2019年2月28日木曜日

悪の毒書日記  武器になる哲学 山口 周(著)

2019年 2月 27日
この個人的なブログに出現する哲学入門第2弾である。

この書籍が最も優れている点は、著者の山口氏が書籍の冒頭で説明している
1.時間軸で目次が進んでいない
 冒頭、プラトン、ソクラテス・・・・・最後の方にハンナ・アーレント云々という流れではない、
 人物を中心に進むのではなく、キーワードを軸に進んでいる。

2.個人的な有用性
 著者がコンサルティング業の為、何かとコンサルティング業で使用する場合の話が多い、
 コンサルティング業であるから、言ってしまえばある意味業種は問わないという発想もあり。
3.哲学以外も含まれる
 哲学者の話だけでなく、仏教の僧とかヨセフ・ボイスも登場する。
 キーワードを中心に進むが、そのキーワードに対して一人の哲学者だけを説明せず、
 色々な哲学者の考えやエピソードを含めて説明、解説をしている。

というところである。
また、著者が冒頭で述べている通り、昔々の古代ギリシャの賢者が考えて考えて考えぬいた結論が、当時の科学をベースにしているところがあり、現在科学からみればあまりにもレベルの差が激しく、結論は全く現在では使えないが、思考のプロセスは十分に使えるという点である。


50に至る大量のキーワードを中心に、そのキーワードに関する哲学者を説明し、こういった時に使えますという説明と前述の通り一人の哲学者でなく、それにまつわる方々も併せてエピソードや考え方も説明している。50という大量のキーワードに関しては小生も知らない内容が殆どでまだまだ読みたらぬ、考えが足らぬと自分の知識の少なさの現実を理解するも。
最後の参考文献というか、読むべき本の紹介は、数年前の自己啓発書をブームにして「こんな本読んでいます」「こんな本を読みましょう」というビジネス書作家と出版社の為の自己啓発入門書を一瞬思い出してしまったが、この本で紹介されている哲学書などの参考文献は、紹介している本を簡単に次々と読み続けて読破する事は非常に難しく、もしそんな人が日本に大量に存在すれば、日本はもう少し今よりは正常になると思うのであるが、そうなって欲しく、そうなりたく・・・それが哲学書を読むべき目的であり、過去の賢者達が望んでいたことではないのだろうか?と、著者にうまくしてやられたかと感じた。

前述の出版社の為に本を売るための本でななく、読者の為=世の中の為と考えれば、こういった本が出版されて、本を読んだ人が考えて、考えて、考えて生きれば周り(=世間)も変わるのだろう。但し、諸刃の刃というかコンサルティング業という業種に囚われない世界で使えるということで、ここといった哲学を使う状況のターゲットが絞れていない点があるように思えて、過去に紹介している『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』のピンポイント攻撃の方が哲学入門としてはこの本よりかは敷居は低いが効果としては有効的だと感じた。
また、個人的に残念なのかどうか、著者があまりにも分かりやすく親しみやすく書いた為か、軽い書き方、現在にしか通用しないようなモノが出てきたりと、30年先の人に読まれているのかどうか?と何を犠牲にして、何を優先させたのか・・・これは著者の裁量であったのだろうか?

前回も書いたと思うのだが、記憶は定かでないが、『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』も『武器になる哲学』も、ここから出発でしかないと改めて思うのである。

2019年2月22日金曜日

悪の読書日記 その悩み、哲学者がすでに答えを出しています 小林昌平(著)

2019年 2月 22日
その悩みを解決するために、哲学者は考えこんで考え込んで本を書いたりしたということは無いが、うまく世間の悩みに哲学者の考えを嵌めこんで一冊の本にした著者の知識量と構成力は凄いと思ったら、著者は慶応大学の哲学科卒業だったりする。
それほどの人でないと書けなかったのか、そうでないかはどうでもよく・・・、ちょっと心が病んでいる自分のような人にはいい一冊であった。
世間一般の悩みを、数々の名作を生み出した哲学者の考えを使って悩みの解決策を提示するという内容。
ハイデガーやカント、道元、ショーペンハウアー、ヴィトゲンシュタイン、ヘーゲル…のコトバや思想を、死にたいとか、人間関係や仕事の悩みの解決策を導くという内容。


