2020年12月31日木曜日

惡の読書日記 自由への手紙 オードリー・タン(語り)

 2020年 12月 31日


年末年始は、貯まった積み上げられた本を読みまくる予定だったが、ここに来て本を更に買いまくる日々である。自己投資ほど利回りが高い投資が無いと解っているなら、やらない手はないので自己資産を本代に回してアウトプットするのだが、結局それをどうやって現金化するのか解らないのであるが、株を買っていつ売ればいいのかが完璧な判断が出来ないのと同様ではと納得しているが、マネタイズするのはこれからである。



一昨日購入した、オードリー・タン(語り)の『自由への手紙』。雑誌クーリエ・ジャパンがオンラインにて台湾のオードリー・タン氏に数回のインタビューを行い出来上がったこの本は、日本に住む若い世代に向けて出版社が製作した本であるが(帯によると)、実際読んでみると若い世代に向けにするのは明らかにナンセンスの講談社だと、既にこの時点でオードリー・タンの「自由」というコトバの意味から外れている。(単なる宣伝文句ならいいのだが、本当に若い世代向けのつもりだったら?)
本書を読むと、本当に日本は将来大丈夫かと心配になる。台湾は国土が日本よりも小さいから、日本よりも政策の浸透性が速いと考えていたら、それは狂気のさたである。台湾の政治は透明性で多種多様な文化やなんやらを受け入れている。恥かしいながら台湾にには20もの文化(言語)があるそうで、そこへ大陸からやってきた漢民族も含めて人種のるつぼなのである。色々な文化をお互い認識しあって進む政策は中国の様に、漢民族しか存在しないという思想のもとで巨大な土地と人口を動かす不透明な国家とは真逆なのである。いくらスピードがあっても中国の政府は日本と同じ不透明であり、実質は進まないのと同じである。
つまり、日本は中国よりも国土も人口も小さく、台湾よりも国土は大きいし、人口も多い。しかし政治が不透明。多種多様性を認めない、移民なんてもってのほか難民なんてこないで!といってる国なんである。これで国家ととして進歩も前進もあるのかと。

今年、いわゆる今回のコロナ騒動で日本という国の愚かさ、政府の愚かさ、国民の偶民化が非情にも理解できた。日本も台湾もマスクが不足したという同じ状況になったがどうやってそこを抜け出したか。その点は説明不足の内容なので詳細は書かないが、単にマスクが国民にうまく行き渡るシステムを速攻作り上げた台湾だが、そこには年寄りが薬局に並ばなくてもいいような細い配慮も含んでの複雑なシステムでありながら見事に解決して成り立っているということ。また小学生の男子にピンク色のマスクが渡ったことで、小学生男子にしてみれば、ピンク=女子という感じで、マスクを付けて登校することが恥ずかしく登校拒否なった子供の為にした政策が面白く、前述の多様性を認める一貫であると考えるのは想像しやすく決して難しくはない。
こういったことを日本でも出来るのか?出来たのかと考えると?考えるだけ無駄な気がする。気がするのではなく事実であり現実である。

昔は、台湾の人が日本に追いつけだったり、日本の事例を参考にしてきたが、そんな時代は過去の話である。我々は一歩も二歩も周りの国より遅れているのである。隣の韓国には文化で追い越され、台湾にはテクノロジーで追い越され、中国には経済で追い越されてている、にも係わらずいまだに日本の実力はこんなものでは無いと自信満々な人々と現実を理解していない人が多いのは驚きだ。

追い越し追い越されという低次元な議論を外して、日本が正常になるには、「自由」になることだと、日本に住む我々が自由にならなければいけない。「えっ?自由って何?」それにはどうすればいいのだろうか?何から「自由」になればいいのだろうか?とそのヒントがこの本にはいくつか載っているのだと思う。
オードリー・タン曰く、自分が自由になれるだけでなく、みんながみんなを自由にする為に行動を起こせたら、凄いことです。自由をお互いにシェアしよう、と。
 
勿論本書のどの自由を選ぶかは、読み手の自由である。
 
 

惡の読書日記 時間編集術 長倉顕太(著)

2020年 12月 31日


普段はフルタイムでシゴトをいているので本を読む時間帯が限られ、本を読むために各駅電車に乗って移動したり、朝早くから開店早々のコーヒーショップでノンカフェインのお茶を飲みながら本を読んだりしているのだが、今回の年末年始は、昼間の太陽が登る間はシゴトに関する本を技術書を読んだり実際の業務に関することを纏めたりしているが、太陽が沈むとあとはいつもの読書として自分を内省する事にしている。




どう考えてもシゴトに直接関係の無い本、明らかに高額な太い本、ネットでなくリアルな本屋へ行って何が売れているか、話題の本は何かを自分で探れ!と本の読み方の一つを教えてくれた元ビジネス書の編集、編集長をしていた長倉氏の著書『「やりたいこと」が見つかる時間編集術』である。元々時間術の本や多種多様のビジネス書の出版を手がけていたにも係わらず、今となっては実際に編集の長倉氏があれは何だったのか?的な、否定的な事を自らの著書で書いていたりするんだが、今回も時間術の本をこれまで出版してきたが肝心ところを書いた本は無かった、抜けていると。

要するに、基本的な部分はどの本も同じなのである、それは「時間が最も重要で一人一人に与えられた一日24時間は、増えることなどは無い」ということ。時間は短縮することが出来ても増やすことが出来ないから時間に集中することの大切さ。日常のシゴトで費やす時間はフルスピードでシゴトをやっつけて、残りの時間を大切にすることが、人生を豊かにするという。これまでの色々な時間術の本では、隙間時間を埋めろとか、効率重視したものばかりで、結局は継続する事のハードルが高かったり、効率アップを優先しすぎて余裕が無く新しいモノが生まれない、視界が狭くなってしまう状況を作っているに過ぎないと著者は指摘し。それよりも効率や生産性重視の時間術を継続するのではなく、真逆の時間帯を作り、そこで生産性や効率をアップを度外視した活動をすることが人生にとっては有利でそれが、自分の目標に繋がるハズであると。そしてそれを継続すること、ルーティン化してしまえばあとは日常になるのだと。確かにこういった時間術の本は殆どというか読んだことは無かった。

噓かホンマかの人生100年の時代、いったい死ぬまで何をすれば良いのか解らないのが今の状況では無いだろうか?、現在51歳、仮に65歳でリタイヤしても、80歳まで生きたとして、15年何をする、間違って100歳まで生きてしまったら35年という長い歳月、どうするのだろう?と。そんな事を考えて不安な事を想像するよりも、今の生活でもうひとつの時間を作り最大限に時間を使うことがどれほど大事なのかを紹介している。
その為には、ありふれた無意識な「巨人、大鵬、玉子焼き」みたいな、もうひとつの時間を過ごすのであれば何の為のもうひとつの時間なのか解らない。どのようにすれば無意識な日常にならないかも紹介している。

本書の大半は、以前より著者長倉氏が自らYoutubeやオンラインセミナーで触れていたことなのだが、著者本人もどこかで言っていたと思うのだが、本という媒体にすることで自分の存在を強く出来る(ブランド化を強化)のは明らかで、情報発信という概念から考えても、形として残る書籍という媒体はあるいみYoutubeという形があって無い媒体よりかは有利である面が多い。

また、長倉氏が以前より提唱している「ギブ(give)」、「ギブ」、「ギブ」、「ギブ」・・・の見返りを求めず与えるという精神は小生が今年最も後押しされた部分であり、今年は、時間を作っては出来るだけボランティア活動をやることにしたのである。
本書は自分にとっては特に大きな発見がある本では無かったのだが、今年最後の日に自分の内省としてはベストな本であった。

惡の読書日記 死をポケットに入れて チャールズ・ブコウスキー(著)

 2020年 12月 31日

この本を読んだの一ヶ月以上前、いや二ヶ月以上前だったか?
 
1990年代前半のブコウスキーの日記というか、エッセイを編集した本である。邦題は『死をポケットに入れて』であるが、本当のタイトルの日本語訳のようなタイトルでなく、全く違う(「船長が昼飯に行ってる間に、船乗りに船は乗っ取られた」というタイトル、直訳だけど)。93年2月で本書は終わるのだが、翌年3月9日にブコウスキーは旅達つので、日本の出版社は本書の1節をとってこのようなタイトルにしたのだと予想する。




これを読むとブコウスキーって、裕福そうな家に住んでいることが解る。家にはプール(ジャグジーバスも)あるようだし、二階建て、庭付き一戸建てである。相変わらずの競馬場へ行っての競馬人生は尽きること無く、競馬の話は今回も大量である。そんなに競馬が楽しいのかと、一度やってみようか「ふと」考えてしまう始末。小生は基本的にギャンブルはやらないので、ブコウスキーの話を体験談として自分の中で消化してギャンブルをやっているつもりになるのが正しいのであると自覚して原点に戻り納得している。
本書は、ブコウスキーがこれまで使っていたタイプライターをやめて、パソコンはアップルコンピュータを使用することで執筆した前述の内容である。
タイプライターでは、間違って打ってしまった場合の修正が相当面倒だったが、パソコンに変えたのでそんなことは簡単に修正できると、いま考えれば当たり前の話しであるがブコウスキーのシゴトはかなり効率が良くなったようで本人は高評価だ。確かにそうである、但しこのブコウスキーが使っているパソコンは1990年代初頭のアップルコンピュータ。いまの10代、20代の人には想像できないかもしれないが、デスクトップパソコンと大きなCRT、決して液晶画面では無いのである。多分、これだけのパソコンでも当時40万円〜50万円以上は掛かったと思う(記憶する)。それだけ、ブコウスキーは家もプールもあり、パソコンもありと、相当潤った生活をしていたのだと予想する。当たり前である日本語のブコウスキーの作品は出ているし、短編小説はリュック・ベッソのプロデュースで映画化されている、相当数の出版数であるのだから当然である。むしろブコウスキーをパンク作家と呼ぶことじたいが間違っているといえよう。

以前、読んだ小説「詩人と女たち」もそうだったのだが、ブコウスキーの家には色んな人が取材だとか、ドラマ化、映画化の契約云々ということでやって来るが実際は偽物だったりすることがあり、単にブコウスキーと飲みたいだけだったりする事がよくある。インターネットの普及がそれほど民間に無かった時代なので、検索などが手軽でなかったので仕方ないが、おそらく世界中でこういったことが良く行われていたのだろうと想像する。
時々、インターネットが普及していなかった、インターネットって何ですか?という1990年以前のストーリーやエッセイを読むと懐かしくなる。通信手段は専ら電話、よくてファックス。ブコウスキーは1994年に他界しているので、彼のエッセイに限らず殆どの文献がその時代に書かれているので、時代のスピードを感じる事無く読めるのである。携帯電話なんて現状殆ど使われることは少なく、時々読んでいる小説などで携帯電話が話に出てくると、どこか時代を特定できてしまい。懐かしさと自分では嫌な懐古趣味てな方向へ頭を向けてしまうのである。
そんなことを気にせず読めるブコウスキーの文章は小説、エッセイ、詩に限らず。どこか自分をブコウスキーという「沼」へと誘うのである。特にブコウスキーがとてつもなく文学的に素晴らしいとかいうことでなく、ブコウスキーの日常と、ちょっと常識をぶち壊したストーリーが何ともいえないのだ。同じ酔っぱらいの中島らも氏だったらどこか柔らかい笑いを挟む感じなんだが、そんなことは一切ありえない。むしろドラックも殆ど出てこない、キーワードは、競馬、アルコール、女である。
そしてこんなオッサンになりたいと、いつしかブコウスキーの沼へ落ちてくのである。
但し、購入は専ら時代のテクノロジーである、インターネットを使ってである。
 

2020年12月30日水曜日

悪の毒書日記 モリッシー自伝 モリッシー(著)

 

2020年 12月 27日

何ヶ月か掛けてやっと読み終えた、モリッシーの自伝。
ハードカバーで400ページを超える大作である。これを翻訳した上村彰子氏は素晴らしい狂気の持ち主と言える。ここまでくると翻訳ではなく、共著であると言えるレベルである。
 
 


モリッシーは元スミスのヴォーカリスト。スミスは80年代イギリスで活躍したマンチェスター出身のバンドである。スミスは「Queen is Dead〜女王は死んだ」、「Meat is Murder〜肉食は殺人だ」というタイトルのアルバムを発表したバンドである。そのスミスの歌詞、レコードジャケットのヴィジュアル面をモリッシーが担当していた。作曲はジョニー・マーというギターリストが殆ど担当していた為、スミス=モリッシー+ジョニー・マーであると言われていた。バンドの後期のサポートギターリストが、グレック・ギャノンという人だったのを覚えてるが、ベーシストとドラマーの人の名前は忘れてしまった。「WHAM」はジョージ・マイケルともう一人は誰だっけ?

この自伝の凄いところは、ほとんどがモリッシーの恨み節なのである。幼年期の話は置いておいて、音楽活動を始めてから、モリッシーの苦行はスタートするのである。バンドメンバーの繋がりから、ラフ・トレードとの契約。実はこれまでラフ・トレードがスミスを発見発掘したのだと思っていたらそうではなく、モリッシーの戦略でラフ・トレードへ売り込んだらしい。しかし、スミスが売れまくった為に、ラフ・トレードのノンビリしたマイペース的な悪く言えば、そんなに売れなくてもいいかなという間違った非商業主義を壊滅させてしまった。そしてアメリカのレコード会社が全くPR活動をしない不満。しかもライブのギャラについては一切受け取っておらず、タダ同然でライブをやっていたらしい。誰が搾取をしていたのか?
そしてバンド解散後にソロ活動は順調に進んだのだが、記憶の彼方の元スミスのメンバーに音源の利益を25%遡ってよこせと、スミス時代に作曲もアレンジもビジュアルにも一切口を挟まなかったくせに裁判を起こされるという始末。しかも裁判所の裁判官は貴族のくせに裁判中に居眠り、鼻くそをほじる奴で弁護士もへんちくりんな糞野郎で結局モリッシーの敗訴ときた。
かのパンクバンド、スージー&バンシーズのスージーとのデュエット作も実はモリッシーがスタジオ代を払っているのにスージーの作品としてポリドールからの発売。英国の権威ある音楽ジャーナリズム雑誌NMEは嘘ばっかしのインタビューを書き上げるなど・・・という半分以上が、モリッシーの悲しくも苦行の音楽生活を綴った内容なのである。

しかし、そんな恨みの文章の中で、ときおり魅せるモリッシーの優しさが非情に切なく、これがモリッシーの本来の姿なのだと予想する。そして自分の作品のヒットチャートを非情に気にするのである。ライブも大切だが、やはりモリッシーにしてみれば、レコードやCDの音源こそが収入源であり、それ以上に自分の存在を証明する媒体として大切に意識をしているのだと思う。その為、DHISCOGRAPHYを見るとモリッシーはコンスタントにアルバムを発表し続けている。

