2019年12月31日火曜日

悪の読書日記  君自身に還れ 池田晶子✕大峰顕(著)

2019年 12月 30日

このブログへアップしようとして2回読んでみた。というか、書物は複数回読んでこそ自分の身のためになるというが、どう為になるのか?
それは人それぞれ違うことであり、HOW TO本を殆ど読まなくなり、いわゆる「考える」本へ移行できたとそれによって得たことは自分の生き方が全く変ったという事で本を読むことの返礼品は現物や金額に換算できないもので誰にも盗み出せない自分自身の一部になったのではないかと思う。



『君自身の還れ〜知と信を巡る対話』大峰顕✕池田晶子(著)。仏教vs哲学の対談かと思って古書にて購入した書籍であるが、全く違った。哲学・池田vs哲学+仏教ハイブリット・大峰の対談である。本書後半の池田氏の大峰氏への突っ込みはお互い笑いながらの会話ながら、直球勝負の池田氏は流石である。約12年以上前に出版された本で、池田晶子は45歳であり、時代はまだ携帯電話が主流の時代である。

冒頭いきなり池田氏の「言葉の価値が下落してきた」という携帯電話の「話し放題」というサービスについてから始まる。
言葉の価値だけが下落しているのではなく、人が考えることをしなくなっているという危険性や、自分のコトバで表現しないことへ大嶺氏と対談して危惧している。
しかし、時代はさらに進み、今では携帯電話ということでなく、スマホである。会社から支給された携帯電話/スマホは事務所の固定電話の生まれ変わりだが、個人所有のスマホは、何の生まれ変わりでもなく、電話の会話よりかは、メールを使ってのコミニュケーション手段のツールである。
つまり、
 コトバの価値は、さらに下がっている。
 考える事も減っている。

のである、
自分で考えるよりもパソコンでGOOGLE検索を使えば、簡単に正解にちかいアンサーが帰ってくる。スマホでAiに尋ねれば殆どの事を教えてくれる。パソコンで調べた結果をマウスで範囲指定してコピーしてペーストすれば、それらしいモノが出来上がる。しかし、パソコンで調べたアンサー、その結果が本当に正しく、裏付けされた事実であるのかという事を考える人や、それを調べる人は少ない。もはや考える事は減って、「内省することもしあいからおしゃべりばかり(携帯で)している」と池田氏は言うが、おしゃべりでなくメールとSNSが今なのである。東大へ行くために0歳からの教育なんてやっているそうだが、教える事はテクニックを教えるので、自分で考える事を知らない人間になると・・・。

世界的に考えると、劣化しているのは日本人だけでは無いような。
さて、俺はどうやって生きようか?


★★★

釈迦は哲学者だったので、お経は考えて考えて読んでいかないと解らない。しかし、その解った事が正解なのかどうかも解らない。キリストは哲学者ではなかった、詩人である。その為に聖書にメタファーで書いた内容、水の上を歩いたとか、これを本当に水の上を歩いたと真に受ける人も居る。さらに伝導意識が高すぎて時に戦争までしてしまう。

格差社会というが、「格差」とは? 「幸せ」を求めるのではなく、「幸せ」とはいったい何か?を考える。
幸せとは「お金」なのか?これはありふれている。


読めば読むほど、本の世界、コトバの世界に引き込まれる対談本である。ヘーゲルとかハイデカーの話はちょっと難しく、ヘーゲルとかの本を探して読まないと解らない部分もあるが、その部分を多少差し引いても面白く読めるのは、僧侶という仕事がら、説明や人を納得させるのが得意と思われる大峰氏の手腕かと考える。


★★★

生きていたらそろそろ還暦の池田晶子の対談本は池田の死後数日経って発売された本である。大嶺氏は池田氏へ「10年もすればわかりますよ」なんて言ってたりするが、おそらく対談のあと数年で池田氏はこの世を去ったようだ。解らずに死んでしまったのかよ??

「死んだらどうなる」のだろうか?と言ってた池田晶子。人間は必ず死ぬのである。
さて、どうなったのだろう?


★★★

コトバについて考えて始めたブログであったが、2019年の最後は、コトバについての本で締めることになってしまった。
11月以降は更新回数が極端に減ったが、本を読んでいないわけではなく、読む本は減ったがブログとしてアップ出来る本に巡り合わなかったという理由も一つ。

昨夜2回目を読み終えた本書である。池田晶子の本当の遺作はこの本かもしれずと。
あとがきの池田晶子の文章が2007年3月(死後)になっているのは何故か?と、まあどうでもいいか。

手元に置いておくにはいい本である、間違いなく。

2019年12月22日日曜日

悪の読書日記 OHANASHIおはなし なかい みさ(著)

2019年 12月 20日
姫路からの帰り、電車の車内で・・・
ふとしたことでSNSで知り合った方のパートナーが作家だったと知る。知り合ったきっかけがきっかけだけにかと思うのだが、奥さんの本の表紙はこんな感じで。
言わずと知れたパンクバンド、セックスピストルズの「勝手にしやがれ」アルバムジャケットのパロディーである。



揺れる電車で、一気に読みだした・・・そして一気に読み終えた。

短編小説であった、表紙が表紙だけにと考えてみたが・・・6つの小説でパンクが出てくる話はない。
今の自分にとってはちょっと痛い話と感じる「スナックかいわれ」と「消灯」、「ねんねこしゃっしゃりまっせ」・・・、
そして全く異質の「うちゅう人」「西日本座敷童子協会」などの計6編。

う〜ん、日常なのである。異質の「うちゅう人」「西日本座敷童子協会」以外は。
「スナックかいわれ」「消灯」「ねんねこ・・・」など、それは日常なのである。おそらく、著者が経験や体験してきたことや、ふと偶然知り得たことなどがベースかヒントで書かれていると想像するのであるが、書かれたストーリー、それは日常なのであり。もの凄い大展開や、最後の最後にバババーン!!ってことは無く。再び少し違った日常が始まるという感じなのである。
パンク作家と言われる町田康や、ブランク・ジェネレーションのリチャード・ヘルの書くストーリーの様に無茶苦茶な世界でもなく、無茶苦茶な終わり方などはない。表紙のイメージから読み始めると、ちょっと足をすくわれる。

ちょっとばかり暗い空の下での話、夜の世界の話、ちょっと小生には経験やあまり考えたことのない世界。こんな世界のあるのであると。


しかし、前述に異質と書いた「西日本座敷童子協会」は個人的に非常に興味深い。各地の座敷童子がSNSで近況を報告しお互い励ましあうという話。話というかSNSのやりとりである。これも「日常」なのであるが、アイデア、書き方など気に入った!!何十年か後にはSNSって何?っていう時代になると思うのだが、そんな事は関係なく「西日本座敷童子協会」はコトバとしてストーリーとして、日常の一部として本の中で残り続けるのである。

唯一、この話は俺にはパンクである。


どういう経緯で著者がこの本を出版したのか?編集者がどうやってこの本の出版を考えたのかは全く知らないし、著者ご本人んとも会ったこともないので解らないのだが、次作に期待したいと思う。