2019年8月26日月曜日

悪の読書日記 湯遊ワンダーランド まんしゅう きつこ (著)

 2019年 8月 25日
精神的不健康を解消する為に、このブログを始めたのだが、精神的不健康を解消のひとつで気がつけばサウナ活動も始めていた。
今回は『悪の読書日記』では初めての漫画である。漫画は本ではないとか何とか言われるが、そんな事はなく海外では漫画といえば正義と悪のキャラクターが戦う幼稚なストーリーと決めつけられている感じがしないではないのだが、日本で身の回りで売られている漫画の幅の広さは世界一では無いのだろうか?と思う。それが良いのか悪いのかは別として・・・。



本書は大枠のストーリーは無く、どちらかと言えばエッセイに近く日記とも言える。作者のサウナ通いに関するサウナ活動と、その周辺の日常生活を表現した内容の漫画である。殆どが実話というのが笑えるが、恐ろしい内容も多々ある。作者はアル中から脱出した女性漫画家。アル中が先か漫画家が先かと調べたら、有名な漫画家のアシスタントをしていた時期もあるそうだが、著者が作品を世に出した時期をとアル中の時期を考えると、アル中→漫画家だろう。この漫画の前作のタイトルは『アル中ワンダーランド』である。

そういえば、インスタで知ったオープンウオータースイマーはアル中から脱出すべく、オープンウオータースイミングを始めたそうである。俺の周りはアル中が多いのか、職場の隣の席のどうしようもない年上の馬鹿社員もアル中の様で日常手元が震えている‥‥小生もリアルとネットの世界の区別がついていない感じだが、アル中では無い。アルコールも、スモークも、ドラッグもやりません。


サウナはサウナ室(10分位)→水風呂(数分)→休憩を1サイクルとして、3サイクル程度を繰り返すのである。このサウナの世界に踏み入れた人がよくいうのは『水風呂が最高に気持ちいい』という事である。水風呂がサウナの醍醐味だそうである‥「そうである」とは何か他人事に聴こえるが。
確かにサウナの後の水風呂は最高である。最近ではよく『整いました!』という表現をするが、小生は水風呂のなかでカラダが溶けてしまうと言えば大げさ過ぎるが、水風呂の中でいつまでもいれそうな感じがしていい。『整いました!』というよりも何か脳ミソが最適化したような感じで水風呂の中にいつまでもいれそうな(実際には冷えてきてやばくなるのだが)、そんな感じが楽しいのである。
しかし、問題がこの水温で一般に18度以下といわれるのだが、サウナによっては15度とか、10度以下とか‥‥本書にも出てくるが、シングルとか(一桁)というらしい。流石に水温が低すぎて一分も入って居られないサウナもあるのでこの点は個人差で個人がどう楽しむかであろう。


ふとした事というか精神的不健康からの脱出というでサウナ活動を始めたのだが、週に二回程度サウナへ行く生活である(殆どがジムのサウナだが)。そしてふと何かで出会った『湯遊ワンダーランド』という不思議な漫画。はっきり言って絵は下手くそ。さらに前述の通り決まったストーリーはこの漫画にない、この絵でまともにストーリーがあったら絶対に読んでいない!逆にこの内容で絵が手塚治虫や石森章太郎みたいであれば全く面白くない。この絵であるからこの『湯遊ワンダーランド』
は絶妙な面白さで成り立つのである。しかし、絵でなくストーリーも無いこのアル中から脱出した著者の漫画は正直漫画では無いのである。単に日常を少しだけ脚色したって感じの絵日記と言ったほうが良いだろう。有名な週刊誌に連載していたので今回は話のネタに困ってこれか?とはっきり解るし、登場人物にもなっている編集者も漫画の内容の通り無茶苦茶なのである。その漫画家と編集者の苦悩も面白いのである、そして著者もどう見ても精神的不健康なのである‥‥それがこの漫画の魅力なのである。
例えば、実際に深く考え込んでいる顔があまりにも酷い為、散歩の途中で出会う老人に指摘されるエピソードも登場する。漫画というのも編集者と漫画家の共同作業的な過程で完成されていることがよく解るところも興味深い。