哲学書でいえば、10段階の『ステップゼロ』で、ステップ1には『1ステップ』足りない。これから哲学書を読みはじめようとしている人とか、小生のようにまた読みなおして学び直す人には起爆剤みたいな本である。残念ながら先日知り合いの方に奨められた、『武器としての哲学』はまだ購入もしていないので比較は出来ないが、読み方によっては『史上最強の哲学入門 飲茶(著)』よりも解りやすく入り込みやすい。



2019年2月19日火曜日

悪の毒書日記 50代からの稼ぐ力 大前研一(著)

2019年  2月 18日

久しぶりに大前研一氏の本を買ってみた。これはビジネス書なのか?この著者の本はビジネス書というより現代社会の教科書、しかも政府に認可されない教科書だといえる。
ここ数年は大前氏の本は買って無かったが、50歳を前にこのタイトルでとりあえず買ってみた、しかもKindle。これを買い直してから購入する本の数は増え、さらに読むスピードも速くなってきた。これはヤバいまさにアマゾンに乗せられてkindleを買ってしまった。
しかし、電子書籍のメリットは大きい。



小生まもなく50才、既に破綻した年金制度に搾取され続ける日々、アホ以下の人生100年とか働き方改革などという間抜けズラ改革。
もはや日本はセックス・ピストルズの歌詞の一部と化している。

No future !   for You !!

やはり内容の三分の一は現政権の頭の悪い総理ほかの奴等への利にかなった攻撃が多い。
これがまた正論としかいいようがない筋が通った話で攻撃しているのがお見事である。

日本はこのままでは40代、50代の人々に年金も払われず、人生100年のメディアコントロールに国民は騙されて老後は定年退職の後には死ぬしかない貧困老人になるしかない。
その為にはいまからでも遅くないから、会社に勤めながらトライアンドエラーで稼ぐスキルを身につけるしかないと大前氏は提唱する。
そのヒントは…

やはり時代は、まだまだ『サイバー』なのであると。

サイバーかよ?
1985年 ウィリアム・ギブソンのサイバーパンク文学が現れてはや35年近くが経過し、日常のなかでサイバーというコトバが普通に使われている。
そんなサイバーな世界がまだまだ稼げる世界であると氏は唱える、なぜなら40代、50代の人間には経験というスキルがあり、実はまだまだこの世界についてこられないスキルが無い人々が多数を占めている。最近の若者は生まれた時からネット環境はあるも、前述の経験が不足しているので、まだまだ経験がサイバースペースでは必要不可欠であると。

知らなんだ!世間の人々は小生位のスキルは普通にあると思っていた。
どうやら違うらしく、会社の奴等がなんでもかんでも小生に聞きに来るのは、奴等にはワードやエクセルが使えてもそれ以上のことは出来ないのか?
なんで俺に聴く?と、1日5回位はある。

実は自分の回りだけでなく、日本の世間一般のビジネスマンがそうらしいのか?と。

つまり、小生がこれから暮らす世界は、ウィリアム・ギブソンやブルース・スターリングが提唱したサイバー空間なのだ!

漫画『攻殻機動隊』の記念すべき第一巻の最後に、主人公の草薙素子のコトバを思い出す。

ネットワークは無限だわ…



追伸
このブログは湯船のなかでスマホで書きました。

2019年2月17日日曜日

悪の読書日記 お嬢さん  三島由紀夫(著) 

