2019年3月27日水曜日

悪の読書日記 ハイデガー=存在神秘の哲学 古東 哲明(著)

2019年 3月 27日 完全なメモ

人は死を意識して生きると、時間を大切にするようになり幸福度が上がるらしい。時間を大切にすることは、その人の幸福度を上げる作用があるそうである。家族よりも友達よりも、時間を大切にする事が回りの人を大切にする事に繋がっていくのである。よく考えたら当たり前である・・・。



ハイデガーの本を読むにはそれなりの態度と根性(モチベーション)で望まなければいけない。そんな態度も根性も今はなく、そもそもこのブログを始めたきっかけは精神的不安定からの脱却になればと日常を記録しておきたいからであるのに、ハイデガーの『存在と時間』などいきなり読んでブログに纏めることなんど出来る事は不可能である。数年前に偶然購入したハイデガーの哲学について纏められた古東 哲明氏の『ハイデガー=存在神秘の哲学』を前回は何時ものように途中で挫折した為、再度読み直してみた。
結果的に読み終えるに至ったが、難しすぎるのか、精神的不健康だからか、小生の頭が着いてこないのか、理解出来ない部分が大半であった。著者の古東氏は出来るだけ解りやすいように、コトバを丁寧に選んで文章を書いているのが伝わってくる内容であるのは読み出せば直ぐに理解できるにも関わらず難しいのである。ハイデカーの残したコトバを選んでその説明も多岐に渡って載せられているにも関わらずである。
面白く興味深かったのは『世界劇場』。映画マトリックスかよ??と、幼少の頃にテレビとは別の世界をこちらから覗き見できる道具なのかとテレビドラマを見て思っていたこともあり、色々な事を思い浮かべながら読むことができた。
ただ、本というのは書いたこと全てを理解するなんて著者でさえありえない事で数カ所自分が理解できたり、発見出来たりしたらそれでいいのであると常に考える。
もし、この古東氏の書いている内容が殆ど理解できれば、そもそもこの本を読む必要はないのである。世の中に出回っている本の殆どが読んで納得して、あ~良かったというものである。読んで、読んで考え尽くさなければならないのは学生の勉強の問題集、哲学書か仏教の本か禅のなどである。

つまり、哲学について書かれた本なので、誰でもふ~ん、なるほど!!! なんて本は哲学の解説書である。これは解説書ではないのだ。
ハイデガーは、自身の本では書くだけ書いて、あとは読んだ人が考えるのだみたいな問題定義の投げつけスタイルみたいな考えで書いていたそうであるが。古東氏はそんな様にこの本を書いたのでなく、ただ単に自分が理解できないだけのことを勝手にそう考えて読んでいるだけなのだが・・・。
但し、有名な『存在と時間』は未完成なのである。そんなもん売ってもええんか??状態である。

人生100年なんて政府の糞コピーに騙されそうな時代。こんな時代を五十年近く生きてきて、只今迷宮の奥底へ墜ちていく日々、もはやどうすれば良いのか迷宮の奥底で頭を抱えているのが現実だ。時間とは映画のフィルムの様に一瞬、一瞬、一瞬の組合せだそうである。そして死を前提に生きているのであると。このままこの一瞬でありフィルムの1コマを俺は増やして行くことが出来るのだろうか?
決してハイデガーを読んで理解できたとしても救われる事は無いかもしれない、どうやって時間というものを考えて行けば良いのかを真面目に考えるきっかけにしかならないかも知れない。しかし、このハイデガーは簡単と思えるが実は簡単でない事を深く深く掘り下げて考えぬいているような気がしてならない。存在?時間?考える必要があるんか?っていう人も少なくはないと思う。それをあえて考えぬくのはよほど性格が悪いのだろう。
正直、このハイデカーという人が良く解らない。永遠に解らないのかもしれないが、もう少しこの「ハイデガー=存在神秘の哲学」と一緒に付き合ってみたい。そうすれば、なにかどうでもいいことかもしれないが、今以上に時間を大切に行きていける事が出来るのではないだろうか。心理学でも自己啓発でもないいままで知らなかった時間の考え方に。

きっとあるハズである。俺はそこへ行きたいのである。

2019年3月24日日曜日

悪の読書日記 今日を死ぬことで、明日を生きる ネルケ無方(著)