小生がサウナ活動に至った理由がもうひとつあり、有名なクリエイターによると、アメリカでは体内に蓄積さらた毒物を体外に排出する方法としてサウナが一番てっとり早くて効果的と言われているそうである。それがサウナ活動のきっかけの一つであるが、内蔵とくに腸が良くないと精神的に良くないらしく、腸の改善にも毒素を排出する事が有効的なのでサウナの効果は精神的不健康からの脱出には向いているらしい(鬱病からの脱出にも向いているという人もいるくらい)・・・。元アル中の著者とは精神的不健康に至る理由は小生とは異なるのだが、少しでもそれを改善したく著者も小生も日常、地球上のどこかのサウナで実際にサウナ活動をしているのだと思う。悩み事やサウナ活動を通じて一人の著者と多数の読者が悩みを共感する気は著者も読者もみじんも無いしはずだし、SNSで繋がってお互い傷を舐めあう糞なこともないのだが。
ただ・・・現状これではいかん!、と感じたらサウナなのである。
そして、そんな人間は自分だけでは無いはずである。

2019年8月17日土曜日

悪の読書日記 歯車vs丙午 疋田龍乃介(著)

2019年 8月 16日

昔々、高城剛が初めてW.S.バロウズの小説を読んだ時、俺って頭が悪いのか?と思ったと聞いたことががる。バロウズの小説はカットアップという技法を使っているので訳が解らなかったりする(特に初期の名作は、迷作ですね)。この詩集を読んだ時、「詩」ってどうやって読んだら良かったのだろう?と思い.Googleで『詩の読み方』と検索したのが正直事実である。なんせ、義務教育+高校3年間の国語の時間ほど嫌いな時間は無かった。日常まともに日時場会話が出来て、好きな本屋漫画を読んで暮らせるのに国語の時間とは意味が解らない、「作者はどう思ったでしょう?」というテストの問題も、「おまえ、作者じゃないくせいに、作者に確認もせず勝手に好きなこといいやがって!」と12年間思っていた。
詩集はこれまでパティ・スミス詩集とジム・モリソンの詩集くらいしか持っていない。英文⇒日本語へ変換される時点で著者+翻訳家の作品になるので、やはり英語だとダイレクトにコトバが頭に入らないという欠点がある。もう少し英語をまともに勉強すれば良かったのだが(パティ・スミスの詩集もジム・モリソンの詩集も原文が掲載されている)。
多分、この詩集のどれか一遍でも、高校の国語の教科書に掲載されることは無いと思う。こんな自由で摩訶不思議なコトバの世界を未来ある若者に教えて、本当に素晴らしい未来を手に入れたら国家として大問題である。



読み進めるうちに、実は頭の中は詩集のコトバの攻撃でガロに掲載されていた丸尾末広氏の漫画の世界が頭の中で確立されていくのである。なんか薄暗い見たらあかん世界の見てしまうような、覗くでなくバーンと見てしまう感覚。あの青林堂の丸尾氏の作品のダークな世界が広がっていく・・・漫画でなく「コトバ」のだけの表現だけで頭のなかがダークモードである。しかし著者はそんな世界を描くつもりで書いたわけでは全くない筈である、小生が丸尾末広氏の初期の作品が好きだからこうなるのだ。つまり、小生以外の人、丸尾末広氏を知らない人が読むと全く違った世界が頭の中に広がるの筈である。
他の人はこの詩集の「コトバ」でどんな世界を想像するんやろう?
コトバの世界なんて、読者がどう感じるかどんな世界を想像するかに正解はないのである。これを逆手に取られると政治の世界の過大解釈になって好き放題の悪徳政治になるのだが、同じコトバの世界であるのだが、コトバには恐ろしさもある。
また作者が読者に何かを求めるのか?何かを感じて欲しい!!そんな事は詩の世界では成り立たないのではないだろうか。

