2020年5月30日土曜日

悪の毒書日記  超訳「般若心経」 苫米地英人(著)

2020年 5月 30日

素晴らしい天気の土曜日の午前中であったが、朝から読書であった。有名なチベット仏教僧と、彼の父親である哲学者の対談本を読んでいたが、仏教は哲学なのか?、息子よ!!などと内容がヘヴィ過ぎたのか、読んでいて非情に疲れてきたので本を読み替えた。『超訳「般若心経」』、著者の苫米地英人氏の本は、書いている本質、著者の目的は不変の一つであり、それを色々な視点からアプローチをしていることが多く、切り口は多いがどれを読んでも同じだ!と思われている事がよくあるようである。確かにそれはある程度は否定できないかもしれない。
しかし、時々著者の著作で最大風速ジミ・ヘンドリックス以上のパワーと爆風を出力を感じる本がある。その一冊が本書『超訳「般若心経」』である。過去に「超訳ニーチェ」とか「超訳ヴィトゲンシュタイン」みたいな本があったが、そういった類の本とは全く異なる内容である。


般若心経はどこからやってきたのだろうか?と、今まであまり考えたことも無く、実家では毎日の様に同居していた祖母が仏壇の迄に「般若心経」を唱えていたので、小学校低学年の頃には既に、ある程度は覚えていた。但し意味は有り難いコトバを並べているというくらいしか思っておらず、近年何冊か般若心経の解説本を購入して読んでみたが、これといった心に来る本は無かったに近い。本書によると、実は般若心経が仏教発祥の地であるインドからやってきた、しかも三蔵法師が天竺へ言って持ち帰ったものでもない説が有力らしい。全文漢字で構成されている為、天竺⇒中国ときて、中国でサンスクリット語から漢字に翻訳されたという説もあるのだが、どうやら色々な昔の書物や記録を紐解くと、般若心経の存在を示す資料は中国で般若心経の存在を示す資料より一世紀程インドは遅いらしい。さらにインドにはサンスクリット語で書かれた般若心経の原書すら存在していない。むしろインドに伝えたのが三蔵法師であるという説が実は非情に有力なのである。しかも最後の方に出てくる「羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい」は漢文でなく、シュメール語であり、シュメール語で作られたマントラであると著者は解説しており、これは適当な推論なのでは無く、本書の説明が明らかに正論であると読んでいて思える。
色々な諸説があるものの、決してこれらが般若心経の価値が劣る訳でもなく。むしろ般若心経を理解する事が生きていくうえで非常に重要なツールであると著者は言っている。

その説明のなかで著者の「空」(くう)についての説明が実に最大風速ジミヘン以上なのである。「空」とは「有」と「無」も包括してしまう。では「有」と「無」とは何なのか?つまり、「線」とは何か「線は点が集まって並んだもの(極めて簡単に言えば)」で、「点」という存在は「ここ」「そこ」という定義として存在として示すことができるが「点」には「面積」も「体積(厚み)」も無い、「あるのかないのか?」・・・「どっちやねん?」。あるとも言えるし、無いともいえる。これが「空」である。これは「点」だけに限らず、結局人間も我々は今ここに存在しているが、それを証明するのは困難である。なぜなら「私」とは何なのか?こうちている間にもカラダの細胞は入れ変わっているが、自分の意思は入れ替わること無く存在している。果たして「わしはどこにおるんじゃ」とまさしく「有」であり「無」である。
もっと大きな意味で考えると、一つの何かの存在が宇宙のすべてとつながっているという「一念三千」に繋がり。一つの「有」が、ケタ違いの「超ぶっちぎりの有」であるという考え方や認識が大乗仏教の「空」であると。

「空」は「無」も「有(モノ=物質)」も飲み込んでいるに値する。それと同じように、我々は心で感受したり想起したりする意識や認識もすべて「空」なのである。すべての現象は「空」なのである・・・と般若心経は著者の超訳では「空」についての超指南書であり、人間一人々の悩みも「空」の中に存在しているのであり、この用のすべてのものが「空」なのである。仏教は哲学なのか?形而上学なのか?現象学なのか?などと言われるて、定義を求めたり、考えたりする人が多いそうであるが、結局は仏教でいえばすべてのものは「空」でしかないのである。そう考えるとやはり、普段の悩みや考え事は 非常に小さな存在であり、存在しないかも?と言えるのレベルなのである。