おそらく、過去の権威と既得権にしがみつく英国音楽ジャーナリズムとその周辺が自由奔放に活動しているように見えるモリッシーを嫌っているのだろう。80年代にスミスで「女王は死んだ」「肉食は殺人だ」なんていうアルバムを出して売れまくり好きなことを言ってはと突然スミスを解散して、ソロシンガーになってもやはり売れまくる。NMEでは発売したアルバムを酷評しても、デタラメのインタビュー記事を掲載してもアルバムは必ず一定枚数は売れ続けている、それは英国だけでなくアメリカでは各会場ソールドアウトする程の勢いである。そして老舗音楽番組TOP OF THE POPS」に出演しなくてもアルバムは売れていく。元バンドの忘れられた名前のメンバーに訴えられて、メディアの格好の標的なって裁判に敗訴してもまた復活をしてしまう。それはモリッシーの地道な努力もあるのだろうが、彼の運や、本書のコトバの世界には出てこない彼の魅力が彼の周りにいい人脈やながれを導くのだろう。
決してモリッシーがベジタリアンというのは関係なく・・・・。結局、モリッシーは音楽を通じて自由になりたいだけなのだと思うのだが。その為余計な人間関係云々は好きでは無いのだと思う。

本書でモリッシーがセックスピストルズについて言っている。
「文化の救い主でなく、文化を破壊していた。・・・自分たちで考えて歌う者たちの自由が、私を開放した。彼らのシャウトからだけ自由が見つかった。」。モリッシーは今も自由を追求しているのだと。たとえ文化を破壊することは無く、まだ病気なの?と言われても。
 
 

2020年11月1日日曜日

悪の毒書日記 詩人と女たち チャールズ・ブコウスキー(著)

 

2020年 11月 1日

 8月半ばからブログを更新していない。本読まなかったのではなく、ブログの更新をするよりも読みたい気持ちと行動が優先してブログを更新することをすっかり放置していた。本来ならばインプットとアウトプットはニアリーにすべきなのだが、インプットが増えてしまった。
 
昔々、みた映画「水の中の8月」という不条理な映画。美人の女性死体とやってしまうという無茶苦茶な話。これを観た時は原作者も知らず、リュックベッソ監督がプロデュースした白黒映画で、楽しそうなの観にい行ったが、話の内容が前述の通りの内容だった。5,6年前にアメリカの有名な小説家の短篇集を買った。読んでいると昔観た映画の話ではないか。死体とやってしまう男の話。
原作のチャールズ・ブコウスキーというおっさんで既にこの世には居られない方で、凄い奴らしいと。いま考えると、どうしてこのブコウスキーの小説を読み始めたのか記憶がない。




二年前くらいに名前を知った本の編集者をしていまは作家もしている「モテる読書」の著者である長倉顕太氏が、チャールズ・ブコウスキーの大ファンで前述の短篇集が相当気に入ってるらしいことが解った。それを機になん度かこの短編集を読みなおしたり、他の著作を探したりしている。「チャールズ・ブコウスキー」とAMAZONで検索すると、日本語訳になった小説が20点くらいヒットしてくると思う。ここ一年くらいは絶版になった本が別の出版社から再発されているので実際のヒット数は40点以上であると思う。
そしてこの短篇集は明らかに面白いのだ。映画の原作になったとんでもない話もあれば、趣味の競馬の話をテーマにした話。それはまるで著者本人の経験した話から大きく誇張して話を作り上げた感じがうっすらと感じとれるのである、それが事実かどうかは不明だが。また、ロック好きの長倉氏が面白いという感覚が解らないではない気がする(長倉氏も競馬好きな事がブコウスキーと合うのだろう)。

ここ最近、ブコウスキーの本が読みたくなり、AMZONやメルカリでブコウスキーの本を探し求めるありさま、正に貪るようにブコウスキーの本を探して購入している。その中でもブコウスキーの詩集は日本語訳では二冊しか発売されておらず。二冊とも既に絶版なのであると解った。どうしたことか、これはどうにかならないかと思うところである。
 
そんな中で買った一冊の分厚いブコウスキーの小説。
『詩人と女たち』、原題名は『WOMEN』である。


 
読む前に本のタイトルは「詩人と」は不要で、「女たち」とか「ウーマン」だけでもいいのではないか?と思ったが読むに連れて、日本語版のタイトルの意味が解ってくる。ブコウスキーという人の女性との関係を偽名で淡々と書き綴ったのが本書である。つまり女性との関係を本にした自叙伝なのである。多少は話しを大きく誇張したり、内容を変えたりはしているのだろうが、登場人物はブコウスキー本人なのである(一応、ブコウスキーではない。ヘンリー・ナチスキーこと通称ハンク)。主人公の通称ハンクことブコウスキーの女性との関係、電話が掛かってきたとか、空港まで迎えに行ったとか、挿入したとか・・・次から次へと女性との話が続く。
そしてハンクの職業は詩人なのである。アメリカ中のイベント会社や大学とか主宰者から、詩の朗読会のオファーが来て、ブコウスキーは女性との関係の隙間にアメリカ中を飛走り回るのである。時には女性と一緒に・・・。
AMAZONでブコウスキーを検索すると海外の出版社で詩集が非情に多く出版されていることに気がつく。日本では二冊しか出版がなく既に絶版なのだが海外では未発表詩集とか選び抜かれたベスト盤みたいな詩集とか、死後にも相当詩集が出版されているようである。
多分、ブコウスキー本人は、小説を書くことよりも詩を書くことに自分の力を注いで「詩人 チャールズ・ブコウスキー」でいたかったのではないだろうか?その為自伝的小説に出てくる架空の自分自身は小説家でなく詩人なのではないだろうか?いや、ひょとしてブコウスキーを知っている日本人の大半が、彼のシゴトは小説家であると思い込んでいるのかもしれない。
そして翻訳をした中川五郎氏もあとがきで「詩人としては日本ではあまり知られていない」であるという意味のことを書いておられる。中川五郎氏としてはブコウスキーの詩人としての評価を高めたかったり、もっと日本語訳の詩集を出版して欲しいという気持ちから『詩人と女たち』というタイトルにしたのでは無いのだろうか?と勝手に想像してしまう。
個人的にはブコウスキーの詩集の再発を願いたいが、現在の日本において『詩』は短歌や川柳などと比べると少しマイナーな感じがする。詩の朗読会とか詩の朗読のアルバムなんでアメリカなら相当存在するが日本ではかなり少ないのが事実である。出版社も乗り気ではないと考える。
(リディア・ランチの楽器の演奏がない詩の朗読アルバムなんてのもあるし、ヘンリー・ロリンズなんて大量に発売している)


長編でありながら、短編小説を集めたかの女性遍歴と女性とのトラブルを纏めたこの小説は、現在の自分tとほぼ同じ歳の50歳で、大雑把で酔っぱらいでいい加減なブコウスキーがどうしてこんなに女性にモテるのかと考えながら、どこか優しいブコウスキーの性格がちらちらと見えてくる短編集のような長編の一冊である。これはいつでも読めるように愛読書として手の届くところに置いておきたい一冊である。が。これが愛読書となるとちょっと廻りから変な目で見られてしまうのだろうか?
いや、ここには何だか憧れるブコウスキー本にが宿っている感じがするのだ。
 
 
追伸
 ブコウスキーの詩集が殆ど手に入らいないので、自分で買ってに翻訳(「糞訳」と称する)してNOTEにアップしています。よかったらこちらも。
 

2020年8月13日木曜日

悪の毒書日記 事典にない大阪弁 四代目旭堂南陵(著)

 2020年 8月 13日

久しぶりにブログである。
一ヶ月以上、何も読まなかったのではなく、ブログになりそうな本を読まなかっただけであり、本や文献や活字は毎日のように読んでおり、ただ悩んでいたのである。

先月7月半ば、生まれて初めて講談を観た。少し長く生き過ぎた歳なのかライブハウスに通う事はしばらく無く、最近は落語会へ行く機会が圧倒的に多い。しかし、先月・・・とある理由から初めて講談を観た、講談師は「旭堂小南稜」さん(ご出身は隣の市町村の八尾市らしい)、演目は「壺坂霊験紀」であった。実際の講談なんてテレビでもYoutubeでもまともに観たことが無いものを目の前で見ると、編集された動画の画面ではないので、講談師の放出するバイブレーションをガンガン感じて楽しめる、これは講談に限らず、落語や音楽、演劇なども同じだが。演目の「壺坂霊験紀」ってデビッド・リンチの「ワイルド・アット・ハート」みたいやんけ!!と、講談とD・リンチを繋げるのは失礼か否?と、演目よりも「これはもの凄いものを体験した!」という、凄まじい気持ちで会場を後に後にした。

自宅に戻り、講談師の旭堂小南稜さんをgoogleで検索すると、四代目旭堂南稜氏のお弟子さんにあたられるとのこと。次に旭堂南稜さんをアマゾンで検索すると「事典にない大阪弁 増補改訂版」という書籍がヒットした。



これはひょっとして、かの名作「大阪呑気大事典」(宝島社)に匹敵するものなのか?と、大阪呑気大事典は事典でなく、単にコラム等を集めた作品で80年代雑誌宝島に連載されていたものを一冊の本にしたものだが、石田長生氏、桂べかこ氏(現:南光氏)、中島らも氏など有名な方が書いておられる。イラストもひさうちみちお氏、いしいひさいち氏など・・・まさに大阪呑気である。
という訳でこれは「大阪呑気大事典」にならぶ名作では?と思い、早速「事典にない大阪弁 増補改訂版」をアマゾンでなく、梅田の書店で購入するに至った。


本書は、大阪呑気大事典とは異なり、四代目旭堂南陵氏が執筆した文献を纏めたり、執筆した内容である。前半半分があいうえお順に事典にない大阪弁が並べられ解説がさえており。のこり半分がコトバに纏わるエッセイ「大阪弁笑解」と昭和時代の街の写真などである。どうみても十分に事典といえる。
小生は「大阪生まれの大阪育ち」、今は大阪に隣接する兵庫県の市町村に住んでいるが、選挙の時と偶然テレビでNHKを観た時くらいしか兵庫県県民と意識することは無い。普段自分が口にするコトバが関西弁なのか、そんな事はあまり考えたことは無い。
 
例えば本書によると、「足をつる」ことを「こむら返り」というが「こぶら返り」という人がいる。「こぶら返り」とはおかしいのか、聴き違いなのかと思ったが、厳密には「こぶら返り」といのは大阪訛りらしく、珍説でコブラに噛まれたくらいに痛いからというまさに珍説、コブラに噛まれたことあるんかというところ。他に「ねこ」猫餅のこと、細長くした餅・・・スーパーマーケットでは見ることは無いが、天神橋筋商店街を歩いていると店先に売ってるのを見かける。古書店の「天牛書店」は「てんぎゅう・・・」でなく「くもじ・・・」が正式というか遥か昔はそう読んだとか。さらに「お●こまんじゅう」は堺方面では昭和40年代までは出産などの慶事ごとには注文されていたそうだ・・・流石に事典には載っていない。
どこかほんの少し懐かしく、そして知らないことだらけの本当のおもろい大阪である。
「関東煮」と「おでん」の違いがこれまた複雑、本当のおでんは薄口醤油にだしのきいた煮込み田楽など、食に関してもかなりの話が満載されていて、飽きることなく気軽に何処のページからでも拾い読みができ、何度でも読んでみたい内容であり、大阪呑気大事典に勝とも劣らぬ、100年後に本当に学術的な価値がでるのはまさしく「事典にない大阪弁 増補改訂版」と「大阪呑気大事典 増補改訂版」であるのは確実であると言える。

ひとくくりに「大阪弁」といえども、「船場」「島之内」で使うコトバが若干ことなることも興味深い。以前ブログにも同じようなことを書いたが大阪の笑いですら「うめだ」「なんば」「天王寺界隈」と場所により笑いのポイントが若干異なる。コトバも同様に「船場」「島之内」と距離に関係なくその地域の文化でコトバが少し異なるのである。コトバというのは常に変化していくのであるが、これからいったい大阪弁どうなるのだろうか?と思いながら、そんな事を考えてもどうにもならないのである、所詮コトバである。

数カ月前に勤務先の20歳代のベトナム人が一時帰国して買ってきてくれたお土産について、ベトナム人に尋ねたところ「あれ、おかんに持たされたんです」とコトバが返ってきた。
ベトナム人よ「おかん」っていうな!

大阪呑気大事典より抜粋


追伸
本書の著者である四代目旭堂南稜氏が7月30日に他界されました。これから講談といものも観たいと思っていた矢先、ちょうどこの本を読んでいた時期でしたので、驚きというか表現の出来ない感じです。

ご冥福をお祈りさせて頂きます。

 

 

2020年7月8日水曜日

悪の毒書日記 中央線は今日もまっすぐか? イヌイ・ジュン(著)

2020年 7月 8日

30年位前に読んだ本や雑誌のコラムやなんかでよく遠藤ミチロウは良いようには書かれていなかった。ウケ狙って裸になったとか、パンクじゃないとか、パンクを利用しただけの人だとか、喧嘩が弱いとか、エゴイストだとか。しかし、ここ数年、いや十年くらいか・・・温厚な人だとか、気遣いの人だとか。スターリンの事をあんまりよく言ってなかったミュージシャンも何故か「ロマンチスト」をライブでカバーしていたりと。いったいあれは何だったんだ?
よく考えてみたら、その当時(30年位前)は、単にみんな若かって、人間の本質を理解していなかったかもしれずである。所詮パンク、だれかを攻撃したい性格なのかもしれない。それが若さゆえ・・・。



スターリンのオリジナルメンバーであった、ドラムのイヌイ・ジュン氏による『中央線は今日もまっすぐか? 俺と遠藤ミチロウのザ・スターリン生活40年』という本が発売された。イヌイ氏がミチロウと出会うところから、つい先日の話まで時間軸に書かれたインサイドストーリーであり決して暴露本なんかでなく、「へえ〜そうだったのか」という思いが強く印象にのこった。
色々なうわさ話や、うそかホンマか解らん話の真相なども正直笑えたし、やはり話を盛っていたのか、あえて伝説を作っていた、作られていたようなことかと本当に面白かった。
どうしてヒゴ・ヒロシさんがスターリンでベースを弾いていたのか?これが一番驚いた。スターリン側からヒゴさんへベースを弾いて欲しいとお願いしたら、条件としてヒゴさんのバンド「チャンス・オペレーション」でイヌイさんがドラムを叩いてくれるならOKという逆提案をされてスターリンが解散したあと、イヌイさんがドラムを叩いていたのか、てっきりスターリン時代にヒゴさんとイヌイさんが意気投合してイヌイさんがそのままチャンス・オペレーションへ加入したと思っていたが違った。当時はそんな話はロック雑誌なんかに掲載されていたのかも知れずだが、当時の「DOLL」や「宝島」くらいしかパンクが載ってる雑誌は無かったので、いったいどうだったのかは今としては解らず。小生は初めて聞いた話であった。
よくスターリンはパンクじゃ無いと言われたりするが、日本でパンク・ロックを始めた人間の一人であるヒゴ氏が参加していたのであるから、パンク以外の何でもない。
しかし、パンクロックなんて「定義」はこの世の中には存在しておらず、定義されないこそがパンクロックではないか?それは情報と同じ様に、情報を受け取った時点でその情報は古い、過去の情報であるということと同じの様な気がする。
あのション・ライドンが昔々のはるか昔、小生が学生の頃の日本の雑誌のインタビューで、パンクファッションについても同じことを言ってた。「パンク」はこうあるべきみたいな革ジャン、破れたジーンズを履いたりする様なスタイル(形式)そのものが既にパンクじゃないと。

最近、他に読んだ本で既に今は個人そのものがメディアでありコンテンツであると。それは個人本人が「コンテンツ」化したいという欲望からそなるのではなく。SNSやなんちゃらインターネット上で使っている限り、既にそこには自分は知らないけどFACEBOOKの方が自分をよく知っているという嘘のような本当の話が現実には存在しているのである。つまり人生そのものがコンテンツ化されていまっているのだ、意図的に。
そうなれば、情報を受ける側でなく発信するアウト側にならければ面白くも何にもないではないのだろうか?そして既に焼き回しの形式通りのスタイルでは面白くも何もない。
いま、今日の時点で遠藤ミチロウとスターリンについて考えて感じたことは、スターリンというバンドの中で普段とは違う自分を演じていた温厚な遠藤ミチロウという人が、スターリンというコンテンツ、メディアをどう作り上げたかである。当時はインターネットもなければレコード会社といえばマスである。どうやってミクロを制してマスを制したのか?。でもそれは遠藤ミチロ本人が本当にやりたかった音楽だったのか・・・

謎は深まるばかりではなく、謎でも無ければ都市伝説でもない。そこには絶妙はメディア戦略があるだけである。
スターリンはパンクロックかそうでないかは、どうでもいい話しである。何もかも定義できない時代に突入してしまったのだ。そして誰もがスターリンになれる時代がやってきたのだ?

