2019年10月31日木曜日

悪の読書日記 頭の中がカユいんだ  中島らも(著)

2019年 10月 31日

小生の二十歳そこそこまでを形成していた細胞は間違いなく上岡龍太郎氏、笑福亭鶴光氏、そして今は亡き遠藤ミチロウ=スターリンと、中島らもだった。
先日、落語会/読書会の帰り、笑福亭智丸さんと電車のなかでふとした事から、中島らもの話になった(ちなみに智丸さんは、らもさんの大学の後輩にあたる)。智丸さんは中島らもの『頭の中がカユいんだ 』が好きらしい。遥か〜昔、『頭の中がカユいんだ 』は読んだと記憶するのだが、らもさんの本は殆ど手放してしまった記憶があり、一部の本は今になって買い直したりしている。『頭の中がカユいんだ 』どんな内容だったかは全く覚えていないに等しい。文庫化されて現在は外国人女性の表紙は知っているくらいのレベルである。



それは高校二年か三年の頃であった、当時関西ではFM大阪で『中島らもの月光通信』という番組が放送されていた。無茶苦茶なラジオドラマちっくな爆笑コントとその間にパンク系の音楽、そしてスタックオリエンテーション(現在のスマッシュ・ウエスト)の南部氏と、とんでもないゲストのコーナーなどと・・・今考えたら無茶苦茶な内容だった。途中でアル中で病院に入院させられた中島らもに替わって、漫画家ひさうちみちおさんが何週かに渡り司会をしている時があったが、そんな時のとんでもないゲストが戸川純(ヤプーズ)だった。
この放送を熱狂的に聴いていた、当時はテレビよりラジオの方が面白かった。上岡龍太郎氏は晩年テレビ(関東圏)に良く出ていたが、天才上岡龍太郎の本当の面白さはラジオであったと思う。上岡氏が当時ラジオで語った内容は今でも小生の生きる指針となっている(民主主義とは何か?、三島由紀夫と石原慎太郎の違い、プロ野球とは?…など)。
そしてまた、当時読み漁った中島らものエッセイなども今の自分の生きる指針となているのも事実である。

『頭の中がカユいんだ 』のオリジナル版はどんなんだったのか?ネットのオークションやメルカリで検索してからやっと思い出した。当時、大阪書籍から発行されていたのである。東京方面の方は解らないかも知れないが、大阪書籍という出版社は教科書を発行している出版社なのである。その出版社が結果的にはジャンキーの書いた本を出版していたのであるという有害図書から教科書までのなんでも来いの出版社である。
既にオリジナル版は高価な値段がついて買う気はしないが、表紙を見て思い出した・・・・そうだ、こんな表紙だった。当時ラジオ番組でよく、大阪書籍が教科書の出版社のくせに、なんでか中島らもの本を出版したと話題になっていた。
当時は多分深く考えて居なかったのだが、この『頭の中がカユいんだ 』は中島らもの身の回りでの事実をベースに書いた本だということである。

ヤフオクから拝借


とりあえず再読したくなった小生は文庫版の『頭の中がカユいんだ 』を購入して、おそらく30年ぶりに読み返した。すると過去の記憶が断片的に蘇る。山口富士夫さんのエピソード、朝日新聞の社員の名刺を持っていたらタクシーに現金を持っていなくても乗れる話。天王寺野外音楽堂で小生が音楽を始めるきっかけとなったリザードを観にいったという話、印刷屋を退職するとき一緒に退職する先輩と勝手に好きな名刺を作って印刷して退職したという話、ダイビングしていて海上に浮上したら陸地が見えなかったこと・・・・など。
どうやらそれらの僕の記憶の断片の原本はこの本の内容だったらしい。
十年くらい前から、中島らもさんの奥さんや、鮫肌文殊が書いたらもさんについての思い出の本を読んでいたので、色々な話や中島らもという人間が本の内容と結びつき、30年前に読んだ時とは全く違う感覚に陥っているのだと自覚する。前述したが、これは事実をベースに書いた本なのだ、多分最初に読んだときは適当な事を言って、本当はつくり話で実話を大きく盛ったのだろうなんて思っていたに違いない。しかし、違っていた。
前述のらも夫人や鮫肌文殊の本などから考えても、この『頭の中がカユいんだ 』が事実であり、たいして脚色していないし、話を大きく変えてもいない。その後の中島らもさんのエッセイなどから想像しても『頭の中がカユいんだ 』は明らかに実話である。