漫画「攻殻機動隊」の第一巻の最後に、草薙素子が言う「ネットワークは無限だは・・・」。これは「一念三千」と同様。一つの物質は無限に近い「有」で「縁起」でつながっている。それを包括してしまう「空」は無限でしかない。しかも有るのか、無いのか解らない。
まさにネットワークではないのか・・・?



2020年5月24日日曜日

悪の毒書日記 ロックンロール・ジプシー 二井原実(著)

2020年 5月24日

「ぼくはロックで世界をみた」というサブタイトルの世界を股にかけたメタルバンド「ラウドネス」のヴォーカリストである二井原実氏の昭和63年に宝島はJICC出版より発売された「ロックンロール・ジプシー:ぼくはロックで世界をみた」である。何十年も前から読みたかったが、既に入手困難、高額になっており、先日メルカリで安価で見つけて購入した。


80年代前半から海外と日本で活躍するメタルバンド「ラウドネス」のヴォーカリストがヨーロッパ、アメリカをレコーディングやライブツアーで廻り、体験したことを纏めた内容である。この本を二井原氏に書くように奨めたのはあの某有名ロック雑誌の編集長もやっていた水上はるこ女史であり、「新ロンドンへ行きたい」という本で小生をロンドンまで行かせてしまった人物であるというのが、前書きとカバー後側で解った。

昭和63年という当時はバブル経済の後期の日本でありながら、海外で活動する日本のミュージシャンなんて、ラウドネスと近藤等則氏くらいしか居なかった時代である。しかも一般市民にはインターネットの無い時代である。偶然にも当時アメリカでLAメタルなんてブームがあって、アメリカのレコード会社が世界中の実力のあるメタルバンドを探していて、ヨーロッパのレコード会社と単発契約していたレコードを聴き、たまたまLAでのラウドネスのライブを観たというアトランティックレコード会社の人が、「こいつらは凄い!」と日本のラウドネスにアプローチしてきたというのが、アトランティックレコードとの契約に至るスタートだったそうだ。レコード会社でも過去に前例が無いことだったので、日本のレコード会社もどう対処したらいいのか解らなかったくらいの話だったそうだ。当時はレコードの輸出はしていたらしいが、日本のミュージシャンが海外の大手レコード会社と契約することなんて想定の範囲外であった。このレコード製作においても日本とアメリカのレコード会社のやり方が全く違うのだが、この点については本書で著者が十二分に説明されている。


レコード会社は利益の為にレコード作るという目的は日本もアメリカも同じだが、過程や考え方が全く違う。アメリカはちゃんとしたボス(プロデューサー)を置いて、良い売れるレコードを製作出来るプロデューサーを中心に制作する。ここにはレコード会社は一切口を出さない。確かにアメリカは購入人数が遥かに日本とは桁違いに異なるのだが、それにしても日本のレコード会社との考え方の隔たりは大きい。これは今もあまり変わってはいない気がする。
例えば、現在日本で製作・発売されている音楽は発売後にカラオケで歌われて金を稼ぐことを重視されているので、カラオケボックスでの曲の回転率を上げる為に長すぎるイントロやギターソロなどは好まれないというのが現実らしい。ミュージシャンや製作者の良いものを作りたいという意思はあまり反映されておらずレコード会社主導で音源が製作されているのである。
やはり購買人数の桁違い差と国土面積から考えるとアメリカのレコード会社のレコード製作における考え方は正しいし、日本でいくら売っても・・・という日本のレコード会社の人の反論はあるだろうが、これまでロックを聴くのは中高生、大学生としか考えてこなかったので購買人数を増やせなかったというところは反省すべき点であり、自ら首を締めていたということだと思う。