さあ、どう生きようか?


誰だぁー!!?

2020年7月5日日曜日

悪の毒書日記 洗脳広告代理店電通 苫米地英人(著)

2020年 7月 5日

2012年、今から約8年前に発売された苫米地英人氏の「洗脳広告代理店電通」を読破。今だから読んだのではなく、たまたま適当に苫米地氏の本を読み漁っていたら時代と同期したのである。



そもそも「電通」ってなんの会社やねん?という疑問。これに関しては本書には創業に至る経緯から今に至る過程を解りやすく説明している。結論から言えば、電通=テレビメディアなのである。そして「アヘン」みたいな存在なのである。
英国がアヘンを利用して某国の国民を糞以下にしたのと同様、アメリカは電通を利用して日本人を糞以下にしているのである。つまり、テレビの見過ぎは人間を糞以下にしてしまうのだ。なぜならテレビは電通だからである。そして日本はアメリカ政府主導で動いているのである。
「電通」ひとことで言えば「広告屋」。TV局の代行業務で番組のスポンターを探してくるのが業務だが。TV局まで広告屋が手中におさめると、これは広告屋ではなく、情報操作会社なのである。つまり、日本人の数々の思い込みは、意図的に操作されて思い込んでいるのである。

以前からおかしいと感じる、テレビのニュース番組や報道特集番組。スポンサーの悪事をニュース番組で叩きまくることはない。スポンサーがある報道番組って報道なのか?都合のいいことだけを流しているのではないのか?そもそもこの国にはやはりまともなマスメディアが必要であると感じていたが、現状ではそんなものが現れることもなく日本は滅んでしまうといえる。テレビ番組に広告は必要だ、だが日本のテレビでの広告は政府の情報操作が多すぎる。特に東日本大震災前の電力会社のCMは酷かった。
怖ろしい事に電通の株主はTBSだったりと、いったいこれは何やねん?と。つまりTBSテレビは電通であり国営放送なのか?と思ってしまう。

本書が書かれたのは2012年である、それから世界も日本もまるで漫画の如く変化した、
 電通が大好きなスポーツ事業「オリンピック」がやって来る、はずだった。今年。
 アメリカの大統領はアホみたいな知性のないオッサンがやっている。

「復興五輪」は何処へ?「コンパクトなオリンピックをやりまっせ」という話は無かったことに、金(かね)、金、金のオリンピック。来年の開催さえ疑わしいとしか言えない。誰の為のオリンピックだったのか? 4年前のアメリカ大統領選挙の報道は酷かった。トランプ大統領、元々不動産屋で破産しても這い上がってくる程の実業家。もしヒラリーが大統領になったら、第3次世界大戦に突入することを報道することはなく、トランプの「あほ話」ばかりを強調している。ホワイトハウスを私物化したクリントン夫妻の話も併せて報道するのがマスメディアのはずだが。オバマ大統領の政策で泣いている人の話はあまり出てこなかった・・・殆ど日本のメディアでは出てこない。
いいかげん、今回のコロナ騒ぎをはじめ我々は報道番組、テレビ番組すべてを疑ってかかることが必要であるとことを一層解った筈ではないのか。日本を変えるにはマスメディアが変わらないと変わらないという高城剛氏の意見であるが。それ以前に日本が潰れてしまうのではないだろうか?

数カ月前に公開された、東日本大震災の福島原発の電力会社の方の功績を描いた映画。観てはいないが、震災の起こる前に国会で「原子力発電所に非常用電源が必要では?」と指摘した共産党議員と不要だと回答した関係者(総理大臣?)も描いているんですよね?


果たして本日の東京都知事選挙の報道はどうだったのか?
報道番組は立候補者全員の紹介をしてこそ公平な報道なのであるが。

ところで、日本の首都って「東京」だったんですか?


2020年6月17日水曜日

惡の読書日記  哲学・宗教の授業 佐藤優(著)

2020年 6月 17日

「世界のエリートが学んでいる 哲学・宗教の授業」というのが正しいタイトルである。しかしタイトルは出版社が付けたと思うのだが個人的には明らかに誤りだと感じる。「世界のエリートが」というコトバをタイトルにすれば良く売れるなどというデータがあるのかと思う。本屋にもアマゾンにも「世界のエリートが知ってる・・・」「世界のエリートが学んでいる・・・」などというタイトルの本があふれているが本書はそんなタイトルを付けなくても大学の授業の極一部分を抜粋して集めて編集しただけだが読むに値する本であり著者であり著者の佐藤優氏のお得意の閉鎖的日本への「警告書」である。この本を読んで次のステップへ行く為の本であり本書を読んでも教養が付く訳でもない。大学の授業を再現とも帯には書いているが「考える」ことが大事で「読む事」は考えることとは少し異なる。


もし「世界のエリート・・・」というコトバをタイトルに入れるのであれば「世界のエリートならこれくらいの事は知っている 宗教・哲学の授業」とした方が個人的にはスッキリする。出版業界も編集者の仕事の現実を知らないから小生は言いたいことをいってるだけなのであるがそれくらい我々日本人は無知なのであろうと感じて自分の知識レベルの低さを本書を読んで感じてしまった。そして世界のエリートはこれくらいの事は知っているが日本のエリートと呼ばれる人や政治家などはこんな事は全く解らないのであろう。それは大学で教える勉強が理系なら理系だけをマスターして文系なら文系だけをマスターすれば良いということから分数の計算が出来ない文系大学生が存在するという視界の狭い人間を作り出している問題もあるそうだ。海外の大学は理系でも文学や哲学を学びマスターしないと卒業できないそうだ。日本の文系卒業の大学生が分数の計算が出来ないというのは事実であり小生の勤務先の今年の新入社員の大卒新人君は分数の足し算が記憶の彼方で答えが解らず、工業高校を卒業した高卒新人達は電気科だったのでオームの法則を理解していたので深く考えること無く答えを導き出した。大学のレベルに関係なく日本はこうなっているのだと驚くばかりである。
それは大卒の新人君が悪いのではなくこんなバカな世界をここまで築いてしまった我々大人と政府の責任である。入学式を9月にしようとか言う前にすべきことは膨大でありそれが日本の未来に直結して繋がることを理解する必要があると言える。

日本人はよく自分を無宗教などというが実際は・・・と何度かこのブログで書いたと思う。我々は世界の宗教を知らな過ぎているのだとこの本を読んで感じる。その為海外で起きているとてつもない問題の本質が理解出来ていないのだ。バチカンが200年〜300年スパンで世界戦略を考えているなんて思ってもみなかった。バチカンもローマ教皇も単にキリスト教の宗派も大親分としかイメージがないので政治からは距離を置いて万が一のご意見番くらいにしか思っていなかったが実は話は複雑過ぎるのだ。
またビン・ラディンはサウジアラビアの悪態に手を貸すアメリカに腹を立ててアメリカに強烈なテロ行為をぶちかましたがテロという行為は悪いがサウジアラビアの宗教のレンジの広すぎる自己勝手な解釈は真面目な信者から見れば悪そのもであり。そのサウジアラビアをサポートするアメリカは本当に悪い奴等に見えてきたのだろう。昔はお互いに仲が良かった関係なのにと世界の宗教をいま以上知っていれば見る世界は非常に変わるのだろうが自分の宗教に関しては無宗教といいながら生きてる行動は常に仏教的な日本人なのである。無宗教を世覆う人が他国の宗教に興味を持つことなんてありえるのか?


冒頭に本書を読んでも教養が付く訳でもないと書いたが。ヒトラーは読書家であったがインテリでなかったそうだ、教養が無かったので「トンデモ本」を読んでユダヤ人陰謀説を真実と思い込んでユダヤ人を倒そう!と宣言したら、当時の世間がそれに賛同してしまった為に総統にまでホイホイとなってしまいあのような結果になったらしい。ちょうどその頃ドイツは戦争に負けて国民は疲れきっていたがユダヤ人は自分たちでうまくお金を回していたのでドイツ人から見れば目の敵だったのである。あのドイツ人でさえ方向性を謝るほど当時のドイツの人々は精神的に疲れきっていたのだ。

つまり下手をすると教養のない総理大臣に騙されてコロナ騒動で精神的に疲れた日本人が良からぬ方向へ走るかもしれず。その為には朝からワイドショーを観てコロナ騒動ウィルスに感染する様な事が無いよう、アホなメディアに騙されないように実学を学ばなければならない。
世界は我々日本人が思っているよりも遥かに複雑なのだと感じ過ぎた。日常はドメスティックな範囲での仕事しかしていないから『これで良いのだ』ではもう済まされない。天才バカボンのパパでは済まされない時代なのだ。

2020年6月14日日曜日

悪の毒書日記 最強の働き方 佐藤優(著)

2020年 6月 14日

世の中は知らないことばかりだ、一人の人間からの情報や知識だけを100%鵜呑みにして物事を考えていくことは怖ろしいと思った。それは佐藤優氏でも同じである。佐藤優氏の書籍からの事だけを指針として生きていくというのは余りにも危険で、新聞の書いてあることは正しいと思い込み、朝日新聞を読み、報道ステーションを観ている日常までは行かないも。行為としては同じかもしれない。



さて、これからの残りの人生をどう働くかである。職場の上司は57歳かなんかで、60歳になったら定年退職してやる、60歳を過ぎたらもうおらんからな!!と嘘かほんまか小生に脱出宣言の如く60歳定年退職宣言してくる。「死ぬまでどうないすんねん?」。逆に数カ月前に職場に入社してきた新入社員に「新入社員一年目の教科書」という本を渡して読ませたが(選んだのは小生ではない)、この本でも良かったのかと思ったが、いや違う。一瞬だけだった。ただ、新入社員にも言っておくべき内容がところどころに有るのは事実。しかし、この本はある意味相当難しい・・・。漫画「攻殻機動隊」の様に欄外に細かく説明が書かれているが、これを読んでも、興味を持っても少しの就職経験が無ければかなりピンとこないはずだ。小生も資本論を読んでいないので解らない部分や、資本論を理解しておけば佐藤氏の言ってることの本質が深く理解できたはずだ。

そして、マスメディアが報じていることを完全に鵜呑みにしてはいけない・・・
AI技術が主流になっても、人間が判断する仕事は相当ある。
ベーシックインカムは荒唐無稽。
トマス・ピケティはマルクス経済学を全く勉強していない。
など
しかし、これは佐藤氏の意見であり、真実かどうか?果たして真実と認識するかどうか、最後は自分の頭で考えなくてはいいけないのだ。

「最強の働き方」というタイトルながら、働き方のハウツーなんて全く書いていない。ハウツー本であるならば、そもそも購入していないのだが。こうやって働きましょう!ってなことでもない。ただ、これからはこうやって行きたほうが良いですよ!ってくらいの事は書いているが、そこは佐藤優氏のいい意味で優しさ、自分で勉強して考えないと身にならないとばかりに本書を纏めている。
確かにそうである、1500円の本だけで人生の指針となればそれは大問題である。本はきっかけやスタート地点に過ぎないのだ。それを知っている著者であるから、安易に答えを書いてはいないし、答え自身が読者によって千差万別なにに簡単に書けるわけはないのである。


残りの人生、どう生きるか?
残りの労働者人生、どう生きるか?
さて、何を学ぶ?

で、労働ってなんなんや?

2020年5月30日土曜日

悪の毒書日記  超訳「般若心経」 苫米地英人(著)

2020年 5月 30日

素晴らしい天気の土曜日の午前中であったが、朝から読書であった。有名なチベット仏教僧と、彼の父親である哲学者の対談本を読んでいたが、仏教は哲学なのか?、息子よ!!などと内容がヘヴィ過ぎたのか、読んでいて非情に疲れてきたので本を読み替えた。『超訳「般若心経」』、著者の苫米地英人氏の本は、書いている本質、著者の目的は不変の一つであり、それを色々な視点からアプローチをしていることが多く、切り口は多いがどれを読んでも同じだ!と思われている事がよくあるようである。確かにそれはある程度は否定できないかもしれない。
しかし、時々著者の著作で最大風速ジミ・ヘンドリックス以上のパワーと爆風を出力を感じる本がある。その一冊が本書『超訳「般若心経」』である。過去に「超訳ニーチェ」とか「超訳ヴィトゲンシュタイン」みたいな本があったが、そういった類の本とは全く異なる内容である。


般若心経はどこからやってきたのだろうか?と、今まであまり考えたことも無く、実家では毎日の様に同居していた祖母が仏壇の迄に「般若心経」を唱えていたので、小学校低学年の頃には既に、ある程度は覚えていた。但し意味は有り難いコトバを並べているというくらいしか思っておらず、近年何冊か般若心経の解説本を購入して読んでみたが、これといった心に来る本は無かったに近い。本書によると、実は般若心経が仏教発祥の地であるインドからやってきた、しかも三蔵法師が天竺へ言って持ち帰ったものでもない説が有力らしい。全文漢字で構成されている為、天竺⇒中国ときて、中国でサンスクリット語から漢字に翻訳されたという説もあるのだが、どうやら色々な昔の書物や記録を紐解くと、般若心経の存在を示す資料は中国で般若心経の存在を示す資料より一世紀程インドは遅いらしい。さらにインドにはサンスクリット語で書かれた般若心経の原書すら存在していない。むしろインドに伝えたのが三蔵法師であるという説が実は非情に有力なのである。しかも最後の方に出てくる「羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい」は漢文でなく、シュメール語であり、シュメール語で作られたマントラであると著者は解説しており、これは適当な推論なのでは無く、本書の説明が明らかに正論であると読んでいて思える。
色々な諸説があるものの、決してこれらが般若心経の価値が劣る訳でもなく。むしろ般若心経を理解する事が生きていくうえで非常に重要なツールであると著者は言っている。

その説明のなかで著者の「空」(くう)についての説明が実に最大風速ジミヘン以上なのである。「空」とは「有」と「無」も包括してしまう。では「有」と「無」とは何なのか?つまり、「線」とは何か「線は点が集まって並んだもの(極めて簡単に言えば)」で、「点」という存在は「ここ」「そこ」という定義として存在として示すことができるが「点」には「面積」も「体積(厚み)」も無い、「あるのかないのか?」・・・「どっちやねん?」。あるとも言えるし、無いともいえる。これが「空」である。これは「点」だけに限らず、結局人間も我々は今ここに存在しているが、それを証明するのは困難である。なぜなら「私」とは何なのか?こうちている間にもカラダの細胞は入れ変わっているが、自分の意思は入れ替わること無く存在している。果たして「わしはどこにおるんじゃ」とまさしく「有」であり「無」である。
もっと大きな意味で考えると、一つの何かの存在が宇宙のすべてとつながっているという「一念三千」に繋がり。一つの「有」が、ケタ違いの「超ぶっちぎりの有」であるという考え方や認識が大乗仏教の「空」であると。

「空」は「無」も「有(モノ=物質)」も飲み込んでいるに値する。それと同じように、我々は心で感受したり想起したりする意識や認識もすべて「空」なのである。すべての現象は「空」なのである・・・と般若心経は著者の超訳では「空」についての超指南書であり、人間一人々の悩みも「空」の中に存在しているのであり、この用のすべてのものが「空」なのである。仏教は哲学なのか?形而上学なのか?現象学なのか?などと言われるて、定義を求めたり、考えたりする人が多いそうであるが、結局は仏教でいえばすべてのものは「空」でしかないのである。そう考えるとやはり、普段の悩みや考え事は 非常に小さな存在であり、存在しないかも?と言えるのレベルなのである。


漫画「攻殻機動隊」の第一巻の最後に、草薙素子が言う「ネットワークは無限だは・・・」。これは「一念三千」と同様。一つの物質は無限に近い「有」で「縁起」でつながっている。それを包括してしまう「空」は無限でしかない。しかも有るのか、無いのか解らない。
まさにネットワークではないのか・・・?



