2019年12月31日火曜日

悪の読書日記  君自身に還れ 池田晶子✕大峰顕(著)

2019年 12月 30日

このブログへアップしようとして2回読んでみた。というか、書物は複数回読んでこそ自分の身のためになるというが、どう為になるのか?
それは人それぞれ違うことであり、HOW TO本を殆ど読まなくなり、いわゆる「考える」本へ移行できたとそれによって得たことは自分の生き方が全く変ったという事で本を読むことの返礼品は現物や金額に換算できないもので誰にも盗み出せない自分自身の一部になったのではないかと思う。



『君自身の還れ〜知と信を巡る対話』大峰顕✕池田晶子(著)。仏教vs哲学の対談かと思って古書にて購入した書籍であるが、全く違った。哲学・池田vs哲学+仏教ハイブリット・大峰の対談である。本書後半の池田氏の大峰氏への突っ込みはお互い笑いながらの会話ながら、直球勝負の池田氏は流石である。約12年以上前に出版された本で、池田晶子は45歳であり、時代はまだ携帯電話が主流の時代である。

冒頭いきなり池田氏の「言葉の価値が下落してきた」という携帯電話の「話し放題」というサービスについてから始まる。
言葉の価値だけが下落しているのではなく、人が考えることをしなくなっているという危険性や、自分のコトバで表現しないことへ大嶺氏と対談して危惧している。
しかし、時代はさらに進み、今では携帯電話ということでなく、スマホである。会社から支給された携帯電話/スマホは事務所の固定電話の生まれ変わりだが、個人所有のスマホは、何の生まれ変わりでもなく、電話の会話よりかは、メールを使ってのコミニュケーション手段のツールである。
つまり、
 コトバの価値は、さらに下がっている。
 考える事も減っている。

のである、
自分で考えるよりもパソコンでGOOGLE検索を使えば、簡単に正解にちかいアンサーが帰ってくる。スマホでAiに尋ねれば殆どの事を教えてくれる。パソコンで調べた結果をマウスで範囲指定してコピーしてペーストすれば、それらしいモノが出来上がる。しかし、パソコンで調べたアンサー、その結果が本当に正しく、裏付けされた事実であるのかという事を考える人や、それを調べる人は少ない。もはや考える事は減って、「内省することもしあいからおしゃべりばかり(携帯で)している」と池田氏は言うが、おしゃべりでなくメールとSNSが今なのである。東大へ行くために0歳からの教育なんてやっているそうだが、教える事はテクニックを教えるので、自分で考える事を知らない人間になると・・・。

世界的に考えると、劣化しているのは日本人だけでは無いような。
さて、俺はどうやって生きようか?


★★★

釈迦は哲学者だったので、お経は考えて考えて読んでいかないと解らない。しかし、その解った事が正解なのかどうかも解らない。キリストは哲学者ではなかった、詩人である。その為に聖書にメタファーで書いた内容、水の上を歩いたとか、これを本当に水の上を歩いたと真に受ける人も居る。さらに伝導意識が高すぎて時に戦争までしてしまう。

格差社会というが、「格差」とは? 「幸せ」を求めるのではなく、「幸せ」とはいったい何か?を考える。
幸せとは「お金」なのか?これはありふれている。


読めば読むほど、本の世界、コトバの世界に引き込まれる対談本である。ヘーゲルとかハイデカーの話はちょっと難しく、ヘーゲルとかの本を探して読まないと解らない部分もあるが、その部分を多少差し引いても面白く読めるのは、僧侶という仕事がら、説明や人を納得させるのが得意と思われる大峰氏の手腕かと考える。


★★★

生きていたらそろそろ還暦の池田晶子の対談本は池田の死後数日経って発売された本である。大嶺氏は池田氏へ「10年もすればわかりますよ」なんて言ってたりするが、おそらく対談のあと数年で池田氏はこの世を去ったようだ。解らずに死んでしまったのかよ??

「死んだらどうなる」のだろうか?と言ってた池田晶子。人間は必ず死ぬのである。
さて、どうなったのだろう?


★★★

コトバについて考えて始めたブログであったが、2019年の最後は、コトバについての本で締めることになってしまった。
11月以降は更新回数が極端に減ったが、本を読んでいないわけではなく、読む本は減ったがブログとしてアップ出来る本に巡り合わなかったという理由も一つ。

昨夜2回目を読み終えた本書である。池田晶子の本当の遺作はこの本かもしれずと。
あとがきの池田晶子の文章が2007年3月(死後)になっているのは何故か?と、まあどうでもいいか。

手元に置いておくにはいい本である、間違いなく。

2019年12月22日日曜日

悪の読書日記 OHANASHIおはなし なかい みさ(著)

2019年 12月 20日
姫路からの帰り、電車の車内で・・・
ふとしたことでSNSで知り合った方のパートナーが作家だったと知る。知り合ったきっかけがきっかけだけにかと思うのだが、奥さんの本の表紙はこんな感じで。
言わずと知れたパンクバンド、セックスピストルズの「勝手にしやがれ」アルバムジャケットのパロディーである。



揺れる電車で、一気に読みだした・・・そして一気に読み終えた。

短編小説であった、表紙が表紙だけにと考えてみたが・・・6つの小説でパンクが出てくる話はない。
今の自分にとってはちょっと痛い話と感じる「スナックかいわれ」と「消灯」、「ねんねこしゃっしゃりまっせ」・・・、
そして全く異質の「うちゅう人」「西日本座敷童子協会」などの計6編。

う〜ん、日常なのである。異質の「うちゅう人」「西日本座敷童子協会」以外は。
「スナックかいわれ」「消灯」「ねんねこ・・・」など、それは日常なのである。おそらく、著者が経験や体験してきたことや、ふと偶然知り得たことなどがベースかヒントで書かれていると想像するのであるが、書かれたストーリー、それは日常なのであり。もの凄い大展開や、最後の最後にバババーン!!ってことは無く。再び少し違った日常が始まるという感じなのである。
パンク作家と言われる町田康や、ブランク・ジェネレーションのリチャード・ヘルの書くストーリーの様に無茶苦茶な世界でもなく、無茶苦茶な終わり方などはない。表紙のイメージから読み始めると、ちょっと足をすくわれる。

ちょっとばかり暗い空の下での話、夜の世界の話、ちょっと小生には経験やあまり考えたことのない世界。こんな世界のあるのであると。


しかし、前述に異質と書いた「西日本座敷童子協会」は個人的に非常に興味深い。各地の座敷童子がSNSで近況を報告しお互い励ましあうという話。話というかSNSのやりとりである。これも「日常」なのであるが、アイデア、書き方など気に入った!!何十年か後にはSNSって何?っていう時代になると思うのだが、そんな事は関係なく「西日本座敷童子協会」はコトバとしてストーリーとして、日常の一部として本の中で残り続けるのである。

唯一、この話は俺にはパンクである。


どういう経緯で著者がこの本を出版したのか?編集者がどうやってこの本の出版を考えたのかは全く知らないし、著者ご本人んとも会ったこともないので解らないのだが、次作に期待したいと思う。


2019年11月28日木曜日

悪の読書日記 卍ともえ 野坂昭如(著)

2019年   11月   27日

何十年か前に読んだ野坂昭如の『エロ事氏たち』を読んだあとの感覚を思い出した。何十年か前のあの感覚である。
『無茶苦茶な話やんけ…』
そろ以外なはない。野坂昭如の小説はこれが生涯二冊目。『火垂るの墓』さえ原作を読んだことさえない。



簡単に言えば『エロ事氏たち』が江戸時代へタイムワープして大阪は天満を舞台にお化け話とエロ話が合体したという無茶苦茶な話。
骨、墓荒らし、死体愛好家、近親相姦、マゾ婆…何やねんこれは?
結局、関係ない方々が可哀想に殺されてく話やんけ!と、カルト小説だな、これは。
よくこんなストーリーを思い付いたものだと、何度読みながら感心したが、その都度脳裏には酔っぱらってる野坂昭如か大島渚を襲撃する野坂昭如の姿しか浮かばない。

読んでいて疲れてくる野坂昭如の文章は古文ちっくに書かれているから、これまた苦痛極まりなく、いったいこの荒唐無稽なアホ小説はどの様に結びに向かって行くのか、途中何度か挫折しかけるも、本来なら読み始めた本がつまらなくなったら直ぐに読むのを辞めて次の本を読めばいいというセオリーを無視して最後まで読み通したが、ブログのタイトル通りのリアルな悪の読書であった。

昭和という時代の小説であり、講談社文庫の昔々版(昭和50年初版本)で買った為か、今では使わないというか、使えないコトバが見受けられる。これに関しては野坂昭如が生前、朝まで生テレビで発言していた如く。面白い、素晴らしい落語が出来なくなったと、コトバ狩り(なんでもかんでも差別用語と決めつけて使用させない)を批判していたのを思い出させた。
最近、出版関係の方と話をした際、キチガイというコトバはいつの間にか差別用語にされてしまったが、語源はそうでないことを教えて頂いた。
時代は結局、説明したくないことを単に蓋だけをして何も解決策を思考せずここまできて、その処理に困り果てて結局は日本の得意である「無かったこと」にしているだけなのだろう。
野坂昭如氏の随筆を読むとその点も含み激しく現政権を激しく批判をしている。


著者は晩年テレビで酔っぱらってるオッサンでしか無かったが、『エロ事氏たち』、『火垂るの墓』と、この真面目過ぎる話から荒唐無稽なアホ小説といつもテレビでは酔っぱらっていたこの振り幅の広いイメージ全てが野坂昭如だったのだろう。

この小説は野坂昭如の代表作では無かったが、野坂昭如の才能を超変化球で見せ付けられた作品であった。当時は書き下ろしでなく、某スポーツ新聞に連載されていた作品らしい。それも時代を感じるが、やはりドラッグはやらないけど日本のウィリアム  バロウズなんだろうと、『火垂るの墓』以外の野坂昭如の本を読みたいと思う。




2019年11月2日土曜日

悪の読書日記 金閣寺 三島由紀夫(著)

2019年 11月 2日

やっと・・・読み終えた三島由紀夫『金閣寺』。購入したのは20代前半、営業職をやっていてふと立ち寄った亀岡市の古本屋だった。そこでこの本を購入したものの結局は会社の引き出しに放置され、やがて席替えなどの関係で物置に放置されていたのを一ヶ月ほど前に救出した次第。
その間約二十数年・・・購入当時から既に色褪せて変色していた本はさらに変色を増して、素晴らしく古本という風情を強調させている。背表紙カバーにはバーコードも無く、定価は120円、昭和46年の26刷である。



話は実話をベースにした物語・・・であり、書かれている地名も大学も実際に存在する内容で京都を舞台にしたの為、比較的に想像しやすい街並みである。時代が戦後の話なので想像する街並みとは掛け離れているのだが場所や駅などの距離感覚は想像できる・・・・

主人公はいつも目の上45度に金閣寺が存在する男、京都は大谷大学の学生である。金閣寺の美しさにココロを拘束された為、何するときも金閣寺が目の上に自分を観ているので、女性とは最後まで辿りつけない・・・・金閣寺と自分の関係が切れてしまった時、男は金閣寺を破壊することを目論む。
「世界を変えるは行為でなく、意識だ」という友人であった柏木のコトバの通り、意識を変えることで彼の世界は変ってしまった。
最後に男は自殺するつもりでいたが、結局最後にやっぱり「生きたい」と思う意識へ・・・男はまた変ってしまったのか。

しかし、彼の意識を変えたのは、友人の柏木であり、鴨川であり、師でもある金閣寺の住職である。
人が特定の人と巡りあう確率は、空から小さな隕石が落ちてきて、見事に自分んちのトイレの便器にポチャンと入る確率にちかいという・・・・そんな中で巡りあった人の影響をうけて男は変わっていく。そして夜の京都で女遊びをする師と偶然出くわしたことで、男のココロにあるこれまで構築してきた壁に開いていた小さな穴から、溜まったゲロが吹き出して壁は壊れてしまうのである。
やがて男は生活も変わり、ボーッとした日々を過ごし続け、とんでも無い行動へと走っていく、まさに意識が変わると世界が変ってしまうのである。

そして、
三島の作品は最後の最後の数行で、再び読み手をいい意味で裏切る。
またしても「金閣寺」で裏切られた。

過去に一度だけ金閣寺に行った事がある。
もう行くことは無いだろう、この本を読んだ読んでないに関わらず。お寺を巡るのにはあまり興味がないだけである。


2019年10月31日木曜日

悪の読書日記 頭の中がカユいんだ  中島らも(著)

2019年 10月 31日

小生の二十歳そこそこまでを形成していた細胞は間違いなく上岡龍太郎氏、笑福亭鶴光氏、そして今は亡き遠藤ミチロウ=スターリンと、中島らもだった。
先日、落語会/読書会の帰り、笑福亭智丸さんと電車のなかでふとした事から、中島らもの話になった(ちなみに智丸さんは、らもさんの大学の後輩にあたる)。智丸さんは中島らもの『頭の中がカユいんだ 』が好きらしい。遥か〜昔、『頭の中がカユいんだ 』は読んだと記憶するのだが、らもさんの本は殆ど手放してしまった記憶があり、一部の本は今になって買い直したりしている。『頭の中がカユいんだ 』どんな内容だったかは全く覚えていないに等しい。文庫化されて現在は外国人女性の表紙は知っているくらいのレベルである。



それは高校二年か三年の頃であった、当時関西ではFM大阪で『中島らもの月光通信』という番組が放送されていた。無茶苦茶なラジオドラマちっくな爆笑コントとその間にパンク系の音楽、そしてスタックオリエンテーション(現在のスマッシュ・ウエスト)の南部氏と、とんでもないゲストのコーナーなどと・・・今考えたら無茶苦茶な内容だった。途中でアル中で病院に入院させられた中島らもに替わって、漫画家ひさうちみちおさんが何週かに渡り司会をしている時があったが、そんな時のとんでもないゲストが戸川純(ヤプーズ)だった。
この放送を熱狂的に聴いていた、当時はテレビよりラジオの方が面白かった。上岡龍太郎氏は晩年テレビ(関東圏)に良く出ていたが、天才上岡龍太郎の本当の面白さはラジオであったと思う。上岡氏が当時ラジオで語った内容は今でも小生の生きる指針となっている(民主主義とは何か?、三島由紀夫と石原慎太郎の違い、プロ野球とは?…など)。
そしてまた、当時読み漁った中島らものエッセイなども今の自分の生きる指針となているのも事実である。