2019年  2月  17日

日本語の歌(曲)やコトバが、何とか普通に脳ミソに入ってくるような日々に戻りつつあり、小説(物語)・・・しかも日本語のストーリーに身を委ねることも出来るようになってきた。身を委ねるとは大げさな表現である。が、三島の作品とはそれほどの物だと言えるというかそう思っている。三島由紀夫の初期というべきか、いわゆる戦後1950年代に書かれて新聞(しかも朝日)や雑誌に連載されていた軽い小説は精神状態のリハビリとしては最適といえる。三島テイスト(表現としては失礼な表現で申し訳ない)があるちょっと変わった恋愛小説って感じかと。日常のこんな精神状態でいきなり後期の超大作『豊饒の海』などは恐ろしくて、本屋で平積みされている『豊饒の海』が目に止まる事が嫌悪感ありなのである。



三島由紀夫の『お嬢さん』は戦後直後という時代の話で、焼け跡そのままの土地というような表現が出てきたり、赤電話が出てきたりと自分自身が生まれるかなり前の話で、ちょうど高度成長期に突入する頃の話しであると感じる。
話は極めて簡単に書くと、大手企業の取締役部長さんの娘であるお嬢さん「かすみ」と、かなり遊んでいると思われる男性、「景一」が結婚する話、結婚した話である。
その主人公の一人、景一の貯金が「15万円」もある!という表現があるように、現在の2019年と物価が相当違っている。今の10代の若者がこれを読んで話に付いていけるのか?どうか、少々心配になる。が、そんなもん心配する世界ではなく、他人のことより自分の心配が先なのであるが・・・心配というより、物価の違いなどについて理解しているのだろうか?。しかし、10代で三島のこの小説を読んだりする人は文学部の学生か余程の物好きな奴である。学校の先生が夏休みの宿題の課題図書にこれを選ぶことはありえない。反面教師で読ませると面白いのだが、それは国語の授業でなく現代社会の教材には適している。なんせ結婚する前に相手の身元調査とか普通でやってしまってるのである。

この小説が凄いというのは前述の昔々を思い出すという点でなく、主人公の二人の結婚生活が段々と変な悪い方向へ進んでいくのだが、それを解決に導き、解説をする人物が「おやっ?」と思わせるストーリー展開なのである。なんでこの人がここで出てきて話を解決に導くのか?これは最初からこういう話にしていくつもりで三島が計画していたのか?それとも連載していた雑誌の編集から「先生、そろそろ話を終わってもらえませんか?」と言われて考えたアイデアなのか、どちらにせよお見事なのである。
世の中には、よくもこんな軽い小説を三島のくせに書きやがって!!と思う人も居るかもしれないが、それは今現在から観察した話で、リアルタイムの評論ではまた違っていたのでは無いだろうか。
そんなことよりも、三島のこんな軽いストーリーの小説と他の有名な重いストーリーのギャップを楽しうほうが健全である。

ちなみに掲載されていた雑誌は『若い女性』という、講談社の雑誌である。雑誌名からして、いま考えたら笑える、子供のころ家に母親が読んでいた「ミセス」という雑誌があったが、今もあるのかどうか・・・・やはり時代を感じさせる名作である。

2019年2月10日日曜日

悪の読書日記 精神科医が教える良質読書 名越康文(著)

2019年 2月 10日

こうしてコトバを繋げながら、日々時間が過ぎていく・・・・時間が過ぎていくのは人生を消費しているのと同じである。
ヤバイ・・・

昨日、『頭が良くなり、結果も出せる! モテる読書術』長倉 顕太(著)なる本を購入して即日読破した。著者は元某出版社の編集者で数々のヒット作を創りだした腕利き編集者である。これまで数冊の書籍と大量の電子書籍を発売されておられるが、こちらはどれほど売れているのかは不明である。
今回の『モテる読書術』というタイトルから下心的な書籍かと思えばそんな事はあまりなく、一応対象は小生よりも一回り以上若者が対象かと思われるが、小生の世代が読んでもおかしな事は全くない。
この本は簡単に言えば読書しまくって読んで読んで読みまくり、解らないコトバが出てきたらそれを探求して、知識と世界を広げて行くことが、知識の量と収入と比例する。つまりそれを使って『運』と『タイミング』を使ってこの世界を楽しもうではないか!!という本である。
では、何を読めばいいなど・・・それはあたりまえだが個人によって千差万別なので触れれていない(著者いわく一人ひとりアドバイスできない:当たり前・・・著者と読者の関係は1対Nである)。
知識を得ることで行動が変わる、変わらなければ意味がないと!