2020年5月24日日曜日

悪の毒書日記 ロックンロール・ジプシー 二井原実(著)

2020年 5月24日

「ぼくはロックで世界をみた」というサブタイトルの世界を股にかけたメタルバンド「ラウドネス」のヴォーカリストである二井原実氏の昭和63年に宝島はJICC出版より発売された「ロックンロール・ジプシー:ぼくはロックで世界をみた」である。何十年も前から読みたかったが、既に入手困難、高額になっており、先日メルカリで安価で見つけて購入した。


80年代前半から海外と日本で活躍するメタルバンド「ラウドネス」のヴォーカリストがヨーロッパ、アメリカをレコーディングやライブツアーで廻り、体験したことを纏めた内容である。この本を二井原氏に書くように奨めたのはあの某有名ロック雑誌の編集長もやっていた水上はるこ女史であり、「新ロンドンへ行きたい」という本で小生をロンドンまで行かせてしまった人物であるというのが、前書きとカバー後側で解った。

昭和63年という当時はバブル経済の後期の日本でありながら、海外で活動する日本のミュージシャンなんて、ラウドネスと近藤等則氏くらいしか居なかった時代である。しかも一般市民にはインターネットの無い時代である。偶然にも当時アメリカでLAメタルなんてブームがあって、アメリカのレコード会社が世界中の実力のあるメタルバンドを探していて、ヨーロッパのレコード会社と単発契約していたレコードを聴き、たまたまLAでのラウドネスのライブを観たというアトランティックレコード会社の人が、「こいつらは凄い!」と日本のラウドネスにアプローチしてきたというのが、アトランティックレコードとの契約に至るスタートだったそうだ。レコード会社でも過去に前例が無いことだったので、日本のレコード会社もどう対処したらいいのか解らなかったくらいの話だったそうだ。当時はレコードの輸出はしていたらしいが、日本のミュージシャンが海外の大手レコード会社と契約することなんて想定の範囲外であった。このレコード製作においても日本とアメリカのレコード会社のやり方が全く違うのだが、この点については本書で著者が十二分に説明されている。


レコード会社は利益の為にレコード作るという目的は日本もアメリカも同じだが、過程や考え方が全く違う。アメリカはちゃんとしたボス(プロデューサー)を置いて、良い売れるレコードを製作出来るプロデューサーを中心に制作する。ここにはレコード会社は一切口を出さない。確かにアメリカは購入人数が遥かに日本とは桁違いに異なるのだが、それにしても日本のレコード会社との考え方の隔たりは大きい。これは今もあまり変わってはいない気がする。
例えば、現在日本で製作・発売されている音楽は発売後にカラオケで歌われて金を稼ぐことを重視されているので、カラオケボックスでの曲の回転率を上げる為に長すぎるイントロやギターソロなどは好まれないというのが現実らしい。ミュージシャンや製作者の良いものを作りたいという意思はあまり反映されておらずレコード会社主導で音源が製作されているのである。
やはり購買人数の桁違い差と国土面積から考えるとアメリカのレコード会社のレコード製作における考え方は正しいし、日本でいくら売っても・・・という日本のレコード会社の人の反論はあるだろうが、これまでロックを聴くのは中高生、大学生としか考えてこなかったので購買人数を増やせなかったというところは反省すべき点であり、自ら首を締めていたということだと思う。


さらに海外ライブツアーの話が本当に凄い。いわゆるフロントアクト、スペシャルゲストと言いながら前座で大物ミュージシャンと全米を廻るのだが、前座の為に殆どサウンドチェックも出来ない状態で一発勝負でほぼ毎回演奏するらしい。客入りの中で機材のセッティングをスタッフがやっている事もあるそうだ。ステージはメインのミュージシャンのセッティングの前方に前座である自分たち機材を並べるので、それ程広くなくむしろ狭い中で演奏をやらなければいけず、何から何まで相当大変だったそうである。しかも、モトリー・クルーと一緒に廻ったツアーは良かったが、AC/DCとは最悪だったらしく、客の態度が最低だったらしい。以前、同じ職場にいたラウドネスの熱狂的ファンの同僚によると、ギタリスト高崎晃氏がAC/DCのギターリストより遥かにギターが上手すぎるので客にブーイングされたという話を聞いたことがある、その同僚に借りたラウドネスの海賊版ライブビデオはステージに爆竹を投げ込まれていたことから、やはり当時は「なんで日本人がロックやってんねん?!!」みたいな風潮が大きかったのだろう。
本書は最初に書いた通り昭和63年つまり1988年の本である、今とは世界情勢も全く異なるし、生活形態も全く異なる。だからと言ってこの本が決して古臭いというのでなく、また懐かしいという感じもあるのだが、実はそれ程頻繁にそれは感じられない。なぜなら、これはこうだという著者が得た情報や知識を中心に書いたものでなく、著者の感じた気持ちが優先されて書かれているからだ。多少は著者の脚色があるにせよ、本書で語られているのは、日本という小さな島国で生きていると知らないことが多すぎるということだ。たとえ現在の様にインターネット云々で世界の出来事がリアルタイムに地球上に配信される事があってもそれは単に情報でしか無く、自分の体験や経験ではないので本質はなかなか伝わりにくい。売る側からみれば、本書はタレント本といえばそうなかもしれないが、感情的な部分を読みとることでこの本は単にタレント本では無いことが簡単に解るはずだ。

時はバブル経済の後期であったのだが、日本の電化製品は世界中で売れまくっていたが、結局日本の文化は殆ど海外で広まらずであった。そういえば本書でアメリカの寿司屋の話が出ていたが、いま日本の美容師と寿司屋は海外で稼げる職業である。

数年前に発売された二井原実氏の著書「singer」には、これ以降の事が詳しく書かれている、立ち読みしただけなのだが・・・世界的なメタルブームは数年後には終焉を迎え、ある日二井原氏がレコード会社へ行くと知り合いのレコード会社社員はだれも居なかったそうである。

それがアメリカの会社、レコード会社なのであろう。だから売れるレコードの製作には必死なのだろう。

2020年5月17日日曜日

悪の毒書日記 WILD SWIMMING  Daniel Start(著)

2020年 5月 17日

昨夜は、トライアスロン関係の友人達の遠隔飲み会にコーヒーとハリボで乱入。今後のレース開催や練習会再開の話になったりしたが、今年のマルチスポーツ関係のレースは殆ど中止(来年以降へ延期)ではないのだろうか?練習会の開催もどこまでの範囲で可能なのだろうか?という話で、かといって打開策やそれに替わることができる具体的なプランやアイデアはなかなか難しい。なぜなら、ガイドラインというかフィトネスクラブの営業に関するルールや定義が全くないからだ。
多分、オープンウオータースイムレース自体は、レース中の濃厚接触などは考えにくい世界なのだが、明らかにそれはレース中ということだけで、どのレースもレース自体よりもレース前後での人の集まりが問題なのだろう。
今年は、オープンウオーターレースの参加はどうなるのだ?と考えるも、個人的に言えば、実はレース云々の参加する?しない?について言えば、悩み尽くしたのは十年以上前の話なのである。当時は仕事云々で忙しく、練習時間もあまり取れず、数カ月先のレースにエントリーしても果たして現地まで行けて、参加して、ゴール出来るのか?と悩んでいた。そんなある時、当時のトライアスロン雑誌の「人生相談」みたいなコーナーで同様の悩みをもった人がいて、その回答が凄まじかった。要約すれば、「トライスロンはレースに参加してゴールする事がトライアスリートではなく、トライアスロンは自己管理のスポーツで、自分の能力を伸ばすスポーツである。レース云々よりも日々自分の成長に努力すればいいではないか!!」ということであった。これには目から鱗であった。その回答をされたのは、現在チームBRAVEの八尾監督である、隣の町内会の住人で同じ市町村に住んでいる。これ以降、小生はレースに出ることよりも日々の自分のスキルアップや自己管理について重心を置くようにした。

では、今年のレースはどうするん?であるが。プールでの練習もしていないのに、8月にレースありますよ!なんて今から言われても、少々困ります。つまり、今年はレースでないオープンウオータースイムを楽しめないだろうか? LOVE THE EARTH〜地球を愛する為に!!




数年前に購入した『WILD  SWIMMING』〜大英帝国での川、湖、滝のガイド〜である、これを改めて読んでみる。これが日本で出来ないか?!!!である。今年は海水浴場は海開きが出来ないという状況。もし勝手に泳いだとして、自警団みたいな奴らに警告されるのでは?というまるでファシズム国家のなれの果てになるのは必須。
それなら、山奥の川や湖でひっそりと少人数で泳いで楽しんだ方が無難ではないか。ついでにトレイルランも一緒にして、山奥の湖や川まで走っていけばベストではないか?。それはレース云々の為でなく、LOVE THE EARTH〜地球を愛する為に!!である。


この『WILD  SWIMMING』という本は実に面白い。さすが英国の旅行、旅に関する書籍やメディアは日本と異なり旅行会社などの広告が入って居ないので実に正直ベースだと言える。地図あり、最寄りの駅から歩いてどれ位か?、水質はどれくらい?水深は?などと詳細に記載れている。
写真も相当豊富に掲載されているのもありがたい。
なんと、日曜日の午後にペラペラと見ているだけで楽しい内容である。映画「ノッティングヒルの恋人」でもあるように、旅行書だけしか扱ってない書店の存在が日本では考えられない。しかし、そんな本屋が儲かっているかどうかは別の話なのかと。
ただ大英帝国と日本の川やダムの事象は日本と異なるので、これがマトモに日本に移行出来るかどうかは難しい。実際に、これを実施するには前もって場所を探して調査する必要があるのは必須である。いわゆるご近所のマイクロアドベンチャーであると言えるのだと思う。

先日SNSでオーストラリアのオープンウオータースイマーは日々、近所のダムで泳いでいる動画をこれでもかとアップして、俺を挑発するかの如くである。しかし、SNSは残念ながらこのままで行くと、相互管理の政府御用達のITツールになってしまいそうだ。そうなる前に、逆にテクノロジーを利用して、新しい社会と価値観を作っていきたい。
そして、
電波の届かない、山奥の川や湖でFREAK  OUT!したい。

★ ★ ★ ★ ★


  
目次は流石に充実じて、分類などわかりやすい。
犬も一緒にでもええやろ。

運河とちゃうんか?

2020年5月9日土曜日

悪の毒書日記 音楽入門 伊福部昭(著)

2020年  5月  9日

数年前にご近所にお住まいの電子系音楽家の方に奨められて購入したけど読んでなかった、いわゆる積ん毒状態から脱出させた一冊。本書は昭和26年に最初に発行された本らしく、どうやらその時はは小冊子であったようであり、その後何回か再発に至り本書は2016年に角川文庫からの再発であり。2003年の再発版には無かった、1975年に同人誌か何かに掲載された著者のインタビューを追加したものらしい。著者、伊福部氏は1914年生まれで既に2006年にお亡くなりになっておられる。



本人による「あとがき」にもあるように、今読むと時代遅れ的な部分もある。それは音楽的な話が古いとかでなく、その頃の研究では判明してなかった(科学的な)歴史的事実や昭和26年には無かった音楽技術を前提に書かれているからで、その為現在の世界を考えると成り立たないと感じる部分もある。当時はロックもフリージャズも生まれていないし、音楽用コンピュータやシーケンサーも無ければ、シンクラヴィア、シンセサイザーもムーグも本格的なエレキギターさえも存在していない、つまり開拓者であるジミ・ヘンドリックスもクラフトワークも現れていない。それを差し引いても今読んでも十二分に内容に存在感というか重みのある本であり、気付くことがあまりにも多い。いやこれは・・・・こうだろうと思ったが、それは音楽においての現在の技術だからできることだったりするという技術のなせる技である。

 伊福部氏といえばあの映画「ゴジラ」のあの曲である。あの映画があれほど素晴らしいのはやはり、あの音楽の力が相当影響していると感じる。もし、あの曲でなければ、あれほどの影響力は無かったかもしれない。「大魔神」の音楽も伊福部氏の作曲らしく、東宝の特撮は殆ど伊福部氏が音楽を担当されている。

音楽について書くのに、古代の哲学者やショーぺンハウアーの現象学まで引き出してきて説明する、ザッパとビーフハートが学生時代に二人で聴き込んだエドガー・ヴァレーズも本書では登場する、伊福部氏にはもはや敵わない。しかも元々音楽になろうとしたのではなく、北海道で地元の大学の農学部出身で、戦時中は木製飛行機の部品の製造研究をしていて終戦後にコロナ放電の研究をしていたら事故になって一年間休職。その後東京に移り色々あって東宝にてそれまで趣味で好きだった音楽の仕事で生きていくという凄い方なのであるが、本当は画家になりたかったそうである。
なんと1950年〜51年の僅か2年間に29本の映画音楽を担当しているそうだ。当時の映画音楽のほとんどは、脚本を読んで内容を想像して音楽を作るという手順だったらしい。しかも映画の内容は自分で選ぶのではないから、会社(東宝)からジャンル無法で指示されて、脚本を読んで作曲するっていう方法だったので、やはり相当量の知識と想像力の賜物であると考える。おそらく伊福部氏が農学部出身で、終戦前後に木製飛行機の部品製造に関する研究なんてしておらず、普通に音大卒業の人間であれば、これほど迄の功績は残せなかったのでは無いだろうか。
この本を読んでいくと明らかに前述の通り伊福部氏の知識量に圧倒される。しかも、音楽学校で音楽を学んだ方ではないのが、許容範囲の広さと脳ミソの柔軟性が凄かったのだろう。多分,E・ノイバウテンとか観たら絶賛していたのではないだろうか。
しかし、自分には「音楽」とは何なのかという疑問というか、筆者との意見の食い違いではないが、モヤモヤとした感じが残ったのだが、それが悪い感じではなく、脳ミソがその答えを求めようとして、何だか気分が良いのだ。