『頭の中がカユいんだ 』のオリジナル版はどんなんだったのか?ネットのオークションやメルカリで検索してからやっと思い出した。当時、大阪書籍から発行されていたのである。東京方面の方は解らないかも知れないが、大阪書籍という出版社は教科書を発行している出版社なのである。その出版社が結果的にはジャンキーの書いた本を出版していたのであるという有害図書から教科書までのなんでも来いの出版社である。
既にオリジナル版は高価な値段がついて買う気はしないが、表紙を見て思い出した・・・・そうだ、こんな表紙だった。当時ラジオ番組でよく、大阪書籍が教科書の出版社のくせに、なんでか中島らもの本を出版したと話題になっていた。
当時は多分深く考えて居なかったのだが、この『頭の中がカユいんだ 』は中島らもの身の回りでの事実をベースに書いた本だということである。

ヤフオクから拝借


とりあえず再読したくなった小生は文庫版の『頭の中がカユいんだ 』を購入して、おそらく30年ぶりに読み返した。すると過去の記憶が断片的に蘇る。山口富士夫さんのエピソード、朝日新聞の社員の名刺を持っていたらタクシーに現金を持っていなくても乗れる話。天王寺野外音楽堂で小生が音楽を始めるきっかけとなったリザードを観にいったという話、印刷屋を退職するとき一緒に退職する先輩と勝手に好きな名刺を作って印刷して退職したという話、ダイビングしていて海上に浮上したら陸地が見えなかったこと・・・・など。
どうやらそれらの僕の記憶の断片の原本はこの本の内容だったらしい。
十年くらい前から、中島らもさんの奥さんや、鮫肌文殊が書いたらもさんについての思い出の本を読んでいたので、色々な話や中島らもという人間が本の内容と結びつき、30年前に読んだ時とは全く違う感覚に陥っているのだと自覚する。前述したが、これは事実をベースに書いた本なのだ、多分最初に読んだときは適当な事を言って、本当はつくり話で実話を大きく盛ったのだろうなんて思っていたに違いない。しかし、違っていた。
前述のらも夫人や鮫肌文殊の本などから考えても、この『頭の中がカユいんだ 』が事実であり、たいして脚色していないし、話を大きく変えてもいない。その後の中島らもさんのエッセイなどから想像しても『頭の中がカユいんだ 』は明らかに実話である。

当時、中島らもさんはこの本を数日で書き上げたらしい・・・
今となってはどういう意図でこの本が教科書の大阪書籍から出版されるに至ったのかなどはよくわからない。らもさんもどういう事でこの本を書き始めたのだろう?広告屋なのにどうしてFM大阪でラジオ番組をやっていたのだろう?その頃はまだ「中島らも事務所」じゃなかったし・・・
この時、売れっ子作家になる自分を想像していたのだろうか? そして作家を辞めて本当にやりたかった音楽をやる事も想像していたのだろうか?
鬱病になること、逮捕されること・・・・想像していただろうか?
(「なげやり倶楽部」というテレビのバラエティ番組の司会もしていて、レギュラー出演者がダウンタウンで電柱の被り物で出演していた。)

全く関係ないが先日、クリエイターの高城剛のメールマガジンのQ&Aのコーナーで高城氏がこんな回答をしていた・・・
【 Q 】・・・高城さんが私のような境遇であれば、何を生活の糧とし生計をたてて生きていくか、お考えいただけますと幸いです。
【 A 】彼女は、やっと地方に派遣の仕事を見つけましたが、母親が若くして急死。恋人とも別れ、結局仕事もクビ。
次に付き合った男性の子供を宿しますが、流産してしまいます。
そんな中、カフェでひたすら自分と向き合い、一冊の本を書きました。
タイトルは、「ハリーポッター」。その彼女の名は、J・K(ジョアン)ローリング。
のちに年収数百億円を生み出す小説は、ボロボロのノートに書き留められた短いメモからはじまります。
貴君が、いかなる境遇なのか、深く知るところではありませんが、僕なら、本を書きます。
いきなり書くことなんてできなくとも、日々少しづつ。
そっと未来の重い扉を開くように。
(高城未来研究所「Future Report」Vol.434より抜粋)

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残念だが、らもさんの扉は既に開くことは無いが、10代の終わりに感じた事はいまでも、これからもその感覚や感情は消えることは無いだろう。
次は僕の重い扉をゆっくりと開きたい。
そこに何が居るのかはわからないど・・・・。

2019年10月27日日曜日

悪の読書日記 嫌だと言っても愛してやるさ 遠藤ミチロウ(著)

2019年 10月 27日

今回は本当に悪である。
遠藤ミチロウの書籍が文庫本で発売されるのは、なにか変な感じがしないでもない。過去に何度も内容を追加し表紙を変更して出版され続けていたエッセイ『嫌だと言っても愛してやるさ』が文庫版になり、内容もさらに追加され、表紙も全盛期のスターリンのライブ写真、石垣章氏の撮影した写真である。あとがきは『爆裂都市』の映画監督の石井相互である!!
どうして今までこの本『嫌だと言っても愛してやるさ』を買わなかったのだろう?と今になって考える。正直、80年代の遠藤ミチロウ(スターリン)が好きなので、フォークギター1本でうたを唄う遠藤ミチロウにはあまり興味が無かったのだ。実は音楽に歌詞は必要なのか?コトバは必要なのか?と90年代後半から考えるようになって、音楽というものは音と音がぶつかりあって凌ぎを削って音を出すのが音楽ではないのか?と考えている時期があり、簡単に言えばフリージャズとか即興演奏のバンド活動をしていた為に遠藤ミチロウのギター一本で唄う活動には興味が無かった・・・・。



スターリンの殆どのアルバムに出てくる歌詞に日本語と英語が混じった歌詞は少ない・・・・。『MONEY』の「I LOVE MONEY・・・」程度くらいで、
「STOP JAP」なんて日本語(和製英語)であり、殆どの歌が日本語と和製英語(カタカナ英語)で固めた歌詞と言っていいだろう。ミチロウは常に日本語のロックに拘っていた、ビートルズの「HELP!」をソロシングル三部作で収録した時も本当は日本語の歌詞に超訳したが許可がおりず、へんちくりんな曲になってなんだか変なカバーソングになってしまったこともあった。日本語の歌詞の方が聴いている人にダイレクトに伝わる・・・と本書で言っているとおり、同感である。英語で言ったほうが伝わるという事もあるだろうし、英語で歌った(言った)方がカッコいいという意見もあると思うのだが、ある意味それは作者(作詞者)の我がままで、スキル不足なのかしれない。おそらく歌詞の中で日本語と英語が混じっているうたなんて歌っているのは日本の歌くらいじゃないんだろうか?
詩にせよ文学にせよ、外国人のコトバを日本語に訳して伝えた場合、その時点で作者のコトバでなく訳者と作者のコトバになっているのである。洋楽レコードやCDを買った歳に封入されている日本語訳歌詞カードを読んでもピンとこないのは、訳した人そのものの人格による部分がミュージシャンとの人格の不一致が多すぎるのだ。
だから、ミチロウは日本語のコトバに拘ったのだろう。スターリン、遠藤ミチロウの歌詞は遠藤ミチロウの歌詞がそのままなのである。
だからミチロウの歌詞は好きなのだ、いまさらやけど・・・。

本書には記載されていないが83年に無茶苦茶売れたスターリンのセカンドアルバム「STOP JAP...」というのがある。このアルバムはメジャーから発売するときにレコ倫から歌詞にクレームがついた為に、レコーディングをやり直した(ヴォーカルパートだけでなく演奏も含めて)経緯がある。
その一件に関するミチロウの苦言「レコ倫」というエッセイも収録されている。当初発売予定だったお蔵入りの音源は十年ほど前に「STOP JAP...naked」っていうタイトルで発売されたが、前述の『MONEY』は「I LOVE MONEY・・・」という歌詞でないのが実に興味深く。本書のミチロウの苦言と「STOP JAP...naked」が繋がり、歌いたく歌った歌詞でないことが証明される。本書に収録されている吉本隆明との対談でも少しだけ『MONEY』について触れられているが、今となっては吉本隆明が聴いた『MONEY』は変更をレコ倫によって修正された曲であったのだと思うとなんだか複雑な感じがする。

小生が音楽を真剣に聴くきっかけは、スターリンのドアルバム「STOP JAP...」からシングルカットされた曲『アレルギー』である。1分にも満たない曲、こんな音楽がこの世にあっていいのだろうか?という疑問から始まった小生の音楽生活、それは17歳くらいの時だろうか・・・・既に小生も50歳であるが、遠藤ミチロウがスターリンで1983年で32歳というから、ミュージシャンとしては若くない、32歳の時は俺は何してたっけ?ミチロウは50歳の時は何をしていたのだろう?と、巻末の『遠藤ミチロウ バイオグラフィー』を読みながら色々考える。
68歳でこの世を去った遠藤ミチロウである。30年くらい前はよく、ミチロウはパンクを利用して有名になった奴(本にもそう言ってたらしい)とか、パンツを脱いで有名になった奴とか、有名になる為にパンツを脱いだ。性格がエゴイストだとか・・・・よく雑誌やなんかで書かれていた(当時はやっぱりみんな若かったので、好きなこと言ってたんだと思う、事実かもしれないけど)。結果論から言えばそうであるが、本人にとってはパンクとかロックとかという概念は無く、彼の活動が「自分が社会をどう変えれるのか」という遠藤ミチロウの実験世界では無かったのではなかったのか?と思う。ライブでゴミをバラまいたり、ソノシートを配布したライブとか・・・全てが彼のメディア戦略の実験場だったのである。本人が本当にやりたかった音楽はアコースティックギター一本で歌いたかったと聞いたことがある。晩年はおそらく本当にやりたい音楽が出来たのだろうと思う。その為には自分自身を世間に知ってもらわなければいけない、遠藤ミチロウというブランドがの知名度が低ければ客も入らないしCDも売れない。そう考えるとスターリンでの活動は結果としては晩年の活動を支える為の土台、ベースとなったのだと思う。つまり結果的にパンクを利用したといえば笑えるが、今日現在「パンクロック」も「ロック」とかいう概念なんてちょっと時代遅れだ、革新的な部分が全くない、焼き回し文化でしかない。それよりもパンクでもロックなんてどうでもいいと考える男、遠藤ミチロウの日本の音楽文化への影響というのは非常に大きかったのである。

最近の若い方は知らいないと思うが、30年前に音楽のビデオソフトは高額で(当時)1本5000〜8000円とかが普通であったのだが、「これからのメディアはビデオ」だとか遠藤ミチロウ氏が言い出して結成したのが「ビデオ・スターリン」だった。当時発売したビデオソフトが2800円で、実はこれ以降、世の中のビデオソフトの値段が大幅に下がったのである。残念ながら発売したビデオは3本だけでビデオスターリンは解散してしまうのだが。

まさに我々は遠藤ミチロウの実験に付き合って楽しんでいたのである。

★★★★★★

中島らもさんのエッセイで遠藤ミチロウが出てきたことがある。桃山大学かどこかの学園祭で楽屋が一緒だったらしく、ふとミチロウ氏を見ると出演前らしく自分の顔に化粧をしていたらしい。らもさんが若木さんに「あの化粧どうなん?」と聞いたらそうだが、若木さんは一言「へた」と言ったそうである。

らもさんもミチロウさんも、この世にはおらず、
コトバだけがこれからも生き続ける。

2019年10月22日火曜日

悪の読書日記 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上春樹(著)

2019年 10月 22日

今日は国民の祝日である。右も左も関係ない自称「なんちゃってアナーキスト」において、単に休日なのである。
先日10月18日に開催された読書会の課題図書である村上春樹(著)「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に関しての小生の読書会用のメモを纏めてブログにあげてみた。また読書会の中でのあれこれ持論云々や他社批判も纏めてメモとしてブログにあげてみた。
(ランダムにアップしてあるだけである)




ーーーーーー
村上春樹氏・・・について

実は村上春樹氏の本を読むのは初めて。正直興味が無いのである・・・80年代村上龍と村上春樹と、どちらかといえば当時は村上龍の方が好きだった、簡単に言えば村上龍はいい意味での暴力的なロック、村上春樹はお子様ランチ的なロックってイメージだったが。結果的にその通りではないか、村上龍はジャンキーバンドのローリングストーンズが似合う感じがする、村上春樹は万人にウケるビートルズだ。
小生、ビートルズは嫌いだ!!

