2021年6月20日日曜日

惡の読書日記 ワインの染みがついたノートからの断片 チャールズ・ブコウスキー(著)

 2021年 6月 19日


コロナ騒動もあり、色々なイベントや何やらと制限を受けている日常生活。しかし、そんな生活をいかに楽しみながら生きることを見つけて楽しまない限り苦しく疲弊してしまうのではないだろうか。幸か不幸か、通っていたフィットネスジムが休館したり、営業を再開してもフルタイムで働いている人が通える時間帯ではないので通えないときた、ということもありこちらのフィットネスジムは一時休会として24時間営業しているジムへ入会し朝からフィットネスクラブへ行っては走り込む日常生活を送り、コロナがなければ朝活というか、朝からフィットネスジムへ行ってランニングはしなかなかっただろう・・・ランニングが歯磨きと同じ位の日常になっているという生活を送っている。



そんな日常で、以前より読み進めていた尊敬する詩人、チャールズ・ブコウスキーの死後に発表された未収録+未発表文献集『ワインが染み付いたノートからの断片』をようやく読み終えた。ブコウスキーの日常は小生の日常とは真逆である。これまでこの本を読み終わるまで相当の時間を費やした。約400ページで字ばっかりの書籍である。これまで新聞や地方紙などに掲載されていた文献や、死後に発見された数々の未発表文献を一冊にまとめた内容であるが、これまでブコウスキーの未発表文献集がどれほど発表、発売されていることかと、おそらくまだまだ相当存在すると思われる。この本が2016に発売された書籍で、これ以外に数冊日本で発売されているが、海外ではこれ以上、特に詩集に関しては相当冊数が発売されていることから音楽で言えば、フランク・ザッパ並に未発表作品が残っていると思われる。
両者にとって共通点は、発表された未発表作品のクオリティは凄くいいことである。よく日本の昭和時代の歌手により未発表音源が収録された音盤を耳にする事があるが、こちらは「こりゃ未発表になるわな」という作品であると感じる事が多いんだが。

ブコウスキーの短編小説は主人公が、ブコウスキー本人が主人公である事が殆どの為、エッセイを読んでもこれがエッセイなのか、短編小説なのか、短編小説に見せかけたエッセイなのか区別がつかない事が多い。荒唐無稽の話は、これは短編小説だな・・・と判断できるのだが。
それがブコウスキーの文章の魅力であると思うのである。
また数々のブコウスキーの小説を読んでいると、過去に読んだ小説の内容のメモというか、プロトタイプ的なブコウスキーの小説の断片を読んでいる気になる。特に登場する女性については、ブコウスキーの女性遍歴を小説にした自叙伝的小説「women」に描かれたあれだな、と容易に判断というか想像できる次第。
それにしても相当の女性遍歴である。
俺はどうしてこんな今は居ないブコウスキーとなる人物のコトバを追いかけているのか?特に彼の詩に関しては殆ど日本で詩集が発売れていない(2冊しか発馬されていない)ので、勝手に自分で彼の詩を翻訳してネットのnoteにアップロードをしているしだい。
わざわざ、ブコウスキーの本を読みたいから、コロナシフトで平日の休暇には某所で籠ってブコウスキーの本を読み漁る行動にまで至っている。いったい俺は何者なのだ?と時々思うこともあるのであるが、この男の書くコトバにハマってしまったのだ。

そしてもう一つ、ブコウスキーは50歳にして作家になったのである。正確には、郵便局で働いていたが一応作家をもしていて、作家では殆ど生活できていなかったかったが、知り合った編集者から依頼を受けて50歳の時に郵便局の仕事をやめて作家一本で生活を始めたそうだ。そして詩を書き、小説を書き、アメリカでは普通である読書会へ行ってライブをやって作家として日々暮らしたそうである。奥さん(最後の)は彼の朗読会にやってきた客人である。年齢なんてのは、人生にそれほど意味がないのではないのか?ってブコウスキーが言ってる気がするのだ。
これは、アメリカンドリームでもなければ、カーネルサンダースおじさんのケンタッキーフライドチキン創業に至る定年後に地道に足で稼いで偉業を成し遂げたコツコツ真面目に努力する結果は素晴らしいという美談では全くない。
単にブコウスキーが日々ビールやワインで酔っ払いながら毎夜、毎夜、詩をカキ、コトバを綴り、タイプライターを押しまくっていた(タイプライターを売ってしまった時期もありこの期間はカクことはなかったそうだ、どんな作家やねん)・・・コトバで想像するのが好きな男がマネタイズをそれほど気にせず、カキまくり続けた結果、好きなことは誰に何を言われても続けるに限るという日々の生活の結果、時代がブコウスキーみたいな作家を求めていたことと偶然繋がったということだろう。ブコウスキーを作家でデビューさせた編輯者の才能も高く評価されるべきだと思う。