確かに、それも一つの読書であろう。そんな著者のコトバを裏付ける話が非常に興味深かった・・・・元々、某社は自己啓発的な本が多く、著者はそんな現場にいたので実際のリアルな現実を誰よりも熟知している、少し本から抜き出すと・・・
『自己啓発や成功法則にはまっていく人たちは、答えが欲しいがゆえにはまっていく。宗教にはまる人も同じ』
『ビジネス書の編集者だったから「ひたすら成功本を読んでるけど成功していない人」をたくさん見てきた。そもそも、成功本を作っている編集者が成功していないという皮肉も見てきた』
『出版社にいたからわかるんだけど、世の中の情報の大半は成功した人の話だったりする。  ただ、その人たちは、才能だったり、環境だったりにたまたま恵まれていた可能性が高い』
編集者が成功出来ないのは本当に皮肉である。作家(=成功者)と編集者は二人三脚で本をつくり上げるの共同体では無かったのだろうか?
何が足りないのだろう??何が足りなかったのだろう??、長倉氏のいう行動に繋げる事が出来なかったのだろうか?

本を読んで読んで読みまくり知識を習得して、行動を変えるのは確かに間違いではない。先日別の読書に関するもう一冊の本を読んでいた。
『精神科医が教える良質読書』 名越康文(著)である。



書籍から引用させて頂くと、名越医師は『常に自分の枠組み内でしか人の話を聞けない人は、いくら本を読んでも、いくらすばらしい講義を聞いても学べず、成長しにくい』という、
そして『「賢い人」とは、ただ知識があるだけの人ではありません。 知識を再構成できる人が賢い人 です。詳しく言うと、知識と知識を再構成して新しい価値観を作り出せる人という意味』であると、いわゆるS・ジョブスの話にちかい。

本日、2冊の読書に関する本が一部頭の中で繋がったのである・・・・まさにこれなのであると思う。小生もここ一、二三年は読む本を変えてきて、読み方を変えているつもりである。
いくら大量に読み漁っても、その内容を使えなければ意味がなく、枠を越えた世界でそれを何か(何だろう?)と結び付けなければ、ただ本を読んでいるだけに終わる、昔はこれだったのだ。

さらに
『読書をひとつの形式として位置づけるのではなく、相対化しないとただの読書バカになって、「1000冊読んでもバカなまま」 ということになってしまう』と、まさにである。『毎日ハウツー本や自己啓発書ばかり読んでいる読書、情報だけ仕入れる読書も、利点は山のようにあることでしょう。しかし、はらわたが1ミリも動かない読書であったならば、人間はいつの間にか腑抜けになってしまうのではないでしょうか』と。

これまで大量に本を読んできた小生だが、読んだ内容で点と点を結び付ける事はあまりなく、枠の外へもでる事は多くなかった。どちらかといえば頭でっかちになっていた。情報という知識に満たない内容だけが余韻として残るだけだったような気がする。自分はただの読書バカであったと思う。
つまり、まさに本に対して答えを欲しがっていたのではないだろうか?
圧倒的な読書量は必要であるが、そこから得た知識は使えないと意味がなく、行動に落とし込めないと結果が見えてこない。だがどうやったら落とし込めるかなど書いている本は何処にも無い。

 つまり
名越医師がいう「知識の再構築」をする為に読書を一つの形式として位置づけるのではなく相対化、大きく捉える必要がるのではないだろうかと思う。
知識と知識を繋げて再構築して何かを作り出すためにはまさしく、読書の枠を越えなければならないのである。