当時、中島らもさんはこの本を数日で書き上げたらしい・・・
今となってはどういう意図でこの本が教科書の大阪書籍から出版されるに至ったのかなどはよくわからない。らもさんもどういう事でこの本を書き始めたのだろう?広告屋なのにどうしてFM大阪でラジオ番組をやっていたのだろう?その頃はまだ「中島らも事務所」じゃなかったし・・・
この時、売れっ子作家になる自分を想像していたのだろうか? そして作家を辞めて本当にやりたかった音楽をやる事も想像していたのだろうか?
鬱病になること、逮捕されること・・・・想像していただろうか?
(「なげやり倶楽部」というテレビのバラエティ番組の司会もしていて、レギュラー出演者がダウンタウンで電柱の被り物で出演していた。)

全く関係ないが先日、クリエイターの高城剛のメールマガジンのQ&Aのコーナーで高城氏がこんな回答をしていた・・・
【 Q 】・・・高城さんが私のような境遇であれば、何を生活の糧とし生計をたてて生きていくか、お考えいただけますと幸いです。
【 A 】彼女は、やっと地方に派遣の仕事を見つけましたが、母親が若くして急死。恋人とも別れ、結局仕事もクビ。
次に付き合った男性の子供を宿しますが、流産してしまいます。
そんな中、カフェでひたすら自分と向き合い、一冊の本を書きました。
タイトルは、「ハリーポッター」。その彼女の名は、J・K(ジョアン)ローリング。
のちに年収数百億円を生み出す小説は、ボロボロのノートに書き留められた短いメモからはじまります。
貴君が、いかなる境遇なのか、深く知るところではありませんが、僕なら、本を書きます。
いきなり書くことなんてできなくとも、日々少しづつ。
そっと未来の重い扉を開くように。
(高城未来研究所「Future Report」Vol.434より抜粋)

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残念だが、らもさんの扉は既に開くことは無いが、10代の終わりに感じた事はいまでも、これからもその感覚や感情は消えることは無いだろう。
次は僕の重い扉をゆっくりと開きたい。
そこに何が居るのかはわからないど・・・・。

2019年10月27日日曜日

悪の読書日記 嫌だと言っても愛してやるさ 遠藤ミチロウ(著)

2019年 10月 27日

今回は本当に悪である。
遠藤ミチロウの書籍が文庫本で発売されるのは、なにか変な感じがしないでもない。過去に何度も内容を追加し表紙を変更して出版され続けていたエッセイ『嫌だと言っても愛してやるさ』が文庫版になり、内容もさらに追加され、表紙も全盛期のスターリンのライブ写真、石垣章氏の撮影した写真である。あとがきは『爆裂都市』の映画監督の石井相互である!!
どうして今までこの本『嫌だと言っても愛してやるさ』を買わなかったのだろう?と今になって考える。正直、80年代の遠藤ミチロウ(スターリン)が好きなので、フォークギター1本でうたを唄う遠藤ミチロウにはあまり興味が無かったのだ。実は音楽に歌詞は必要なのか?コトバは必要なのか?と90年代後半から考えるようになって、音楽というものは音と音がぶつかりあって凌ぎを削って音を出すのが音楽ではないのか?と考えている時期があり、簡単に言えばフリージャズとか即興演奏のバンド活動をしていた為に遠藤ミチロウのギター一本で唄う活動には興味が無かった・・・・。