さらに海外ライブツアーの話が本当に凄い。いわゆるフロントアクト、スペシャルゲストと言いながら前座で大物ミュージシャンと全米を廻るのだが、前座の為に殆どサウンドチェックも出来ない状態で一発勝負でほぼ毎回演奏するらしい。客入りの中で機材のセッティングをスタッフがやっている事もあるそうだ。ステージはメインのミュージシャンのセッティングの前方に前座である自分たち機材を並べるので、それ程広くなくむしろ狭い中で演奏をやらなければいけず、何から何まで相当大変だったそうである。しかも、モトリー・クルーと一緒に廻ったツアーは良かったが、AC/DCとは最悪だったらしく、客の態度が最低だったらしい。以前、同じ職場にいたラウドネスの熱狂的ファンの同僚によると、ギタリスト高崎晃氏がAC/DCのギターリストより遥かにギターが上手すぎるので客にブーイングされたという話を聞いたことがある、その同僚に借りたラウドネスの海賊版ライブビデオはステージに爆竹を投げ込まれていたことから、やはり当時は「なんで日本人がロックやってんねん?!!」みたいな風潮が大きかったのだろう。
本書は最初に書いた通り昭和63年つまり1988年の本である、今とは世界情勢も全く異なるし、生活形態も全く異なる。だからと言ってこの本が決して古臭いというのでなく、また懐かしいという感じもあるのだが、実はそれ程頻繁にそれは感じられない。なぜなら、これはこうだという著者が得た情報や知識を中心に書いたものでなく、著者の感じた気持ちが優先されて書かれているからだ。多少は著者の脚色があるにせよ、本書で語られているのは、日本という小さな島国で生きていると知らないことが多すぎるということだ。たとえ現在の様にインターネット云々で世界の出来事がリアルタイムに地球上に配信される事があってもそれは単に情報でしか無く、自分の体験や経験ではないので本質はなかなか伝わりにくい。売る側からみれば、本書はタレント本といえばそうなかもしれないが、感情的な部分を読みとることでこの本は単にタレント本では無いことが簡単に解るはずだ。

時はバブル経済の後期であったのだが、日本の電化製品は世界中で売れまくっていたが、結局日本の文化は殆ど海外で広まらずであった。そういえば本書でアメリカの寿司屋の話が出ていたが、いま日本の美容師と寿司屋は海外で稼げる職業である。

数年前に発売された二井原実氏の著書「singer」には、これ以降の事が詳しく書かれている、立ち読みしただけなのだが・・・世界的なメタルブームは数年後には終焉を迎え、ある日二井原氏がレコード会社へ行くと知り合いのレコード会社社員はだれも居なかったそうである。

それがアメリカの会社、レコード会社なのであろう。だから売れるレコードの製作には必死なのだろう。

2020年5月17日日曜日

悪の毒書日記 WILD SWIMMING  Daniel Start(著)

2020年 5月 17日

昨夜は、トライアスロン関係の友人達の遠隔飲み会にコーヒーとハリボで乱入。今後のレース開催や練習会再開の話になったりしたが、今年のマルチスポーツ関係のレースは殆ど中止(来年以降へ延期)ではないのだろうか?練習会の開催もどこまでの範囲で可能なのだろうか?という話で、かといって打開策やそれに替わることができる具体的なプランやアイデアはなかなか難しい。なぜなら、ガイドラインというかフィトネスクラブの営業に関するルールや定義が全くないからだ。
多分、オープンウオータースイムレース自体は、レース中の濃厚接触などは考えにくい世界なのだが、明らかにそれはレース中ということだけで、どのレースもレース自体よりもレース前後での人の集まりが問題なのだろう。
今年は、オープンウオーターレースの参加はどうなるのだ?と考えるも、個人的に言えば、実はレース云々の参加する?しない?について言えば、悩み尽くしたのは十年以上前の話なのである。当時は仕事云々で忙しく、練習時間もあまり取れず、数カ月先のレースにエントリーしても果たして現地まで行けて、参加して、ゴール出来るのか?と悩んでいた。そんなある時、当時のトライアスロン雑誌の「人生相談」みたいなコーナーで同様の悩みをもった人がいて、その回答が凄まじかった。要約すれば、「トライスロンはレースに参加してゴールする事がトライアスリートではなく、トライアスロンは自己管理のスポーツで、自分の能力を伸ばすスポーツである。レース云々よりも日々自分の成長に努力すればいいではないか!!」ということであった。これには目から鱗であった。その回答をされたのは、現在チームBRAVEの八尾監督である、隣の町内会の住人で同じ市町村に住んでいる。これ以降、小生はレースに出ることよりも日々の自分のスキルアップや自己管理について重心を置くようにした。