また、名越医師の面白いところは、哲学書や現象学の本を読むことで自分を相対化する事ができた。さらに本当の世界を知ることが出来たと。現象学の本を読んで価値観が変わってしまったらしく、これまで熱狂的な司馬遼太郎の『龍馬が行く』のファンであったが冷めてしまったそうである。読書にはそんな副作用もあるのであると述べられている。非常に正直である。


読書で収入を上げるには長倉氏の提唱する読んで読んで読みまくるしかなく。さらに名越医師の結んで、結んで合体するしかないのである。
知識の量と収入の量が比例することは無いと思うのだが、それは知識の量というよりは知識をどれだけ再構築して新しいものを作り出した量と収入が比例するという方が適しているのではないだろうか。


正直、名越医師と同じ様な事を教えて頂いた方が身の回りにおられ、まさしく自分のなかで本だけでなく点と点が結び付いてきた感じがある。
しかし、これからはそれをどうやって広げていき、収入に繋げるかを考えなければならないのは現実のリアルな世界である。


2019年2月7日木曜日

悪の毒書日記 神/新しい創造物―ジム・モリソン詩集

2019年  2月 7日

朝からドアーズを聴くと、1日が終わる気がすることがある。
昨夜、スマホを枕元に置いて、本体のスピーカーからドアーズのセカンドアルバムを聴きながら寝たのは良かったが、アルバム全曲リピートに設定していた為、早朝4時に「まぼろしの世界」で一瞬目が覚めて気がつくまでセカンドアルバムが繰り返し鳴り続けていたみたいである。
潜在意識のなかで、悪影響を及ぼさないといいのであるが…と、『まぼろしの世界』に本当に足を踏み入れた気分になる。




昨夜のことが原因か否か、
ジム・モリソン(ドアーズ)の詩集『神/新しい創造物』をふと読みたくなり、天井裏から探しだして手元へ持ってきた。原題は『THE  LORD/NEW CREATURS』である。

実は正直、詩集はあと町田町蔵とパティ・スミスほか僅か数冊しかもっておらず、  自称相当量の本を読むのだが、詩集は片手程度の冊数しかない。さらにどうやって(?)読むかすらわからぬというか(ブログのサブタイトル同様)苦手なのだ。だから今の小生の読み方、詩集の楽しみかたはこれが正しい手順なのかも解らず…ただコトバを追いかけるという読み方で、あとはコトバから頭のなかで想像力におまかせである。


これも小学校の国語の授業が政府の御用達の為、殆どがつまらぬ教材を選んだことと、当時の教師が小生の文章の解約を理解しなかったのが原因なのかもしれずと、勝手に正しい 勘違いをしているのかもである。
そもそも、作者の言いたかったこてはなんでしょう?とか、作者じゃない人や教師が勝手に決めてどうするねん?という疑問をもちながら小中高の学生生活を送っていたのが現実なのである。

ジム・モリソンはミュージシャンながら映像の学校に通っていたにもかかわらず、バンドを組んで自分自身をコトバと音楽で表現して生きていた。

この詩集はよくあるバンドの歌詞を納めた詩集でなく、詩集として彼が出版した作品の日本語版で、日本語訳以外に原文(英語)も付けられている。訳された訳者がどういった方か解らないが、原文と合わせて読むことで自分なりに本来の作家が表現したかったコトバをダイレクトに直接感じながら、日本語のコトバと併せて読みながら感じることが出来る。

本を読んだ内容は日々忘れていくなか、詩集というのは短時間で何度も読めるモノ(コトバの集合体)なのか?忘れたらまた読む、忘れてもまた読む、読みたいからまた読む…
いま本当に生き苦しいから、ジム・モリソンの詩集を読む…

この詩集には勿論収録されていない、ドアーズの『The END』の歌詞をCDのケースから取り出して読みたくなった。

2019年2月3日日曜日

惡の毒書日記 にっぽん製 三島由紀夫(著)