著者がこれだけの良質のアウトプットをするには、大量の良質なインプットが必要だと実感した、それにはそのインプットする情報が、情報なのか知識なのか、さらに自分にとって必要かそうでないかの判断できるスキルを磨かねばならない。良いか悪いか必要か否の直感は自分自身そのものである。小生は圧倒的にインプットが不足していると改めて実感した。さらに、尊敬するクリエイターが言うように好きなことは続けることの重要性、大切さ。最初は収入にならずともである。
ゆえに、芸は身を助ける、のであると。

2020年5月4日月曜日

悪の毒書日記 天使のいる星で 鈴木重子(著)

2020年 5月 4日

ラブ・ザ・アースだぜ!! と先月くらいから言いまくってた気がする。
以前、有名な日本の哲学研究者の方が、ジャズボーカリストの鈴木重子は良いと、言ってたのを思い出した。普通ならまず、ここで鈴木重子さんのアルバムを買うのだが、先に本を買ってしまうのである。
もし、これから聴こうとするミュージシャンが本を出版していたり、ブログでコトバを綴っているのなら先にそちらに触れるべきだというのは完全な持論である。コトバが面白いミュージシャンは出す音、奏でる音も面白い気がする。コトバだけでなく、考えてること、日々生きていくなかで何を想いながら生きているのかを、音を聴くよりも先にコトバである。
脳ミソの構造や各パーツの役目はよく解らないが、今までの経験でこの持論は当てはまることが多い。近藤等則に、44広瀬”Jimmy”聡は典型的な代表人物だ。ヴォーカリストに至っては、元々詩人になりたかったという人も居る。リチャード・ヘルなんてそのものだ。



今回は毒書でなく、読書である。
『天使のいる星で』は鈴木重子氏本人が日々感じたことを、数行のコトバで表現したのを集めて、イラストと共にまとめた内容である。コトバは非常にシンプルに纏めて余分なコトバは削られているのでなく、最初から思いつくことは無く、必要なコトバだけが浮かび、そのコトバを書き出して書かれているのかと思う。

その内容はあまりにもシンプルで、普通という日常が非常に大切だった、いや大切である。と、いま一度認識させられる。多分、本人は読者にそう感じてほしく書いたつもりは全くないのだが、昨今の事情が普段以上にそう思わせる。作者からは決して「こう生きようぜ!」なんて事は一切語られることなく、「こう生きています」とコトバを並べているに過ぎず、イラストがそのコトバ達の意味や重みを快く増長させている。 どこか哲学的なのだ・・・というと、かなり纏まりが無い表現なのだが、大切なのはいま現在だとか、人生は無限大の選択肢であるということを本当に解りやすく表現している。著者鈴木重子氏が「ここは◯◯の考えよ!」とか「マインドフルネスだわ!」とか意識して書いたとは絶対に考えられないが、多分著者の生き方の根底にある部分なのであろう。
そして、彼女は宇宙との繋がりを意識して毎晩、地球の上に生きている事に感謝して眠るらしい。
で、小生はアマゾンでCDをオーダーする。

これからは、地球を愛して生きようと日々想う。
LOVE  The  EARTHだぜ!!


2020年5月3日日曜日

悪の毒書日記 ジャズの前衛と黒人たち 植草甚一(著)

2020年 5月 3日
十数年前に職場の上司より頂いた植草甚一の「ジャズの前衛と黒人たち」、頂いたときは急いで読む気持ちに至らず最近になって読みだした。内容は小生の大好きな領域にもかかわらず、積ん毒(読)ならぬ天井裏へ禁錮刑であった。最近やっと真面目に本書を手にとってみたのだが、1967年の発行で本書は初版ではないが1970年に発売された10回目の増刷本であり、ちょうど50年前である、上司は現在七十歳近くで、本書をよく見ると当時の上司の蔵書サイン入りで、購入したのは1970年の6月当時塚口駅前にあった書店と思われる・・・いや大阪市内の書店か?の様である。さらに、愛読者カードは昭和45年10月まで有効ときた。



先日、本の読み方を教えて頂いた師のブログに、「本のこと、読書のこと」・・・というテーマの時に『読まねばならないという強迫観念から脱した時にはじめて読書の意味がわかる。見て選び、装幀やデザインを味わい、紙の手触りに快さを覚え、書棚の背表紙を眺めることもすべて読書だということ。(中略)急ぎ足で読むことはない。速読ほどさもしくて味気ない読書はない。著者が一気に書き上げていない本をなぜ一気に読まねばならないのか。』と書かれていた。
昨今の出版社不況の中、出版業界にもてはやされているのは、読書を進める有名人よりも多読、速読を薦める有名人を出版社の垣根を越えて担いでいるいるのがよく解る。それだけ本が売れていない、いや売れる本が無いのだと思う。もう速読なんどは御免だ、これからの人生はじっくり読書生活に浸るのである。

50年以上前に出版された、植草甚一氏の「ジャズの前衛と黒人たち」はどうやら、著者の初の単行本で、以降の著者の出版数は相当な数である。植草氏の文献のテーマは音楽、ジャズに限らず映画やミステリー小説・・・フランク・ザッパなどへと至る。しかもジャズを聴きだしたのは50歳手前で、71歳でお亡くなりになるまで二十数年しかジャズを聴き込んでいないにも係わらず、これだけの文献を書き、あれだけの書籍を出版できるのである。お亡くなりになられた時は古本屋数件分の蔵書があったそうである。しかも積ん読状態で。その写真をネットで見る限り、我々が積ん読してしまっているとか、アマゾン・KINDLEの中に積ん読してるなどというのは、植草氏から見ると幼稚園以下のレベルであり、鼻で笑われたら、笑われるだけ幸せだろう。

そんな方の本を、一気に読むのは明らかに著者の気持ちを反しているのではないかと前述の師のコトバを読んで感じた。本書を上司に頂いて約十年放置という熟成を得て読み始めたのも、これは何かの「縁」ではないが、「偶然」ではなく。本とはそういうものなのであろう。師の言うとおり、「著者が一気に書き上げていない本をなぜ一気に読まねばならないのか」である。しかも本書は40項目に分かれている。読んでも全く知らないミュージシャも出てくるが、中盤以降の話は個人的に格別に面白い。実は本書をすべて読んだワケでもなく、最初から読んだワケでもない。目次を見て、読みたいと思う、興味のある章を選んで喚んでいる。

特にESPレコードの話は格別である、あのESPレコードである!、サン・ラーのライブアルバムでピンぼけ写真をジャケットに採用するあのESPレコード。元々レコード会社はメインのミュージシャンにだけしか印税は払われて無いのが常だったが、サイドのミュージシャンへもレコードが売れたら支払をする仕組みをESPレコードは始めたそうである。創業者は本職が弁護士だということも面白く、ほとんど本職の弁護士の仕事はしていなかったらしい。また、本書では大好きなオーネット・コールマンや、セシル・テイラー、アルバート・アイラーの話題がよく出てくる。オーネットがハーモニーの研究をやりはじめたとか・・・そのきっかけはとか、ファラオ・サンダースという新人のミュージシャンが・・・などと実に面白い。しかし、尊敬するサン・ラーの章はさらに格別面白いのだ。今だから言えるのだが、サン・ラーは本人たちも管理できないくらいの音源をリリースしているのだが、自らの自主レーベルでも同じ盤でジャケット違いは常で、ほとんどが家内制手工業でメンバーが封入したりしていたとか、その為印刷の手配やなんかの関係で品質管理はアナーキー状態である、中身とジャケットが番うのもあったりしたそうである。さらにサン・ラーは海外ツアーなどでは現地で資金難になることはよくあることで、その都度その時にライブレコーディングしたテープを現地のレーベルに売っては活動資金としてグループを運営していた。その結果、色々な世界中のレーベルから計り知れない量の作品が発売されていて、本人達は解らずで現在では熱狂的な研究者による研究文献とネットの誰か知らない人が作ったDISCOGRAPHYが最新情報となっているのである。
また、今では「前衛」などとあまり言われないが、当時はアヴァンギャルドというよりも、前衛という言い方が主流というのはおかしいが、常だったと思う。頭脳警察の曲のタイトルに「前衛劇団”モータープール”」というのがあるくらいだ。タイトルは「ジャズの前衛と黒人たち」だが、それほど前衛的なミュージシャンが出てくるわけではないが当時はそれが前衛だったのだろうが、マイルスやなんかも出てくるのが、1967年以前のマイルスはまだ電気化前夜で、いまでいう普通のセンスが抜群のジャズであるが、これから面白くなるという以前のマイルスである。70年以降に植草氏が電気マイルスをどう感じたのか、植草氏の文献を探してみたい気もする。
植草甚一のコトバは、まさに「音が聞こえてくる文章とはこのことなのだ」と言える。文章のなかに、ジャズ喫茶で「勉強」と表現しているのだが、何の勉強なのか?と考えたが、それほど深く考えなかったが、「あとがき」にはジャズを聴くのは勉強とのことである。

読書を勉強だという人も居るが、それは人それぞれであり、ジャズを聴くのが勉強かといえばそれも人それぞれである。

趣味として読む、聴くのと、自分のなかで研究対象として読む、聴くのとは区別しているのであるが、植草甚一氏の文書を読むのは前者であり趣味である、そして日々、オーネット・コールマンは勉強、研究対象として聴くが、ジョン・ゾーンは趣味として聴いて楽しんでいるのである。

ESPレコード、アルバートアイラー共に名盤である一枚。





2020年4月30日木曜日

悪の毒書日記 マリアンヌ・フェイスフル As Tears Go By マーク・ハドキンソン(著)

2020年 4月 30日

「不要な外出は避けてください」という、政府の方針で週に2回ほど勤務先に行き、あとは引き籠りの如く自宅でパソコンとスマホで在宅勤務をして過ごしている。理由は説明は不要だと考えるが、新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐためへの政府のタイミングのズレた対応からである。世界中で何十万人以上の方が感染している感染症で、感染力は強いが病気としては弱いと言われながら、相当数の方のいのちを奪っているのも事実である。
その新型コロナウィルスに4月の初めに、マリアンヌ・フェイスフルが感染しロンドンの病院に入院中というニュースがネットに流れた。(その後、どうなったかは今日現在もネットのニュースには出てこない。無事に退院されていることを望むばかりである)
あのマリアンヌ・フェイスフルである。アニメ版:峰不二子のイメージの元になったマリアンヌ・フェイスフルである。正確に言えば、アラン・ドロンと共演した映画『あの胸にもう一度』の主人公レベッカを演じたマリアンヌ・フェイスフルである。日本では有名というか名作とされている映画『あの胸にもう一度』だが、実はマリアンヌ本人も評価が低く、いまだにアラン・ドロンが有名人で大スターの日本だけにこうなるのだろう。内容は本書でも触れていたが「いまいち」の映画だ!



今日読み終えた、「マリアンヌ・フェイスフル As Tears Go By」は彼女の自伝でもなく、本人に依頼された訳でもなく。マーク・ハドキンソンというライターが彼女の周りの親しい人物などに取材をしてまとめあげた本であり。本人もマリアンヌの母親もマーク・ハドキンソンからの取材を断っていたようで、悪く言えば勝手にライターであるマーク・ハドキンソンが書いた本である。嘘っぱちや当時の曖昧な記憶を証言した人の話を真に受けて書いた部分もあるかもしれず。良く言えば、他人が書いたから本人から見れば客観的に自分を振り返られるかもしれず・・・記憶に無い自分に出くわすことができるかも知れない。
仮に事実の事象が一つあったとしても、それを複数の人が体験した事実の場合、嫌な感じを受ける人もおればそうでない人もいるので、事実とは人の感じ方によって変わるものである。
しかし、この本を読んで感じたことは、覚醒剤の依存症というのは恐ろしく人間を破壊してしまうという印象が大きい。60年代後半の文化をそのまま70年代、80年代半ばまで引きずったマリアンヌの生活は読んでいて恐ろしく感じることもある。
あのミック・ジャガーでさえ、マリアンヌのドラッグやり過ぎに注意した位である。実際にはミックが彼女を捨てたのではなく、むしろその逆のようだ。マリアンヌの連れ子と別れたミックはマリアンヌと別れたことよりも、かなり落ち込んだそうである。なんてミックはいい奴なんだろうと思ったりする。
結局、唯一ヤクの売人が自分を何の隔たりもなく扱ってくれる人間だと勘違いしてしまうほどである(ヤクを買ってくれる人なら職業、性別、人種、年齢、経験を問わず平等に扱ってくれるので)。

多分、人間辞めますか?覚醒剤辞めますか?と言われても、人間辞めますという行動に出てしまうのだろう。結局、マリアンヌは当時のパートナーがビルの36Fから将来を案じて飛び降り自殺をしたことで薬から足を洗うことを決意する。
昨今のニュースで話題の休業要請が出ているパチンコ店に行く人は、人間辞めますか?パチンコ辞めますか?で人間辞めます!というタイプの人で、それがギャンブル依存症というものなのだろう。この状況でもパチンコに行く人は残念ながら依存症なのである、それを解らずパチンコ店名を公表するとどうなるかは、少し考えれば解るはずでは無いのか?

そんな今の話題を省いても、人間の恐ろしさを知るには色々な意味で面白い内容であったし、音楽メディアやマスメディアが60年代後半、70年代当時に書いていた内容とはやはり食い違いがある、Rストーンズやその周辺の話はやはりゴシップと呼ばれる内容で誇大解釈を報道したものが多いようである。だがそんな世界に十代の後半から運良く簡単に成功を手に入れてしまった、貴族の末裔であるマリアンヌ・フェイスフルは楽しくもあり辛い世界を歩み続けてしまったのだと思う。もし・・・・だったら、・・・・だったのにというのは、いまさらである。
そんなことよりも、最近のマリアンヌの活動を見ている方が面白い。本書は90年代初頭で終わっていて、以降の活動には書かれていないが、90年代以降の彼女の作品は実に面白い。それまでの過去の出来事を精算することは出来ないが、それに匹敵するのではないだろうか。

やはり人生は、今を生きることなのだと改めて感じた。

2020年4月18日土曜日

悪の読書日記 プロの尼さん 露の団姫(著)

2020年  4月  18日

露の団姫(つゆのまるこ)さんを最初に観たのは繁昌亭の夜遅く始まる金曜日の公演の時である。いまから一年ちょっとまえ、露の棗さんが『餅屋問答』という餅屋の大将が坊主に扮して、問答勝負に挑んできた旅の僧侶との戦いを挑む話である。その一席のあとにスキンヘッドの露の団姫さんが現れた、座るや直ぐに「偽物坊主の噺のあとに、本物の坊主が現れました〜」と言って団姫さんは一気に繁昌亭の客先を笑いに包んだ。
どうしてこの噺家は、噺家と僧侶をやっているのか?と考えたが、その時はあまり深く考えなかった。一昨年より、マインドフルネスの本を読んだり試したり、その関係で仏教の本を読んだりしているので、この噺家:露の団姫さんについて知りたくなり、彼女の著書を一冊手にとってみた、
『プロの尼さん 落語家・まるこの仏教修行』。



著者は単に興味本位や、ちょっと仏教学んでみたら興味があったので二足わらじで噺家と僧侶をやってみようとか、軽いきっかけ・・・というわけでなく。純粋に落語、宗教や仏教をココロより愛する女子高生が高校卒業後にまず噺家になり、そして尼さんにもなったという事である。なんちゃって尼さんってことでは全くない。団姫さん自身が高校生の頃に思い悩み自殺しようと思ったけど仏教に救われたという筋金入の仏教徒である。

同じ仏教でありながら、最近よく読んでいるドイツ人ネルケ無方氏の書籍と比べると、圧倒的に露の団姫さんの本はコトバが軽いのである。
ネルケ無方氏はやはりドイツ人、彼の本はやはりジャーマンメタル・仏陀イズムの如く硬い。これがまたなんとも言えず魅力であり、団姫さんの文章はこう書くとかなり失礼なのだが、対照的なのだ。団姫さんは噺家でありここで硬い文書は場違いだろう・・・いやそれだけでなく、これは噺家とか職業や宗派といより、ここに行き着くまでのお二人の人生の違いではないんだろうか?

