2020年1月26日日曜日

悪の読書日記 新・考えるヒント 池田晶子(著)

2020年 1月 26日

約2週間掛けて読んだのだが、途中に個人的な失敗した創作活動と日常生活のあいまに読みあさり、何とか読破するもやはり池田晶子の本は難解であり、難解であるがゆえ本を読むという行為を楽しませてもらう。いや、考えることの重要さを学ぶトリガーである。



本書は雑誌の原稿として書いていたが出版社より「難しい」という理由でボツになったのを一冊にしたらしい。各タイトルは小林秀雄の「考えるヒント」から拝借し、小林の文章、コトバを交えながら池田の意見や考えていることを書いた内容であり、決して小林秀雄の「考えるヒント」の解説本ではないし、続編でもない。小林秀雄の「考えるヒント」も難解を極め、何度も読んで考え続ける本であるが、前回のブログに書いたようにこの「考えるヒント」は、雑誌や新聞等に載せた文責を集めた本である。池田晶子の本書のあとがきには、40年前は小林の文献が雑誌の載ったが、自分の文献は難しいという理由で断られた事に怒っているのが面白く、それだけ日本人は劣化したのだと思う。但し、「新・考えるヒント」が2004年に出版された本であるから16年前。日本人はさらに劣化している。
2019年の年間ベスト売上の1位、3位は樹木希林さんの本で1位はエッセイ、3位は発言したコトバを集めた本であり、2位は「おしりたんてい かいとうねらわれたはなよめ」である。樹木希林にも、おしりたんていにも罪はないし、悪意のかけらも微塵もないし、政府の陰謀も考えられないが、これで劣化していないという理由があるのなら教えて欲しい。

小生は毎日同じリズムで生きている日常、これでは何だかワンパターンでかつゾンビと化しているのではないか?、毎日同じ電車に乗れば職場付近まで運んでくれる…それはやっぱり不思議かな?と思いながら考えながら日常を生きている。既に一部区間の通勤電車に乗って職場に行くことは辞めて毎日歩いて職場まで行くことにしたのは良いが、毎日同じ道を同じ時刻にあるいているのでは?何が変ったのか?健康になっただけか?と想い。この歩く通勤がだれか毎日中崎町あたりで歩いている俺を見ては時計代わりにされているのではないか?これやったら「カント」やんけ?とそんな偉い人と同じレベルで考えたのを少々恥ずかしく思い。歩くルートを色々とバリエーションを決めてみたが、職場へ通って仕事して帰ってくるという生活はやはりソンビで俺はWALING DEADなのか?

池田晶子の本は、俺にゾンビの振りをしていたらいいんじゃないの?と言ってる感じがする。考える、考える、思考する、思考する、思索する、思索する・・・人間はコトバを話。言語を使うのである。それが猿やゴリラとの違いである。魂って、猿や犬やクラゲにもあるのだろうか?よくテレビで死んだ人や死んだ飼い犬と交信してくれる人がいるが、家の水槽でクラゲを飼ってる人、メダカの一匹飼いをしている人のクラゲやメダカが死んだあと、死んだ魂と交信してくれるのだろうか?『メダカやクラゲは下等動物だから無理』と言われるのだろうか?
魂というのは何なんだ?

新・生きるヒントを読むと不思議なことにどうでもいいことを考えてしまうのである。極めつけは、帰りの通勤電車で読んでいて眠くなってきて、そのままウトウトしてしまい夢の中で本を読んでいた=文字(本)を読んでいる夢をみたことである。
夢の中で文字=本を読んだのは実はあんまり記憶がない(夢のなかで、ギターを弾いてい音を出していた事とその音の記憶はあった、今は忘れたけど)。猿も犬も夢をみるようなのだが、そこにコトバが出てくる事はないだろう。人間だからコトバがあり、言語があるから深く考える事が出来るということを少々忘れている、深く考えることを置き去りにしているのではないだろうか。
池田晶子の「新・考えるヒント」に関わらず、小林秀雄の「考えるヒント」もヒントといより、直撃弾なのである。

高度情報化時代、遠方から来る友を待つのは至難である。質の低下は防ぎ難い。しかし言葉だけは裏切らない。人を信頼することの喜びは、未だわれわれから失われてはいないのである。言葉だけが、時代を越えて、われわれを強く結ぶ事ができる内なる生きた紐帯なのだ。これを信頼することは、すべてを肯定することだ。
(「十 ヒューマニズム」より抜粋)