2019年 3月 24日

先日、みうらじゅん氏が死んだあとの事は解らん、おれが今まで集めたブツがどうなろうと、業者に安く買い叩かれようが死んでしもたら解らんから死ぬ前に集めたブツを整理するなんてもってのほか・・・という意味の事を言っていた。なるほど!流石みうらさん、仏像とチャールズ・ブロンソンとボブ・ディランを愛する人の言うことは的を得ている。
という事でみうら氏は集めた一部を写真にとって本として出版された。立ち読みしたら収集しているブツとんでもないものばかりだった・・・・

(今は亡き、アリ・アップが参加したアルバムを聴きながら…)


兵庫県に住みながら、かなり離れた兵庫県の日本海側に安泰寺というお寺があり、そこの住職さんがドイツ出身の方であると知ったのは一週間前。Youtubeで本を探していたら、たまたま住職のネルケ無方氏が探していた本についてコメントしていた、この方だれだろう?と調べたら同じ県に住む方であった。兵庫県は広い・・・・

悩める日常、ネルケ無方氏曰くマインドフルネスというのは、昔々から日本に定着していたものだが、今頃になってアメリカから「マインドフルネス」という名前で入ってきて評価されているが、昔から子供が学校へ行く時母親が「いってらっしゃい、気をつけて・・・」、「玄関の靴は揃えなさい」という・・・それがマインドフルネスそのものであると。アメリカやドイツに履物を揃えるという習慣も世界もない。ヨガの先生が以前、ポーズがうまく出来たのがヨガではなく中身が無ければ全く意味がないと言ってた事を思い出す。あれれれれ・・・・

目から鱗でなく、頭蓋骨から眼球が転げ落ちたくらいの話しである。

早速「今日を死ぬことで、明日を生きる」を購入して読む。
最大のポイントは一つである、『今を生きる事!』それだけである。

今日は二度と戻ってこない、昨日の自分は既に死んでいるのである。生きることは一瞬の連続。
釈尊は死後の世界を語らず今生きることだけを語ったそうです。死後の世界なんて語ってもきりがありません。そもそもどうなるかなんて誰も解らない、まるでどこかの哲学者みたいである。死後の世界云々って結局何だろう?仏教徒には本当は関係ない?というか、そんなこと考えるよりも今に集中すべきなのだろう。
先日、二日ほど前にとある方が、未来への不安、過去の不満にくよくよしなくなる方法は『今』に集中する事であると言ってたので頭のなかで繋がった。さらに今に集中するトレーニングとして「瞑想」が最適であると。ネルケ氏も瞑想、何もしない時間を持つことをこの本で推奨されている。
まさしく偶然は必然・・・今を生きるしかないのだと実感した一瞬であり、フィルムの1コマである。

余談にはなるが、ネルケ氏によると詩人ゲーテの言葉は美しいが、ハイデガーはそうでなくニーチェは美しいそうです。自分の書くスタイルを意識して言葉を磨いているそうです。多くの哲学者は意味だけ伝えたいのか、あまり言葉に気を使わないみたいですが、ニーチェだけは違うようです。この点はやはりドイツ人にしか解らないのだと思います。この点、流石に哲学をストレートに理解出来るのはドイツ人だと佐藤優氏が言ってることがなるほどと理解できた感じがします。

悩み多い日々、哲学、マインドフルネス・・・・今を生きようと、今日も生き急ぎながら死に急ぐ。

2019年3月15日金曜日

悪の読書日記 クレイジートリップ ケロッピー前田(著)

2019年 3月 15日

一日一ページ読むことで365日で教養が身につくという・・・教養とは何か?というわけのわからん時代に、それで教養が付くのであれば。周りと同じ本を読んで教養を身につけて何になるのだ?と、教養とは他人より自分が優れているという満足感とすると。そんな本を読んで一年間で教養を身に付けるより、この本を読んでいる方が遥かに教養が身につくであろう。
いきなりバッドトリップな言い回しから今日のブログを書いてしまったが、要するに他人と同じ本を読んで教養を身につけた気になるのであれば、ケロッピー前田氏の書かれた『今を生き抜くための”最果て”世界の旅 クレイジートリップ』を読んだほうが教養になるであろうと言いたかったのである。