ネルケ無方氏は仏教に至るまでにハイデカーやフッサールの哲学を学んでいた経験があるそうである。その為か文章の中には、「いま一瞬を生きること」が行間に見え隠れしている気がするし、言葉の一つ一つがやはり固く感じて、コトバの向こうに強さを感じる。団姫さんは「死んだらどうなる?」という怖さを感じた幼少期、宗教と仏教を学び落語を通じて仏教を広めたいという気持ちである。同じ僧侶であり、噺家という武器にもなる職業にてハードルはかなり下げて『みなさん、誰でも入ってきて下さい!』と、かなりオープン気味である。
多分お二人の最終の最終ゴールはよく似ているんだと思うのだが、過程は大きく異なると思う。勿論どちらが正解とか間違いなどというものは無く仏教の道そのものなのだが。もし、この本を単にタレント本と読者に思われると残念であり、そうなって欲しくない。

しかし、二人の言っていることが同じな事がある。それは日本人の宗教観である。
日本人は自分のことを「無宗教」だというが、行動は仏教の影響をかなり強く受けている。それなのに「無宗教」ですと普通に言ってるが。どこかで必ず神仏に頼った経験がある。ネルケ無方さんに言わせると、マインドフルネス(瞑想だけのことではない)しなくちゃ・・・みたいなことを言ってるが、既に日本人の生活の中にマインドフルネスが入り込んでいるという。日本人の大人が子供に教える道徳観はどうみても仏教の世界だそうである。
我々は格好つけてか、あまり宗教の話題は避けたいのか「無宗教」ですなんと言ったりするる人も少なく無いが、行動や道徳観はやはり仏教思想に準じているのであろう。


昨今の新型コロナウィルス騒ぎで、社会が大きく変わろうとしている中で、かつての日本人のココロの中の道徳観は消えないで欲しい、むしろこれが世界標準にならないものかと思う。「ワンチーム」だなんていう、メディア優先の嘘っぱちのココロでなく。
いまだからこそ、もういちど過去から学び、考えなおして新しい世界を見るべきではないだろうか。

その為には、お寺の住職、僧侶一人ひとりも、葬儀屋家業と法事要員から脱出する必要もあるのだと思う・・・

ちなみに、露の団姫さんの目標は、
噺家としての目標:名人になること、
尼さんとしての目標:自殺する人を少なくすること、ゼロの世界をつくること。
である。

小生のオープンウオータースイミングの目標:世界が平和であるべきだと広め、国家間の戦争を無くすこと。
友人Anna Wardleyのオープンウオータースイミングの目標:自殺する人を減らす為、両親が自殺した子供達への基金の運営費用を集める為である。Annaは仏教徒ではない。

そして、
元噺家の明石家さんま氏は言っている「生きているだけでまる儲け」であると。

2020年4月16日木曜日

悪の読書日記 曲げないドイツ人 決めない日本人 ネルケ無方(著)

2020年 4月 16日

本日の日本こそ、このタイトルにふさわしいと思う日はない。30万円配りまっせと、自慢話全開の面での内外へのいつもの嘘っぱちのアピールは、本日一律10万円と・・・・これも正体不明の話。やはり『・・・決めない日本人』なのであると思う、偶然か否。


最近非常によく読むようになったネルケ無方氏の著書『曲げないドイツ人決めない日本人』。著者の本を読めば読むほど日本という世界といわゆる外国の差を感じる事ができる。昔々の極端な外国人を集めたテレビのバラエティー番組とは大違い、考え深いところが多い。

本日もテレビの向こうのリアルな世界では今日も何も決まらず一日が終わる。見えない処で政治家はあの手この手でやるべき事をやっていても、それが実績につながらない、成果にならなければ「やっていない」のとおなじと考えるのがドイツ人 (ドイツ人でなくても、小生もそう思う)。ドイツ人が「◯◯さんはがんばっているよ!」と言うのは、◯◯さんをけなしている意味であり、「結果がでないなら頑張っても意味がない」と考えるのがドイツ人らしい。日本人は許容性が大きのか?「まあまあ・・しゃあないなあ」とやはり農業中心でこれまで千数百年生きてきたので天気はコントロール出来ないしなあ~という生き方から逃れることが出来ず、いまでも「しゃあないなあ」と考えるのかもしれない。
その為、結局我々日本人は「がんばったのに残念だったね!」というこの甘さ加減でここまで来てしまったのがすべての失敗だったのかもしれないと、個人的には思ったりする。
なんでもかんでもどっち?どっち?と、アニメの主題歌みたいになってしまう。

そもそも今日の10万円の話で、昨日までに話題の30万円に至る検討時間が既に活動した時間が無駄である。それは一人の時間でなく、組織の時間としてでもある。これが許されてしまうから日本人は生産性が低いのだろう、ゆるゆるで傷を舐めあってるのだ。30万円、10万円の議論についてとやかく言う人が多いが、検討した時間が無駄であるという批判をする人は居ても、圧倒的にそれは少数派なのである。
ドイツ人は理想優先でも「やる」と決めたらひたすらそれに突き進む、とにかく現実はあとからついてくるから走りながら考えるのだ!の如く突き進み、日本人は「やる」ことを決めたら「でも現実は・・・」と、もじもじ考えて、いつ決まるねん?という大きな国民性の違いのようだ。どっちが良いのか悪いのか、それは時と場合によるものかと一瞬考えたが、それが緩いというあいまいな理由かもしれず。ドイツ人なら兎に角進むしかないんだろう。
なぜ、そんな頑固なドイツ人の性格のなかから、ナチスが出現してしまったのか?その答えが本書には載っていた、その理由があまりにも怖ろしい。
それは、第一次世界大戦の敗北で経済的に落ち込んだドイツの人々は「これからどうなる?」という不安に陥り、みんながどうするべきか自由を求めて議論しつくしたが結局はまとまらず、ドイツ人は心底疲れきてっしまった・・・。そこへヒットラーが現れて「こうすればうまくいく」と言った。疲れ果てていたドイツ人は、
『自分の頭で考えるのがしんどいから、あえて自分の頭で考えるのを放棄して。ヒットラーに飛びつきました。その結果大変なことが起きたのです。ヒットラーは言論の自由があったからこそ誕生した人物であるといえます。(本書より抜粋)』
どこか状況が似ていないだろうか?、しかし幸いな事に現総理大臣はヒットラーの足元にもおよばい演説の下手さと、穀潰しに匹敵する嫁のおかげで現段階ではヒットラーの様な独裁者にはなれない。
しかし、控えの木偶人形は控えているのだと思わねばならない。

世論の話題と関係あるないにかかわらず、我々に必要なのはやはり『自分の頭で考えることを放棄しない』ことだろうと強く思う。これからどんな事があっても。
そんなことを想いながら、ここも変だよ日本人…と考えながら読み終えた。


2020年4月12日日曜日

悪の読書日記 大衆の反逆 オルテガ・イ・ガゼット(著)

2020年 4月 12日
本書は第一世界大戦後1930年に書かれた文献である。
後に著者オルテガが経験した第二次世界大戦、ナチスの暴走。大東亜戦争での原爆の使用などの報道の後に書かれていたなら表現は大きく変わったであろうと考える。だが内容の本質はそれほど変わらないのではないだろうか。



「大衆」は今も変わっていない、
『人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。
第一は、自分に多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんら特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外の何者でもなく、したがって自己完成へ努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。
中略
つまり自分の人生に最大の要求を課すか、あるいは最小の要求を課すかである。したがって社会を大衆と優れた少数者に分けるのは社会階級による分類ではなく、人間の種類による分類なのであり、上流階級と下級階級という階級的序列とは一致しないのである。(抜粋)』

結局、我々人類は1930年以降、何も変わらず2020年も風のまにまに漂う浮標の様に流されているのではないだろうか・・・・と思う日々。しかし、この本はそういったことを書き綴った文献ではない。
大衆が反逆を決起し、これまでの風のまにまに漂う浮標から脱するのはありえるのか、この今。
自分自身どうやって生きていくべきがと日々でなく、一日何回も考える日常である。

今日現在の今の日本での本当の敵は新型コロナウィルスなんかでなく、今の社会状況であると考える。
本書の『慢心しきったお坊ちゃん』の時代、まさにこれなのだ。本書では貴族の世襲となっているが、この時点で普通の人間であれば何を言いたいのか想像がつくはずである。
いわゆるこういったタイプの人が国家の舵取りをすると危険極まりないということである。
どうして日本ではこういった人々が国家の舵取りをしているのだろうか?

簡単な話、
大衆は反逆せず、風のまにまに生きているからだろう。
その割には文句だけを言い続ける、選挙にも行かないのに。
反逆をするのは今しかないだろうと思うのだが。

2020年3月20日金曜日

悪の読書日記  いのちは即興だ 近藤等則(著)

2020年 3月 19日

先週末に近藤等則の新作二枚が一般販売を前に届いた。今回は六枚同時発売という素晴らしき非常識というファン泣かせである。流石に一気に六枚は買えないので、今回のメインであるIMAバンドのライブアルバムと近藤さんのソロアルバム『Born To The Blue Planet〜toshinori kondo plays Melodies』を購入するに至った。

二枚の内の一枚『Born To The Blue Planet〜toshinori kondo plays Melodies』はジャケットから素晴らしく、ジャケットの素晴らしさと音の内容の素晴らしさは比例するという、EBTGのトレーシー・ゾーンのソロアルバムに匹敵する内容だった。
そのソロアルバム『Born To The Blue Planet』のサブタイトル『 toshinori kondo plays Melodies』にある「melodies」というコトバがふと気になった。普段ならこんなことはない。いまから10年くらい前に発表したアルバムに『Silent  Melodies』というアルバムがあった。これは小生には珍しく近藤さんのアルバムで数少ない愛聴盤である(IMAバンドが素晴らし過ぎて、ソロアルバムでは『Silent Melodies』と『Touchstone』しかスマホに入れてなかったが、昨年『ラッパ富士』を購入してスマホに追加した)。
『Born To The Blue Planets』はIMAバンドの音とは真逆の、いわゆる静かな曲が収められたアルバムだ。



そして、なぜか急に近藤等則の著書『いのちは即興だ』(2008年に出版された本)を読みたくなった。この本は表紙以外、内容は殆ど記憶に無いのだが、何だか急に読みたくなった。ただそれだけで早々自宅の天井裏から苦労して本の山から探してきた。
この本には『Silent Melodies』について書かれていた。
 沈黙と音を分けることはできない
 それは生と死を分けるよう
 沈黙から生まれるメロディーがあり
 そのメロディーかが鳴ることで沈黙が姿をあらわす
 沈黙から命が生まれるとしたら
 沈黙はいつもいのちと共にある
 沈黙の響き
(「いのちは即興だ」:第7章ー音の可能性『サイレント・メロディーズ』より抜粋)



このアルバム『Silent Melodies』をかけたら、部屋に居る人に「静寂」があって欲しいと考えて製作したアルバムらしい。その「気持ち」もアルバムには入っている・・・。偶然か必然なのか、読書は読む前から始まっているという某有名クリエイターのコトバを思い出した。

久しぶりに『いのちは即興だ』読んでみると、古ぼけていないというか時代を感じさせる事が全く無い内容である。今日発売でもいい内容なのである、発売は前述の通り2008年、ちょうど12年前であるが、つまり一昔前から近藤等則というミューシャンの言ってる事、訴えていること、メッセージにはブレが無いなであり、世間は進化していないのである。近藤等則は一貫して同じ事をいい続けているのだ。俺の人生を狂わせた一冊『我がく闘かえり』とコトバや表現は異なるが、内容の根底にあるものは全く同じだ…つまり何十年も一貫して同じメッセージを放出しているのだ。
日本にそんなブレない政治家いるか?


多分、いや絶対・・・
近藤等則は音楽家、ミュージシャンでありながら実は『革命家』なのだと思う。

IMAバンドの頃は歌を唄いメッセージをコトバで伝えていた。25年ぶりに復活したIMAバンドでもコトバのメッセージを発信している。そしてこのように書籍を介してコトバでメッセージを伝えているが、本来はトランペッターである。音だけでココロを伝えるのが本職だ!
そして、革命家の一貫したメッセージは、僕にはこう聞こえるのだ‥‥

まず、『自由になれ』と。
それはアナーキズムで世界秩序を一旦破壊してしまえみたいなレベルの話ではなく。誰が決めたか解らないルールに縛られて楽な生き方をするのでなく、自分で考えて型に嵌まった世界から抜け出せ!。
近藤等則の奏でる音は常に変則のフリーフォームが殆どだ。IMAバンドはギター、ベース、ドラムという構成であっても、完全機械のシーケンサーが入ったり、DJがターンテーブルで決めたりと組み合わせが無限であるということを証明している、IMAバンド以外では電気トランペットと何とかというくらいに無限の組み合わせ、自由な型で表現を続けている。音楽に国境はあるがミュージシャンには国境はない筈だという近藤さんは、常に世界レベルで動いて、地球レベルで物事を考えているのだろう。
日本人はいつしか誰も決めていないルール‥‥大学を卒業したらすぐに就職しないといけないとか、サラリーマンは家を買わないといけない。モノを買って消費ばかりする生活。そんなルールでもないことに、気がつけば誰かの悪巧みでうまく縛れているのでないだろうか。
そこから脱出するには個人々が考えて行動しないといけない。そんな世界から解放されるのだ!と電気トランペットの音が響いている様に感じるのだ。

そして『地球という乗り物に無銭乗車している』ということ。
地球という星に生まれて生きているだけ幸せ、まず幸せありから考えるべきだろ。いつしか我々はそんな事を忘れて自然を壊して壊して修復が出来ないレベルまで来てしまった。そしてその事をやっと最近気がついたけど。だれもどうしたらいいのか解らない。
せっかく地球という乗り物に乗っている、乗せさせて貰っているんだから、「一瞬」。一瞬を大事に地球と一緒に生きようぜ!と、そういった革命家の「気持ち」も音の中に感じるのだ。


真剣に近藤等則という革命家の音楽を聴きながら考えることは、『地球の重力からも自由になる』ということ。
近藤等則のアルバムを聴きながら、聴いている自分が地球の周りを漂いながら地球を眺めている姿をイメージすると、重力からも開放されるように小生は感じる。そしてそんなふうにアルバムを聴くことがよくあり、そんな気持ちにさせてくれるのである。

******

2019年末より暴れだした新型コロナウィルス。発祥や出現はいまだに謎であり、詳しいことや事実は解らないが、これが地球の悲鳴なのかどうか。またもし、そうで無いのであれば、明らかにこれは人類への挑戦だと思う。
人類が初めて一つの共通の目標に向かって走って掴んだ成果は「オゾンホールの縮小」だったが。今回はそんなレベルではないのだ、これは人間個人々への挑戦なのだと思う。

