2020年4月30日木曜日

悪の毒書日記 マリアンヌ・フェイスフル As Tears Go By マーク・ハドキンソン(著)

2020年 4月 30日

「不要な外出は避けてください」という、政府の方針で週に2回ほど勤務先に行き、あとは引き籠りの如く自宅でパソコンとスマホで在宅勤務をして過ごしている。理由は説明は不要だと考えるが、新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐためへの政府のタイミングのズレた対応からである。世界中で何十万人以上の方が感染している感染症で、感染力は強いが病気としては弱いと言われながら、相当数の方のいのちを奪っているのも事実である。
その新型コロナウィルスに4月の初めに、マリアンヌ・フェイスフルが感染しロンドンの病院に入院中というニュースがネットに流れた。(その後、どうなったかは今日現在もネットのニュースには出てこない。無事に退院されていることを望むばかりである)
あのマリアンヌ・フェイスフルである。アニメ版:峰不二子のイメージの元になったマリアンヌ・フェイスフルである。正確に言えば、アラン・ドロンと共演した映画『あの胸にもう一度』の主人公レベッカを演じたマリアンヌ・フェイスフルである。日本では有名というか名作とされている映画『あの胸にもう一度』だが、実はマリアンヌ本人も評価が低く、いまだにアラン・ドロンが有名人で大スターの日本だけにこうなるのだろう。内容は本書でも触れていたが「いまいち」の映画だ!



今日読み終えた、「マリアンヌ・フェイスフル As Tears Go By」は彼女の自伝でもなく、本人に依頼された訳でもなく。マーク・ハドキンソンというライターが彼女の周りの親しい人物などに取材をしてまとめあげた本であり。本人もマリアンヌの母親もマーク・ハドキンソンからの取材を断っていたようで、悪く言えば勝手にライターであるマーク・ハドキンソンが書いた本である。嘘っぱちや当時の曖昧な記憶を証言した人の話を真に受けて書いた部分もあるかもしれず。良く言えば、他人が書いたから本人から見れば客観的に自分を振り返られるかもしれず・・・記憶に無い自分に出くわすことができるかも知れない。
仮に事実の事象が一つあったとしても、それを複数の人が体験した事実の場合、嫌な感じを受ける人もおればそうでない人もいるので、事実とは人の感じ方によって変わるものである。
しかし、この本を読んで感じたことは、覚醒剤の依存症というのは恐ろしく人間を破壊してしまうという印象が大きい。60年代後半の文化をそのまま70年代、80年代半ばまで引きずったマリアンヌの生活は読んでいて恐ろしく感じることもある。
あのミック・ジャガーでさえ、マリアンヌのドラッグやり過ぎに注意した位である。実際にはミックが彼女を捨てたのではなく、むしろその逆のようだ。マリアンヌの連れ子と別れたミックはマリアンヌと別れたことよりも、かなり落ち込んだそうである。なんてミックはいい奴なんだろうと思ったりする。
結局、唯一ヤクの売人が自分を何の隔たりもなく扱ってくれる人間だと勘違いしてしまうほどである(ヤクを買ってくれる人なら職業、性別、人種、年齢、経験を問わず平等に扱ってくれるので)。

多分、人間辞めますか?覚醒剤辞めますか?と言われても、人間辞めますという行動に出てしまうのだろう。結局、マリアンヌは当時のパートナーがビルの36Fから将来を案じて飛び降り自殺をしたことで薬から足を洗うことを決意する。
昨今のニュースで話題の休業要請が出ているパチンコ店に行く人は、人間辞めますか?パチンコ辞めますか?で人間辞めます!というタイプの人で、それがギャンブル依存症というものなのだろう。この状況でもパチンコに行く人は残念ながら依存症なのである、それを解らずパチンコ店名を公表するとどうなるかは、少し考えれば解るはずでは無いのか?