タイトルに「クレイジー」と付くのであるが、あまりにもクレイジーの幅が広くもはやこれはクレイジーでは無いだろう!という状態もありである。クレイジーなら我が国の現政権の総理大臣の方が遥かに恥ずかしい位のレベルで、あんな奴を選挙で選んだ人間も相当のクレイジーであると言える。
しかし、この本に出てくるクレイジーな方々は、そんな選挙でバカな人間に投票する人間、投票された人間よりもまともに見えてくる。
いや、まともなハズである。
マリファナを栽培する人、頭蓋骨に穴を開ける人、刺青を彫る人、入れる人、博打で儲けたお金で美術館を建てた人、死体を冷凍保存する人、政府が隠す情報を暴露するバッカー集団、人体標本を作った人、ラスプーチンのチンポを所有しているロシアのお医者様・・・・昔々、自動車産業で栄えた街の現在・・・
など、著者の集大成の一部をとりあえずまとめたのがこの本である。
とりあえずと書いたのは著者は今もこのような書籍を執筆されている旅の途中であるからである、それは本書の前書きに著者が書かれている、「トリップ」という言葉からは物理的な旅のみならず精神的内面を経験し、時空を超えて過去や未来に思いを馳せる旅もイメージ出来る・・・とあるように乗り物に乗って移動するだけが旅ではなく、精神的な経験も旅というものであろうという著者の考え方から「旅の途中」であると言えるのである。

しかし、内容はふざけているような事は少なく、実際にマリファナに関しては既に医療マリファナとして認知されてきているのがアメリカでは当たり前に近く、他にマクロビクスの発祥についてや、現在アートやバーニングマンなど真面目な話が殆どである、あくまで小生基準のまともというレベルであるが。

時々、三島由紀夫や澁澤龍彦の旅行記を読んだりするのであるが、それもなかなか楽しいのだが旅に行った感覚に陥る事は絶対にない。むしろそれらを読むことで旅をした感覚を求めるのでなく、書いた人間の感情や知識の一部を感じる為のモノであると思う。つまり、こういった「クレイジートリップ」という旅の本を読むことがこれからは重要であるといえるのではないだろうか。旅に行った感覚になることなんかありえない、しかしそれは先にも書いた物理的な旅行である必要な全くない、読んだ人に内面の話なのであると思うのだが・・・読むことで過去と未来に思いを馳せたり、どこか意味不明の想像の世界を旅できればそれでいいのではないだろうか。

2019年3月7日木曜日

悪の読書日記 禁色 三島由紀夫(著)

2019年  3月  7日

80年代英国のロックバンドであった『ジャパン』のデヴィッド・シルビアンというヴォーカリストの愛読書は三島由紀夫の『禁色』だそうだ、三島由紀夫を尊敬するミュージシャンは多く、ストラングラーズのJJバーネル、ビヨーク、イギー・ポップ、44マグナムの広瀬さとし…などあとを絶たない。
しかし、外国人がよくこの三島由紀夫などという作家の難しい本に感銘をうけるのかよく解らなかったりする。



それが『禁色』なんていうかなり長い長編小説になるとなおさらである。
日本人の小生が読んでいても難しい言葉や表現がでてくる。
それは難しいという表現は極めて相応しくなく、なんという表現なのか?と感動させられる文章が多い。『禁色』は読み始めた頃は気にいった表現をメモしたりしてみたが、本を読むノリが悪くめんどくさくなりメモする事を挫折して諦めた。しかし、三島由紀夫は何という表現をするのか、そして何というストーリーなのか、話が進むほどこの話にのめり込んでいく自分がそこにはいた。
こんな素晴らしく美しい表現を英語やフランス語に訳して、この美しい表現が日本語圏以外の方に上手く伝わるのか?伝わっているのか?と疑問が残るが、逆に同じことを英国のオスカー・ワイルドやコナン・ドイルのファンなどの方々は思っているのかも知れず‥‥大きなお世話なのかもしれないが、そんな事は別として『禁色』は小生が今まで読んだ三島由紀夫の長編では一二を争う出来映えである。

表現も美しいが、内容はさらに美しいというのは嘘で、なんという展開の展開!?という話。
よくこんな話を思い付くものだ、政府が人生100年と言って年金制度が崩壊していることから感心をそらす制作の2019年の現在でも65歳はまだまだ働ける時代、引退した女好き老作家65歳の自分を裏切った女性への復讐大作戦として、女を愛せない若い美男の家庭の事情を利用して、50万円(戦後の物価たからかなりの大金)で好きでもない女と結婚させてあれやこれやと利用して復讐していく無茶苦茶なストーリー。