読書会で知った事だが、世の中には熱狂的な村上春樹ファンの方がいるようだった。読書会ではアホみたいに現在の世界の大衆メディア(ハリウッド映画や漫画)などに村上春樹が影響を与えている・・・という意見は笑えたが、ハリウッド映画に影響を強く与えているのは村上春樹でなく士郎政宗など日本の漫画である。そしてハリウッドのSF映画のベースはなんと言ってもP.K.ディックである。ディックとマーベルコミックなしにあらず。

村上春樹氏が80年代半ばに「啓蒙かまぼこ新聞/中島らも(著)」の「あとがき」を書いていることさえ知らず、マニアとは言えず脇が甘い。
その「あとがき」は笑えるくらい面白い内容なのである。そしてそこに今から世界旅行へ言ってくると書かれているのだが、どうやら読書会の色々な方の意見や話から時期的に言えば日本から脱出して次作「ノルウェーの森」を執筆するための旅行だったようである。


★★★★★★★★

個人的感想:世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド・・・メモ

・これはP.K.ディックの小説と言ってもいいだろう・・・ニューヨークの街でおこる話にすれば、明らかにディックの小説になる。しかし、小生が読んでいるのはディックの原文でなく日本語訳なのでそのへんの細い描写は双方難しい関係であるが、話の内容は明らかにディックである。と、間違ってもJ.G.バラードの小説ではない。不条理、不正義の世界をそのまま押し通すストーリ展開のあのバラードの小説ではないと思いながら読んでいたら一行だけバラードについて書いてあった。
・登場人物は固有名詞が一切出てこない。日本人で出てきた固有名詞は近藤正彦と松田聖子である。最初は時代を感じさせない為にあえて時代を感じさせないように書いているのかと思っていたが。全くそうでなく、ドアーズが解散してから十数年とか、松田聖子云々など80年代半ばが舞台だとハッキリ解ってしまう、これは意図的なのか?(海外翻訳版はSEIKO MATSUDAなのか?:英語なら)
・意識の中で生きていく?それ、サイバーパンクやろ?ウィリアム・ギブソンの小説みたいやんけ・・・としかし「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」も80年代半ば時同じ時期に発表されているので、サーバーパンクは関係なし。ウィリアム・ギブソンがテレビ番組Xファイルの為に書いたストーリは、システムのなかことサイバー空間に意識を逃がす奴らの話だった。
・世界の終わりにでてくる図書館の女の子・・・記憶の母親が奏でるメロディーと主人公の男が現実世界で聴く音楽のメロディー・・・「ドアーズ」の「the END」ではないのね。この歌詞の方が重いし内容にあっている気もするんだが。でもこれ使ったら、映画「地獄の黙示録」のラストになってしまう。
・2つの世界(ストーリー)が同時に進む、やり方というか書き方としては斬新かと言えばそんな感じはしない。むしろバロウズ(ジャンキーのほう)が言っているように、文学の世界は映画や音楽に比べて何十年も遅れている。それはいまだに変わらない。かと言ってバロウズの手法カットアップは斬新過ぎる(今でも)。
・絶望的なラストで終わる。男は死に、女はいつもの日常に戻り、博士は悪気もないかの如く海外へ・・・結局主人公の男だけが死んで終わる。「ええっ?」って感じだが、芸術的な話(結末)である。南河内万歳一座の座長内藤氏が、ハッピーエンドで終わるのでなく、「ええっ?なんでこう終わるの?と問題提議して終わる」というギリシャ人の哲学家の芸術理論があると昔ラジオで言っていた、この理論はその後の小生の人生を大きく変えた。実際に南河内万歳一座のストーリーはハッピーエンドというよりかは・・・である。まさしくこの小説は前述の理論に近い。
・ハードボイルドの世界、幻想(意識)の世界・・・、ハードボイルの世界が(主)で、幻想(意識)の世界が(副)である。これが逆転したらどうであろう?
・ウィキペディアでちょっと調べたら、この小説を読んで人生観が変わったとかいう作家さんがいるとか。「お前、もの知らんのか?」と言いたくなる。


★★★★★★★★

読書会:世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド・・・メモ

・カフカ⇒安倍公房⇒村上春樹の流れ・・・南河内万歳一座の内藤氏も安倍公房をよく読んでいたらしい。明らかに安倍公房の影響を強く受けている。
・80年代のバブル経済の感覚が残っている。そういった感覚は小生にないが、80年代に既に社会人だった方やリアルタイムに本書を読んだ方はそう感じるのかもしれない。
・必要のない部分が多い。確かに、バラードに関する記述などは不要としか言えない。それが著者の魅力ではないのか?他の小説は解らんが。
・幻想(意識)の話は著者の初期短編がベースになっているらしいが、その小説は本として出版はされていない、月刊誌に掲載されてそれ以降は陽の目をみていないそうである。ミュージシャンで初期作品は気に入らないから販売差止めしたり自分で買い占めたりする人に近いな。
・村上春樹の小説には共通して出てくるコトバやセリフがあるらしい。残念なことに村上春樹氏の小説はこれ以上読まないので小生には関係ない・・・。次作の「ノルウェーの森」についてもどうでもいい、ビートルズ、ジョン・レノン云々などは糞食らえである。
・主人公の頭の中の回路図、よくわからない。小生も読みながら先を急いだ為、深く考えずに飛ばしたが、それはそれで問題が無いようにストーリーはできている。
・結局、地底人「やみくろ」はなんやったのか?そういった結論はでていない。むしろ主人公が所属する組織云々の話などはそのままで終わっている。
・村上春樹の小説は映画よりも進んいる、かといえば決してそうではないだろう。比較すること自体が間違いかも知れないが。この作品の映画化なんてのは2〜3時間でまとまる話ではない。このストーリーをベースに違った話し(テーマをすり替えたるするような)でいくという手法や、SWの様な三部作にぶち切りそれぞれに起床完結を付ける話にするしかないのでは?映画化しないのは作者が映画化を許可しないのか?だれも作りたがらないのかは不明。
・これは作者の自叙伝なのか?

★★★★★★★★

久しぶりにかなり長いといえる長編小説(上下二巻)を読んだが、確かにこの小説は凄い。前述の通りの芸術作品で、三島作品のように読者を裏切って終わる作品では無かった。よくこんな作品が書けたものだ。しかし、明らかに安倍公房の影響は強いと思う。

俺の読書人生で最初で最後の村上春樹氏の小説である。
最高の小説さえ読めばそれいいのだ・・・

2019年10月6日日曜日

悪の読書日記 ドアーズ ジョン・デンズモア(著)

2019年  10月  6日

地獄の季節はまだ続く・・・
「負(マイナス)の気分」でいると、暗黒の世界は勝手に自分のところへやってくるかの如く、偶然「見るだけ」のつもりで入った古本屋で『ドアーズ ジョン・デンズモア(著)』を見つけて即購入に至った。音楽関係の本は余程の事がないかぎり初版しか発行されない。見つけたら「買い」である。たとえ音楽雑誌のバックナンバーであってもである。ドアーズ関係の書籍こそ暗黒の世界への入り口である。
著者のジョン・デンズモアはドアーズのドラマーであった人で、となればおそらくこれが一番真実に近いドアーズのインサイドストーリであると予想する。他にも何冊かドアーズ関係の本が出ているが、ドアーズのメンバーが書いた本はおそらくコレだけだろう。ドアーズは好きなバンドの一つだが、あまり知識も無ければどちらかというと宿命の女というわれる女性、NICOがいつもライブでThe ENDを演奏していることと、遠藤ミチロウが熱狂的なドアーズのファンであったことが、ドアーズが好きな理由になっているも事実である。スマホには全アルバムを落としこんでいるが朝からドアーズを聴くと一日が終わってしまうので朝の通勤でドアーズを聴くことは避けている。
その割にはどうやって、あの四人が揃ったのかなどはあまり知らず。ジム・モリソンの凄まじき行動の過去の話題などが先行している感じがしてならなかった・・・そんな事もあってか、結局古本屋で見つけて迷うこと無くレジへ持って行った。
原題は『Riders on the Storm』である、日本では1991年に発売された本だがタイトルはナンセンスだな。ちなみに仕事でパニックになったら、頭の中で『ハートに火をつけて』が鳴っている。


話はドラマーであるジョン・デンズモアがどうやって音楽を始めたのかから始まるのだが、時代背景もあり厳格なカトリック教徒の母親に育てられたジョンは、幻覚剤LSDなんどやったりして、違った道を歩み始める・・・面白いのは60年代後期にジョンは瞑想教室で瞑想を習ったことが機会となった、これがドアーズに至るのである。LSDの代わりになればなんて気持ちも少しあったようであるが、60年代の後半のヒッピーとかなんちゃらの時代、既に瞑想はこの頃から世界最先端だったのかもしれない。

世のバンドが売れてライブの動員数が増えていくと、ヴォーカリストは精神的に厳しくなるという話を過去に聞いたことがある。何千人、時には数万人の観客の「気」を一人で受け止めているのであるから、精神的も可笑しくなるのも当たり前かもしれない。ドアーズのジム以外の三人は当時の音楽雑誌 (新聞社だったかも)にヴォーカリスト以外はひたすら演奏しているみたいに書かれたらしく、その事実を考えても、日を追う毎に益々熱狂していくファンの「気」を一人で受け止めていたのだろう。ドアーズ=シム・モリソンと思われるのがジムは非常に嫌だったらしく、ジム・モリソン&ドアーズとメディアで言われたら自ら訂正させたりするくらいバンドとしての意識は強かったようで、その反面他のメンバーには殆どそういったことを相談さえしなかったのだと思うが、可笑しくなっていく精神を酒やドラッグなどで紛らわしていたのだろう。
また、バンドが有名になればこれまで友達という関係で始めたバンドだったが、レコード会社や所属のマネージメントの関係で友達関係で無くなっていくのでマネージャーを介しての関係となることもおそらくジムのココロを正常に戻す機会とタイミングが減っていったのだろう・・・と勝手に想像する。

結局はドアーズの解散はジム・モリソンの死で現実的には終わるのだが、それ以前にジムの奇怪な行動とその後始末の対応にメンバーがついていけなくなるのである。そしてパリで休養中のジムが帰らぬ人となり、バンドは事実上解散同然になるのである。
ジョン・デンズモアは本書の冒頭で、もう少しジムとコミニュケーションを取るなりして、何とかする手立てがあればジムは死ななくてすんだんだろうと後悔をしている感じがする、死ぬ三週間前にシムから電話が掛かってきて次のアルバムも作ろうみたいな話をしていたことも書かれている。もし、パリで死ぬことが無ければドアーズは次の作品を作っていたかもしれない・・・・しかし、他の3人は乗り気では無かったのが事実。このときジョン・デンズモアは正直帰って来てほしくなかったみたいだった。

昔々、よくドアーズのジム・モリソンが生きていたら世界の音楽史はいまとは全く変わっていただろう・・・と友人と良く言ってたのだが、果たしてそうだっただろうか?といまこの本を読み終わって感じる。この4人でこそドアーズなのである・・・いくらフロントマンのジム・モリソンが素晴らしい詩人であっても、パフォーマーであっても、それを盛り上げる3人がいないと、ジムは只の酔っぱらいなのだ。ドアーズではない。もし生きていても多分、彼の謎の行動は誰も止められずバンドの分裂は避けられなかっただろう。バンドを解散して、一人のヴォーカリストになって上手くいくのは日本の音楽産業くらいしかありえないんじゃないの?と。それ以前に既に3人は前述の通りジム・モリソンを支える気力が完全に無くなっていた。彼が生きていたとしても、ドアーズは終わっていただろう・・・つまり、もし彼が生きていても音楽史にはあまり影響無かったような気がする。

結局、カリスマのヴォーカリストであるジム・モリソンが死んでしまってこそ、それが伝説的になり、より強く印象付けされてしまったのだろう。ジョン・デンズモアはジムに対してこう言っている、『・・・君の自滅的な生き方が賞賛されているんだ、君のヒーローたるポードレールやランボーに代表される19世紀フランスの廃主義がアメリカに上陸したのだ。 ああ、わが屍のなんと美しいことか。 僕にはいただけない。絶対に・・・』(本書より抜粋、訳:飛田野裕子氏)と。

週末はドアーズ記念日の如く、ドアーズを聴きながらこの本を読んだ。読んだあと、これまで聴いていた音とは別の音を感じるようになった。ドラム・・・太鼓の音、ギターの音、ジムの声、オルガンのソロ。やはり、ドアーズはこの4人でこそドアーズなんだろう。一人でも欠けるとそれは違うバンドなんだと、つくづく感じた。

地獄の季節はまだ続くのである・・・

2019年9月29日日曜日

悪の読書日記 空の気(くうのき) 近藤等則✕佐藤卓(著)

2019年 9月 29日

ここしばらく精神的に壊れそうな9ヶ月。そしていまそれがピークかもしれず、仕事で気を紛らわして生き。疲れたらサウナや銭湯を廻り汗をかき。脳ミソの滋養強壮にスマホで近藤等則の電気トランペットの音を聴くというような生活をしている気がする。果たしてこれから俺は何処へ行くのか?春先にすべきサボテンの植え替えを忘れ、来春まで待たなければいけないが来春まで生きているのかもどうかも怪しい・・・・と感じる9月末。



このブログで一番多く登場するのは著者は何故かミュージシャンの近藤等則氏である。何故かってよく考えたら人生で一番大きな影響を受けた人間だからである。そして文章で人を惹きつけるミュージシャンは出す音も面白い。文章が面白くないミュージシャンの本を出しているミュージシャンの音はつまらない、FxxK OFFだ!!
音とコトバを製造する脳ミソの部分は異なるのだが、何処かで繋がっているのか、コインの裏と表なのか・・・そんな事は俺は解らないし知らん。なんで人間が生きているかさえ解らないのだから。俺は科学者ではないし・・・よの中は解らないことが殆どなのだ。


90年代の初めだったか、半ばだったか・・・近藤等則氏は日本を離れてアムステルダムへ行ってしまった。そして、「地球を吹く」とか言ってだれもいない砂漠やヒマラヤの山奥や日本の海岸、海峡やアラスカの雪の平原のなかの大自然の客の居ない場所で電気トランペットを吹き始めた。どうしたことか・・・と思ったが。実は昔々、小生は高野山の大木に囲まれたあのお墓の石畳を歩いていて、こんな何百年も生きている大木にか囲まれた山の中で音楽が演奏できたら凄く気持ちがいいのでは?と思ったことがある、しかし、高野山は巨大な墓地で人生のこれまでの大先輩が眠るところ、こんなところで演奏するなんて論外、大バチあたりで高野山の僧侶に火あぶりにされる。しかし、自然のなかででの演奏っているのも「あり」なのでは?と思ったことが過去にあった。