通勤鞄に入れておきたい一冊だか、文庫本にもなっていないし、電子書籍にもなっていない。小林秀雄の「生きるヒント」同様、繰り返し読むべき本である。

考えるヒントは生きるヒントであり、ヒントという単純なモノではないのであると思う。コトバはネットワークよりも無限なのだ。なぜなら、そこには時間も存在しないのであるから。




#池田晶子
#考えるヒント
#小林秀雄

2020年1月18日土曜日

悪の読書日記  考えるヒント  小林秀雄(著)

2020年 1月 16日

『考えるヒント』をやっと読み終えたというか、二回目の読破だろうか?いや最後まで読んだのは初めてか?いや一度は読破したと記憶する。自分の記憶ほどいい加減な事はなく、自分の好きなように都合の良いように書き替えるのが記憶である?真実などどうでもよい。


難解というか、簡単の様で難しい本、『考えるヒント』は小林秀雄の文藝春秋や大手新聞へ掲載された文献を集めた本であるようだ。本書のために書いた本で無いことからか、著者による後書き等はない。二巻、三巻と計四巻まで発売されているようだが、一巻でこのありさまである。いつになったら四巻まで読み終えることが出来るのだろう。五木寛之氏の『いきるヒント』とは対照的だ。なかなか進まない。
しかし、既に『考えるヒント』の第一巻冒頭『常識』だけは何回も読んだという記憶だけは間違いない。ネットで『考えるヒント』を検索すると難しいけど何回も読んでいる人が居るようだ、学生時代から読み続けているとか、読んだ後に読み終えた日付を本の中に書き込んでいて今回は⚪⚪回目とか‥‥色々な人がいる。
先日年末に友人の奥様(高校の国語の教師)と話をしていて小林秀雄の話になった、その方も小林秀雄は読むたびに印象がまったく変わると言われていたのが興味深かった。そうなのであると思う‥‥殆どの読者が何度読んでも印象が異なり、読むたびに気付きが違うように、そう感じるのだろう。それは著者の小林秀雄がそういうふうに意図して文章を書いた訳では無いがそうなったのだと思う、結果的にそうなっただけで。


『考えるヒント』の中でも『漫画』は個人的に気に入った一遍である。
「のらくろ」の作者・田河水泡氏が小林秀雄の義理の弟であったとは知らなかったが、「のらくろ」の主人公(動物)は紙面でサボってばかりいるので当時の日本の軍部から嫌がらせを受けていたという話は知っていた(実は反戦漫画なのだ)。しかし、「のらくろ」は作者田河水泡自身であったことは知らなかった。サザエさんの作者・長谷川町子氏が田河水泡のアシスタントをしていたということを昔々聞いたことがある。つまり、サザエさんはよく考えたら長谷川町子本人であったはずだ。長谷川町子本人は生涯独身であったが、彼女の理想はマスオさんの様な旦那さんとタラちゃんの様な子供が欲しかったのではないだろうか?

ミッキーマウスがディズニー本人であるという小林秀雄の考えは、ディズニーがミッキーマウスの発表当時の映像を見るとやはりそうかもしれない?と考えることが出来る、たとえディズニーが誰かの書いたネズミのキャラをパクったとしても。そのキャラクター=ネズミ=ミッキーマウスの動く様子(アニメ動画)からは、作者の人を楽しませたい、笑わせたいという気持ちが十分に伝わってくる(ミッキーマウスの最初期の動画を観たことがある)。

最後に「笑いの芸術」は『一番純粋で力強いものは、日本でも外国でも、もはや少数の漫画家の手にしか無い、とさえ思われる。今日の文学者には、もう陰気な喜劇しか書かない。それは、皆が思っているほど当たり前なことであろう。』(抜粋)でこの『漫画』は幕を締めるのだが、これが書かれたのは昭和34年、1959年である。そんな過去に総小林秀雄は感じたのだろう。
「芸術」としての文学作品的なものは、やはり今でもどこか暗い感じがするのが事実。あのウィリアム・S・バロウズでさえ、文学は映画や音楽の文化に比べると何十年も遅れているといって60年代にカットアップという手法を発明して「裸のランチ」をラリって書き上げた位である。それに比べてやはり漫画は2020年の現時点でも多種多様であるが上手く使えばまだまだ日本を引っ張っていける作品があるといえる。少し表現としておかしい、又は少し違うかもしれないが、何かパワーというか漫画の勢いは今でも落ちてはいないと思う。いまは前述の通り多種多様であるのが現実で、漫画とアニメの境界線はあるのか無いのか定義としては定めるのは難しいのであるが、明らかに笑いの芸術にとどまらず、海外を含め世界的規模でを考えるとやはりそこは「漫画」という芸術でありメディア、笑い以外ででも「漫画」という芸術は不変であり力強いと思う。