スターリンの殆どのアルバムに出てくる歌詞に日本語と英語が混じった歌詞は少ない・・・・。『MONEY』の「I LOVE MONEY・・・」程度くらいで、
「STOP JAP」なんて日本語(和製英語)であり、殆どの歌が日本語と和製英語(カタカナ英語)で固めた歌詞と言っていいだろう。ミチロウは常に日本語のロックに拘っていた、ビートルズの「HELP!」をソロシングル三部作で収録した時も本当は日本語の歌詞に超訳したが許可がおりず、へんちくりんな曲になってなんだか変なカバーソングになってしまったこともあった。日本語の歌詞の方が聴いている人にダイレクトに伝わる・・・と本書で言っているとおり、同感である。英語で言ったほうが伝わるという事もあるだろうし、英語で歌った(言った)方がカッコいいという意見もあると思うのだが、ある意味それは作者(作詞者)の我がままで、スキル不足なのかしれない。おそらく歌詞の中で日本語と英語が混じっているうたなんて歌っているのは日本の歌くらいじゃないんだろうか?
詩にせよ文学にせよ、外国人のコトバを日本語に訳して伝えた場合、その時点で作者のコトバでなく訳者と作者のコトバになっているのである。洋楽レコードやCDを買った歳に封入されている日本語訳歌詞カードを読んでもピンとこないのは、訳した人そのものの人格による部分がミュージシャンとの人格の不一致が多すぎるのだ。
だから、ミチロウは日本語のコトバに拘ったのだろう。スターリン、遠藤ミチロウの歌詞は遠藤ミチロウの歌詞がそのままなのである。
だからミチロウの歌詞は好きなのだ、いまさらやけど・・・。

本書には記載されていないが83年に無茶苦茶売れたスターリンのセカンドアルバム「STOP JAP...」というのがある。このアルバムはメジャーから発売するときにレコ倫から歌詞にクレームがついた為に、レコーディングをやり直した(ヴォーカルパートだけでなく演奏も含めて)経緯がある。
その一件に関するミチロウの苦言「レコ倫」というエッセイも収録されている。当初発売予定だったお蔵入りの音源は十年ほど前に「STOP JAP...naked」っていうタイトルで発売されたが、前述の『MONEY』は「I LOVE MONEY・・・」という歌詞でないのが実に興味深く。本書のミチロウの苦言と「STOP JAP...naked」が繋がり、歌いたく歌った歌詞でないことが証明される。本書に収録されている吉本隆明との対談でも少しだけ『MONEY』について触れられているが、今となっては吉本隆明が聴いた『MONEY』は変更をレコ倫によって修正された曲であったのだと思うとなんだか複雑な感じがする。

小生が音楽を真剣に聴くきっかけは、スターリンのドアルバム「STOP JAP...」からシングルカットされた曲『アレルギー』である。1分にも満たない曲、こんな音楽がこの世にあっていいのだろうか?という疑問から始まった小生の音楽生活、それは17歳くらいの時だろうか・・・・既に小生も50歳であるが、遠藤ミチロウがスターリンで1983年で32歳というから、ミュージシャンとしては若くない、32歳の時は俺は何してたっけ?ミチロウは50歳の時は何をしていたのだろう?と、巻末の『遠藤ミチロウ バイオグラフィー』を読みながら色々考える。
68歳でこの世を去った遠藤ミチロウである。30年くらい前はよく、ミチロウはパンクを利用して有名になった奴(本にもそう言ってたらしい)とか、パンツを脱いで有名になった奴とか、有名になる為にパンツを脱いだ。性格がエゴイストだとか・・・・よく雑誌やなんかで書かれていた(当時はやっぱりみんな若かったので、好きなこと言ってたんだと思う、事実かもしれないけど)。結果論から言えばそうであるが、本人にとってはパンクとかロックとかという概念は無く、彼の活動が「自分が社会をどう変えれるのか」という遠藤ミチロウの実験世界では無かったのではなかったのか?と思う。ライブでゴミをバラまいたり、ソノシートを配布したライブとか・・・全てが彼のメディア戦略の実験場だったのである。本人が本当にやりたかった音楽はアコースティックギター一本で歌いたかったと聞いたことがある。晩年はおそらく本当にやりたい音楽が出来たのだろうと思う。その為には自分自身を世間に知ってもらわなければいけない、遠藤ミチロウというブランドがの知名度が低ければ客も入らないしCDも売れない。そう考えるとスターリンでの活動は結果としては晩年の活動を支える為の土台、ベースとなったのだと思う。つまり結果的にパンクを利用したといえば笑えるが、今日現在「パンクロック」も「ロック」とかいう概念なんてちょっと時代遅れだ、革新的な部分が全くない、焼き回し文化でしかない。それよりもパンクでもロックなんてどうでもいいと考える男、遠藤ミチロウの日本の音楽文化への影響というのは非常に大きかったのである。