こんな時に必要なので、国家総動員法的な押し付けられたような考え方でなく、人間一人々が真剣に考えて行動すること。お馬鹿な政府や間抜けな知事の言ってる事を真に受けて地球と人類を破滅させるのかと。
もう、これまでの考え方や生き方で地球という乗り物に乗っていたのでは通用しない。その為には人間は『自由になる』しかないのだろうか。

2020年3月15日日曜日

悪の読書日記  オリジナルズ アダム・グラント(著)

2020年 3月 15日

 『オリジナルズ:誰もが「人と違うこと」ができる時代』を読破する。久しぶりにこういった本を読んでみた。良かったのか悪かったのか、この本は決してこういったふうにやりましょう・・ってな事は書いていない。過去の大学や研究機関の調査では、こうこうこうなのだ!という数値的な情報と実際にあった内容を組み合わせて解りやすく統計的な内容が書かれている。決して、上手く行く企業の法則1.2.3.・・・・という事はないし、アイデアはこうやって作ればバンバン出てきまっせということも一切書かれていない。


タイトルのオリジナル。本書でもすらっと書かれていたが、現時点で本当に「オリジナル」というのは存在していない。過去に誰かが作った、改良した、誰かと誰かのアイデアを組み合わせてなどというアイデアなどを、「いま」組み合わせるか、改良するかで「オリジナル」である。

そういえば昔、SUN・RAアーケストラのライブアルバムをウトウトしながら聴いていた時のことである。ウトウトした状態で野球中継を観たりラジオの実況中継を聴いていると夢の中で野球場に居ることがよくあるのだが。この日はSUN・RAのライブアルバムである。
珍しくSUN・RAアーケストラのバンドメンバーにギタリストが居たらしく、しかもギターそろとかを弾いている・・・このギターの音色とギタリストが奏でるメロディーが小生にとっては問題だった。夢の中でSUN・RAアーケストラのギタリストになってギターを奏でているのである。普段自分が出すような音で自分が弾くような音階を奏でている、しかも次の音はこれだ!と思う音が次から次へと出てくるではないか・・・小生は気持よく夢の中でSUNRAって過去の人だったという事も忘れている。
目を冷まして現実に戻ったが、そのライブアルバムって何十年か前のアルバムだったことを知り、自分が出している音って、やっぱり誰かの焼き回しだったのかと思いながら・・・CDの裏ジャケットの無名のギターリストの写真を眺めていた。



さて、本書で小生が最も理解したことはただひとつ、アイデアというのは大量に考えて算出しないといけない。1つ、2つと少量のふとひらめいたアイデアを大事に大事に磨き上げるよりも、大量に産み出す事がアイデアの質をあげる近道である。

尊敬するクリエイターは、思いついた、閃いた・・・といアイデアはスマホのメモに打ち込んだり、吹き込んだりしておくらしく、あとから見ると記憶にない内容もあるとか、先日もメモの中に「乳酸菌」と書いてあったが、全く書いたことすら記憶にないらしい。
しかし必要なのは大量に産み出すことで、前述の通りそれが質を上げる近道である。そのクリエイターはアイデアは移動距離に比例するという持論があるほど移動が多い、アイデアが一番でやすい環境はリラックスしている環境と言われている。つまり交通手段で移動しているときが、そのクリエイターにとってリラックスしている状態なのかもしれない。

そして最後に必要なの産出したアイデア群の中からどれを選定するかであると。アイデアが無い人は、アイデアが出ないと悩むのが問題なのではなく、どのアイデアを選定するかが最も大事なことだと理解すべきだと・・・アイデアの打率は三割。ホームラン王の王貞治の打率もそんなくらいだっただろう。GOOGLEでさえSNSをやりはじめて失敗して既に撤退している。


また、世界を創造する人の特徴は「反抗的」、「廻りと同調しない」、「好奇心が強い」というところだ、アップルの創業者を思い浮かべる人が多いと思うのだが、正直結果論としては、あんな経営者は社員の立場からみればたまったものではないだろう。

2020年3月8日日曜日

悪の読書日記 もういちど読む 山川倫理 小寺聡(編)

2020年 3月 7日

あの佐藤優氏が推奨する『もうしちど読む 山川倫理』を読んでみた。
高校の時、理系コースだったので倫理は勉強していないと思うのだが、高校の時にこの本の内容を学んでも多分、全く記憶に無かったであろうと思うし、やはりこれを高校生が読むなら例えば、読むという勉強よりも映画やなんかを観て考える方がいいと思うのだが、自分の高校時代を振り返ると、『考える』という時間はあまり無かったのかもしれず、考えた事で記憶にあるのは・・・「パンクロックで世界平和が実現できるか?」程度で。いまもこの結論は導き出せていない。映画みてレポート書いてこいと教師に言われて、まともに書いて提出しただろうか?



しかし、どこかの高校で教材として『未来世紀ブラジル』が使われていることを聞いたことがある。
もし、高校の倫理の授業で使うとすれば『ハンナ・アーレント』がお薦めだと・・・あとフィクションからノンフィクションになった『1984』とかも。
ここまで書いたが、今だから「ハンナ・アーレント」について書けるので、高校生の時の頭でこれを観てどう小生は感じる事ができたのか疑問でかつ怪しい。


さて、「もういちど読む山川倫理」だが内容的には「もう一度」では無い事は前述の通りで「はじめて」が殆どである。
しかし、色々な哲学の本でも必ずと言っていい出てくる「デカルト」については、どの本を読んでも面白い。
「いったい俺は誰なのか」「俺の存在は何なのか?」それは本書でも同様、
そして『世界十五大哲学』(ちくま文庫)の「Ⅴ.デカルトの哲学」の章を読みなおす。
やっぱりこのデカルトという人はおかしいというくらい面白い。
「すべてのものを疑うべし」

***

最後に明治、大正時代に、与謝野晶子が1904年に日露戦争へ批判的な作品を作り『明星』が発禁処分を受けたエピソードも載っている。歴史の時間で本来重視しなければいけないのが、江戸幕府末期以降の明治時代〜大正〜昭和初期の1945年前後のあたりなのだが、多分、倫理の勉強をするのであればこの部分の歴史の時間を2in1のワンセットで学ぶ方が良いのだろうと思う。以前、ラモーンズを心から愛する友人が、この時期の歴史の時間は一年間掛けてやったほうがいいのでは?と言ってたがまさしくではないかと過去の記憶が繋が・・・「やりなおし山川倫理」を読んで思った。

我々はもっと考えなくてはいけないのでは?決して答えがでないとしても。
常識ということは怪しい、いまは正解だが、過去と未来で今の「常識」はどう判断されて今後どう判断されるのか?だから今、ひたすら考えるしかないのだろう。

この本を読んで教養は身に付かないし、「1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365」を読んでも教養は身に付くことはありえないが、明らかに安倍晋三夫妻よりは賢くなれると想う。

2020年3月6日金曜日

悪の読書日記 違った意味で人生を変える南の島々 高城剛(著)

2020年 3月 6日

本の読みかたを教えてくれた人物は複数存在する。その中の一人がクリエイターの高城剛である。



本は読む前から読書だ、本を選ぶところから読書は始まっているという高城氏。本を買うために食費を削った時期もあったという彼の人生相談(単なるQ&A)には本を読んだらどうだというアンサーが多い。貪るように本を読もうとしているいま、自宅の寝室は積ん読の山と日々Amazonマーケットプレイスとメルカリで購入した本が積まれている。ベッドの上にはWIREDの最近発売された五冊が積まれ、ベッドの上の寝ながらビデオと音楽も聴くAmazonのKindleのなかにはまだ読まれていない本こと電子書籍も存在するなど、年内本を買わなくても良いだろうと3月の初旬にも関わらず思うのだ。
思っているのだが気がつけば日々メルカリやAmazon、Amazonマーケットプレイスから本が送られてくる。
時々届いた封筒に記憶が無いときがあり、封を開いて買ったことを思い出す。もはや古本屋ではないかと思うのだが上には上がいるのだ。大抵そんなことである。本当にすごい奴は本を買い過ぎたなんていう発想は起きない。俺はまだまだ‥‥そんな奴等の足元にも及ばないのだと自分を納得させてまた本を買う。読むペースと買うペースは開くばかり。しかし、速読なんてつまらないことはやりませんよ。

平素お世話になっているとあるスペース‥‥‥とある企業の会議室兼図書室で勉強スペース。ここのオーナー兼主催者の蔵書本が綺麗に並べられている。その冊数は忘れたが。このオーナーであり主催者も本の読み方を教えてくれた一人である。このオーナーがここでしか読めない一冊しか存在しない本とか作ろうか‥‥と最近言ってこられた。いきなり言われても思いつくのはポルノ小説かなとアホなことが一瞬脳みそをかすめる。書きたい本は「お話し」でなく日々思ったことを纏めた内容の方がいいのかと考えたが、それってこのブログじゃんか?と。
何を書けばいい?
そういえばハリー・ポッターの作者J.K.ローリングの最新作の本は一冊しかなくて、それがオークションでとてつもない高額で競り落としたのはAmazonの創業者だった。一冊しかない本、いつかは誰かがオークションに出品するほどになるのか人生は迷走だ。ハリー・ポッターの作者は健在だが、カフカは死んでから書いていた本が出版されて有名人になった、本人は知ることもなく。

尊敬するクリエイターの高城剛は南の島の夕日を写真に撮ることを生き甲斐としており、彼のトークショーでは彼本人が撮影した南の島の夕焼けが使われることがある。そして数冊『人生を変える南の島々』という本を出版している。取材から写真とコトバは全て高城剛によるものである。そして2016年の12月、彼のトークショーで『違った意味で人生を変える南の島々』が記念品として参加者へ配布された。




これは真意か否、読者が間違えてとんでもない南の島に行かないようにとのガイド本である。数日前にメルカリでやっと購入した。
届いて驚くのは本のカバー(?)と実際の本である。やり過ぎやろ?と笑わせる演出というかこういった面白さは本好きにしか理解できず。紙の本の良さを理解し尽くした高城氏であり、しかし買っている本は電子書籍っが圧倒的に多いそうだ。確かに仕事柄移動が多いと電子書籍ほど素晴らしい物は無いと思う時があり、小生も四国の高知県へ向かう高速バスの中で電子書籍を買いまくる事をした経験がある。ただ装丁とか紙の質感とか、このページの右側のこの辺にこう書いていたなどという記憶や感触などの表現できない感覚がないのである。

それに比べるとこの本は面白い。真逆だ!本の世界を知り尽くしたというだけでなく、本の世界に取り憑かれた男の面白本、しかも『非売品』でAmazonでは売っていない。内容はもっと面白い・・・
日本のテレビで、楽園だ!素晴らしい!、美しい!ってな感じで紹介されている南の島が、実はとんでもない島だったりするそうだ、その島も紹介している。ほかに、米軍の基地があってリアル秘密基地の為、地図に無い島。旧日本軍の軍艦が周りに沈む島、毒蛇の無人島、テロリストの島、ゴミの島、昔ボブディランに楽園と歌われいまは廃墟の島・・・悲しいのが太平洋戦争以前は日本の領土だった島が多いということ。日本が強かったとか、昔の日本は・・・でなく、先進国の勝手な態度で本来住んでいた人々の人生や生活が無茶苦茶になったんだろうと思うと悲しい。あまりこのあたりの話は出てこないし、よく我々が先の戦争での悲しい話をしたり、サイパン島の海に残る日本人の遺骨の話をするが、まだまだ南の島へ行けば沈没した日本軍の戦艦と共に遺骨が沈んでいるんだろうと思う。
高城もこんな海でダイビングして沈没した日本の戦艦を見ても何だか・・・ってな意味のことを書いている。


しかし、日本のメディアで絶賛美しいと賞賛された島が実はこんな島だ!と紹介されているそうで、メディアの戦略とは怖ろしいと感じるのである・・・そんな旅行会社とのタイアップで発売されている旅行書でなく、リアルな旅行書である高城剛の『人生を変える南の島々』シリーズの『裏本』である『違った意味で人生を変える南の島々』。まさに本来の旅行書であり、すばらしき紙の本であると言えるのである。紹介された島々には絶対に行きたくない。



2020年2月29日土曜日

悪の読書日記 じゃりんこチエ(1) はるき悦巳 (著)

2020年  2月  29日

笑いとは免疫力を上げる方法の一つで、笑うことで免疫力があがるだそうだ。今自宅で出来る新型コロナウィルス対策は笑うことであると言える。
関西で生まれて暮らして五十年ちょっと。織田信長が部下に謀反を起こされて殺されている歳を越えている。
「笑い」一つを考えても奥が深いのは当たり前だが、普段お笑いといえばテレビで観るのが殆どで劇場までお笑い芸人を見に行く事はなくお笑い芸人を見に行かないが色々な場所へ落語は聴きに行く。漫才師と落語家の決定的な違いは後者は伝統芸能(芸術でなく)であり、プロになるにはそれなりの時間が必要で漫才師やお笑いタレントや声優の様な養成学校などは存在しない。落語の深さが解ってきたのはここ数年のことである・・・



昔々、上岡龍太郎氏がテレビで大阪の笑いと一言で言ってもキタ(梅田)とミナミ(難波)の笑いは異なるものであると言っていた。あっ、ほんまや!とその時はたと気がついた。そうである、もっと言えばキタの笑いとミナミの笑いと新世界(動物園前〜通天閣周辺)の笑いはまったく異なるといえる。一概には言えないが北へ行くほど上品かもしれない。そして南へ行くほど下品かもしれない・・・。特に落語ではなく漫才など、「古典漫才」なんて存在しない世界は地域性がハッキリとするのではないだろうか?しかし、現在は吉本興行、松竹芸能の劇場はキタ(梅田)にはない。また現在は海外からの観光客が大阪の街で大量の買い物をしていたりと、昔々の笑いの感覚というかセンスが相当異なると言える。先月新世界へ何十年ぶりに行ったが古いものと新しいものが同居した「串かつ」の街、串かつパラダイスになっていた。でも下品さはまだ変わらず、まだまだ残っていると感じた。
それが少し嬉しかった。
そんな下品ともいえる地域を舞台にした漫画『じゃりン子チエ』を何十年か振りに復刻版(文庫サイズ版)を購入してみて久しぶりにじゃりン子チエで昔の動物園前位周辺へタイムスリップした・・・・。最初にこのアニメを知ったのは劇場版じゃりン子チエ。小学校の五年生か六年生の時であった。祖母とミナミの映画館へ観に行ったのである。劇場版のじゃりン子チエはTV版とは異なり声優が主要人物(チエ、テツ、ミツルなど)以外の登場人物含めて関西のお笑い芸人が声を演じている。花井先生(父)は笑福亭仁鶴氏だったり、マサルは島田紳助氏だったりと漫才師、落語家とかなりの芸人さんが声を演じている。劇場版を観た後日、単行本のじゃりン子チエを数冊買って何度も読んだのだが当時はまだ漫画アクションに連載が継続していたが、漫画週刊誌はこれまでの人生で毎週買って読んだという記憶も習慣もなし。そして劇場版公開数カ月跡にTV版のじゃりン子チエが土曜日の夕方から放映されるのである・・・80年代初頭の事である。

久しぶりに読んだじゃりン子チエにて80年代初頭にタイムスリップしたつもりだったが、実は最初の漫画アクション掲載は1978年だったらしいと最近わかった。元々連載でなく単発でアクションに掲載されていたが後日連載になったそうである。しかし、連載は1997年まで続いたそうである。なんと19年間も・・・。
舞台は大阪、動物園前周辺〜新世界周辺なのだが、この漫画の面白さは大阪の笑いなのだろうか?とこの歳で何十年かぶりに読んでいてふと思った。登場人物、舞台の地域、食文化だけが西成区で動物園前周辺。しかし、もしこれが東京下町の実際に存在する地域へ設定を変えても成り立つのでは?と考えた。この本、この漫画が面白いのは大阪在住の人間からしてみれば漫画のストーリーの面白さプラス知っている街と食文化と大阪弁・・・というだけで、大阪(関西)以外の人はなぜこの漫画を読む(買う)のだろう?いや、実際は関西人しか読んでいないのか?
それだったら「漫画アクション」で連載されないハズだ。





特に大阪人や関西人にしか解らない話は殆ど無いといえる。マニアックなストーリーは殆ど無いと思う。ストーリーは大阪らしいと言われたら、大阪らしいとは何なのか?大阪のどこを指しているのか?