今は亡き、スターリンの遠藤ミチロウ氏のソロアルバムに「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」という曲がある(同タイトルで遠藤ミチロウ氏の詩集も出ている、持ってないけど)。なんだかその歌詞を読んでいる時の感覚にも似てくる。遠藤ミチロウ氏と著者には30歳以上の年齢差があるのだが、それは関係ないか?それよりあの曲もなんかダークモードのイメージなのである。スターリンのアルバムのジャケットを丸尾末広氏が描いているのもあるから、多分小生の頭の構造がやはりおかしいのか?単一思考なのか?
最近の丸尾末広氏の作品はなんか、パッとした景色というか青空の景色があって、ストーリーは昔と変わらないが絵がダークサイドではない感じがかなりするんだけど。そんなパッとした景色はいくらこの詩集を読んでも頭の中では広がることはなく、グチャグチャとなった豆腐や蕎麦やうんこが爆発してうごめいているのだ。小説じゃないのにそいった世界が広がる・・・。
FBでは何度か書いたのだが、著者は絶対にコトバのテロリストなんだと思う。

実は著者は関西では有名な若手落語家の一人、笑福亭智丸さんなのである。彼が高座で演じる大ボケの丁稚や小僧がなんとも言えず、てんしきの『珍念』などは格別で、創作落語の「桃太郎」の話の元ネタを教える子供の話、子供の姿は格別である。そんな彼が小生にとってこの詩集『歯車vs丙午』でコトバの世界で魅せるダーサイドは彼のダークな姿の一面にしか見えず。実はあいつ、智丸さんはダースベイダー卿ではないのか?と思わさざるをえず。高座で笑いながら「本名疋田龍乃介で詩人もやってまして、◯◯賞の選考にも残ってましたが・・・」と笑顔でいう彼の影が怖ろしい事にダースベーダー卿に見えてくるのである。実は繰り返し読めば読むほど・・・。
やっぱり智丸さんはコトバのテロリストなのである、
あああぁぁぁぁぁ、怖ろしい。

2019年8月14日水曜日

悪の読書日記  絹と明察 三島由紀夫(著)

2019年 8月 14日

よくもまあ三島由紀夫は戦後の工場のストライキの話をベースに、こんな小説を作り上げたものである(1954年の実際にあった近江絹糸争議の話しである)。
話は経営者の駒沢は個人敵利益の為に紡績工場を経営していたわけでは一切無かったが、今考えても当時としては相当従業員のプライベートへの関与はやり過ぎである。利益が経営者個人の為で無かったゆえに、そこに気が付かなかったのえあろう・・・・。若い従業員の手紙を寮母が勝手に開封する、外出は許可制など、軍需工場かよ?と戦後の時代にはこの勘違いというのになかなか経営者は気が付かなかったのだろうか?と、しかし気がついていたにせよ、当時の従業員は東北地方出身者などが多く、兎に角毎月給料が貰えれば・・・というような両親と親孝行の心で成り立っていたので暗黙の了解みたいなところがあり、クレームはたいしたことないと会社側も考えて適当にしていたのだと思う。それが高度成長を支えていたのは事実で、その後に起こる公害問題なんかは当時行政にかけあってもその工場のおかげで市がなりたっているので市民の訴えを退けていたお陰で状況が悪化したのも事実である。非常に良くない時代であった。