最近の若い方は知らいないと思うが、30年前に音楽のビデオソフトは高額で(当時)1本5000〜8000円とかが普通であったのだが、「これからのメディアはビデオ」だとか遠藤ミチロウ氏が言い出して結成したのが「ビデオ・スターリン」だった。当時発売したビデオソフトが2800円で、実はこれ以降、世の中のビデオソフトの値段が大幅に下がったのである。残念ながら発売したビデオは3本だけでビデオスターリンは解散してしまうのだが。

まさに我々は遠藤ミチロウの実験に付き合って楽しんでいたのである。

★★★★★★

中島らもさんのエッセイで遠藤ミチロウが出てきたことがある。桃山大学かどこかの学園祭で楽屋が一緒だったらしく、ふとミチロウ氏を見ると出演前らしく自分の顔に化粧をしていたらしい。らもさんが若木さんに「あの化粧どうなん?」と聞いたらそうだが、若木さんは一言「へた」と言ったそうである。

らもさんもミチロウさんも、この世にはおらず、
コトバだけがこれからも生き続ける。

2019年10月22日火曜日

悪の読書日記 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上春樹(著)

2019年 10月 22日

今日は国民の祝日である。右も左も関係ない自称「なんちゃってアナーキスト」において、単に休日なのである。
先日10月18日に開催された読書会の課題図書である村上春樹(著)「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に関しての小生の読書会用のメモを纏めてブログにあげてみた。また読書会の中でのあれこれ持論云々や他社批判も纏めてメモとしてブログにあげてみた。
(ランダムにアップしてあるだけである)




ーーーーーー
村上春樹氏・・・について

実は村上春樹氏の本を読むのは初めて。正直興味が無いのである・・・80年代村上龍と村上春樹と、どちらかといえば当時は村上龍の方が好きだった、簡単に言えば村上龍はいい意味での暴力的なロック、村上春樹はお子様ランチ的なロックってイメージだったが。結果的にその通りではないか、村上龍はジャンキーバンドのローリングストーンズが似合う感じがする、村上春樹は万人にウケるビートルズだ。
小生、ビートルズは嫌いだ!!

読書会で知った事だが、世の中には熱狂的な村上春樹ファンの方がいるようだった。読書会ではアホみたいに現在の世界の大衆メディア(ハリウッド映画や漫画)などに村上春樹が影響を与えている・・・という意見は笑えたが、ハリウッド映画に影響を強く与えているのは村上春樹でなく士郎政宗など日本の漫画である。そしてハリウッドのSF映画のベースはなんと言ってもP.K.ディックである。ディックとマーベルコミックなしにあらず。

村上春樹氏が80年代半ばに「啓蒙かまぼこ新聞/中島らも(著)」の「あとがき」を書いていることさえ知らず、マニアとは言えず脇が甘い。
その「あとがき」は笑えるくらい面白い内容なのである。そしてそこに今から世界旅行へ言ってくると書かれているのだが、どうやら読書会の色々な方の意見や話から時期的に言えば日本から脱出して次作「ノルウェーの森」を執筆するための旅行だったようである。