そんな今の話題を省いても、人間の恐ろしさを知るには色々な意味で面白い内容であったし、音楽メディアやマスメディアが60年代後半、70年代当時に書いていた内容とはやはり食い違いがある、Rストーンズやその周辺の話はやはりゴシップと呼ばれる内容で誇大解釈を報道したものが多いようである。だがそんな世界に十代の後半から運良く簡単に成功を手に入れてしまった、貴族の末裔であるマリアンヌ・フェイスフルは楽しくもあり辛い世界を歩み続けてしまったのだと思う。もし・・・・だったら、・・・・だったのにというのは、いまさらである。
そんなことよりも、最近のマリアンヌの活動を見ている方が面白い。本書は90年代初頭で終わっていて、以降の活動には書かれていないが、90年代以降の彼女の作品は実に面白い。それまでの過去の出来事を精算することは出来ないが、それに匹敵するのではないだろうか。

やはり人生は、今を生きることなのだと改めて感じた。

2020年4月18日土曜日

悪の読書日記 プロの尼さん 露の団姫(著)

2020年  4月  18日

露の団姫(つゆのまるこ)さんを最初に観たのは繁昌亭の夜遅く始まる金曜日の公演の時である。いまから一年ちょっとまえ、露の棗さんが『餅屋問答』という餅屋の大将が坊主に扮して、問答勝負に挑んできた旅の僧侶との戦いを挑む話である。その一席のあとにスキンヘッドの露の団姫さんが現れた、座るや直ぐに「偽物坊主の噺のあとに、本物の坊主が現れました〜」と言って団姫さんは一気に繁昌亭の客先を笑いに包んだ。
どうしてこの噺家は、噺家と僧侶をやっているのか?と考えたが、その時はあまり深く考えなかった。一昨年より、マインドフルネスの本を読んだり試したり、その関係で仏教の本を読んだりしているので、この噺家:露の団姫さんについて知りたくなり、彼女の著書を一冊手にとってみた、
『プロの尼さん 落語家・まるこの仏教修行』。



著者は単に興味本位や、ちょっと仏教学んでみたら興味があったので二足わらじで噺家と僧侶をやってみようとか、軽いきっかけ・・・というわけでなく。純粋に落語、宗教や仏教をココロより愛する女子高生が高校卒業後にまず噺家になり、そして尼さんにもなったという事である。なんちゃって尼さんってことでは全くない。団姫さん自身が高校生の頃に思い悩み自殺しようと思ったけど仏教に救われたという筋金入の仏教徒である。

同じ仏教でありながら、最近よく読んでいるドイツ人ネルケ無方氏の書籍と比べると、圧倒的に露の団姫さんの本はコトバが軽いのである。
ネルケ無方氏はやはりドイツ人、彼の本はやはりジャーマンメタル・仏陀イズムの如く硬い。これがまたなんとも言えず魅力であり、団姫さんの文章はこう書くとかなり失礼なのだが、対照的なのだ。団姫さんは噺家でありここで硬い文書は場違いだろう・・・いやそれだけでなく、これは噺家とか職業や宗派といより、ここに行き着くまでのお二人の人生の違いではないんだろうか?

ネルケ無方氏は仏教に至るまでにハイデカーやフッサールの哲学を学んでいた経験があるそうである。その為か文章の中には、「いま一瞬を生きること」が行間に見え隠れしている気がするし、言葉の一つ一つがやはり固く感じて、コトバの向こうに強さを感じる。団姫さんは「死んだらどうなる?」という怖さを感じた幼少期、宗教と仏教を学び落語を通じて仏教を広めたいという気持ちである。同じ僧侶であり、噺家という武器にもなる職業にてハードルはかなり下げて『みなさん、誰でも入ってきて下さい!』と、かなりオープン気味である。
多分お二人の最終の最終ゴールはよく似ているんだと思うのだが、過程は大きく異なると思う。勿論どちらが正解とか間違いなどというものは無く仏教の道そのものなのだが。もし、この本を単にタレント本と読者に思われると残念であり、そうなって欲しくない。