『空と気』には、IMAバンドを一旦辞めて、どうしてアムステルダムへ行き、そして「地球を吹く」に至ったのかが語られている。IMAバンドを続けていれば収入は安定したが、近藤さんはそれを選択しなかったらしい。
この本が面白いのは、デザイナーの佐藤卓氏の語るデザインについての話である。どちらかと言うと正直なところ、近藤氏の話は過去に書籍や聴いた話や、ネットで流れているインタビューやSNSに掲載されている話で、どうしてアムステルダムへ行き、「地球を吹く」に至ったかと近藤家の夫婦喧嘩の話以外の殆どの話は既に少しは知っている話だったりする。つまり二十年以上前から言ってることが近藤氏はブレていないのである。既に近藤等則マニアの人はこの本では、ブレない精神の近藤等則に感動するしか無い!ということなのかなと。この本が最初の近藤等則の本である人は、それはラッキーということであろう。
で、その佐藤卓氏は「キシリトールガム」「おいしい牛乳」のパッケージをデザインされた方である。
その佐藤氏が言うには、「デザイン」という概念など昔々の日本にはそんな概念や考え方などは無かったらしい。明治時代にアホみたいになんでも輸入した一つが「デザイン」という概念のようで。元々よいデザインのものは「デザイン」なんて呼ばない。江戸時代までは「デザイン」として考えることは無かったそうである。
つまり、デザインが主役になるのでなく、「あいだをつなぐもの」で素晴らしいデザインはそもそも気づかれなくてもいいのだそうである。
そういえば二十年以上前、日々一緒に水泳の練習をしていたプロのクラシックギターリストの田頭雅法氏は僕に言ってくれてたのが、人が聴いて気持ちいいと感じてもらう音楽をしたいが、存在感がない・・・川で水が流れているけどそれが普通、あたりまえで誰も意識しないけど水の流れる音が気持ちがいいと感じるのと同じような音を出したい・・・と。
全く同じである!
「そこ」にある事に気づかない、気づかれない、存在が注意しないと解らないけど素晴らしい物それが「デザイン」であると佐藤卓氏は語る。
これだけでもこの本を読む価値はあったのである。二十数年前の小生の過去の記憶と経験が繋がるのである。

そして、近藤氏も佐藤氏もコンピュータで音を作る、線を引くという100%コンピュータに頼った製作があんまり宜しくないと。人が集まって演奏する事でほんの小さなズレができる感覚がとても気持ちがいいのだが、100%打ち込みで作るとそれが存在しないのでなんだかつまらない。佐藤氏に限っては「気持ち悪い」と・・・生まれた時から身近に携帯電話はある、街なかにコンビニはある。家にネットはあるという世代は既に型にハマっているのだと思う。それがなぜつまらないか、気持ち悪いかがその感覚が無い、ある程度色々なことを経験しないと感じないのであろう。
それに気がつくか付かないか?は一冊の良い本に巡りあうかあわないかの確率と同じくらいなのだろうか??

2019年9月16日月曜日

悪の読書日記 ワーカーズ・ダイジェスト 津村記久子(著)

2019年 9月 15日

今週はハッキリ言って働き過ぎなのである。先週は土曜日が出勤日で、翌日の日曜日も出勤して、今週は土曜日曜と出勤したので、どう考えても働き過ぎなのである。連続何日か?カウントするのもアホらしいというか、少々精神的に壊れてきているのでヤバイと思われているのかもしれない。仕事は好きか嫌いか?昔は嫌いだったが、いまは少し違うような気がする。というより、昔は勤務先の会社が嫌いで仕事は好きだった?いや反対か?そうでもないか?・・・働くことは嫌いじゃない。勤務先の会社もブラック企業じゃないから、休日に働いた分は休暇を頂くなり対応してもらってる。


『ワーカーズダイジェスト』を読まなければいけない(must状態)事に気がついたのは、今週の日曜か月曜であった。水曜日には噺家某SC氏が主催の恒例の読書会で、今回の課題本は『ワーカーズダイジェスト』なのである。噺家某SC氏の放った刺客がこの本なのである。水曜日は落語会と読書会・・・時間はあんまりなかった。


急いで読み始めたワーカーズダイジェスト。作者も初めてきく作者「津村記久子」さんで、どんな作家の方なのか、どんな本かも殆ど解らず。友人からはいい本で、友人は著者の大ファンだとか・・・それくらいしかこの本については知らず。
読み始めるとどうやらこれは大阪が舞台の話しではないか。同じ姓「佐藤」さん男女が仕事で大阪は梅田のホテルグランヴィアのロビーで待ち合わせて、向かって左の喫茶店で打ち合わせをする。コーヒーは高めだと。
実はその前の水曜日、とある会社の人から呼び出され、初めて合う方と同じホテルグランヴィアのロビーの前で待ち合わせ、そして左に曲がって喫茶店で打ち合わせをした。全く同じだ・・・違うのはこっちは男と男(俺)であるくらいか。

佐藤さん達は別々の職場で仕事をしていて、ホテルグランヴィアで初めて出会ってすぐに「おつかれさま〜って」別れて直後に地下のカレーのサンマルコで偶然合ったが。その後も二人が出くわすことはなく、この話は淡々と進んでいく・・・恋愛小説かと思ったが、二人がそのあとラーメン屋で偶然に合ったとかというエピソードはなく、並行した話が本当に淡々と進んでいくのである。たまたま男性の佐藤さんが女性の佐藤さんが文章を書いている本を見つけるが、佐藤さんに連絡を取ろうとかすることはぜす、そのまま話はまたしても淡々と進んでいく。

しかもやけに細いことばかり書いているのだ。
女性の佐藤さんはバズコックなんて聴いている・・・、嘘言うな、バズコックなんて誰が聴くんねん??!! バズコックなんて、Xレイスペックを聴いてる奴より少ないで!スミスかモリッシーくらいにしとけば良かったんや!!
男性の佐藤さんはモンティ・パイソンのDVDを持っている・・・、嘘言うな、日本のバラエティ番組が好きなやつはモンティ・パイソンなんて観ねーよ!!未来世紀ブラジルのDVDか12モンキーズにしとけば良かったんや!!
と、俺は変態だから「リアル感がない!」と一人突っ込みを入れながら読む。
話は描写が細い割に全体のスピードがやたら早い。男性佐藤さんの施工しているマンションは知らん間に完成しているし、気がつけばまた正月だったりと細い設定云々の描写とこの全体のスピード感のギャップが面白いというか気になる。前述の突っ込みの部分を差し引いてもこの感覚が面白いのだ。土地勘があるのでそれも幸いにして面白さがアップしているのだろうと思うのだが、何時になったらこの二人は再び出会うのか?と。
この本の大阪の地名などはトゲトゲしくも大阪です!!って感じが全く無いので東京の人でも、大阪の土地勘が無い人でも殆ど問題ないと思う。知らないより知っている方が面白いのは当たり前である。

ところでこの小説に出てくる『スパカツ』って本当にあるのだろうか、あればどこで食べれれるのだ?読書会に集まった十数人も噺家某SC氏も誰もネットで調べて来なかった・・・本当にあるのかどうか?誰も知らなかった、このインターネット全盛時代に。そして小生もまだ調べてない。

昔みた、香港のウォン・カーウェイ監督の映画に、こんな映画は無かったかな?2つの並行した話が淡々と進んでいく映画、タランティーノの初期作品なんてこんな感じだった、時間軸が無茶苦茶にしていて面白かったのを思い出す。
なんか、そんな映画を観ている感じが・・・香港では無いが、大阪の街で決して若いとは言えない男女の話が並行して最後まで進んでいく。
今、再度よく考えて解ったのだが、タイトルの通りワーカーズダイジェスト。仕事のこと、人間関係・・・どこの職場でもこんな事があるっていうのがダイジェスト。ものすごい時間の速い感覚の中でポンポンと出てくる。それが男性の佐藤さん、女性の佐藤さんの目で。
『仕事してますねん!!』と。だから恋愛よりも仕事の話が優先で、恋愛は脇役にしか過ぎないのかもしれない。

そして最後に二人は公演で偶然出くわす。再会するのである・・・

これからどうなったかって?
終わり方が花登筺脚本のドラマの終わり方みたいやんけ、大阪を舞台にした小説やからこうなるんか?

俺は来週も働く、バズコックは聴かないが、スリッツやXレイ・スペックは大好きである。


噺家某SC氏こと笑福亭智丸氏



2019年9月1日日曜日

悪の読書日記 教養としてのテクノロジー 伊藤穣一 AndreUhi(著)

2019年 8月 31日

昨年2018年3月に発売されて既に5万部以上読まれている「教養としてのテクノロジー」。「AI」「仮想通貨」「国家」「教育」「資本主義」「日本」などという視点で日本人に向けて書かれた新書である。「教育」のみ共著者のAndre Uhi氏によって書かれていて、他は全て伊藤 穣一氏によって書かれている。
改めて考えてみると、凄いテクノロジーの時代に我々は生きているのだと思う。シャープのザウルスは何処へ行った?のだ。アップルのニュートンは何処へいったのだ?3DOは何処へいったのだ?
ちなみに、冒頭から2020年のオリンピックに向けての伊東氏の期待の前書きから入るのだが、2019年8月、残念な事にこのまま行けばトライアスロン、オープンウオータースイムのレースは便器の中で開催されることは避けられない状況みたいである。


本書は一年以上前に書かれたテクノロジーに関する本なのだが、いま読んでもそれほどというか全く色褪せたり、時間の経過を感じないのは表面的な話ばかり書いているわけでなく、さらに深い部分や著者の経験に関する部分も交えて書かれているという処が大きく作用しているのではないかと思われる。また著者がテクノロジーの最先端を研究しているということもあるだろう。
但し、個人的にもっと突っ込んで欲しかったのは「仮想通貨」の部分である。「国家」「ブロックチェーン」「仮想通貨」となかなか興味深い話題で進んでいるのだが、昨今の「仮想通貨」が投資目的の「仮想通貨」という概念がほとんどで当初目指していた「サイバースペースは国家から独立」みたいな、脱国家的な「仮想通貨」の目的とはかなり変わってきているという点。「脱国家」と「通貨」・・・貨幣が現在どのようなルールで作られているかなど、さらにさらにこの点を掘り下げて欲しかったと・・・それこそが「教養」であり、パンク伊藤穣一(勝手に想像しています、すいません)では無いのだろうか?

「教養」という意味では「働くこと」の定義?意味?、「人間とは?」などとテクノロジーとは真逆の内容も多く書かれているが、実はテクノロジーとはコインの裏と表(ビットコインに裏と表はあるのか?)というような内容で、答えが出てこない問題を読者に提議しているところは非常に面白い。
また共著であるAndre Uhi氏の「教育」に関する部分も興味深く、読みながら「そんな教育してて社会にでたらどないすんねん?」と思ったが・・・何を「学び」とするのか、そして何を人生の「成功」とするかはひとそれぞれ、前述のとおり正確な答えがでる事ではない。但し、そういったことが理解されるには社会が変わらないといけないのは大前提だと思ったのだが社会は変わるのか?。しかし、Andre Uhi氏の大学まで受けた教育の内容が、今は殆ど覚えていないという話は個人的には大好きだ。
さらに「都市」に関する部分に関しても「歩ける距離」を大切にするという部分は共感する。
テクノロジーがもたらす技術的進歩とその裏、人間的な進歩に関しての問題提議の本としては、各章の流れも非常に良く構成されているとしかいえない。

しかし、『第7章「日本」はムーブメントを起こせるのか?』という章であるが、はっきり言って章のタイトルの内容は無理である!これは「日本式システム」を変えないとムーブメントなんて起こせないということを著者が一番知っており、2018年初頭に期待を込めて書かれたと感じるのだが悲しいことにそれは残念というしか言えないのではないだろうか。先日の参議院選挙でもそうであったように、投票率から視ても、誰も社会には興味が無い世の中だといって過言では無い。これほどまでに現政権に好き放題されているにも関わらず、それを変えようという動きは結果として現れていないと感じ、そして只今日本は「大安売り」で売られていき、政治家のご子息や外資系の企業だけが儲かるシステムに移っているのではないでしょうか?と疑問を抱える状態なんだが・・・。
伊東氏が期待している2020年のオリンピックは誰の為のオリンピックなのだろうか?と思う日々。本書の『起きようとしている「兆し」に気づくことが大事です。』という「兆し」を気づく人がこの国には残っているのだろうか?日本が大安売りされている事にさえ気づかないのに・・・SNSというテクノロジーででもそういった問題が発信されているのも事実なんだが。

もし、気づくとしたらそれはオリンピックのあと・・・「しまった」という事ではないのだろうか?
その「しまった」はあと戻りできないことにも気づくのだろう。

2019年8月26日月曜日

悪の読書日記 湯遊ワンダーランド まんしゅう きつこ (著)

 2019年 8月 25日
精神的不健康を解消する為に、このブログを始めたのだが、精神的不健康を解消のひとつで気がつけばサウナ活動も始めていた。
今回は『悪の読書日記』では初めての漫画である。漫画は本ではないとか何とか言われるが、そんな事はなく海外では漫画といえば正義と悪のキャラクターが戦う幼稚なストーリーと決めつけられている感じがしないではないのだが、日本で身の回りで売られている漫画の幅の広さは世界一では無いのだろうか?と思う。それが良いのか悪いのかは別として・・・。



本書は大枠のストーリーは無く、どちらかと言えばエッセイに近く日記とも言える。作者のサウナ通いに関するサウナ活動と、その周辺の日常生活を表現した内容の漫画である。殆どが実話というのが笑えるが、恐ろしい内容も多々ある。作者はアル中から脱出した女性漫画家。アル中が先か漫画家が先かと調べたら、有名な漫画家のアシスタントをしていた時期もあるそうだが、著者が作品を世に出した時期をとアル中の時期を考えると、アル中→漫画家だろう。この漫画の前作のタイトルは『アル中ワンダーランド』である。

そういえば、インスタで知ったオープンウオータースイマーはアル中から脱出すべく、オープンウオータースイミングを始めたそうである。俺の周りはアル中が多いのか、職場の隣の席のどうしようもない年上の馬鹿社員もアル中の様で日常手元が震えている‥‥小生もリアルとネットの世界の区別がついていない感じだが、アル中では無い。アルコールも、スモークも、ドラッグもやりません。