そんなあんまり良くない時代と実際に起こった近江絹糸のストライキ事件、ストライキを先導する若者と工場の経営者、哲学好きのオッサンの個人的利益追求の駆け引きをうまく混ぜあわせて小説にしている三島の手腕はなんとも言えない技術である。経営者は人間は苦労してなんぼ、だから若者は苦労したらええんや・・・という従業員の事を息子、娘の様に思ってやっていたことが結果的に裏目に。小説には一切書かれていないが、近江商人はやたら「金(カネ)」に細くセコいそうだ!。多分、経営者は私腹を肥やさなかったけれど従業員の給料は低く抑え、時間外労働は激しいがきっちりと時間外労働分はの給料は払わなかったのだろう。マルクスの資本論にもあるように時間外労働(この分の給料を払わない)こそが利益だ!という思想で爆走し、内部保留金は相当あってこの金で将来の設備増設などと考えていたのだと思う。残念ながらこの場合必要なの福利厚生なのだ!それが経営者として大きく抜けていたのだ。
その抜けた部分を利用されて結果的に・・・・経営者は自分の命さえ縮める。

どう考えても今の時代に読むと、そんな経営者おるんか?になるんだが。戦後十数年なんて、実はこういった企業は多かったんでは無いだろうか?この小説に出てくると駒沢という経営者は私腹の為に利益を追求はしていなかったが、私腹の為に利益を求める経営者が普通であろう。今なら私腹のために会社を経営しないのなら社会起業家だ。


舞台が彦根〜京都と琵琶湖周辺なので関西人には土地勘があるので実際に出てくる場所や神社仏閣など直ぐに想像出来たりする。また三島の書く言葉の美しい表現がまた興味深い。三島は文章を美しくコトバを書く事を優先する場合と、お手軽な面白さを優先する場合があり、この小説は間違いなく前者である。前者も後者も小説としては完全に三島由紀夫ワールドなので手を抜いたストーリーはこれまで読んだ記憶はなく、どれも100%全力三島ワールドに近いと思える。つまり読者層を考えてストーリーを難しく美しく表現するか、ポップに表現するかのバランスを上手く使い分けていた結果と言える。
毎回『お見事!』と読んで言ってしまう三島由紀夫ワールドであるが、今回もである。

実は極端に言えばこのストーリーは会社乗っ取り大作戦なのである。それは結果的にそうなったのか、そこまで計算されていた話なのかは小生の頭の中ではよく解らないが。多分、三島にしてはどっちでもいいところで、三島はこの話のなかでは全く違ったテーマを含めていたようである。
それが「父親」である。
ここからは人それぞれの想いがココロに巡るんであろう。またしてもやられた。

2019年8月12日月曜日

悪の読書日記  運をつかむ瞑想法 青木宏之(著)

 2019年  8月  12日

昼間から、動画サイトでThe CUREの何処かの国での完全ライブ動画を見ながら読書日記を書く。

この世でもっとも尊敬するミュージシャンの一人と言える近藤等則氏が昔々から実践している武術が『新体道』である。近藤氏の書籍やインタビューにはかなりの高確率で登場するのが『新体道』である。かのマイルスはボクシング、近藤等則は新体道、三島由紀夫は剣道にボディビル、ボクシングである。

そんな尊敬するミュージシャンがやってる武術なんて、やってみようとか興味を持つのが普通だが、興味はあるが武術なんて実は相当苦手である(高校時代の柔道なんて特に・・・)。そんな事を思っていたのは30年近く前からで、ここ数カ月人生色々あってさらに近藤等則IMAバンドが再結成したこともあり、精神的不健康からの脱出と併せて、ほぼ毎日近藤等則の奏でる電気ラッパの音階とヴァイブレーションを頻繁に聴いて感じているしだい・・・・。



そんななか古本で見つけたのが本書である。新体道の第一人者である青木宏之氏(著)『できるビジネスマンが実践している―運をつかむ瞑想法』。タイトルから言えば最近の本の様な感じだが、2004年発行の本である。この頃に瞑想の本を書いている事が凄いという感じであり、「できるビジネスマンが実践している」という(出版社が着けたと思われる)サブタイトルの一部も、2004年でこのタイトルは珍しかったのでは?と感じる。少し変えれば「できる外資系ビジネスマンが実践している―運をつかむ瞑想法』など、2019年の本屋に並ぶ本のタイトルに相当近くなる気がするし、相当売れそうな気もする。
著者も出版社もかなり時代を進んでいたのかと思わせる・・・青木宏之氏が瞑想の本を出版していたことさえ知らなかった。何冊か新体道の書籍はだされているとは聞いたことがあったが。