それを60年前に感じていた小林秀雄はやはり鋭い感性で生きておられたのであろう。
インターネットがあたりまえの時代であっても小林秀雄のコトバや感性は消えてしまうことは無いようだ。
(不定期に続く・・・)

2020年1月4日土曜日

悪の読書日記  瞬間を生きる哲学 古東哲明(著)

2020年 1月 4日

新年早々、昨年11月位に読んだと記憶する「瞬間を生きる哲学/古東哲明(著)」を再度読み返してみた、実はこの本、第1章、2章、5章さえ読めば事足りる感じがする。他の章は哲学者の話からの抜粋解説なのでやたら難しいのである。だから読み返すのは一部だけ。内容がいいだけにもう少し凝縮すれば良かったのにと勝手にいらぬことを妄想する正月である。酒も飲んでいないのに・・・。



年末にちらっと読んだ本の一部に、昔々電車の駅が出来ると駅前に「時計屋」がどこからか自然と現れる。これが時間に正確な日本人と言われる一つの理由かな?沖縄には電車が走って無いので沖縄の人はちょっと変った時間感覚なのか?・・・と。
いや。隠岐や因島の人はそんなことはない。地方の山奥とまでは行かずとも、地方の友人知人に「最寄りの駅は?」と聞いても「ない」と言われ、「あるけど歩いて2時間くらい」という答えが返ってくる、現在でもこの程度である。
ただ沖縄の人は、いい意味で南国気質なんだと思う。


いま、未来の事を気にいして生きている。将来が不安とか、この本でいう「アリとキリギリス」のアリさんである。その将来が不安な為に、いま一瞬を台無しにしてまで夢中で生きている。資本家が自分の財産をより一層築きあげるには従業員に効率よく、生産性を上げて貰う必要がある。その為に時間というのは重要なツールである。遥か昔の江戸時代の人はそれほど勤勉で無かったという話をきいた事がある。
一日8時間も働けば、庭付き一戸建ての家が買えたそうだが、だれもそこまで無理に働かなかったそうである(杉浦日向子さんの本で読んだ記憶が)。寺子屋にしても毎日決まった時刻に登校(?)することは無かったそうである。
仕事よりも、職場の仲間とワイワイと楽しくすることが最優先で、効率は二番目だったそうだが、産業革命の波は明治時代に日本にやってきて、今に至るのである。

インターネットの普及により最大の恐怖は、人々をもうひとつの世界に監禁、束縛すること。昔はナチスがやっていたようなユダヤ人などの民族の強制移動をいまでは同じことをネットのやられているのだが、だれもそれに気がついていない、これは「シルダの住民」(愚かな人が住む街)と同じではないのか?

★★★

瞬間というのは永遠であるという。その瞬間というのは一瞬の事実であり、それは取り返しのつかない時間の経過という事実であり変更も取り消しも出来ない。つまりその一瞬は永遠に存在しているのである。その一瞬の大切さを見失って先ばかりのことをばかりを考えて生きているのではないかと著者は警告する。殆どの人が、この糞間抜けな日本列島に生きている以上、不安しかないのは事実である。そしてメディアが不安を煽っているのも事実である。


では、どうやって生きればいいのか?
今から江戸時代へは戻れないし、インターネットの無い世界へも戻れない。

著者は色々なエピソードを紹介している。
その中でも良かったのが、ヴォーカリストの鈴木重子氏の生き方である。
いまこの現在のこの一瞬を誠実に丁寧に味わって生きてみると、不思議な事が起きる。ゆたかな明日も充実した来年もちゃんとついてくる<必要なものは、必要な時期にやってくる。それはまるで至高ななにかに身を委ねて・・・人知のはからいを越えた。
明らかに「引き寄せの法則」とは異なると思うのだが、「いま、ここ」というのがそれほど重要なのだろう・・・。
そしてもうひとつ、タモリ氏の赤塚富士夫氏への別れのコトバにある、「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から開放され、軽やかになり、また時間は前後の関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。


そうだ一瞬、一瞬を大事に生きること、すなわち『これでいいのだ』。