サウナはサウナ室(10分位)→水風呂(数分)→休憩を1サイクルとして、3サイクル程度を繰り返すのである。このサウナの世界に踏み入れた人がよくいうのは『水風呂が最高に気持ちいい』という事である。水風呂がサウナの醍醐味だそうである‥「そうである」とは何か他人事に聴こえるが。
確かにサウナの後の水風呂は最高である。最近ではよく『整いました!』という表現をするが、小生は水風呂のなかでカラダが溶けてしまうと言えば大げさ過ぎるが、水風呂の中でいつまでもいれそうな感じがしていい。『整いました!』というよりも何か脳ミソが最適化したような感じで水風呂の中にいつまでもいれそうな(実際には冷えてきてやばくなるのだが)、そんな感じが楽しいのである。
しかし、問題がこの水温で一般に18度以下といわれるのだが、サウナによっては15度とか、10度以下とか‥‥本書にも出てくるが、シングルとか(一桁)というらしい。流石に水温が低すぎて一分も入って居られないサウナもあるのでこの点は個人差で個人がどう楽しむかであろう。


ふとした事というか精神的不健康からの脱出というでサウナ活動を始めたのだが、週に二回程度サウナへ行く生活である(殆どがジムのサウナだが)。そしてふと何かで出会った『湯遊ワンダーランド』という不思議な漫画。はっきり言って絵は下手くそ。さらに前述の通り決まったストーリーはこの漫画にない、この絵でまともにストーリーがあったら絶対に読んでいない!逆にこの内容で絵が手塚治虫や石森章太郎みたいであれば全く面白くない。この絵であるからこの『湯遊ワンダーランド』
は絶妙な面白さで成り立つのである。しかし、絵でなくストーリーも無いこのアル中から脱出した著者の漫画は正直漫画では無いのである。単に日常を少しだけ脚色したって感じの絵日記と言ったほうが良いだろう。有名な週刊誌に連載していたので今回は話のネタに困ってこれか?とはっきり解るし、登場人物にもなっている編集者も漫画の内容の通り無茶苦茶なのである。その漫画家と編集者の苦悩も面白いのである、そして著者もどう見ても精神的不健康なのである‥‥それがこの漫画の魅力なのである。
例えば、実際に深く考え込んでいる顔があまりにも酷い為、散歩の途中で出会う老人に指摘されるエピソードも登場する。漫画というのも編集者と漫画家の共同作業的な過程で完成されていることがよく解るところも興味深い。

小生がサウナ活動に至った理由がもうひとつあり、有名なクリエイターによると、アメリカでは体内に蓄積さらた毒物を体外に排出する方法としてサウナが一番てっとり早くて効果的と言われているそうである。それがサウナ活動のきっかけの一つであるが、内蔵とくに腸が良くないと精神的に良くないらしく、腸の改善にも毒素を排出する事が有効的なのでサウナの効果は精神的不健康からの脱出には向いているらしい(鬱病からの脱出にも向いているという人もいるくらい)・・・。元アル中の著者とは精神的不健康に至る理由は小生とは異なるのだが、少しでもそれを改善したく著者も小生も日常、地球上のどこかのサウナで実際にサウナ活動をしているのだと思う。悩み事やサウナ活動を通じて一人の著者と多数の読者が悩みを共感する気は著者も読者もみじんも無いしはずだし、SNSで繋がってお互い傷を舐めあう糞なこともないのだが。
ただ・・・現状これではいかん!、と感じたらサウナなのである。
そして、そんな人間は自分だけでは無いはずである。

2019年8月17日土曜日

悪の読書日記 歯車vs丙午 疋田龍乃介(著)

2019年 8月 16日

昔々、高城剛が初めてW.S.バロウズの小説を読んだ時、俺って頭が悪いのか?と思ったと聞いたことががる。バロウズの小説はカットアップという技法を使っているので訳が解らなかったりする(特に初期の名作は、迷作ですね)。この詩集を読んだ時、「詩」ってどうやって読んだら良かったのだろう?と思い.Googleで『詩の読み方』と検索したのが正直事実である。なんせ、義務教育+高校3年間の国語の時間ほど嫌いな時間は無かった。日常まともに日時場会話が出来て、好きな本屋漫画を読んで暮らせるのに国語の時間とは意味が解らない、「作者はどう思ったでしょう?」というテストの問題も、「おまえ、作者じゃないくせいに、作者に確認もせず勝手に好きなこといいやがって!」と12年間思っていた。
詩集はこれまでパティ・スミス詩集とジム・モリソンの詩集くらいしか持っていない。英文⇒日本語へ変換される時点で著者+翻訳家の作品になるので、やはり英語だとダイレクトにコトバが頭に入らないという欠点がある。もう少し英語をまともに勉強すれば良かったのだが(パティ・スミスの詩集もジム・モリソンの詩集も原文が掲載されている)。
多分、この詩集のどれか一遍でも、高校の国語の教科書に掲載されることは無いと思う。こんな自由で摩訶不思議なコトバの世界を未来ある若者に教えて、本当に素晴らしい未来を手に入れたら国家として大問題である。



読み進めるうちに、実は頭の中は詩集のコトバの攻撃でガロに掲載されていた丸尾末広氏の漫画の世界が頭の中で確立されていくのである。なんか薄暗い見たらあかん世界の見てしまうような、覗くでなくバーンと見てしまう感覚。あの青林堂の丸尾氏の作品のダークな世界が広がっていく・・・漫画でなく「コトバ」のだけの表現だけで頭のなかがダークモードである。しかし著者はそんな世界を描くつもりで書いたわけでは全くない筈である、小生が丸尾末広氏の初期の作品が好きだからこうなるのだ。つまり、小生以外の人、丸尾末広氏を知らない人が読むと全く違った世界が頭の中に広がるの筈である。
他の人はこの詩集の「コトバ」でどんな世界を想像するんやろう?
コトバの世界なんて、読者がどう感じるかどんな世界を想像するかに正解はないのである。これを逆手に取られると政治の世界の過大解釈になって好き放題の悪徳政治になるのだが、同じコトバの世界であるのだが、コトバには恐ろしさもある。
また作者が読者に何かを求めるのか?何かを感じて欲しい!!そんな事は詩の世界では成り立たないのではないだろうか。

今は亡き、スターリンの遠藤ミチロウ氏のソロアルバムに「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」という曲がある(同タイトルで遠藤ミチロウ氏の詩集も出ている、持ってないけど)。なんだかその歌詞を読んでいる時の感覚にも似てくる。遠藤ミチロウ氏と著者には30歳以上の年齢差があるのだが、それは関係ないか?それよりあの曲もなんかダークモードのイメージなのである。スターリンのアルバムのジャケットを丸尾末広氏が描いているのもあるから、多分小生の頭の構造がやはりおかしいのか?単一思考なのか?
最近の丸尾末広氏の作品はなんか、パッとした景色というか青空の景色があって、ストーリーは昔と変わらないが絵がダークサイドではない感じがかなりするんだけど。そんなパッとした景色はいくらこの詩集を読んでも頭の中では広がることはなく、グチャグチャとなった豆腐や蕎麦やうんこが爆発してうごめいているのだ。小説じゃないのにそいった世界が広がる・・・。
FBでは何度か書いたのだが、著者は絶対にコトバのテロリストなんだと思う。

実は著者は関西では有名な若手落語家の一人、笑福亭智丸さんなのである。彼が高座で演じる大ボケの丁稚や小僧がなんとも言えず、てんしきの『珍念』などは格別で、創作落語の「桃太郎」の話の元ネタを教える子供の話、子供の姿は格別である。そんな彼が小生にとってこの詩集『歯車vs丙午』でコトバの世界で魅せるダーサイドは彼のダークな姿の一面にしか見えず。実はあいつ、智丸さんはダースベイダー卿ではないのか?と思わさざるをえず。高座で笑いながら「本名疋田龍乃介で詩人もやってまして、◯◯賞の選考にも残ってましたが・・・」と笑顔でいう彼の影が怖ろしい事にダースベーダー卿に見えてくるのである。実は繰り返し読めば読むほど・・・。
やっぱり智丸さんはコトバのテロリストなのである、
あああぁぁぁぁぁ、怖ろしい。

2019年8月14日水曜日

悪の読書日記  絹と明察 三島由紀夫(著)

2019年 8月 14日

よくもまあ三島由紀夫は戦後の工場のストライキの話をベースに、こんな小説を作り上げたものである(1954年の実際にあった近江絹糸争議の話しである)。
話は経営者の駒沢は個人敵利益の為に紡績工場を経営していたわけでは一切無かったが、今考えても当時としては相当従業員のプライベートへの関与はやり過ぎである。利益が経営者個人の為で無かったゆえに、そこに気が付かなかったのえあろう・・・・。若い従業員の手紙を寮母が勝手に開封する、外出は許可制など、軍需工場かよ?と戦後の時代にはこの勘違いというのになかなか経営者は気が付かなかったのだろうか?と、しかし気がついていたにせよ、当時の従業員は東北地方出身者などが多く、兎に角毎月給料が貰えれば・・・というような両親と親孝行の心で成り立っていたので暗黙の了解みたいなところがあり、クレームはたいしたことないと会社側も考えて適当にしていたのだと思う。それが高度成長を支えていたのは事実で、その後に起こる公害問題なんかは当時行政にかけあってもその工場のおかげで市がなりたっているので市民の訴えを退けていたお陰で状況が悪化したのも事実である。非常に良くない時代であった。



そんなあんまり良くない時代と実際に起こった近江絹糸のストライキ事件、ストライキを先導する若者と工場の経営者、哲学好きのオッサンの個人的利益追求の駆け引きをうまく混ぜあわせて小説にしている三島の手腕はなんとも言えない技術である。経営者は人間は苦労してなんぼ、だから若者は苦労したらええんや・・・という従業員の事を息子、娘の様に思ってやっていたことが結果的に裏目に。小説には一切書かれていないが、近江商人はやたら「金(カネ)」に細くセコいそうだ!。多分、経営者は私腹を肥やさなかったけれど従業員の給料は低く抑え、時間外労働は激しいがきっちりと時間外労働分はの給料は払わなかったのだろう。マルクスの資本論にもあるように時間外労働(この分の給料を払わない)こそが利益だ!という思想で爆走し、内部保留金は相当あってこの金で将来の設備増設などと考えていたのだと思う。残念ながらこの場合必要なの福利厚生なのだ!それが経営者として大きく抜けていたのだ。
その抜けた部分を利用されて結果的に・・・・経営者は自分の命さえ縮める。

どう考えても今の時代に読むと、そんな経営者おるんか?になるんだが。戦後十数年なんて、実はこういった企業は多かったんでは無いだろうか?この小説に出てくると駒沢という経営者は私腹の為に利益を追求はしていなかったが、私腹の為に利益を求める経営者が普通であろう。今なら私腹のために会社を経営しないのなら社会起業家だ。


舞台が彦根〜京都と琵琶湖周辺なので関西人には土地勘があるので実際に出てくる場所や神社仏閣など直ぐに想像出来たりする。また三島の書く言葉の美しい表現がまた興味深い。三島は文章を美しくコトバを書く事を優先する場合と、お手軽な面白さを優先する場合があり、この小説は間違いなく前者である。前者も後者も小説としては完全に三島由紀夫ワールドなので手を抜いたストーリーはこれまで読んだ記憶はなく、どれも100%全力三島ワールドに近いと思える。つまり読者層を考えてストーリーを難しく美しく表現するか、ポップに表現するかのバランスを上手く使い分けていた結果と言える。
毎回『お見事!』と読んで言ってしまう三島由紀夫ワールドであるが、今回もである。

実は極端に言えばこのストーリーは会社乗っ取り大作戦なのである。それは結果的にそうなったのか、そこまで計算されていた話なのかは小生の頭の中ではよく解らないが。多分、三島にしてはどっちでもいいところで、三島はこの話のなかでは全く違ったテーマを含めていたようである。
それが「父親」である。
ここからは人それぞれの想いがココロに巡るんであろう。またしてもやられた。

2019年8月12日月曜日

悪の読書日記  運をつかむ瞑想法 青木宏之(著)

 2019年  8月  12日

昼間から、動画サイトでThe CUREの何処かの国での完全ライブ動画を見ながら読書日記を書く。

この世でもっとも尊敬するミュージシャンの一人と言える近藤等則氏が昔々から実践している武術が『新体道』である。近藤氏の書籍やインタビューにはかなりの高確率で登場するのが『新体道』である。かのマイルスはボクシング、近藤等則は新体道、三島由紀夫は剣道にボディビル、ボクシングである。

そんな尊敬するミュージシャンがやってる武術なんて、やってみようとか興味を持つのが普通だが、興味はあるが武術なんて実は相当苦手である(高校時代の柔道なんて特に・・・)。そんな事を思っていたのは30年近く前からで、ここ数カ月人生色々あってさらに近藤等則IMAバンドが再結成したこともあり、精神的不健康からの脱出と併せて、ほぼ毎日近藤等則の奏でる電気ラッパの音階とヴァイブレーションを頻繁に聴いて感じているしだい・・・・。



そんななか古本で見つけたのが本書である。新体道の第一人者である青木宏之氏(著)『できるビジネスマンが実践している―運をつかむ瞑想法』。タイトルから言えば最近の本の様な感じだが、2004年発行の本である。この頃に瞑想の本を書いている事が凄いという感じであり、「できるビジネスマンが実践している」という(出版社が着けたと思われる)サブタイトルの一部も、2004年でこのタイトルは珍しかったのでは?と感じる。少し変えれば「できる外資系ビジネスマンが実践している―運をつかむ瞑想法』など、2019年の本屋に並ぶ本のタイトルに相当近くなる気がするし、相当売れそうな気もする。
著者も出版社もかなり時代を進んでいたのかと思わせる・・・青木宏之氏が瞑想の本を出版していたことさえ知らなかった。何冊か新体道の書籍はだされているとは聞いたことがあったが。

最近では瞑想といえば、Googleが採用して実践している事で世の瞑想に関する書籍の殆どにこの事が書かれている。マインドフルネスなんて言葉も当たり前だが本書には一切出てこない。しかし、全く時代を感じさせないのである(当たり前の話であるが)。そもそもマインドフルネスは瞑想だけの事ではないのだが・・・いつの間にか=(イコール、同じ定義)として捉える人も居られる感じだ。