ブコウスキーのエッセイを読んでいると、真面目には程遠い日常でなのである。趣味は競馬(どれほど競馬の内容が小説、エッセイに出てくるか・・・)で、殆どコトバの中でも日常でもビールかワインを飲んでいる。さらに本書ではドラックまで手を出している(ドラックの使用については小説かエッセイか不明だった)。女性との話は前述の内容だ。カーネルサンダースの愚直な話とは正反対だ(年齢の差もあるのだが)。いつ何が起こるか解らないから、適当にでも準備しておけば対処できるということを過大評価すればブコウスキーの人生から学ぶ事ができるのだが、小説の内容から見ると過大評価の過大評価かもしれない。

しかし、
どんなことになっても、好きなことは絶対に続けるべきなのであろう、誰がなんと言おうと。
ブコウスキーの如く、日々アル中で酔っぱらっていても、
タイトルは『ワインが染み付いたノートからの断片』と、さまになるのである。

2021年5月16日日曜日

惡の読書日記 ラスベガス★71  ハンター・S・トンプソン(著)

 2021年 5月 16日


やっと読み終えた、ハンター・S・トンプソンの『ラスベガス★71』、映画のタイトルは『ラスベガスをやっつけろ』である。監督はモンティパイソンのテリー・ギリアムである。『未来世紀ブラジル』『12モンキーズ』など、どう見ても決して超商業的に大成功したという映画ではなく、どこか考えさせる映画を作らせるおっさんである。つまり、この『ラスベガス★71』も同様である・・・。



小説『ラスベガス★71』を読み始めたが、なんという話なのか、全くついてけなではないか。著者はジャーナリストと言われているではないか?いや、ゴンゾージャーナリスト、それ何ですか?
どうやらジャーナリストでも、ゴンゾージャーナリストって事件(ものごと)の当事者側(仮に犯人側とする)に入り込んで、事実を当事者から見た視点で本質に迫る報道するジャーナリズムらしい。

で、本書がそのゴンゾージャーナリズムの視点から描かれたそうであるが、訳者後書きによるとゴンゾージャーナリズムとしては失敗作だと著者も認めているらしい。

本で読み進めても解らないから、映画で見てからと考えて、アマゾンprimeビデオでレンタルして観たのだが、これまた前述の通りどう観ても・・・・なのである、主演がジョニー・デップであっても。

ジョニー・デップ主演=商業的成功作品でないと解っていたが、どうしてジョニーデップはこの映画に乗ったのだ?というような映画である。映画の冒頭は本の冒頭と同じ、ジョニー主演のジャーナリストと連れの弁護士がクスリを大量に車のトランクへ詰め込んで、砂漠のオートバイレースの取材にいくというところから始まる。でドラックまみれの無茶苦茶な話が始まっていくのである。
映画を観た後にもう一度最初から本書を読み始めたがやはり謎は深まるだらけのストーリー。しかし、ゴンゾージャーナリズの本質というところから考えると、1960年代末期から1971年のアメリカってこんな感じだったのではなかったのだろうか?
ベトナム戦争で疲れ切った感で、その反動からか反戦運動〜ドラックが流行りだして、当時はクリントン元大統領も若かりし頃は葉っぱ吸ってたという事実。でも肺には入れてないらしいとインタビューで公言する始末、言い返せば葉っぱの吸い方を知らない糞野郎だと言える(このジョークは中学の水泳部の直系に位置する先輩で、アメリカでコメディアンをやって活躍していた先輩がテレビで話をしていたジョークである)。まあ、そんな時代であると言えるのだが、その事実の中心に迫った内容がこの本、『ラスベガス★71』だったのかもしれない。
但し、著者がいうように明らかに失敗作であると自分は思う。結局ジャーナリズム云々よりも、ドラッグカルチャーのグチャグチャな世界をクスリをやっている側の視点から描いたのだけれどけったいな小説になってしまったというのが正直なところではないだろうか?
しかし、その世界を気に入ってしまったのが、テリー・ギリアムで同じような世界を映像化してしまったのだと思う。ジョニー・デップがこんなアホな役を真面目にやっているという面白さが見れる映画と思えばそれは映画としては成功なのかもしれず、個人的には、著者の『ヘルスエンジェル』を読んでみたいです、ひょっとこれこそゴンゾージャーナリズムでは無いのだろうか?という想いだ。

残念ながら著者はすでにこの世にはおらず、
事実は小説よりも奇なりなのか、小説の方が奇なのかは確かめることはできず。

2021年2月20日土曜日

惡の読書日記 フェイス・イット デボラ・ハリー(著)

2021年 2月 20日

昨年下旬より、ミュージシャンの自伝や、自殺でこの世を去ったミュージシャンを調査して書かれた模擬自伝みたいな書籍をよく読んでいる。実質は小説的だったりしたりするのだが世間で売れまくっている恋愛小説やちょっとしたビジネス書や自己啓発書よりも遥かに強烈な内容が出てきたりする。勿論学ぶところは非情にかつ非常に多い。そこには普段考えられような価値観の世界や、華やかなジョービジネスの世界の裏側や、華やかでも無いパンクロックの世界の汚い真実など描かれていて実際はこうだったのか?と思うだけでなく、考えさせる部分が大きい。そしてこのての本はやはり翻訳家の素晴らしき業績で成り立っているということも自覚して読み進める必要がある、翻訳の浅倉卓弥氏の素晴らしき業績で本書は日本語版として成り立っているのである。