最近では瞑想といえば、Googleが採用して実践している事で世の瞑想に関する書籍の殆どにこの事が書かれている。マインドフルネスなんて言葉も当たり前だが本書には一切出てこない。しかし、全く時代を感じさせないのである(当たり前の話であるが)。そもそもマインドフルネスは瞑想だけの事ではないのだが・・・いつの間にか=(イコール、同じ定義)として捉える人も居られる感じだ。

これまで数冊瞑想やマインドフルネスに関する本を読んできたが、明らかにこの本は瞑想に関する敷居を素晴らしく低く設定して書かれているのが読んでいて解かる。当時の時代背景もあったのだと思うが解りやすく、瞑想に至った過程についての説明なども面白く、興味をひかれる。
特に瞑想中は心を「無」にしましょう、「空」にしましょう・・・とよく言われるのだが。実際に人間の脳は心を「無」にする事は簡単に出来ない仕組みなのである、その点をこの本は強く説明している。実は瞑想をする人で心を「空」に出来なくて、うまく行かないと感じる人が多いのだが、そういった人からみても良くできている瞑想の本であると思う。
なぜなら、青木氏は心を「空」にするのは結果であり、瞑想の目的は「空」にすることではないと書いている。まさにこれであったとやっと気がついた。

さらに武道家の書かれた瞑想だけあって「礼」にはじまり「礼」に終わるという瞑想も始めて読んだしだいである。しかもウォーミングアップまであるのである。この点は非常に面白い、瞑想というスタイルが出来た頃にウォーミングアップなんて発想や考えは無かったはずである。確かに10分以上同じ姿勢を続けたりするには正直ウォーミングアップは必須だと言える。

また、この本を読めば読むほど人間と自然の繋がりを強く感じる。近藤等則氏の奏でる音の根源はきっとここにあるんだろうと確認できる。近藤氏は自然の繋がりを求めてアラスカやヒマラヤ、中東の砂漠でラッパを吹いたりすのだろうと思う。誰もいない雪山や砂漠でラッパを吹くなんて、観客の居ない競技場での格闘家の自己満足な試合と同じではないかと思っていたのが正直なところ。(尊敬するがゆえに正直な気持ちであった)。しかし、この本でそれは相当違うと解った。

おそらく、この本の瞑想法はGoogleや外資系の企業では採用されない瞑想法だと思うが、もし今から瞑想を始めようと思うのであれば、世に出ているどの本よりも最初に読むにはふさわしいのではないだろうか。『きるビジネスマンが実践している』なんていうタイトルは不要である!!

正直小生も、瞑想のスタイルを変えてみようと実践中である。しかし、瞑想なんて正直、自己流でいいのではないかとも最近思い始めたのも事実である。

正解なんていうのが存在しないことも世の中には沢山ある・・・。


2019年8月3日土曜日

悪の読書日記 映画ブレードランナー ウィリアム・S. バロウズ(著) 

2019年 8月 3日

久しぶりに悪夢のような本である。良い意味で・・・ 
先日友人がSNSにてP.K.ディックの「電気羊はアンドロイドの夢を見るか?」とリドリー・スコット監督の映画「ブレード・ランナー」について書いていたので、この本を思い出して急遽天井裏のダンボールから本書バロウズの『映画ブレードランナー』を救出して読み始めた。だが本書は全くと言っていいくらいリドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」やディックの「電気羊は・・・」と全く関係ない。簡単にいえば、三菱系財閥グループと三菱鉛筆くらいの関係なのである。
タイトルに『映画』が付くのは、映画の原作なんかでもなく(前述のとおり)、小説なんだが映画みたいな小説というか、映画や音楽よりも文学は何十年も遅れていると発言していたバロウズの手法の一つの手法で書かれている(手法でもないが)。