これまで数冊瞑想やマインドフルネスに関する本を読んできたが、明らかにこの本は瞑想に関する敷居を素晴らしく低く設定して書かれているのが読んでいて解かる。当時の時代背景もあったのだと思うが解りやすく、瞑想に至った過程についての説明なども面白く、興味をひかれる。
特に瞑想中は心を「無」にしましょう、「空」にしましょう・・・とよく言われるのだが。実際に人間の脳は心を「無」にする事は簡単に出来ない仕組みなのである、その点をこの本は強く説明している。実は瞑想をする人で心を「空」に出来なくて、うまく行かないと感じる人が多いのだが、そういった人からみても良くできている瞑想の本であると思う。
なぜなら、青木氏は心を「空」にするのは結果であり、瞑想の目的は「空」にすることではないと書いている。まさにこれであったとやっと気がついた。

さらに武道家の書かれた瞑想だけあって「礼」にはじまり「礼」に終わるという瞑想も始めて読んだしだいである。しかもウォーミングアップまであるのである。この点は非常に面白い、瞑想というスタイルが出来た頃にウォーミングアップなんて発想や考えは無かったはずである。確かに10分以上同じ姿勢を続けたりするには正直ウォーミングアップは必須だと言える。

また、この本を読めば読むほど人間と自然の繋がりを強く感じる。近藤等則氏の奏でる音の根源はきっとここにあるんだろうと確認できる。近藤氏は自然の繋がりを求めてアラスカやヒマラヤ、中東の砂漠でラッパを吹いたりすのだろうと思う。誰もいない雪山や砂漠でラッパを吹くなんて、観客の居ない競技場での格闘家の自己満足な試合と同じではないかと思っていたのが正直なところ。(尊敬するがゆえに正直な気持ちであった)。しかし、この本でそれは相当違うと解った。

おそらく、この本の瞑想法はGoogleや外資系の企業では採用されない瞑想法だと思うが、もし今から瞑想を始めようと思うのであれば、世に出ているどの本よりも最初に読むにはふさわしいのではないだろうか。『きるビジネスマンが実践している』なんていうタイトルは不要である!!

正直小生も、瞑想のスタイルを変えてみようと実践中である。しかし、瞑想なんて正直、自己流でいいのではないかとも最近思い始めたのも事実である。

正解なんていうのが存在しないことも世の中には沢山ある・・・。


2019年8月3日土曜日

悪の読書日記 映画ブレードランナー ウィリアム・S. バロウズ(著) 

2019年 8月 3日

久しぶりに悪夢のような本である。良い意味で・・・ 
先日友人がSNSにてP.K.ディックの「電気羊はアンドロイドの夢を見るか?」とリドリー・スコット監督の映画「ブレード・ランナー」について書いていたので、この本を思い出して急遽天井裏のダンボールから本書バロウズの『映画ブレードランナー』を救出して読み始めた。だが本書は全くと言っていいくらいリドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」やディックの「電気羊は・・・」と全く関係ない。簡単にいえば、三菱系財閥グループと三菱鉛筆くらいの関係なのである。
タイトルに『映画』が付くのは、映画の原作なんかでもなく(前述のとおり)、小説なんだが映画みたいな小説というか、映画や音楽よりも文学は何十年も遅れていると発言していたバロウズの手法の一つの手法で書かれている(手法でもないが)。

著者自ら表紙に登場することは珍しいだろう。

昔々のこの本が発売された1990年に読んだ後、1回くらい読みなおしている記憶はあるが、多分20年以上は読んでいなかったはず。その20年の間に色々なバロウズの本を読んだのであるが、基本的にバロウズの長編は一冊まるまる読み返すことはまず無い。理由は簡単、非常に疲れるからである・・・極めて偶に”ほい”と一冊段ボール箱から手にとって数ページ読んでみたりするが、それで数ページ読めば十分なのである。長編を一冊読んでも全体を把握する事は相当難しく、最初から読んでも途中の部分を多少読んでもあまり変わらないのかもしれない。ストーリーはあるけど、ないんかもしれず。適当に読んでも良いのである。読んでいると別の本に書かれていた用語や登場人物が突然現れてくることも少なくなく、バロウズを楽しむには、質より量なのだと思う。
20年後位(70歳になったら)、再び読み直す時間があればと思い、古本屋に捨てずにおいてある。生きていたらの話しである・・・・、生きていたら。

今から30年くらい前に買った本だった。

『映画ブレードランナー』は一冊の本であるが、長編でなく・・・正直、短編小説を抜き出して一冊の本にしたような感じだが、短篇集には入れたくないという著者の想いがあったのか否、一冊として成り立つと考えたのかもしれず。それだったら三島由紀夫の短編小説のほとんどが一冊の本でも成り立つから大変な事になるなあああああと。

最初に読んだ時は、アメリカの健康保険制度もよく知らなかったし、製薬会社ってそんなに悪どいという事も知らなかったので、いま読むとなんだか昔読んだ薄っすらとした記憶以外の感情が湧き出てくる。
なんか読んでてゾクゾクと変な気になる、やはり疲れてるのか俺は?と思いながら読み進める。
しかも、なんかいま読んでいてリアル感があったりするんだが、現実はニューヨークで過去にとてつもない大規模な暴動は無かったし、いまも地下鉄も普通に運行している。リアル感はやはり人種差別や移民、製薬会社のやり方とかになるんだろう。バロウズが時代を先読みしてたのではなく、単に昔からアメリカが抱えていた問題なんだろうと思う。
つまり何十年経っても変わらないアメリカなんだ。どこかと同じ。むしろ悪化している、お互い。



多分、最初に読んだバロウズがこの本だったと思う。この次が『ワイルド・ボーイズ』を読んだんだったと記憶する。1990年代初頭、バロウズはまだ生きていたし、『ドラッグストアー・カウボーイ』なんていう薬屋を襲撃するジャンキーの若者を描いた映画にも出演していたりもした。
ある日、ネットを起動したらバロウズが死んだというニュースがやってきたのも覚えている。いま正確にいつバロウズが逝ってしまったのか記憶にないが…
この本が最初のバロウズで良かったと今になって想う。前述の通り短編みたいな小説であり、内容も解りやすい…解りにくいのが楽しいなら別だが、解りにくいのが最初の一冊としたらNGだろう。バロウズの解りにくいのが楽しいと思うひとは明らかにバロウズ・ジャンキーの人だ。
最初が肝心なのである。

前述の三島由紀夫氏がかつて、私をよく知らない方で、長編小説を読む時間のない人はまず短編の『憂国』を読んで欲しい…と言っていた。これが本人のいう三島テイストが満載しているそうである。
もし、バロウズを初めて読む人は『映画ブレードランナー』を個人的にはオススメする。
これでウィリアム.S.バロウズを挫折した人は、ウィリアム.S.バロウズを読まずに、別のもう一人のバロウズを読まれるといいだろう。

次にこの本を読むのは20年後なんだろうな。

2019年7月21日日曜日

悪の読書日記 2049 日本がEUに加盟する日 高城剛(著)

2019年 7月 21日

高城剛曰く、日本のメディアが変わらないと日本は変わらない・・・と数年前から言ってるが全く変わっていない。7月21日、今日は選挙の日である。こんな日、メディアは選挙のニュース、政治のニュースを牽制するかの如く、お笑い芸人のどうこうというニュースである。
世の中には、報道しなければいけないニュースが糞ほどあるが、あえてトップニュースがこれなのはここはどういう世界なのか?
さて、今日は参議院議員選挙の日である。
既に日本は終わっているのである・・・・多分。これを書いているのは午前中である、今日の深夜には日本は終わっているのか否、フランク・ザッパの言うとおり、国民が政治に参加するのは選挙しかないことを知らないのか?選挙に行かず、どうすのか?


高城剛の新刊、4月に発売されていたがやっと今、購入して読む・・・前作は『分断した世界 逆転するグローバリズムの行方』だった、実は二部作の様である。



これまでの世界はアメリカが世界の警察をやっていたが、財政難でトランプ大統領になって、アメリカが世界の警察やめます!世界中のアメリカの基地は撤退していきます、という政策。中国は遥かに日本を凌ぐIT大国、世界の工場でもあり、既に現金なんて使っていない街も出現している。日本でそんな現金の使えない商業ビルはあっても、街はない。しかも中国経済をささえているのは大量消費できる人口、バブル経済が崩壊しても大量消費で人が住んでいない街もそのまま・・・そしてインドはもはや中国を凌ぐ人。人、人・・・、文化面でもアメリカ映画のCG下請けから脱却して世界を制覇する日がやってくるのか?
これまで移民の力で経済を上昇気流に乗せていたドイツにも限りが見えてきた。同じように移民で何とかやっていこうとする日本の浅知恵、移民でなく奴隷としか思っていないんじゃないのか?と昨今のニュースや真面目な政見放送が頭の中でリンクする・・・
どう考えても日本には不幸なことばかり、しかも温暖化なんかじゃなくて、周期的な気候変動で地球は冷却方向へ・・・
これまでの歴史のなかで、気候変動と革命はシンクロしている。つまり気候変動によって農作物が取れなくなり食料不足の不満が一般市民の怒りは政治へというりのが現実のところ。
何年か前にもフィリピンの火山の噴火で冷夏が続きコメの収穫量が減り、急遽タイ米を日本は輸入したが、タイ米の国際価格がこの為に値上がりしてタイ米を購入して生活していたアフリカの人々にタイ米が流通されなかったという事実を思い出したので、気候変動というのは現実社会、とくに今の時代は一国の革命どころでは無いと実感する。


タイトルの日本がEUに加盟する?って、とんでもない話というか、嘘みたいな話であるが、英国がEU辞めますっていうのが成立しているし、今の日本を見ればもはや社会主義国となんら変わらない。こんな国に誰がしたのか?2049年のことなんて解らねーよ!!っていうのが正直なところではないのか。
と後半まで色々考えながら読みきったが、最後のHUMAN3.0はちょっとばかり凄い話というか、2049年どころの話ではないけど・・・・って感じも正直する。
しかし、問題なのは地球が今の人類の人口では維持出来ないという問題。これは全世界が協力して解決しなければいけない問題。
これから日本で生きていく、地球で生きていくうえに知っておかないといけない事が多いのだが、今の日本では報道されていないことが多いという事を忘れずにしたい。

さあ、選挙行ってくる。
日本は終わるのか?


2019年6月20日木曜日

悪の読書日記 ラッパ一本玉手箱 近藤等則(著)

2019年 6月 19日

人生のなかで三冊同じ本を買ったのは、これが最初で最後かも知れず。最初は90年代初頭‥‥そして、二十年以上前にアメリカへ渡ったガールフレンドへ一冊。そして二三年前に、ふとしたことから電子化(自炊)して読みたい時にいつでも読みたいと電子化用に一冊買ってPDFにしてクラウドに浮かんでいる。
尊敬するミュージシャンの一人、電気トランペット奏者の近藤等則『ラッパ一本玉手箱』は1990年に発売された本で、珍しく何度も読みなおしている本である。



1990年に発売された本書は80年代の末期に週刊朝日で約一年間連載された近藤等則のコトバを纏めたものである。時代は1989年バブル経済は崩壊、リクルート事件、天安門事件、子供を狙った猟奇殺人事件という時代の日常について近藤氏の金属バットで殴った感じのコトバが炸裂する内容と、近藤IMAバンドの活動、今日に至る近藤等則の自叙伝的な内容が散りばめられている…瀬戸内海は今治市で生まれた近藤氏がラッパを吹き始めたきっかけ、ニューヨークへ渡った話。
やはり興味深いのはIMAバンドの香港でのライブ、オーストリアでのライブ、東京でのレコーディング、ニューヨークでのトラックダウンなどの話‥‥80年代にこれ程海外でライブをやっていたのは日本ではやはりIMAバンドとラウドネス位だと改めて実感する。


読んでいて80年代と変わったところは、中国が世界第一の経済大国になった以外は日本政府の生き方も、経済以外はインターナショナルなノリがない中国政府もあまり変わっていない。
むしろ当時は日本が平成になったばかり、今考えれば平成の『平』は平和の『平』なんてよく言ったもんだと思わせる。今ではアメリカから中古の武器を言い値で買いまくる経済音痴貧国、政府は武器の購入先アメリカの顔色を伺って世界平和や核兵器廃絶を訴える事は全くやらないし、情報化社会とかなんだか知らんが『情』に報うことなくいまだに情報化社会だとか勘違いも甚だしい。テレビ番組はバラエティー番組ばかり、政府も馬鹿な政治家を選んだ国民も80年代より頭の中は正直劣化している。隣国の中国は武器さえ持たない市民を暴力で押さえつけて、先週も天安門事件を繰り返している。90年代は結局、人間精神復権の時代でなく1995年のウィンドウズ95登場で益々人間の精神は復権どころでなくなり見えない世界へ落ちていったと思う。
それがあるから今、自分はより人間精神的、肉体的な方向へ自分を動かそうとしているのではないだろうか。



しかし30年前と殆ど変わっていないと思われる時代を、今でも俺は生きているのではないだろうか‥‥‥と、この本『ラッパ一本玉手箱』を和歌山県は田辺市へ向かう長距離バスの中で久しぶりに読みながら考える。

また改めてIMAバンドの音源をいま真剣に聞くと、懐かしいという気持ちは無く、いまテレビから流れる音楽より遥かに強烈に感じるものがあり、古いという感じは全くない。IMAバンドはよくテレビに出ていた様だが、良くも悪くも80年代、90年代の初めの日本は音楽に関しては今より多様性があった様な気がする。
確かに当時は中高生に受ける音楽が大半だったが、音的に言えば幅があった様な…
気のせいか、記憶が消えているのか、昔はこうった、ああだったと爺いの戯言みたいなのはやめよう…


今年、何十年か振りに復活した近藤IMAバンドが今年のフジロックでライブをやるらしい。それだけでなく、フジロックの数日前に高円寺のライブハウスでライブのリハーサルを公開リハーサルとしてライブハウスで客を入れてやってしまおうというのだから興味津々である‥‥『ラッパ一本玉手箱』に明日は香港トムリー楽器店で12時間のリハーサル、とIMAバンドのリハーサルについて書かれている。
あの恐るべきサインプレーのリハーサルを公開するのだから観てみたいものだ、当時は12時間位のリハーサルの結果があの完璧なサインプレーだと思っていたのだが、真実は何処に?