では、今年のレースはどうするん?であるが。プールでの練習もしていないのに、8月にレースありますよ!なんて今から言われても、少々困ります。つまり、今年はレースでないオープンウオータースイムを楽しめないだろうか? LOVE THE EARTH〜地球を愛する為に!!




数年前に購入した『WILD  SWIMMING』〜大英帝国での川、湖、滝のガイド〜である、これを改めて読んでみる。これが日本で出来ないか?!!!である。今年は海水浴場は海開きが出来ないという状況。もし勝手に泳いだとして、自警団みたいな奴らに警告されるのでは?というまるでファシズム国家のなれの果てになるのは必須。
それなら、山奥の川や湖でひっそりと少人数で泳いで楽しんだ方が無難ではないか。ついでにトレイルランも一緒にして、山奥の湖や川まで走っていけばベストではないか?。それはレース云々の為でなく、LOVE THE EARTH〜地球を愛する為に!!である。


この『WILD  SWIMMING』という本は実に面白い。さすが英国の旅行、旅に関する書籍やメディアは日本と異なり旅行会社などの広告が入って居ないので実に正直ベースだと言える。地図あり、最寄りの駅から歩いてどれ位か?、水質はどれくらい?水深は?などと詳細に記載れている。
写真も相当豊富に掲載されているのもありがたい。
なんと、日曜日の午後にペラペラと見ているだけで楽しい内容である。映画「ノッティングヒルの恋人」でもあるように、旅行書だけしか扱ってない書店の存在が日本では考えられない。しかし、そんな本屋が儲かっているかどうかは別の話なのかと。
ただ大英帝国と日本の川やダムの事象は日本と異なるので、これがマトモに日本に移行出来るかどうかは難しい。実際に、これを実施するには前もって場所を探して調査する必要があるのは必須である。いわゆるご近所のマイクロアドベンチャーであると言えるのだと思う。

先日SNSでオーストラリアのオープンウオータースイマーは日々、近所のダムで泳いでいる動画をこれでもかとアップして、俺を挑発するかの如くである。しかし、SNSは残念ながらこのままで行くと、相互管理の政府御用達のITツールになってしまいそうだ。そうなる前に、逆にテクノロジーを利用して、新しい社会と価値観を作っていきたい。
そして、
電波の届かない、山奥の川や湖でFREAK  OUT!したい。

★ ★ ★ ★ ★


  
目次は流石に充実じて、分類などわかりやすい。
犬も一緒にでもええやろ。

運河とちゃうんか?

2020年5月9日土曜日

悪の毒書日記 音楽入門 伊福部昭(著)

2020年  5月  9日

数年前にご近所にお住まいの電子系音楽家の方に奨められて購入したけど読んでなかった、いわゆる積ん毒状態から脱出させた一冊。本書は昭和26年に最初に発行された本らしく、どうやらその時はは小冊子であったようであり、その後何回か再発に至り本書は2016年に角川文庫からの再発であり。2003年の再発版には無かった、1975年に同人誌か何かに掲載された著者のインタビューを追加したものらしい。著者、伊福部氏は1914年生まれで既に2006年にお亡くなりになっておられる。



本人による「あとがき」にもあるように、今読むと時代遅れ的な部分もある。それは音楽的な話が古いとかでなく、その頃の研究では判明してなかった(科学的な)歴史的事実や昭和26年には無かった音楽技術を前提に書かれているからで、その為現在の世界を考えると成り立たないと感じる部分もある。当時はロックもフリージャズも生まれていないし、音楽用コンピュータやシーケンサーも無ければ、シンクラヴィア、シンセサイザーもムーグも本格的なエレキギターさえも存在していない、つまり開拓者であるジミ・ヘンドリックスもクラフトワークも現れていない。それを差し引いても今読んでも十二分に内容に存在感というか重みのある本であり、気付くことがあまりにも多い。いやこれは・・・・こうだろうと思ったが、それは音楽においての現在の技術だからできることだったりするという技術のなせる技である。