主人公は言われた通り老人の指示されたとおり行動していくが、段々と人間が変わっていく…そして老作家も変わっていく…
何が無茶苦茶かというと、話の殆どというか女を愛せない男が主人公なので恋愛の部分は殆ど男と男…ベッドシーン的なところはちょくちょくでてくる。露骨な表現は全くない。
まあ、 昭和30年代にこんな話が本に出来たものである。

しかも当時は『禁色  第一部』と『第二部』に別れてかつ当時は別々の雑誌に連載されたのち書籍として出版された、その間に三島由紀夫の海外旅行で約10ヶ月のブランクがあったらしい。それでも三島がこの第一部の続編第二部を書き続けることが出きるのは…これぞ三島由紀夫の表現力の実力であり、それだけのだれにも文句をいわせない美しい表現で美しい文章で読み手を圧倒させていけるからだろう。その力は三島が死んで50年近く経ったいまでも読んでいて健在である。


個人的に三島由紀夫のストーリーは最後の最後に『あれ~』って、感じのあと味を残して終わるというか、いい表現かどうか解らないが、作者が読書を良い意味で裏切りような展開。またはそう思わせる感じがして終わると思っている。今回はどうやって俺を裏切ってくれるのだ!? 悠一、俊輔?よ!と、残りのページが後僅かになると、俺の心がそう叫ぶのである。

そして今回も…

そして読み終えた後の複雑な気持ちが複雑なのである。この2週間程度のこれを読んでいるとなんだか不思議な気持ちになる、いい感じの感覚が明日からは無いのである。
なんか、心が空白なのである。しかし、いまからこれを再読するパワーは今はない。もう少し時間が欲しい。

この本を愛読書としてる人々は、もしかして俺と同じ『不思議な』気持ちをいつも持ちたいからこの本を愛読書にしているのではないだろうか?
そうであればこの本はコトバの麻薬、ドラッグであり常習性があるのか…やはり無茶苦茶である。

今回も三島おそるべし。


2019年3月3日日曜日

悪の毒書日記 GO NOW Richard hell(著) 滝沢 千陽(訳)

2019年 3月 3日

ひな祭りである・・・こんな日にこんな本、小説である。『GO NOW』 、ニューヨークのパンク・・・本物のパンク、Richard  Hellの自叙伝的なフィクション小説である。ふとしたことで、SNSで知り合いのデザイナーさんが、インスタグラムでRichard  HellのTシャツを着ていたのがきっかけである。「Richard  Hellですやん」とコメントを入れたら、「そうですよ! 東ちづるもすきなRichard  Hellです」という返事がかえってきた、これにはぶったまげた。まず第一に因島で「Richard  Hell」をどうやって知るのか?昔々は大阪ローカルのバラエティ番組に出まくっていた東ちづるが何故パンクのRichard  Hellが好きなのか?
そんな事を考えるより、昔々挫折した「R.I.P.」という、ROIRから発売されたレアテイクを集めたのアルバムを再度買って聴いてみることに。よく小生はSNSにて、昔は聴けなかったけど、いまなら素直に聴けることがあるなどと述べているが、まさしてもこのRichard  Hellはそうであった。


前述の「R.I.P.」というアルバムは、二枚組になって『TIME』というアルバムで販売されている(既に廃盤)。ふと、これを買い求めそして、Richard  Hellは何をしているのだ?とアマゾンで検索すると『GO NOW』という小説を書いているではないか。しかもかなり以前に日本語になって発売されている。アマゾンのレビューによると自叙伝的小説でロード小説みたいなと・・・・
というわけで、早速購入して読んでみた。


ロード小説というと、ケルアックの『路上』を思い出す。この小説にはバロウズやギンズバーグが出てくるのだが、やはりこのての小説は『ドラッグ』というキーワードが重要なのだろうか?と感じるが、それは勝手な解釈、固定概念じゃないの?と言われそうだが、事実なのである。アメリカの西から東を車で走り抜けて、そこに「悪」のエピソードや材料が無ければ何があるのだ?!!
しかし、はっきり言って犯罪であり、カラダにも周囲の人々にも良くないのは事実である。