だがこの漫画から地域性をマイナスすると殆どつまらない漫画になる。かと言って大阪ー!!ってノリの話ではない。サザエさんの様に存在しない街のとある家族のほのぼのとした生活にショートカット(四コマ漫画)のギャグ的要素を細かくブチ込んだ脚本家の腕が強く影響したアニメ「サザエさん」とは全く異なる。
大阪の新世界や動物園近辺へいけば、主人公の父親「テツ」の様な人間が実際にいるような気がするし、70年代後半から80年代前半には実際に居たと思う、いや実際に居たと。そして昼間からなにをしているのか解らない人たちが実際にいた。そういった人たちが実際に漫画やアニメの中に登場していた。それは実際にこの地域へ行かないと解らないことであるが、大阪や関西の人はじゃりン子チエのアニメや漫画で出てくる地域が実際に存在する場所であり、登場してくる人々が実際に居そうで本当に居るひとのほのぼのとした漫画として楽しんでいたのだろう。それ以外の関西圏外の人は通天閣は存在は知っていたが、本当にあの変わった地域が存在すると思っていない人もいたのだろうが、ほのぼのとして二足歩行の猫はいないけどひょっとしてこんなけったいな人が大阪にいたら面白いやろうなあと思って居たのだろう。

その実際に居た人の大阪の笑いのセンスが動物園前~新世界周辺の笑いの文化でミナミやキタとは少し異なる大阪の笑の文化だと思う。二ヶ月くらい前に久しぶりに通天閣周辺に行ったが、いくら大量の外国人があの地域にやってきても、串カツ屋のパラダイスになってもそれはまだ変わっていない気がした。
この街へ来るとまだミナミの様に変わり果てた世界でなくどこかじゃりんこチエの時代がまだ残っている感じがする。

そして僕はじゃりんこチエの続きを読み始めるのだ。

2020年2月22日土曜日

悪の読書日記 迷える者の禅修行 ネルケ無方(著)

2020年 2月 21日

人生に迷っているからこの本を選んで購入したのか?
いや、著者であるネルケ無方さんの生き方、考え方に興味があったから購入に至ったのだろう。
いや、両方だ。高校の時、英語の教師が下手な現在社会の本を読むより「ゴルゴ13」を読むほうが勉強になる、と言ってた様に、このネルケ無方氏の本を読んでいるほうがビジネスホテルに置いてある仏教聖典を無理に読んで頑張るよりも何十倍も有効的な気がしてならない。どうしてドイツ人が仏教を勉強しに日本に来たのか?それは三蔵法師が仏教発祥の地であるインドへ行ったら既に仏教は壊滅していたという話に近いのではないだろうかと考えたりしたのだが・・・



読みはじめて、本書はネルケ無方氏の自叙伝であると解ったがそれだけでは無く、日本の仏教についての意見や現実の問題についてのエピソードもところどころに入れられていて、これまた面白いのだが著者がホームレス雲水と称して大阪城公園にホームレスとして住んでいたという話はぶっ飛んだ。ネルケ無方氏が実は日本にゆかりのある人であるというのも不思議だ。
「縁」というコトバや感覚は英語圏の言語には存在するのか?
そういえば昨年知り合いのトライアスロンのメンバーと夜中に大阪城公園に行くと天守閣の下で坐禅を組んでいる人を見たが、あれは大阪城公園は坐禅の聖地なのか?
と、最近の小生の話はともかく・・・正直いうと僧侶になるには予想以上に大変なんだとうのが一言それが強く感じた。
大変・・・というのは、昔々、小学校一年の時に漫画で「一休さん」を読んでこんな修行生活やってられない!と子供心に想い。お坊さんになるのはもの凄い修行を積まないといけないのかと考えていた。が、どうやら出家の世界も人間関係が大変なんだということである。時々、人間関係とかが嫌になってというか幻滅して、それまでの人生を捨てて突然出家する人がいると聴くが、結局は人間一人では生きられないので出家しても人間関係で悩まされるんである。だったら罪を犯して刑務所の独房へ入ればいいのかいう人もいるかもしれないだろうが、それはあまりにも後ろ向き。
結局、人間というのは一人で生きられない、それは日常の生活だけでなく、毎日の食事にしても誰かが働いて農作物を作り、加工して流通に乗って云々で自分の口の中に入るのである。著者のネルケ無方氏の安泰寺も自給自足といっておられるが著者もご理解されているはずだが、自給自足といって食べるものは自分たちで賄えても、生活するための電気は自家発電なんてことは出来ないし、インターネット回線は誰の所有物なのかというレベルまで考えてしまう始末である。人間が複数人居るとどうやっても人間関係からは逃れられない、それは家族であってもだ。
有名な人生アドバイザーであるアンソニー・ロビンズでさえ問題解決というのが人生で終わりを迎えるときは棺桶の中に入ったときだというような事を言ってるらしい。やはり、人間はみんな「迷える者」なのだろう・・・、ハッキリ言って「迷えていない」「問題がない人生」を送っている人間なんて、勘違いした人生かはたまた狂った人なんだろうと。

本来、もっと宗教(宗教というより僧侶)が欧米人のように生活に入り込んで人生にアドバイス(というより、考え方を指南してくれるとか)をしてくれればいいのだろうが、現在の日本では僧侶は葬式と法事の時にしか用はない。これは檀家制度の負の財産なのかもしれず。その反面新興宗教がその代役をしているのではないか。そこへ行き高額なお金を払って得体の知れないものに答えを導き出してもらったりアドバイスを受けたりするのも多面的に考えると間違いではないが、それはもはや宗教や仏教ではない気がする。瀬戸内寂聴さんの話を聴きに行く人は実は欧米人が日曜日に教会へ行くというような感覚なのか?とも想像したりすのだが・・・。ネルケ無方氏や瀬戸内寂聴さんや露の団子さんのような檀家制度と関係が無く、扉や敷居のないの僧侶こそ、実はこれからの時代に必要なのかもしれず。


小生の悩みは今日も尽きる事はない・・・
今日もフランク・ザッパを聴きながら。




#ネルケ無方

2020年2月16日日曜日

悪の読書日記 パンクライナーノート 森脇美貴夫(著)

2020年 2月 16日

少々気分が重いのである・・・そんな時に自宅の天井裏から偶然『パンクライナーノート』、森脇美貴夫(著)を発掘できた。久しぶりに森脇さんの書いた70年代〜80年代の当時のパンクのレコードに一緒に入れられていたライナーノーツを読んでみる。
文章力強いし、コトバも切れ味が鋭い。今とは違いインターネットが無かった時代にロック雑誌やレコードのライナーノーツは聴きてや音楽好きの人間には貴重な存在であった。ロック雑誌は実際に何かが起こった、記者会見したなどの事象が発生してから2ヶ月くらい遅れての活字であったが、当時はそれでもそんな遅れた情報でも貴重であった。



それしか情報源として存在していなかったのである。そしてレコードのライナーノートである。
70年代〜80年代初期のパンク、ニューウェーブのライナーノーツはほとんどが雑誌DOLLの編集長であった森脇美貴夫氏だと思う。違うのもあるんだが・・・えっ、このレコードのライナーって森脇さんじゃないの?ってのも正直ある。だがセックスピストルズの日本盤は殆ど森脇さんがライナーを書いていたんではないんだろうか?

84年に発売された本書は前述、タイトルの通りライナーを集めて本にしただけの内容である。アルバム一枚だけ発売して消えたバンドや、全く知らないバンドなどかなりのアルバムのライナーが収録されている。
でもやはり特筆すべきはセックスピストルズのライナーである。この一冊の中には、グレートロックロール・スウィンドル、ベスト・オブ・セックス・ピストルズ、勝手にしやがれ(81年盤)と3枚のアルバムについて書かれている。多分、森脇さんのセックス・ピストルズのライナーを書く意気込みは他のアルバムのライナーを書くときよりテンションが高いと思わせる。やはり思い入れの強いバンドであり、パンクを確立させたバンドであったからなおさらである・・・。
前述の通り、一枚しかアルバムを出さなかったバンドはご存知の通りセックス・ピストルズである。一枚しかアルバムを出していないにも関わらず伝説として後世に名を残すのであるから凄いのである。何が凄いのかなんて説明できないが。しかし、一枚しかアルバムを発表していないが伝説となって今でもアルバムが売れているバンド、一枚しかアルバムを出さなかったが今ではアルバムが手に入らないバンド(マニアしか理解できない)と二種類に分別されると思う。X-Ray Spexなんてまさに前者であると思う。

この本にはパンクのライナーノーツながら「ポリス」や「エルビス・コステロ」のライナーが収められている。当時コステロはパンクに触発されてコンピュータープログラマーを辞めてミュージシャンになったとか・・・ポリスはちょっと解らないな。また本書に載っている「ブロンディー」は元々パンクなんかでなかったけど、パンクの波に乗ってしまえとばかり、パンクバンドみたいなイメージ戦略をレコード会社に組まれてしまったそうである。これは本書には書いていないが、この事実を知って本書を読めば納得できると思われる。

ところが80年代末期以降の森脇さんのライナーはどこか元気がないのである。
実は数年前から何を考えたのか、セックス・ピストルズの公式ライブ盤など(本当に公式かどうか不明、しかし日本の大手レコード会社が真面目に発売している)を買い集めているのだが、いくつか森脇さんのライナーが入っていたりするのだが、もうひとつ元気がないというか文章が力強くない。時はインターネットが普及しだした時期でありSNSなんてのはまだ出現していないし、ホームページを持っているバンドすらそんなに多くない時代であった。確かにセックス・ピストルズのライナーを書くことに対して既にモチベーションが上がらない程セックス・ピストルズについて書いていた為、これ以上何を書くねん?!!みたいなところがあったのかもしれない。
 
例えば・・・
またレコード会社からセックス・ピストルズのライナーの依頼かよ?
このアルバムって昔、海賊盤やったアルバムやんけ?あんまり音質変わってないやんけ?
テイチクレコードがなんでセックス・ピストルズのアルバム売るねん?演歌のテイチクやろ?
と、勝手に妄想と想像をしてみるのだが。

そういえば、スターリンのメジャー第一弾「ストップ ・ジャップ・・・」は森脇さんの プロデュースだった、セックス・ピストルズのファーストアルバムの様にギターの音を何度も重ねて録音したそうである。それほどセックス・ピストルズ『勝手にしやがれ』への想いれも強かったのかと・・・これ以上は無理だ!なのか?
文章やコトバはその時の人間の精神状態が強く打ち出されるものであると言われる。確かにそうかも知れずと最近は思う。

さて、現在本書の著者である森脇美貴夫氏はどうされているのだろうか、どこにも森脇さんの名前はでてこないのである・・・週に一度は考える日々。
会った事は一度も無いのだが・・・なぜなら本書は10代の人間の人生を変える位のパワーに満ちていたからである。

2020年2月12日水曜日

悪の読書日記 常識について 小林秀雄(著)

2020年 2月 12日

小林秀雄のエッセイ『常識について』という、タイトルながら。短いエッセイや講演が集められており、一部『考えるヒント』にも掲載された内容もあるが、この『常識について』は『考えるヒント2 』に収められている。またタイトルの『常識について』は本書の一番最後の章で、その章の少し前に『常識』というエッセイも収録されている、どういう意図でこの本が角川書店から角川文庫出版に至ったのか今となっては解らない。しかも『考えるヒント』の一番最初の章も『常識』なのであるが、前述の本書の『常識』とはタイトルは同じで中身は全く異なるのである。



本書の『常識について』では、デカルトのエピソードを中心に書かれている。デカルトのエピソードからはじまり、孔子の話で終わる。「我思う、ゆえに我あり」話以前になかなか普段考えないし、聞いたことのないデカルトの話というか、デカルトに至っては「我思う、ゆえに我あり」と、いったい俺は誰なのかという疑問を起草させるくらいの哲学者くらいしか知らない‥のが正直なところ。

 この本を読み終わり著者小林秀雄という人は、どれほど引き出しが多いのかと思ったが、それは引き出しでレベルでなく、年中無休で24時間使える倉庫というべきだろう。世の中には「知の巨人」などと言われる人がおり、その「知」を用いて動植物を研究したりする人や文献を投稿して収入を得ている人がいるんだが、この小林秀雄という人は「知」だけでなく、「ゴルフ」をやってはそれを自分の頭の中の知識と結びつけて書を書き、「骨董品」を購入してはう〜んと目利きと思考をこらしては同じく自分の頭の中の知識と結びつける。しかしそれだけでなく歴史的な有名無名な人物に関しては、よくこれほどコトバで書いて考えれるものだと、小林秀雄この人の本すべてそして小林秀雄自身が『考えるヒント』ではないのだろうか?と思わせる。
名作と言われる氏の『本居宣長』に至っては、新潮文庫の上下二冊(元々一冊のハードカバー単行本)と、本居宣長をテーマでどんだけ書けるねん?と思いきや。先日、梅田の古本街で上下セットで500円にて販売していたが、手にとってパラパラと見て「こりゃダメだ、いま読めないや」と今は読み切る実力がないとあきらめ購入には至らなかった。
「知」だけで生きてこられた人ではないと改めて想い、跡にも先にもこの人を超える人は存在するのだろうか?と考えた・・・。

正直、『常識について』というタイトルで書かれた小林秀雄の文献は薄っすらとしか理解しておらず、逆に言うなら殆ど理解していない。ただし、こんな難解な本を読んで少しでも理解しようとしたくなるのである。時々、時間を掛けてでも構わないので吐きそうな本を読みたくなる。それはスポーツの練習あとに疲れ過ぎて吐きたくなる自分がなんだか少しここちいいのと同じような感覚なのかもしれず・・・いや違うか?。
つまり、読めば読むほど頭がおかしくなりそうな感覚なのだが、ゲロは吐かずとも解らないことをわかろうとする自分がそこの居るということなのか?である。
今は亡き池田晶子氏が「新・考えるヒント」で小林秀雄全集新装版のキャッチコピー「わかる小林秀雄」に対して、「わからない小林秀雄」であってはいけないのか!!と苦言をぶち込んだのは小生が、わからない事をわかろうとするという話ではなく、もっと深く・・・わからないことをわかろうとする自分こそが自分の価値を作り上げているいるのではないか?他人からそれが価値ですと言われる価値など価値にあらずと・・・・「わかる小林秀雄」なんてありえないのでなく、「わかる」必然性などは無いのではと。
なんだか、この意味が少し解った感じである。


さて、小生は今日もゲロを吐きたくなるのである。精神的にも、肉体改造にも。