2019年6月3日月曜日

悪の読書日記 世界のどこでも生きられる! 外籠もりのススメ 谷本真由美(著)


2019年 6月 3日
昔々、『ユダヤ人と日本人』という本があった(今でもある)。タイトル通り日本人とユダヤ人を比較してこうこうあれあれと書いた本だったが、作者はユダヤ人と思っていたが、実は日本人の作家が偽名を装いユダヤ人が書いたように書いていたらしい。十数年前、とあるおっさんがこの本を絶賛するようなメルマガを配信していたが、おっさんの職業は総理大臣だった。我が国の政治家たる職業の教養レベルの低さは前述の通りである。残念な事に、現政権の総理大臣には「教養」とかいて「おしよう」と発音するのではないかという危機感がある。



2014年 1月に発行された谷村氏のこの本『世界のどこでも生きられる』であるが、発売から5年経つがそれほど現時代と変わったことはなく、むしろ日本国内の状況が悪化していると言える。
我々は日本に住んでいるが、日本で放映されている低俗なお笑いバラエティー番組の見過ぎで、アホ以下になり、年金支給が80歳になっても暴動が怒らず、何万人規模のデモがあっても殆どのメディアで報道されていない事に気がついても知らん顔なのである。さらに著者のいう「日本に生まれてきただけで、宝くじに当たったのと同じ」ということに気づかず、その賞金も手付かずなのである。
著者の昨年の著書『世界でバカにされる日本人 今すぐ知っておきたい本当のこと』も併せて読むことで2冊の本以上の事実やこれからの生き方のヒントを知る事が出来るのでは無いだろうか。テレビや雑誌で「凄いやん日本って!」みたいな内容・・・。それは大東亜戦争での戦艦大和と同じ。当時の国内総生産GNPの約11%程をつぎ込んで作った戦艦で出撃したのは良いが、時代は既に戦艦で戦争する時代ではなく、目的地へ着く前にあっけなく連合軍の攻撃で沈没してしまった。
我々は、日本国内のことだけしか知らないのである。そして今でも国力は、底力は凄いと思い込んでいる・・・間違っていても。それは大東亜戦争の頃と変わっていないのでは無いだろうか?
実は海外で就職するなんて、無茶苦茶ハードルが高いという訳でもなくインターネットを駆使すれば、ある程度は何とかなる。それを知らない知ろうとしないだけ、日本に居ればなんとか…みたいな感じなんだろう。
『知ろうとする』ことは極めて重要である。さらに『行動』することは。
理由なんて何でもいい…これが本当に重要かもしれない。



冒頭に記載した『ユダヤ人と日本人』という偽装ユダヤ人の書いた書籍・・・、谷村氏の本は現時代において『他国の人々と日本人』というリアルな内容である。
仕事の生産性は、先進七カ国で最低。自殺者は世界第三位(一定の人口の内で自殺する人の割合を調べると)。以心伝心なんて魔術波に意味不明で怖ろしい。私生活が充実している人=いけてる奴・・・・日本は時代錯誤なんだ。

ここで考えさせられるのはやはり生産性。どうも小生の周りはこれが最悪。どうしていまだにデータ印にこだわるのか意味が解らん? 腹が立つから俺のデータ印のスタンプ、インク切れに近いけどそのまま使ってウスウスのデーター印を押してるけど、どこまでいけば社内でクレームが出るか楽しみという日常の生産性の低さから、役所の生産性の低さ・・・こっちもシステムのレベルの低さがまいっちまう。住民票のコピーなんて、スマホとコンビニを駆使すれば簡単だけどそれは役所仕事ではありえない。もはや海外では現金が扱われない街さえ出現しているのである。役所は元号を基準にしてるとこが既に生産性低いでしょ。これでシステムの修正や改造で費用が掛かるのです。
そして『以心伝心』…これだけ言えば全てが解るだろう…解るわけないわな。


既にヤバい時代に突入している事に気が付かなければこの国も、日本の企業にも未来はない。政府がやってる『クールジャパン』なんて、外国人からみれば全く意味不明だろ?日本に住んでる小生からみても恥ずかしいとしか言えない。小生から言えば『Hentai』とどう違う?同じやろ!と言いたくなる。
一人一人が自覚しないと、悪くなるばかり。自覚だけでなく考えて考えて自分を変えないといけない。

『クールジャパン』とかいう意味不明な政府主体のお間抜け無駄な税金投入制作時代以前。80年代に海外で自力で活動していたラウドネスとか近藤等則IMAバンドや、スクリーミング・マッド・ジョージとかを、本当の『クール・ジャパン』て云うんだろう。

20歳を過ぎれば、一年間は日本をでて海外で暮らさなければいけないという家訓で、アメリカに渡ったスクリーミング・マッド・ジョージ。彼の実家の家訓こそが現在の日本を救うルールなのかもしれない。


2019年5月29日水曜日

悪の読書日記 事象そのものへ! 池田晶子(著)

2019年 5月 29日

やっとのこと池田晶子『事象そのものへ』を読み終えた。古本屋の店頭の木箱にて百円並べてで売られていた本ながら、これほど読みごたえがあると百円しか払っていない事に後ろめたさがあるが、古本屋はただ同然で買い取ったからいいのかと思い。会ったことのないと思われる新品での本の購入者にも申し訳ない、へへへ・・・と思ってみたが、肝心のこの本を書いた今は亡き著者はあの世でどう思っているのか?と考えてみると、あの世なんてあるんか?となる。
というのがあり著者の主張であり、あんたあの世行ったことあるんか?、誰も行ってきて帰ってきたことないやろ?と言うのよう内容を著者が常日頃書はよく書いていたのだから、著者には失礼かもしれないが100円という価格ながら素晴らしい本に巡り合った。



50才にも届かない歳でこの世を腎臓癌で去った著者は死ぬ寸前本当に恐怖を感じなかったのか?自分がコトバにした想いは本当に自分の本当のココロからの本心だったけど最後まで貫いたのだろうか?本人に聴くにも既に他界し死後の世界の存在なんかワケわからんのに確かめられず。そんなことを考えるのが失礼だなとここまで書いて申し訳ない気持ちになった、やっぱり俺がおかしい・・・最近、自分の死について考える事が多く、やたらこんな事が気になる。

ただ、著者の数々の書籍から感じとれるコトバの重さから、池田晶子は死ぬことは遂に自分のこれまでのコトバで表現し確立した世界を確めてやるという気持ちを持ってこの世を去ったと思うのである。著者はそんな方なんだと思っている。


難しいことばかり書いてある本なのだが、時折好きな言葉が突然現れる・・・
『詩人とは、ことばと宇宙が直結していることを本能的に察知してる者をいう・・・』
『意識でありながら歴史であること、普遍でありながら個別であること、これは私たちの人生のまぎれも無い事実である・・・』
しかし、殆どが理解するには一苦労する。

元格闘家の須藤元気氏は誰か忘れたが有名な哲学者の本を常に鞄に入れているらしい、精神科医の名越先生は道元の難しい本を鞄に入れているらしい、小生もこの池田晶子『事象そのものへ!』をいつも鞄に入れておきたい、なぜなら前述のとおり解らないこと知らない事がいっぱいだからである。
解らないこと、知らないことを知りたい、考えたいのである。
気分がいつもよりおかしくなったら、いや普通以上になったら鞄からこの本を取り出し読んで、考えて考えて考えたい。
問題はハードカバーの単行本なので重いのである。

この本の最後の章『禅についての禅的考察』の最後にこうかかれている、
神や宇宙や始原について考えるのは宗教だけではない。何ということもなく日々を暮らしてゆく人々が、ふと「なぜ」と問えば、それは既に、神と宇宙と始原の問題だ。生まれてきた理由も、死ななければならない理由も、生きてゆかなければならない理由も、わからない。そんな問いを問うてしまう理由もわからない。これらの「なぜ」を「神」に答えるのが宗教であり、答えず問い続けるのが哲学であり、そして問いも答えずもせずに、とぼけてそのまま生きていくのが禅というものなのだ。

いくら読んで考えても答えはないのだ、考え続けて苦しくなったらとぼけて、また考えるだけなのだ。
それが死ぬまで続くのである。

2019年5月20日月曜日

悪の読書日記 あたりまえのことばかり 池田晶子(著)

2019年 5月 21日

ソクラテスは、正義のために死刑になることに自分の主張を覆さなかったのではなく、死刑…『死』については解らなかった、『死』とはなにか?恐れべきものなのか知らない。知らないことを知ってるようなものであるかのように恐れるのは正しいことではない・・・



先日より自分のSNSで何度か死について書いたことがある。
死なれた方の人生が短い人生だったのか、長い人生だったのか、それを言えるのは死んだ本人だけしかなく、その答えを述べるべき本人はすでに存在しないのである・・・と。
そんな事を書いていた矢先、元スターリンの遠藤ミチロウ氏が4月に他界していた事が、5月1日なって公表された・・・・彼の人生が長いものであったのかどうか、まだまだやる事があった短い人生だったのかは前述の通り、本人しか解らない。我々が言えるのは彼の記憶からみての個人的見解でしかない。
本書の『生きているとはどういうことか』、『死ぬのは不幸なことなのか』、『他者の死はなぜかなしいか』を何度読みなおしても、死についての自分の答えは見つからない。見つかる訳はないのである・・・読めば読むほど混乱するばかり、「これはちょっと違うのでは?」と思ったりもするのだが、とにかく言えることはただひとつ、死んだらどうなるのか誰も解らないのである。
解らない事に上手くぴったりと嵌り込んだ宗教というのは、悪く言えば凄いビジネスなのかも知れず。『死』とは肉体が滅んだこととなっているが、それ以外は何処へいくのだろうか?と。
 
そんな日、ネットの動画サイトを観て知ったのだが、死刑囚の死刑執行は、死刑当日の朝9時に死刑囚に伝えられるらしい。つまり、今日あなたは死刑執行されるのですよ!と言われるのと同じである。人の命を奪った死刑囚だが(おそらくというか多分)、死刑が執行されるのは突然である・・・いつ死ぬのか毎日待っているような気がする。犯罪を犯したときは悪人でも、何年も刑務所の独房にいると善人に変わっているかもしれず。
いまは善人となった人を殺すのはよくないというのは死刑反対論の理由の一部であると思う。しかし、過去に大きな罪を犯したのだから死刑になるのは当然であるというのは死刑を肯定する人の意見の理由の一部だろうと予想する。死刑を執行されるより、執行される日を待っている日々の方が残酷な気もするが、それはそれなりの罪を犯したから当然であるという意見もあるだろう。
死刑執行が決まったあと、お寺の関係者というか、それなりの方が来て死刑囚を説得して心を落ちつかせるそうだが、アメリカのドラマで死刑執行前に牧師さんがやってくるのと同じようだ。果たしてどんな事をいうのだろうか?どんな話をするのだろう? 悪い言い方をすれば、死刑囚は大きな罪を犯しておきながら、死の恐怖を和らげるかの如く ・・・これでは死に勝ちかもしれず。

池田晶子曰く、「死」とは「死」というコトバだけでしか存在していないという。死んだあとの世界、その世界がるのかどうかさえ解らず、行って帰ってきた人さえいないのである。肉体は消えたが本人は何処へいったのか?

亡くなった方に会えない悲しさ、記憶の中でしか会えない悲しさ・・・それが死ぬという悲しさなのか。その逆の悲しさもあるだろう。それは恐怖なのかもしれない・・・

子供の頃、幼稚園くらいの頃だった。死んだらどうなるのか夜中に一人考えて怖くなって泣いた事がある。
来月50歳になるが、いまでも死んだらどうなるのか、解らない。
つまり、死ぬまで解らないのである。死んでみなくては解らないのである。

2019年5月11日土曜日

悪の読書日記 クマのプー A.A.ミルン(著)

2019年 5月 12日

先日の「図書室の落語会」、第二部の読書会のテーマはA.A.ミルン(著)『クマのプーさん』であった。クマのプーさんと言えば、元ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが、ミルンの自宅を購入していたという位しか知識は無い。


「なんでプーさんやねん?」と思い、開催日の当日朝にやっと読み終えたという本であったが、やっとではなく2時間もあれば十分読める本であった。しかし、いままで『クマのプーさん』なんぞ読んだ事がなく、読んでみると荒唐無稽な話に驚くばかりである。
登場人物は「クマのプーさん」とピンクの子豚だけであとは悪徳ディスニーが勝手に作ったキャラかと思っていたが、実際にプーさん、子豚、ロバ、虎・・・・云々のキャラクターは原作に登場しているのであった。しかも驚くのは、プーさんは熊でなく、熊のぬいぐるみなのである、さらに他のキャラほとんどがぬいぐるみなのであること。
そして話にはクリストファー・ロビンという人間の子供がでてくる。

読めば読むほど、クマのプーさんが解らない。『アホやね〜ん!』と自ら自分の事をおつむの弱いくまやね~んと言いながら、趣味は詩を書くことであると。詩を書くプーさん『教養あるやん』。いったいあんたはなにもんやねん?と思わせる行動の数々・・・好きなのものは『はちみつ』と食べることに掛けては最優先で他の大事な要件さえも忘れてしまう・・・・そんなんでええんか?あんた?と思っても、そこはメルヘンの世界というか架空の世界。
読みながら子供が自分の部屋で一人、熊やうさぎや子豚のぬいぐるみを並べて遊びながら、話を思いつくまま一人で人形遊びに熱中している様子が頭のなかで浮かんでくる、それをこっそり覗き見している父親で作者のミルンがこそこそとメモ書きをしている様子も・・そしてお母さんが「ごはんですよ〜!!クリストファー!!」とクリストファー・ロビンを呼び出すので話はプッツリとそこで終わる、あとは父親ミルンが話を適当に終わらせる、みたいな・・・そんな光景が頭の中で走るのである。それがクマのプーさんの土台なんでは?と。