ここでこんな一節が小説にある
『ヘロインに溺れるのは一種の通過儀式だと俺は考えていた。砂漠て過ごすとか戦争に行くと言った類の経験さ。で、俺が何を学んだかって?
自分がしたことはすべて自分に返ってくる、誰も責められないということだ。俺は自分を擁護するためにこの世を罵ることなどしない。』
主人公ビリーのコトバだが、明らかにRichard  Hellのコトバである。
結局はそれを選択した自分自身に不合理な責任はある、世間にあーだこうだ言うのはちょっと違う。それを解ってドラッグをやっていたと。

ストリーは架空の「旅」の話で、セックスとドラッグの話に尽きるのだが、時折マルキ・ド・サドの小説の如く、主人公の発言が著者の発言を代弁していて、前述のようなコトバや、ジャンキーのくせに詩人ボードレールや翻訳について語り、それだけでなく古書や活字にまで語るのである。元々Richard  Hellは詩人になることを夢みてニューヨークにやってきた人なので、それを知っている人から見ればある程度納得の話だが、全くしらない人が読むと多少戸惑うのでは無いだろうか?
しかし、このギャップがRichard  Hellの魅力なのである。ジャンキーのくせに詩人で古書を集め、貪りつくように本を読む。

この小説は自分からみると、ケルアック+マルキ・ド・サドにヘルのテイストを混ぜあわせた小説ってな感じがする。そして最後、マルキ・ド・サドの小説に近いような展開で話は終息へ一気に向かっていくのである。こんな展開なのか?と思ってしまう、架空の小説でよかった、これが本当に自叙伝だったらえらい事である。

ドラックに溺れる著者、実際には溺れていた著者であるが、
『要するに俺はヘロインで暇つぶしをするという贅沢に人生を費やしてきただけなんだ。そういう「健全な恐怖心」を排除するのがヘロインの力だ。なんだか裏切られたような気がした。ヘロインはフィルム・ノワールに登場する宿命の女のように運命を狂わせ、破壊へと導く、到底俺が太刀打ちできる相手じゃなかったんだ』とヘロインの禁断症状のなかでこう感じる部分がある。
そして訳者のあとがきのなかでRichard  Hell本人から翻訳するにあたり、『ヘロイン中毒をいたずらに魅惑的、ロマンチックに描かないことであり、同時に中毒者を犯罪者として断罪したり人間以下のクズのようにも扱わずヘロイン中毒者の運命として受け止めたうえで、それによってその人間の全てが決定づけられはしない状況を描きたかった』とメールを貰ったそうである。

Richard  Hell本人が処女作の中で書きたかったことは、架空の小説で自分の過去を罰したり、ドラッグの服用禁止を訴えたり、周りを罰したりするのではなく…それを選択したのは自分自身であり。誤りだと気づけばやり直せばいいだろう…と言ってるように想う。

なんだか読んでいるうちに最近悩みっぱなしの自分自身から、主人公ビリー=Richard Hellのコトバといまの自分が重なる部分があるように思われてきた。小生はジャンキーでなく対象的なストレート・エッジなのだが。パンクだから読むべきとか、そういった本ではなく少しでもRichard Hellを知ってるなら読んでみて欲しい。


もし本書を読まれるなら、一気に読むことを推奨致します。

2019年3月2日土曜日

悪の毒書日記 知的生活の設計ー「10年後の自分」を支える83の戦略 堀 正岳(著)

2019年 3月 1日

地獄の季節はまだ続く・・・、今日からすでに3月。今年も既に二ヶ月が過ぎた・・・もはや悩んでる暇はなく、そろそろ水泳の練習も再開しなければと思いつつ、いまだ立ち直れない俺がいる。ランボーの『地獄の季節』でも読もうかと思ったが、そんな元気はない。
幸いなことに、花粉症の被害は現在非常に少ない、花粉症の症状を和らげる薬は即効性はあるものの、副作用がきつく今まで以上にボーッとした日常を過ごさなければいけないので、年中服用したい気になりそうだ、このままでは。
しかし、前述の通り花粉症の被害はまだ少ない。これは幸せなのだろうか?