2019年 2月 3日

三島由紀夫の長編は久しぶりだった気がする・・・、いや違うか?記憶は既に崩壊している。

先月、1月から、気持ちというかメンタル面が壊れかけており、しばらく日常の仕事以外で日本語の音楽や書物を扱うのを控えていたが、ほんの少しだけ日常に戻りつつあり。何とか、書物を読んでは『日常』を取り戻しつつ・・・少しでも読んだ書物、文字の集合体の一部について記録しておこうかという事で、今までとは異なる思考回路になればいいのかと考える。SNS全盛の時代なのか、スマホでSNS登録活用をしている人はスマホ所有者の8割だとか・・・そんな時勢にも関わらず、何故かブログというものを選択してしまった。

いったい誰がこのブログを見つけてくれるのだ?


















三島由紀夫『にっぽん製』、読み終わると、何が『にっぽん製』だったのか?。主人公の女性が一年間のフランス留学(旅行ちゃうんか!!)からの帰りの飛行機から話が始まるので、このタイトルなのかと?いや、にっぽん製なのは男性主人公なのか?
それが率直な感想の一つであった。

しかし、タイトルはさておき・・・グイグイと引き込まれる三島の初期長編小説(1953年発行)。なんだか段落が短くコマ切れ的だと思って、ひょっとして新聞にでも連載されていた小説なのかと調べたら、朝日新聞に連載されていたとの事である。娯楽的作品として捉えられている為かあまり評価はされず全集に収録はされているものの、文庫本になったのは最近で、三島の没後40周年記念という事である。娯楽的作品としても三島の幅の広さを考えてもこれが21世紀に文庫化された作品でるというのは少し複雑である、三島の娯楽作品と言われれば既に文庫化された作品はいくつかあるのでは?と思うのであるが。
また、この作品が映画化、ドラマ化しているという事が娯楽作品であるとの根拠とされていたのだろうか?
とにかく『にっぽん製』はメジャーながらマニアックな作品であると言える。

何と言っても、当時の日常においての描写や説明が内容と共に面白い。蒲郡にある実際のホテル、資生堂ギャラリーにダンスホールや日常行われていた停電、当時は高度成長期で電機の需要が追いつかなかったのである。そして主人公の一人、柔道家の栗原が務める会社は鉄鋼関係、彼の所属する柔道部の試合で闘う相手も製鉄会社の柔道部である。やはり当時は『鉄』の時代だったのである。
そして柔道である。闘う男三島でボディビル、ボクシング、剣道というイメージがあるが、ここは柔道というのはフランスでの試合帰りはやはり柔道であろう。柔道でなければ成り立たないのは安易に想像出来る。

最後の展開は「読者の想像にお任せ」でブチッと、読者の方に結果はおまかせ!という問題定義をぶつけることなく終わるのであるが、その結果が前述にも書いた『にっぽん製なのは男性主人公なのか?』という小生の、実はおフランス帰りの女性主人公がフランスかぶれでなくにっぽん製だったよりも、純粋なにっぽん製は男性主人公・栗原正のことだったのではないだろうか?と・・・。

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一時期、小説(文学、ストーリー)を読むのをやめていた時期があった。どういうわけか読むのを嫌っていた。ストーリーを読んで、何がテレビドラマを観るのと違うのか?そこから何を学べるのか?とビジネス書を大量に読んだほうが良いのではないかと読み漁っていた。しかし、ビジネス書から学べる事はあったがやはりそれは小技の集合体で、それは絶対に悪いものではなく、知っていれば有効な武器であった。ライダーキックの出来ない仮面ライダーはちょっとだけ弱さがあるが、それ以前に仮面ライダー本郷剛は基本的に強いのである。この「強い」という部分はビジネス書をいくら読んでもそれほど強くはならないのであると。すぐに身につく教養が存在しないのと同じであり色々なモノを読み、色々な角度から観て思考しなければ「強く」はならないと・・・しかし、三島を読んで「強く」なるかは疑問であるが、一冊読んで人は強くなることはない。
しかし、三島を読んで考えていけばいくほど、この作家の面白さと恐ろしさが見えてくる。それが世間になんと言われようと。