 伊福部氏といえばあの映画「ゴジラ」のあの曲である。あの映画があれほど素晴らしいのはやはり、あの音楽の力が相当影響していると感じる。もし、あの曲でなければ、あれほどの影響力は無かったかもしれない。「大魔神」の音楽も伊福部氏の作曲らしく、東宝の特撮は殆ど伊福部氏が音楽を担当されている。

音楽について書くのに、古代の哲学者やショーぺンハウアーの現象学まで引き出してきて説明する、ザッパとビーフハートが学生時代に二人で聴き込んだエドガー・ヴァレーズも本書では登場する、伊福部氏にはもはや敵わない。しかも元々音楽になろうとしたのではなく、北海道で地元の大学の農学部出身で、戦時中は木製飛行機の部品の製造研究をしていて終戦後にコロナ放電の研究をしていたら事故になって一年間休職。その後東京に移り色々あって東宝にてそれまで趣味で好きだった音楽の仕事で生きていくという凄い方なのであるが、本当は画家になりたかったそうである。
なんと1950年〜51年の僅か2年間に29本の映画音楽を担当しているそうだ。当時の映画音楽のほとんどは、脚本を読んで内容を想像して音楽を作るという手順だったらしい。しかも映画の内容は自分で選ぶのではないから、会社(東宝)からジャンル無法で指示されて、脚本を読んで作曲するっていう方法だったので、やはり相当量の知識と想像力の賜物であると考える。おそらく伊福部氏が農学部出身で、終戦前後に木製飛行機の部品製造に関する研究なんてしておらず、普通に音大卒業の人間であれば、これほど迄の功績は残せなかったのでは無いだろうか。
この本を読んでいくと明らかに前述の通り伊福部氏の知識量に圧倒される。しかも、音楽学校で音楽を学んだ方ではないのが、許容範囲の広さと脳ミソの柔軟性が凄かったのだろう。多分,E・ノイバウテンとか観たら絶賛していたのではないだろうか。
しかし、自分には「音楽」とは何なのかという疑問というか、筆者との意見の食い違いではないが、モヤモヤとした感じが残ったのだが、それが悪い感じではなく、脳ミソがその答えを求めようとして、何だか気分が良いのだ。

著者がこれだけの良質のアウトプットをするには、大量の良質なインプットが必要だと実感した、それにはそのインプットする情報が、情報なのか知識なのか、さらに自分にとって必要かそうでないかの判断できるスキルを磨かねばならない。良いか悪いか必要か否の直感は自分自身そのものである。小生は圧倒的にインプットが不足していると改めて実感した。さらに、尊敬するクリエイターが言うように好きなことは続けることの重要性、大切さ。最初は収入にならずともである。
ゆえに、芸は身を助ける、のであると。

2020年5月4日月曜日

悪の毒書日記 天使のいる星で 鈴木重子(著)

2020年 5月 4日

ラブ・ザ・アースだぜ!! と先月くらいから言いまくってた気がする。
以前、有名な日本の哲学研究者の方が、ジャズボーカリストの鈴木重子は良いと、言ってたのを思い出した。普通ならまず、ここで鈴木重子さんのアルバムを買うのだが、先に本を買ってしまうのである。
もし、これから聴こうとするミュージシャンが本を出版していたり、ブログでコトバを綴っているのなら先にそちらに触れるべきだというのは完全な持論である。コトバが面白いミュージシャンは出す音、奏でる音も面白い気がする。コトバだけでなく、考えてること、日々生きていくなかで何を想いながら生きているのかを、音を聴くよりも先にコトバである。
脳ミソの構造や各パーツの役目はよく解らないが、今までの経験でこの持論は当てはまることが多い。近藤等則に、44広瀬”Jimmy”聡は典型的な代表人物だ。ヴォーカリストに至っては、元々詩人になりたかったという人も居る。リチャード・ヘルなんてそのものだ。