ご存知か否、小生はまもなく6月の末で50歳になり、60歳まで残り10年と少々である。残り10年で色々自分自身のなかで個人的に確立したい世界があり、その為にタイトルにひかれてちょっと読んでみようと気になった堀正岳氏の「知的生活設計ー10年後・・・」である。

これまで即効性の強い技を集めた書籍や、小生も愛用しているEVERNOTEに関する書籍を書かれていた堀氏であるが、ここへきて方向転換ではなく、「10年後の自分」をテーマに一冊の本をまとめたようである、目的は「あとがき」から堀氏のコトバを抜粋すると『考え方の原点として、多くを渡部昇一氏の『知的生活の方法』や梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』といった過去の名著に負っています。これらの本の価値はいまも変わりませんが、ネットの活用や情報発信がラクになった現在の実情に即して、今の読者に「新しい知的生活」の形をお届けするのが目標』である。つまり、現在のIT技術などを駆使して、これまで先人の人が考えだした整理術などを昔よりかは現在に簡単に出来てしまいます・・・・という事、すなわちそれはなかなか効果が見えないので即効性が全くありません、しかし地道に積み上げて知的生活を楽しく送りましょう。そしてそれがいつしか収入源になるかもしれません。テーマが失敗と感じたら辞めて次のテーマへ行き、失敗したことは決して無でなく、それは経験として活かせることが出来るはず。いずれそれらが副業となり知的生活の資金や生活の為の収入になれば・・・・というようなことを前提に83の戦略を纏めているのである。
なんと!冒頭に著者が『即効性をうたった小手先の方法についてではありません』と書いている、つまり悪く言えば、全く即効性のない戦略を集めた本である。
しかし、それは知的生活などの即効性のものではない、10年先の未来を想定して作り上げていく世界であると、言っているのだと強く感じた。

この83の戦略がまた凄い!全てが個人的に凄いぜ!と、当てはまるわけではないが、ほとんどが本質を貫いている。少し引用すると・・・
『個性化した記録こそが、ほかのどこでも検索することができない価値を生み出してゆきます。そしてそうした個性化こそが、ほかにはない情報の蓄積として成長してゆく・・・』
『制限のなかにこそ、次の分野の芽があると考える人にとって、予算的制約やハードウェアの制約は、ゲームのルールのようなものです。ルールの制限のなかでどこまでいけるかを、自分に課して楽しむわけ・・・』
と、コピペで集めた話しでなく、個性化した自分の意見を蓄積せよ!
始めるとき、制限や制約はゲーム感覚で攻略することで楽しんで制限を突破せよ!

そして一週間スマホから離れる。ネットから一週間離れることで、異なる情報の流れのなかに身をおくことによって、自分の知的生活の情報のバランスを客観視できるようになると。

また例えば、ブログを奨めておきながら、すでにブログは人気のあるメディアでは無くなっているが、知的生活者の発信の場所はプログ以外は無いと断言している。さらに『SNSでの発信は、より固定したブログの記事とリンクさせ、詳細はそちらを読んでもらえるように気をつける必要があり』と言っておりまさにである。小生も実はそうやってこのブログを作り始め、SNSをそう使うようにしていたので自分のやりかたが間違っていなかったと感じたのであった。

実は正直に書くと、前述の通り・・・確立したいことがありと書いたが、こういった知的生活が収入の一つになればと思いここしばらく考え込んでいたのであるが、まさしくコレといった本にであったのである。しかも即効性は皆無で地道な努力が必要と正直言っている(書かれている)。そして著者はこう言いきる。性急に知的生活で金儲けを感えて偶然にも成功したとしても、短期的にしか成功は掴めず、5年、10年のスケールで続いているものはない。
なるほど!!である。
知的生活が収入に繋がるには、この書籍に記載された事を利用すればば少しは簡単かつ楽しく出来るのではないか・・・そして、それが出来た時。まあ何を基準に出来たかというと可笑しな感じがするが、個人それぞれが求めていた世界が確立出来たと感じたとき。収入だけでなく、世界の常識がどう変わっても何も恐れることのないスキルが身についているハズであると。

この本は簡単に読める本であるが、これを実践していくには並大抵の努力では実現は出来ない。
しかし、昔と異なりその努力はひたすら努力というより、テクノロジーを駆使した楽しい努力であり、テクノロジーを使いこなす能力も一つの知的生活といえるのである。
それが現在においての知的生活なのだ・・・・


既に2019年3月、あと10年と2ヶ月しか小生には時間が無い。