★★★★★★★★

個人的感想:世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド・・・メモ

・これはP.K.ディックの小説と言ってもいいだろう・・・ニューヨークの街でおこる話にすれば、明らかにディックの小説になる。しかし、小生が読んでいるのはディックの原文でなく日本語訳なのでそのへんの細い描写は双方難しい関係であるが、話の内容は明らかにディックである。と、間違ってもJ.G.バラードの小説ではない。不条理、不正義の世界をそのまま押し通すストーリ展開のあのバラードの小説ではないと思いながら読んでいたら一行だけバラードについて書いてあった。
・登場人物は固有名詞が一切出てこない。日本人で出てきた固有名詞は近藤正彦と松田聖子である。最初は時代を感じさせない為にあえて時代を感じさせないように書いているのかと思っていたが。全くそうでなく、ドアーズが解散してから十数年とか、松田聖子云々など80年代半ばが舞台だとハッキリ解ってしまう、これは意図的なのか?(海外翻訳版はSEIKO MATSUDAなのか?:英語なら)
・意識の中で生きていく?それ、サイバーパンクやろ?ウィリアム・ギブソンの小説みたいやんけ・・・としかし「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」も80年代半ば時同じ時期に発表されているので、サーバーパンクは関係なし。ウィリアム・ギブソンがテレビ番組Xファイルの為に書いたストーリは、システムのなかことサイバー空間に意識を逃がす奴らの話だった。
・世界の終わりにでてくる図書館の女の子・・・記憶の母親が奏でるメロディーと主人公の男が現実世界で聴く音楽のメロディー・・・「ドアーズ」の「the END」ではないのね。この歌詞の方が重いし内容にあっている気もするんだが。でもこれ使ったら、映画「地獄の黙示録」のラストになってしまう。
・2つの世界(ストーリー)が同時に進む、やり方というか書き方としては斬新かと言えばそんな感じはしない。むしろバロウズ(ジャンキーのほう)が言っているように、文学の世界は映画や音楽に比べて何十年も遅れている。それはいまだに変わらない。かと言ってバロウズの手法カットアップは斬新過ぎる(今でも)。
・絶望的なラストで終わる。男は死に、女はいつもの日常に戻り、博士は悪気もないかの如く海外へ・・・結局主人公の男だけが死んで終わる。「ええっ?」って感じだが、芸術的な話(結末)である。南河内万歳一座の座長内藤氏が、ハッピーエンドで終わるのでなく、「ええっ?なんでこう終わるの?と問題提議して終わる」というギリシャ人の哲学家の芸術理論があると昔ラジオで言っていた、この理論はその後の小生の人生を大きく変えた。実際に南河内万歳一座のストーリーはハッピーエンドというよりかは・・・である。まさしくこの小説は前述の理論に近い。
・ハードボイルドの世界、幻想(意識)の世界・・・、ハードボイルの世界が(主)で、幻想(意識)の世界が(副)である。これが逆転したらどうであろう?
・ウィキペディアでちょっと調べたら、この小説を読んで人生観が変わったとかいう作家さんがいるとか。「お前、もの知らんのか?」と言いたくなる。


