忘れてはいけない。こっちは読書ジャンキーなのである。

2019年5月4日土曜日

悪の読書日記 メタル脳 中野信子(著)

2019年 5月 4日

今回は『メタル脳 天才は残酷な音楽を好む』 中野信子(著)である。先日、音楽を始めた経緯についてこのブログで少し触れたが、メタルも聴くのである。生まれも育ちも大阪、関西人はメタルが好きなのです、多分。いや一部の方々だけだと思うのだが。
読書と並ぶ人生の大事な行動、ライフワークにオープンウオータースイミングというのをやっているのだが、このレース会場にくる人のほとんどが、これまで参加したレースで入手した参加賞のTシャツを着ていたり、学生は所属大学のTシャツを着たりされていますが。昨年とあるレースでいつもの如くアイアンメイデンのTシャツを着てあるいていると、初めて「アイアンメイデン好きなんですか?」と見知らぬ人に声を掛けられたのですが、その方は「ジューダス」のTシャツを着ていた・・・。



『メタル脳』の著者、中野信子氏は有名な方らしくテレビ等にもよく出演されているらしい。また、著書もかなり多数発表されている方であると、読み終わってアマゾンで検索したら解ったしだい。テレビは殆ど観ない(海外ドラマのみ)ので全く知らなかった。
よく欲求不満最高値更新で音楽を聴きまくって現実から逃避したり、メタルに限らず音楽でストレスを解消する人が多い世の中だが、単にストレス解消にはメタルです。アイアンメイデンの最近のライブ盤はギターが3人なので、右、左、中央とギターの音をヘッドホンで聴き分けて聴くと頭にいいですとか、アイアンメイデンは他人に優しいチャリティー活動が好きとか・・・そんな解説を集めて「やっぱりメタルよね?」という本ではなく。著者のこれまでの経験と併せて出処の明確な学術論文をベースに、「なぜメタルなのか?」を解説されている(巻末に論文の掲載サイトも明記されている)のが当たり前だが凄い。例えば、数年前に話題になったモーツァルト療法は嘘だったそうである。

冒頭でも少し書いたが、前回このブログで小生は昔々、インプロビゼイションいわゆる即興演奏をしてたと書いてたくせにメタルか?と思われるかもしれないが、音楽のきっかけはパンクだったりと…書いていた通り、そこにはご承知の通り重なる部分が多いのも事実で、馬鹿テクのハードコアはいつしか、パンクでもなくメタルでもなくいいあんばいになるのは日本もイギリスも同じような気がする。
また、自宅でギターの練習をするときは、殆どがメタルの曲をコピーしてみることにしている。昔々より他人の曲は人前で弾かないが、自宅では練習として他人様の曲で練習したり、数値を音にすることで脳ミソを鍛えられるという研究結果があるということでいまも脳ミソの活性化ということでギターの練習はやっていると、やるなら難易度の高いメタルの曲で練習する様にしている。

本書を読んでいて、色々なメタル好きの考え方など、あっこれそうなんよね〜っと自分自身で思うところと、同僚のメタラーも本書に書いてある内容と同じ行動、同じ性格であるところを見ると、科学的に我々はメタル脳なのであろうと簡単に判断できてしまう。

メタル好きの興味深いところは、「偽メタル」というような作為的に作られたのが嫌いな為、世の中の胡散臭い奴を容易に判断できてしまう。最新アルバムで歌詞の内容や音が大幅に変化すると失望だけでなく、裏切られたと思ってしまう。さらに自分たちの仲間以外の存在を攻撃してしまう恐れもある。この点はメタル好きに限らず、アメリカ西海岸のパンク、ストレートエッジ(XXX)などは、自分達の思想以外の人々や、ちょっと横道にそれてしまった仲間を暴力的にバッシングする傾向があるのと同じだと考えれる。やはりパンクとメタルは通じるところがあるのか…と、思いきや、著者はメタルは非社会性、パンクは反社会性だと、確かにそれは言えるかもしれない。

非常に面白く読まさせて頂いた。よくある巻末にアルバムガイドみたいな、このアルバムが良い…みたいなページが無いところが、著者の思い入れを感じる。
しかし、この先を書いて頂きたかったと思う。この状態ではなんか、正しく脳を鍛える本(脳トレじゃないですよ!)とあまり変わらない気がする。知りたい、読みたいのはさらにその先なのである。

また、バンド紹介でナパーム・デスを紹介されていたが、メタルが日本的であるという内容を書くなら、初期のナパーム・デスのヴォーカルスタイルは日本のバンドG.I.S.M.のセカンドアルバムに影響を受けてること。また大阪のSOBというバンドと親交が深かったことも書いてくれた方がコミュニティ、オタク的であるという話が濃くなった気もするのだが。
ここまでくると懐かしき『へぇ~』になるのだが、ナパーム・デスの世界最短の曲は『へぇ~』で紹介されていたのも事実である。