今回は毒書でなく、読書である。
『天使のいる星で』は鈴木重子氏本人が日々感じたことを、数行のコトバで表現したのを集めて、イラストと共にまとめた内容である。コトバは非常にシンプルに纏めて余分なコトバは削られているのでなく、最初から思いつくことは無く、必要なコトバだけが浮かび、そのコトバを書き出して書かれているのかと思う。

その内容はあまりにもシンプルで、普通という日常が非常に大切だった、いや大切である。と、いま一度認識させられる。多分、本人は読者にそう感じてほしく書いたつもりは全くないのだが、昨今の事情が普段以上にそう思わせる。作者からは決して「こう生きようぜ!」なんて事は一切語られることなく、「こう生きています」とコトバを並べているに過ぎず、イラストがそのコトバ達の意味や重みを快く増長させている。 どこか哲学的なのだ・・・というと、かなり纏まりが無い表現なのだが、大切なのはいま現在だとか、人生は無限大の選択肢であるということを本当に解りやすく表現している。著者鈴木重子氏が「ここは◯◯の考えよ!」とか「マインドフルネスだわ!」とか意識して書いたとは絶対に考えられないが、多分著者の生き方の根底にある部分なのであろう。
そして、彼女は宇宙との繋がりを意識して毎晩、地球の上に生きている事に感謝して眠るらしい。
で、小生はアマゾンでCDをオーダーする。

これからは、地球を愛して生きようと日々想う。
LOVE  The  EARTHだぜ!!


2020年5月3日日曜日

悪の毒書日記 ジャズの前衛と黒人たち 植草甚一(著)

2020年 5月 3日
十数年前に職場の上司より頂いた植草甚一の「ジャズの前衛と黒人たち」、頂いたときは急いで読む気持ちに至らず最近になって読みだした。内容は小生の大好きな領域にもかかわらず、積ん毒(読)ならぬ天井裏へ禁錮刑であった。最近やっと真面目に本書を手にとってみたのだが、1967年の発行で本書は初版ではないが1970年に発売された10回目の増刷本であり、ちょうど50年前である、上司は現在七十歳近くで、本書をよく見ると当時の上司の蔵書サイン入りで、購入したのは1970年の6月当時塚口駅前にあった書店と思われる・・・いや大阪市内の書店か?の様である。さらに、愛読者カードは昭和45年10月まで有効ときた。



先日、本の読み方を教えて頂いた師のブログに、「本のこと、読書のこと」・・・というテーマの時に『読まねばならないという強迫観念から脱した時にはじめて読書の意味がわかる。見て選び、装幀やデザインを味わい、紙の手触りに快さを覚え、書棚の背表紙を眺めることもすべて読書だということ。(中略)急ぎ足で読むことはない。速読ほどさもしくて味気ない読書はない。著者が一気に書き上げていない本をなぜ一気に読まねばならないのか。』と書かれていた。
昨今の出版社不況の中、出版業界にもてはやされているのは、読書を進める有名人よりも多読、速読を薦める有名人を出版社の垣根を越えて担いでいるいるのがよく解る。それだけ本が売れていない、いや売れる本が無いのだと思う。もう速読なんどは御免だ、これからの人生はじっくり読書生活に浸るのである。

50年以上前に出版された、植草甚一氏の「ジャズの前衛と黒人たち」はどうやら、著者の初の単行本で、以降の著者の出版数は相当な数である。植草氏の文献のテーマは音楽、ジャズに限らず映画やミステリー小説・・・フランク・ザッパなどへと至る。しかもジャズを聴きだしたのは50歳手前で、71歳でお亡くなりになるまで二十数年しかジャズを聴き込んでいないにも係わらず、これだけの文献を書き、あれだけの書籍を出版できるのである。お亡くなりになられた時は古本屋数件分の蔵書があったそうである。しかも積ん読状態で。その写真をネットで見る限り、我々が積ん読してしまっているとか、アマゾン・KINDLEの中に積ん読してるなどというのは、植草氏から見ると幼稚園以下のレベルであり、鼻で笑われたら、笑われるだけ幸せだろう。