★★★★★★★★

読書会:世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド・・・メモ

・カフカ⇒安倍公房⇒村上春樹の流れ・・・南河内万歳一座の内藤氏も安倍公房をよく読んでいたらしい。明らかに安倍公房の影響を強く受けている。
・80年代のバブル経済の感覚が残っている。そういった感覚は小生にないが、80年代に既に社会人だった方やリアルタイムに本書を読んだ方はそう感じるのかもしれない。
・必要のない部分が多い。確かに、バラードに関する記述などは不要としか言えない。それが著者の魅力ではないのか?他の小説は解らんが。
・幻想(意識)の話は著者の初期短編がベースになっているらしいが、その小説は本として出版はされていない、月刊誌に掲載されてそれ以降は陽の目をみていないそうである。ミュージシャンで初期作品は気に入らないから販売差止めしたり自分で買い占めたりする人に近いな。
・村上春樹の小説には共通して出てくるコトバやセリフがあるらしい。残念なことに村上春樹氏の小説はこれ以上読まないので小生には関係ない・・・。次作の「ノルウェーの森」についてもどうでもいい、ビートルズ、ジョン・レノン云々などは糞食らえである。
・主人公の頭の中の回路図、よくわからない。小生も読みながら先を急いだ為、深く考えずに飛ばしたが、それはそれで問題が無いようにストーリーはできている。
・結局、地底人「やみくろ」はなんやったのか?そういった結論はでていない。むしろ主人公が所属する組織云々の話などはそのままで終わっている。
・村上春樹の小説は映画よりも進んいる、かといえば決してそうではないだろう。比較すること自体が間違いかも知れないが。この作品の映画化なんてのは2〜3時間でまとまる話ではない。このストーリーをベースに違った話し(テーマをすり替えたるするような)でいくという手法や、SWの様な三部作にぶち切りそれぞれに起床完結を付ける話にするしかないのでは?映画化しないのは作者が映画化を許可しないのか?だれも作りたがらないのかは不明。
・これは作者の自叙伝なのか?

★★★★★★★★

久しぶりにかなり長いといえる長編小説(上下二巻)を読んだが、確かにこの小説は凄い。前述の通りの芸術作品で、三島作品のように読者を裏切って終わる作品では無かった。よくこんな作品が書けたものだ。しかし、明らかに安倍公房の影響は強いと思う。

俺の読書人生で最初で最後の村上春樹氏の小説である。
最高の小説さえ読めばそれいいのだ・・・

2019年10月6日日曜日

悪の読書日記 ドアーズ ジョン・デンズモア(著)

2019年  10月  6日

地獄の季節はまだ続く・・・
「負(マイナス)の気分」でいると、暗黒の世界は勝手に自分のところへやってくるかの如く、偶然「見るだけ」のつもりで入った古本屋で『ドアーズ ジョン・デンズモア(著)』を見つけて即購入に至った。音楽関係の本は余程の事がないかぎり初版しか発行されない。見つけたら「買い」である。たとえ音楽雑誌のバックナンバーであってもである。ドアーズ関係の書籍こそ暗黒の世界への入り口である。
著者のジョン・デンズモアはドアーズのドラマーであった人で、となればおそらくこれが一番真実に近いドアーズのインサイドストーリであると予想する。他にも何冊かドアーズ関係の本が出ているが、ドアーズのメンバーが書いた本はおそらくコレだけだろう。ドアーズは好きなバンドの一つだが、あまり知識も無ければどちらかというと宿命の女というわれる女性、NICOがいつもライブでThe ENDを演奏していることと、遠藤ミチロウが熱狂的なドアーズのファンであったことが、ドアーズが好きな理由になっているも事実である。スマホには全アルバムを落としこんでいるが朝からドアーズを聴くと一日が終わってしまうので朝の通勤でドアーズを聴くことは避けている。
その割にはどうやって、あの四人が揃ったのかなどはあまり知らず。ジム・モリソンの凄まじき行動の過去の話題などが先行している感じがしてならなかった・・・そんな事もあってか、結局古本屋で見つけて迷うこと無くレジへ持って行った。
原題は『Riders on the Storm』である、日本では1991年に発売された本だがタイトルはナンセンスだな。ちなみに仕事でパニックになったら、頭の中で『ハートに火をつけて』が鳴っている。


話はドラマーであるジョン・デンズモアがどうやって音楽を始めたのかから始まるのだが、時代背景もあり厳格なカトリック教徒の母親に育てられたジョンは、幻覚剤LSDなんどやったりして、違った道を歩み始める・・・面白いのは60年代後期にジョンは瞑想教室で瞑想を習ったことが機会となった、これがドアーズに至るのである。LSDの代わりになればなんて気持ちも少しあったようであるが、60年代の後半のヒッピーとかなんちゃらの時代、既に瞑想はこの頃から世界最先端だったのかもしれない。