しかし、二人の言っていることが同じな事がある。それは日本人の宗教観である。
日本人は自分のことを「無宗教」だというが、行動は仏教の影響をかなり強く受けている。それなのに「無宗教」ですと普通に言ってるが。どこかで必ず神仏に頼った経験がある。ネルケ無方さんに言わせると、マインドフルネス(瞑想だけのことではない)しなくちゃ・・・みたいなことを言ってるが、既に日本人の生活の中にマインドフルネスが入り込んでいるという。日本人の大人が子供に教える道徳観はどうみても仏教の世界だそうである。
我々は格好つけてか、あまり宗教の話題は避けたいのか「無宗教」ですなんと言ったりするる人も少なく無いが、行動や道徳観はやはり仏教思想に準じているのであろう。


昨今の新型コロナウィルス騒ぎで、社会が大きく変わろうとしている中で、かつての日本人のココロの中の道徳観は消えないで欲しい、むしろこれが世界標準にならないものかと思う。「ワンチーム」だなんていう、メディア優先の嘘っぱちのココロでなく。
いまだからこそ、もういちど過去から学び、考えなおして新しい世界を見るべきではないだろうか。

その為には、お寺の住職、僧侶一人ひとりも、葬儀屋家業と法事要員から脱出する必要もあるのだと思う・・・

ちなみに、露の団姫さんの目標は、
噺家としての目標:名人になること、
尼さんとしての目標:自殺する人を少なくすること、ゼロの世界をつくること。
である。

小生のオープンウオータースイミングの目標:世界が平和であるべきだと広め、国家間の戦争を無くすこと。
友人Anna Wardleyのオープンウオータースイミングの目標:自殺する人を減らす為、両親が自殺した子供達への基金の運営費用を集める為である。Annaは仏教徒ではない。

そして、
元噺家の明石家さんま氏は言っている「生きているだけでまる儲け」であると。

2020年4月16日木曜日

悪の読書日記 曲げないドイツ人 決めない日本人 ネルケ無方(著)

2020年 4月 16日

本日の日本こそ、このタイトルにふさわしいと思う日はない。30万円配りまっせと、自慢話全開の面での内外へのいつもの嘘っぱちのアピールは、本日一律10万円と・・・・これも正体不明の話。やはり『・・・決めない日本人』なのであると思う、偶然か否。


最近非常によく読むようになったネルケ無方氏の著書『曲げないドイツ人決めない日本人』。著者の本を読めば読むほど日本という世界といわゆる外国の差を感じる事ができる。昔々の極端な外国人を集めたテレビのバラエティー番組とは大違い、考え深いところが多い。

本日もテレビの向こうのリアルな世界では今日も何も決まらず一日が終わる。見えない処で政治家はあの手この手でやるべき事をやっていても、それが実績につながらない、成果にならなければ「やっていない」のとおなじと考えるのがドイツ人 (ドイツ人でなくても、小生もそう思う)。ドイツ人が「◯◯さんはがんばっているよ!」と言うのは、◯◯さんをけなしている意味であり、「結果がでないなら頑張っても意味がない」と考えるのがドイツ人らしい。日本人は許容性が大きのか?「まあまあ・・しゃあないなあ」とやはり農業中心でこれまで千数百年生きてきたので天気はコントロール出来ないしなあ~という生き方から逃れることが出来ず、いまでも「しゃあないなあ」と考えるのかもしれない。
その為、結局我々日本人は「がんばったのに残念だったね!」というこの甘さ加減でここまで来てしまったのがすべての失敗だったのかもしれないと、個人的には思ったりする。
なんでもかんでもどっち?どっち?と、アニメの主題歌みたいになってしまう。