著者自ら表紙に登場することは珍しいだろう。

昔々のこの本が発売された1990年に読んだ後、1回くらい読みなおしている記憶はあるが、多分20年以上は読んでいなかったはず。その20年の間に色々なバロウズの本を読んだのであるが、基本的にバロウズの長編は一冊まるまる読み返すことはまず無い。理由は簡単、非常に疲れるからである・・・極めて偶に”ほい”と一冊段ボール箱から手にとって数ページ読んでみたりするが、それで数ページ読めば十分なのである。長編を一冊読んでも全体を把握する事は相当難しく、最初から読んでも途中の部分を多少読んでもあまり変わらないのかもしれない。ストーリーはあるけど、ないんかもしれず。適当に読んでも良いのである。読んでいると別の本に書かれていた用語や登場人物が突然現れてくることも少なくなく、バロウズを楽しむには、質より量なのだと思う。
20年後位(70歳になったら)、再び読み直す時間があればと思い、古本屋に捨てずにおいてある。生きていたらの話しである・・・・、生きていたら。

今から30年くらい前に買った本だった。

『映画ブレードランナー』は一冊の本であるが、長編でなく・・・正直、短編小説を抜き出して一冊の本にしたような感じだが、短篇集には入れたくないという著者の想いがあったのか否、一冊として成り立つと考えたのかもしれず。それだったら三島由紀夫の短編小説のほとんどが一冊の本でも成り立つから大変な事になるなあああああと。

最初に読んだ時は、アメリカの健康保険制度もよく知らなかったし、製薬会社ってそんなに悪どいという事も知らなかったので、いま読むとなんだか昔読んだ薄っすらとした記憶以外の感情が湧き出てくる。
なんか読んでてゾクゾクと変な気になる、やはり疲れてるのか俺は?と思いながら読み進める。
しかも、なんかいま読んでいてリアル感があったりするんだが、現実はニューヨークで過去にとてつもない大規模な暴動は無かったし、いまも地下鉄も普通に運行している。リアル感はやはり人種差別や移民、製薬会社のやり方とかになるんだろう。バロウズが時代を先読みしてたのではなく、単に昔からアメリカが抱えていた問題なんだろうと思う。
つまり何十年経っても変わらないアメリカなんだ。どこかと同じ。むしろ悪化している、お互い。



多分、最初に読んだバロウズがこの本だったと思う。この次が『ワイルド・ボーイズ』を読んだんだったと記憶する。1990年代初頭、バロウズはまだ生きていたし、『ドラッグストアー・カウボーイ』なんていう薬屋を襲撃するジャンキーの若者を描いた映画にも出演していたりもした。
ある日、ネットを起動したらバロウズが死んだというニュースがやってきたのも覚えている。いま正確にいつバロウズが逝ってしまったのか記憶にないが…
この本が最初のバロウズで良かったと今になって想う。前述の通り短編みたいな小説であり、内容も解りやすい…解りにくいのが楽しいなら別だが、解りにくいのが最初の一冊としたらNGだろう。バロウズの解りにくいのが楽しいと思うひとは明らかにバロウズ・ジャンキーの人だ。
最初が肝心なのである。

前述の三島由紀夫氏がかつて、私をよく知らない方で、長編小説を読む時間のない人はまず短編の『憂国』を読んで欲しい…と言っていた。これが本人のいう三島テイストが満載しているそうである。
もし、バロウズを初めて読む人は『映画ブレードランナー』を個人的にはオススメする。
これでウィリアム.S.バロウズを挫折した人は、ウィリアム.S.バロウズを読まずに、別のもう一人のバロウズを読まれるといいだろう。

次にこの本を読むのは20年後なんだろうな。