世のバンドが売れてライブの動員数が増えていくと、ヴォーカリストは精神的に厳しくなるという話を過去に聞いたことがある。何千人、時には数万人の観客の「気」を一人で受け止めているのであるから、精神的も可笑しくなるのも当たり前かもしれない。ドアーズのジム以外の三人は当時の音楽雑誌 (新聞社だったかも)にヴォーカリスト以外はひたすら演奏しているみたいに書かれたらしく、その事実を考えても、日を追う毎に益々熱狂していくファンの「気」を一人で受け止めていたのだろう。ドアーズ=シム・モリソンと思われるのがジムは非常に嫌だったらしく、ジム・モリソン&ドアーズとメディアで言われたら自ら訂正させたりするくらいバンドとしての意識は強かったようで、その反面他のメンバーには殆どそういったことを相談さえしなかったのだと思うが、可笑しくなっていく精神を酒やドラッグなどで紛らわしていたのだろう。
また、バンドが有名になればこれまで友達という関係で始めたバンドだったが、レコード会社や所属のマネージメントの関係で友達関係で無くなっていくのでマネージャーを介しての関係となることもおそらくジムのココロを正常に戻す機会とタイミングが減っていったのだろう・・・と勝手に想像する。

結局はドアーズの解散はジム・モリソンの死で現実的には終わるのだが、それ以前にジムの奇怪な行動とその後始末の対応にメンバーがついていけなくなるのである。そしてパリで休養中のジムが帰らぬ人となり、バンドは事実上解散同然になるのである。
ジョン・デンズモアは本書の冒頭で、もう少しジムとコミニュケーションを取るなりして、何とかする手立てがあればジムは死ななくてすんだんだろうと後悔をしている感じがする、死ぬ三週間前にシムから電話が掛かってきて次のアルバムも作ろうみたいな話をしていたことも書かれている。もし、パリで死ぬことが無ければドアーズは次の作品を作っていたかもしれない・・・・しかし、他の3人は乗り気では無かったのが事実。このときジョン・デンズモアは正直帰って来てほしくなかったみたいだった。

昔々、よくドアーズのジム・モリソンが生きていたら世界の音楽史はいまとは全く変わっていただろう・・・と友人と良く言ってたのだが、果たしてそうだっただろうか?といまこの本を読み終わって感じる。この4人でこそドアーズなのである・・・いくらフロントマンのジム・モリソンが素晴らしい詩人であっても、パフォーマーであっても、それを盛り上げる3人がいないと、ジムは只の酔っぱらいなのだ。ドアーズではない。もし生きていても多分、彼の謎の行動は誰も止められずバンドの分裂は避けられなかっただろう。バンドを解散して、一人のヴォーカリストになって上手くいくのは日本の音楽産業くらいしかありえないんじゃないの?と。それ以前に既に3人は前述の通りジム・モリソンを支える気力が完全に無くなっていた。彼が生きていたとしても、ドアーズは終わっていただろう・・・つまり、もし彼が生きていても音楽史にはあまり影響無かったような気がする。

結局、カリスマのヴォーカリストであるジム・モリソンが死んでしまってこそ、それが伝説的になり、より強く印象付けされてしまったのだろう。ジョン・デンズモアはジムに対してこう言っている、『・・・君の自滅的な生き方が賞賛されているんだ、君のヒーローたるポードレールやランボーに代表される19世紀フランスの廃主義がアメリカに上陸したのだ。 ああ、わが屍のなんと美しいことか。 僕にはいただけない。絶対に・・・』(本書より抜粋、訳:飛田野裕子氏)と。

週末はドアーズ記念日の如く、ドアーズを聴きながらこの本を読んだ。読んだあと、これまで聴いていた音とは別の音を感じるようになった。ドラム・・・太鼓の音、ギターの音、ジムの声、オルガンのソロ。やはり、ドアーズはこの4人でこそドアーズなんだろう。一人でも欠けるとそれは違うバンドなんだと、つくづく感じた。

地獄の季節はまだ続くのである・・・