結局、読み終えると、ほのぼのとした気持ちだけが残る。

この本が出版されたのは1920年代の英国、時に第一次世界大戦で疲れ果てた英国人の方々がこれを読んで同じ気持ちになったようで、爆発的ヒットに至ったといのも納得できる。


そして続編『プー通りの家』も早々に購入して一気読みである。


ようやく虎のキャラクター『ティガ』が登場したり、前巻のエピソードがこに登場したりと、クリストファー・ロビンと動物のぬいぐるみたちのお話は収束していく。
僕が一番好きなことは『なんにもしないこと』・・・とプーに伝えるクリストファー・ロビン。
そして『なんにもしないこと』が出来なくなのるので、これで終わりにしようと、クリストファー・ロビンとプーさんは別れるのである。これである『なんにもしないこと』、そんな事を永遠に続けられるのは、生まれながらの大富豪の末裔か、霞を喰べて暮らす仙人でしかない。本当なら、みんなほのぼのと暮らせばいいのであるが、現実的にそんな事はありえない。そんなことは解っているのだが、ミルンは解りきったことをあえて言っているのだろうか…

既に作者がこの世を去って何十年、クマのプーさんをベースにしたビジネス書や研究本が相当発売されているが(日本だけなのかどうか不明)、作者が居ない今となっては作者がこの本を書いた想いは解らず、何を書いても自由だが果たしてそれは作者ミルンの思っていた世界なのかどうか?。

結局、『なんにもしないこと』の大事さが心に突き刺さるも、ほのぼのとした気持ちがそれを上回るのである。

2019年5月6日月曜日

悪の読書日記 哲学入門 三浦つとむ(著)

2019年 5月 5日

今年のゴールデンウィークは久しぶりに休んだ気がする、それは色々な意味でである。
自宅の書斎には積ん読(未読本のストック)が大量に準備されている、近頃はアマゾンKINDLEの中にでさえ積ん読(未読本)が増えてきた傾向にあるのも事実である。ゴールデンウィークはとりあえずご存知の通り、読みまくりの一週間であったが、主にマインドフルネスの本や小説が殆どで折角の一週間が読んだけどあんまり思考する事に力を注がなかったのではないか?と今更後悔してしまった、今日は5月5日であるにも関わらず・・・。で、積んどくから一冊の本を抜いてみた『哲学入門』三浦つとむ(著)、どうやら新品である。実は購入した記憶があるのだが、何をきっかけに購入に至ったたのか全く記憶にない。佐藤優氏の本で推奨されていたのかどうか?佐藤氏の本をひっくり返す事が面倒くさいし、AMAZONが奨めたかもしれないので、とりあえず読み始めることにした。



本書は戦後(1948年)に出版された本の復刻版であるが、発行は1975年、本書は1998年第6刷:累計12000部と記載されているので再発分だけで約20年間に12000刷というのは少ない気もすると考えるが、この種類の本ではどうなのだろう?
出版された時代が時代だけに、内容は興味深い、大東亜戦争後の裁判で裁かれた戦犯に関して相当批判的であり、さらに過去の哲学者が大東亜戦争に加担したことをかなり批判している。

しかし、その批判が論理的なのである・・・
哲学には二種類存在する。「科学的な哲学」そして「神がかりな哲学」。前者は唯物論で後者は観念論であると、過去の哲学者は大東亜戦争で、神がかりな哲学を悪用して国民を戦争に巻き込んだ事に相当怒りがあるようだ、そのうちの一人の哲学者に至っては昨年、佐藤優氏の哲学に関する本によく書かれており、哲学はマインドコントロールに悪用出来ると佐藤氏が警告していれう哲学者であり、一昨年佐藤氏は『学生を戦地へ送るには: 「悪魔の京大講義」を読む』という本も出されている。
確かに、神がかりな哲学は悪用すれば、マインドコントロールに使えるので、この延長で三浦氏は宗教団体の関係者への批判もエピソードとして書かれている。

しかし、そういった部分を仮に、仮にである。削除したとしてもこの本は『哲学入門』というタイトルから見れば、入門書としては非常に良く出来ている。
義経と弁慶はどっちが偉い?。裸の王様、吾輩は猫であるは、嘘をついて本当の事を教えている。落語の『一つ目の国』をもとに技術や科学が発達するという事はどういうことか。実に分かりやすく解説している。
弁証法については、ヘーゲルの大論理学からの定義をそのまま引用しながら、『・・・事実を正しくとらえてはいますが、それは一面の真理だけであって、全く反対の、対立した規定で補われてはじめて本当の本当の正しい規定である』、『対立した規定がその統一においてほんとうの真理であり、これが弁証法的な考え方なのです』・・・と、自ら解説しながら、前述の牛若丸と弁慶のエピソードも使って説明しています。
併せてレーニンのノートからも引用をしていますが、レーニンは書籍を持って移動できなかったので、本を読んで学んだことで大事なことはノートに書いて持ち歩きしていたということを最近何かの本で読んだのですが、そのノートのことだと思います。
また、マルクス=エンゲルスのエピソード等も引用しているので、それらから考えても本書は入門書と適していると思います。しかしマルクス主義を一押しし過ぎているように思いますが、その点は少し距離を置いて読むほうがいいのかもしれません。既にソ連は崩壊して、中国もご都合主義に移行し、既に世界的に資本主義は行き詰まって貧富の差が開くばかりの現実問題が大きな問題になってきています。

つまり、そんな時代だから哲学が必要なのだと思います、神がかりでない哲学が・・・。

2019年5月5日日曜日

悪の読書日記 地図にない町 フィリップ.K.ディック(著)

2019年 5月 5日

P.K.ディックの小説、短編小説を読むのは久しぶりである。数ヶ月前に「高い城の男」という長編小説を読んで以来のP.K.ディックの作品であるが短編はいつ読んだのか記憶がない。所有するディックの短編小説は多分、アーノルド・シュワレツネッガーが出演した鬼才バンホーベン監督の「トータルルコール」が公開された前後に買った短篇集ではなかろうか(しかし、表紙はHRギーガのなんでか角川文庫のハズ)。ディックといえば前述の通りハリウッド製作のSF映画の原作にされる作品が数多く、もし生きていたら大金持ちになっていたのだろうと思う日々で、多分ハリウッドなんどは原作に困ったらP.K.ディックを読め!みたいね風潮や傾向があるのだろうと勝手に想像している。なんせ読むきっかけが.AMZONビデオで配信しているP.K.ディック原作の映像ストーリー「エレクトリック・ドリーム(1話完結全11話)」を観てからである。おそらくAMZONはこれを観たからと言ってディックの作品がバカ売れして、アマゾンの売上に貢献するなんてなことは全くといって考えていないはずだ。もしこんな事を考える発想があるのは日本企業くらいだろう・・・。
前述の「高い城の男」はAMZON・プライムビデオで映像化(連続ドラマ化)されている。



今回読んだ『地図にない町』は日本語版で発行されたのが昭和51年、今回購入したのは昭和62年の10刷版であり、平成とかいう時代のさらに前である。おそろく過去に相当売れた本であると思える。SFファンだけでなく、映画「ブレードランナー」の原作者の短篇集というふれこみで当時早川書房が宣伝活動をしたかもしれない。兎に角、当時はP.K.ディックの短篇集や長編が早川書房から相当発売されている。確かにSF小説の老舗といえば早川書房であるのは間違いのない事実である。

前述のAMZONビデオの「地図にない町」などを観て、再びP.K.ディックの本を読みたくなり古本で探した短篇集が本書である、タイトルの「地図にない町」以外に「エレクトリック・ドリーム」で観た「ありえざる星」が収録されている事で、1冊で2本の原作が読めるというお得感だけで本書を選んだわけである。はっきり言えば、読みたかった2本の短編以外に、流石のP.K.ディック、あと50年分のハリウッドのSF映画の原作があるのでは?と思うくらいまだまだ映像化P.K.されていない作品があると感心し、短篇集「地図になち町」は充実した一冊である。

書かれた頃の時代背景もあり、やはりP.K.ディックの作品はアメリカとソ連が核戦争した後の設定などが多いのは事実だ。本短篇集に収録された「クッキーおばさん」の様な怪談ちっくな話もこんな話も作ってしまうのかと感動。「おもちゃの戦争」は多分、日本の某有名な漫画の中で使われた元ネタであると想像できる。「森の中の笛吹」は実に個人的に興味深く、落語にアレンジ出来るような感じがするのだが、落語にしては面白い笑える部分が無い・・・と言えるか。などと想像力を掻き立てられる。

P.K.ディックの小説にアメリカとソ連の核戦争後の設定が多い理由はよくわからないし、P.K.ディックが平和主義者だったのかどうかもよくわからない。亡くなられたのは1980年代初頭、まだアメリカもソ連もピリピリしていた時代。ただ知っていいるのはP.K.ディックがドラック・ジャンキーだったこと、特に昔々に読んだ長編「ヴァリス」にはその影響が強くでている。

これ以上P.K.ディックの小説を読んで、読み直してディックの世界を深めたいのであるが、部屋の積毒(読)を解消しなければならない事を忘れてはいけない。こっちは読書ジャンキーなのである。

2019年5月4日土曜日

悪の読書日記 メタル脳 中野信子(著)

2019年 5月 4日

今回は『メタル脳 天才は残酷な音楽を好む』 中野信子(著)である。先日、音楽を始めた経緯についてこのブログで少し触れたが、メタルも聴くのである。生まれも育ちも大阪、関西人はメタルが好きなのです、多分。いや一部の方々だけだと思うのだが。
読書と並ぶ人生の大事な行動、ライフワークにオープンウオータースイミングというのをやっているのだが、このレース会場にくる人のほとんどが、これまで参加したレースで入手した参加賞のTシャツを着ていたり、学生は所属大学のTシャツを着たりされていますが。昨年とあるレースでいつもの如くアイアンメイデンのTシャツを着てあるいていると、初めて「アイアンメイデン好きなんですか?」と見知らぬ人に声を掛けられたのですが、その方は「ジューダス」のTシャツを着ていた・・・。



『メタル脳』の著者、中野信子氏は有名な方らしくテレビ等にもよく出演されているらしい。また、著書もかなり多数発表されている方であると、読み終わってアマゾンで検索したら解ったしだい。テレビは殆ど観ない(海外ドラマのみ)ので全く知らなかった。
よく欲求不満最高値更新で音楽を聴きまくって現実から逃避したり、メタルに限らず音楽でストレスを解消する人が多い世の中だが、単にストレス解消にはメタルです。アイアンメイデンの最近のライブ盤はギターが3人なので、右、左、中央とギターの音をヘッドホンで聴き分けて聴くと頭にいいですとか、アイアンメイデンは他人に優しいチャリティー活動が好きとか・・・そんな解説を集めて「やっぱりメタルよね?」という本ではなく。著者のこれまでの経験と併せて出処の明確な学術論文をベースに、「なぜメタルなのか?」を解説されている(巻末に論文の掲載サイトも明記されている)のが当たり前だが凄い。例えば、数年前に話題になったモーツァルト療法は嘘だったそうである。

冒頭でも少し書いたが、前回このブログで小生は昔々、インプロビゼイションいわゆる即興演奏をしてたと書いてたくせにメタルか?と思われるかもしれないが、音楽のきっかけはパンクだったりと…書いていた通り、そこにはご承知の通り重なる部分が多いのも事実で、馬鹿テクのハードコアはいつしか、パンクでもなくメタルでもなくいいあんばいになるのは日本もイギリスも同じような気がする。
また、自宅でギターの練習をするときは、殆どがメタルの曲をコピーしてみることにしている。昔々より他人の曲は人前で弾かないが、自宅では練習として他人様の曲で練習したり、数値を音にすることで脳ミソを鍛えられるという研究結果があるということでいまも脳ミソの活性化ということでギターの練習はやっていると、やるなら難易度の高いメタルの曲で練習する様にしている。

本書を読んでいて、色々なメタル好きの考え方など、あっこれそうなんよね〜っと自分自身で思うところと、同僚のメタラーも本書に書いてある内容と同じ行動、同じ性格であるところを見ると、科学的に我々はメタル脳なのであろうと簡単に判断できてしまう。

メタル好きの興味深いところは、「偽メタル」というような作為的に作られたのが嫌いな為、世の中の胡散臭い奴を容易に判断できてしまう。最新アルバムで歌詞の内容や音が大幅に変化すると失望だけでなく、裏切られたと思ってしまう。さらに自分たちの仲間以外の存在を攻撃してしまう恐れもある。この点はメタル好きに限らず、アメリカ西海岸のパンク、ストレートエッジ(XXX)などは、自分達の思想以外の人々や、ちょっと横道にそれてしまった仲間を暴力的にバッシングする傾向があるのと同じだと考えれる。やはりパンクとメタルは通じるところがあるのか…と、思いきや、著者はメタルは非社会性、パンクは反社会性だと、確かにそれは言えるかもしれない。

非常に面白く読まさせて頂いた。よくある巻末にアルバムガイドみたいな、このアルバムが良い…みたいなページが無いところが、著者の思い入れを感じる。
しかし、この先を書いて頂きたかったと思う。この状態ではなんか、正しく脳を鍛える本(脳トレじゃないですよ!)とあまり変わらない気がする。知りたい、読みたいのはさらにその先なのである。

また、バンド紹介でナパーム・デスを紹介されていたが、メタルが日本的であるという内容を書くなら、初期のナパーム・デスのヴォーカルスタイルは日本のバンドG.I.S.M.のセカンドアルバムに影響を受けてること。また大阪のSOBというバンドと親交が深かったことも書いてくれた方がコミュニティ、オタク的であるという話が濃くなった気もするのだが。
ここまでくると懐かしき『へぇ~』になるのだが、ナパーム・デスの世界最短の曲は『へぇ~』で紹介されていたのも事実である。