そもそも今日の10万円の話で、昨日までに話題の30万円に至る検討時間が既に活動した時間が無駄である。それは一人の時間でなく、組織の時間としてでもある。これが許されてしまうから日本人は生産性が低いのだろう、ゆるゆるで傷を舐めあってるのだ。30万円、10万円の議論についてとやかく言う人が多いが、検討した時間が無駄であるという批判をする人は居ても、圧倒的にそれは少数派なのである。
ドイツ人は理想優先でも「やる」と決めたらひたすらそれに突き進む、とにかく現実はあとからついてくるから走りながら考えるのだ!の如く突き進み、日本人は「やる」ことを決めたら「でも現実は・・・」と、もじもじ考えて、いつ決まるねん?という大きな国民性の違いのようだ。どっちが良いのか悪いのか、それは時と場合によるものかと一瞬考えたが、それが緩いというあいまいな理由かもしれず。ドイツ人なら兎に角進むしかないんだろう。
なぜ、そんな頑固なドイツ人の性格のなかから、ナチスが出現してしまったのか?その答えが本書には載っていた、その理由があまりにも怖ろしい。
それは、第一次世界大戦の敗北で経済的に落ち込んだドイツの人々は「これからどうなる?」という不安に陥り、みんながどうするべきか自由を求めて議論しつくしたが結局はまとまらず、ドイツ人は心底疲れきてっしまった・・・。そこへヒットラーが現れて「こうすればうまくいく」と言った。疲れ果てていたドイツ人は、
『自分の頭で考えるのがしんどいから、あえて自分の頭で考えるのを放棄して。ヒットラーに飛びつきました。その結果大変なことが起きたのです。ヒットラーは言論の自由があったからこそ誕生した人物であるといえます。(本書より抜粋)』
どこか状況が似ていないだろうか?、しかし幸いな事に現総理大臣はヒットラーの足元にもおよばい演説の下手さと、穀潰しに匹敵する嫁のおかげで現段階ではヒットラーの様な独裁者にはなれない。
しかし、控えの木偶人形は控えているのだと思わねばならない。

世論の話題と関係あるないにかかわらず、我々に必要なのはやはり『自分の頭で考えることを放棄しない』ことだろうと強く思う。これからどんな事があっても。
そんなことを想いながら、ここも変だよ日本人…と考えながら読み終えた。


2020年4月12日日曜日

悪の読書日記 大衆の反逆 オルテガ・イ・ガゼット(著)

2020年 4月 12日
本書は第一世界大戦後1930年に書かれた文献である。
後に著者オルテガが経験した第二次世界大戦、ナチスの暴走。大東亜戦争での原爆の使用などの報道の後に書かれていたなら表現は大きく変わったであろうと考える。だが内容の本質はそれほど変わらないのではないだろうか。



「大衆」は今も変わっていない、
『人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。
第一は、自分に多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんら特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外の何者でもなく、したがって自己完成へ努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。
中略
つまり自分の人生に最大の要求を課すか、あるいは最小の要求を課すかである。したがって社会を大衆と優れた少数者に分けるのは社会階級による分類ではなく、人間の種類による分類なのであり、上流階級と下級階級という階級的序列とは一致しないのである。(抜粋)』

結局、我々人類は1930年以降、何も変わらず2020年も風のまにまに漂う浮標の様に流されているのではないだろうか・・・・と思う日々。しかし、この本はそういったことを書き綴った文献ではない。
大衆が反逆を決起し、これまでの風のまにまに漂う浮標から脱するのはありえるのか、この今。
自分自身どうやって生きていくべきがと日々でなく、一日何回も考える日常である。

今日現在の今の日本での本当の敵は新型コロナウィルスなんかでなく、今の社会状況であると考える。
本書の『慢心しきったお坊ちゃん』の時代、まさにこれなのだ。本書では貴族の世襲となっているが、この時点で普通の人間であれば何を言いたいのか想像がつくはずである。
いわゆるこういったタイプの人が国家の舵取りをすると危険極まりないということである。
どうして日本ではこういった人々が国家の舵取りをしているのだろうか?

簡単な話、
大衆は反逆せず、風のまにまに生きているからだろう。
その割には文句だけを言い続ける、選挙にも行かないのに。
反逆をするのは今しかないだろうと思うのだが。