そんな方の本を、一気に読むのは明らかに著者の気持ちを反しているのではないかと前述の師のコトバを読んで感じた。本書を上司に頂いて約十年放置という熟成を得て読み始めたのも、これは何かの「縁」ではないが、「偶然」ではなく。本とはそういうものなのであろう。師の言うとおり、「著者が一気に書き上げていない本をなぜ一気に読まねばならないのか」である。しかも本書は40項目に分かれている。読んでも全く知らないミュージシャも出てくるが、中盤以降の話は個人的に格別に面白い。実は本書をすべて読んだワケでもなく、最初から読んだワケでもない。目次を見て、読みたいと思う、興味のある章を選んで喚んでいる。

特にESPレコードの話は格別である、あのESPレコードである!、サン・ラーのライブアルバムでピンぼけ写真をジャケットに採用するあのESPレコード。元々レコード会社はメインのミュージシャンにだけしか印税は払われて無いのが常だったが、サイドのミュージシャンへもレコードが売れたら支払をする仕組みをESPレコードは始めたそうである。創業者は本職が弁護士だということも面白く、ほとんど本職の弁護士の仕事はしていなかったらしい。また、本書では大好きなオーネット・コールマンや、セシル・テイラー、アルバート・アイラーの話題がよく出てくる。オーネットがハーモニーの研究をやりはじめたとか・・・そのきっかけはとか、ファラオ・サンダースという新人のミュージシャンが・・・などと実に面白い。しかし、尊敬するサン・ラーの章はさらに格別面白いのだ。今だから言えるのだが、サン・ラーは本人たちも管理できないくらいの音源をリリースしているのだが、自らの自主レーベルでも同じ盤でジャケット違いは常で、ほとんどが家内制手工業でメンバーが封入したりしていたとか、その為印刷の手配やなんかの関係で品質管理はアナーキー状態である、中身とジャケットが番うのもあったりしたそうである。さらにサン・ラーは海外ツアーなどでは現地で資金難になることはよくあることで、その都度その時にライブレコーディングしたテープを現地のレーベルに売っては活動資金としてグループを運営していた。その結果、色々な世界中のレーベルから計り知れない量の作品が発売されていて、本人達は解らずで現在では熱狂的な研究者による研究文献とネットの誰か知らない人が作ったDISCOGRAPHYが最新情報となっているのである。
また、今では「前衛」などとあまり言われないが、当時はアヴァンギャルドというよりも、前衛という言い方が主流というのはおかしいが、常だったと思う。頭脳警察の曲のタイトルに「前衛劇団”モータープール”」というのがあるくらいだ。タイトルは「ジャズの前衛と黒人たち」だが、それほど前衛的なミュージシャンが出てくるわけではないが当時はそれが前衛だったのだろうが、マイルスやなんかも出てくるのが、1967年以前のマイルスはまだ電気化前夜で、いまでいう普通のセンスが抜群のジャズであるが、これから面白くなるという以前のマイルスである。70年以降に植草氏が電気マイルスをどう感じたのか、植草氏の文献を探してみたい気もする。
植草甚一のコトバは、まさに「音が聞こえてくる文章とはこのことなのだ」と言える。文章のなかに、ジャズ喫茶で「勉強」と表現しているのだが、何の勉強なのか?と考えたが、それほど深く考えなかったが、「あとがき」にはジャズを聴くのは勉強とのことである。

読書を勉強だという人も居るが、それは人それぞれであり、ジャズを聴くのが勉強かといえばそれも人それぞれである。

趣味として読む、聴くのと、自分のなかで研究対象として読む、聴くのとは区別しているのであるが、植草甚一氏の文書を読むのは前者であり趣味である、そして日々、オーネット・コールマンは勉強、研究対象として聴くが、ジョン・ゾーンは趣味として聴いて楽しんでいるのである。

ESPレコード、アルバートアイラー共に名盤である一枚。