本書はデボラ・ハリーの凄まじき自伝である。デボラ・ハリーは1970年代半ばにブロンディーというバンドで世界を股に掛けて活動していたバンドのヴォーカリストで、中心的人物の一人である。今年で70云々歳であるが、ブロンディーは今でも活動を続けている。もし、ブロンディーがこの世に居なかったら、マドンナも居なかったという位のレベルのバンドであり、ミュージシャンである。それ程ブロンディーの影響力は大きかったのである。

もっと凄いのは、ブロンディーはレコード会社が中心となって結成されたバンドなんかではなく、ニューヨークのアンダーグラウンドシーンから現れて、地道な活動の末に結果として世界を股に掛けるバンドになったことである。

このデボラ・ハリーの自伝を読んで、今まで認識していたブロンディーについての幾つかの事が間違っていたり、知らなかった以外な事実が幾つもあったことだ。

1つは、ブロンディーは完全なパンクパンドであること・・・
デボラ・ハリーは今まで誰もやったことのないことに挑戦していた。それが彼女がいう生まれながらのパンクということである。音的に言えば、キーボードをメンバーに加えたり、ラップもロックに取り入れたのは実はブロンディーが最初だったりと、規定の概念を壊して行くこそがデボラ・ハリーの信念だったそうだ。彼女のソロアルバムは、ブロンディーが活動中に製作され、黒人と白人を同時に扱ったアルバムを作りたかったという理由だそうだ。その為、プロデュースは当時無名であった黒人ミュージシャンのナイル・ロジャースに依頼したのであった(後にデビッド・ボウイやマドンナを世界的に有名にしたプロデューサーである)。1980年にそんなコンセプトで音楽を製作しているミュージシャンなんて居なかったのが事実であり、今だからそれが普通なのである。ジャケットも当時映画エイリアンで有名になったハンク・R・ギーガに依頼して描いてもらったのだが、レコード店からはこのジャケットでは店頭に並べられないと苦情が来たくらい出来過ぎたジャケット、これぞパンクである。

 また、相棒のギターリストであるクリスは写真家でもあり、その彼との人間関係も上手くバンドの活動に好機をもたらしたと言える。

2つめは、ブロンディー解散後にデボラ・ハリーが破産したこと・・・
あれほど売れまくったバンドがバンド解散後に破産したと言えば、バンド活動中に投資に失敗したとか考えてしまうがそうではなく、雇っていた金融関係者がきっちりと税金を納めていなかったり、納めていないのに税金対策で家を買うように推めて豪邸を買わされたりと、未納の税金の支払なんかで破産に追い込まれたらしい。ブロンディーの活動中は忙しすぎて休みもなく働いていたので、知らない間にとんでも無いことになっていたそうだ。解散の理由の一つがパートナーであり、ギターリストのクリスの大病にもかかわらず、闘病中に政府によって健康保険を剥奪されるなど実に怖ろしい話なのである。彼女曰くレコード会社はブロンディーが売れれば売れるほどブロンディーから貪り続けたそうである。英米のミュージシャンの話でよくマネージャーの手腕でバンドが売れる、売れないという話がよく出てくるが、ブロンディーが契約したマネージャーが相当酷い人間だったらしいが複数年契約していた為、馬車馬の様に余裕もなく働かされていたそうだ。もし、違ったマネージャーでもブロンディーは売れていただろう。そして音楽性はもっと多様性のある音楽になっていたのでは無いだろうか・・・。

3つめは、デビッド・ボウイとイギー・ポップがブロンディーを前座にしてツアーをしていたこと・・・
70年代後半のボウイとイギーのライブツアーの前座はブロンディーだったらしく、彼らからのオファーだったそうだ。最近このボウイとイギーの音源が公式盤で発売されたが、実は前座はブロンディーだった。ボウイもイギーもブロンディーが好きだったらしく、前座なのに相当扱いが良かったらしい。やはりボウイは本当にいい人なのだと改めて認識したしだい。ちなみにこのツアーはボウイはひたすらキーボードを弾いているだけである。

と、あれこれ書いていけば切りがない。面白すぎるし、何かと考えさせられるのだ。

そしてブロンディーの再結成は、ただ昔を懐かしく懐メロを演奏するバンドでなく、新譜もだしてきっちりとしたバンドとして活動するとい条件で再度活動再開をしたそうである。まさにこれこそである、俗にいる過去の曲ばかり演奏して客受けを狙うことはしないというデボラ・ハリーのパンク精神は晩年も健在なのである。
映画「死ぬまでにしたい10のこと」でニルヴァーナのライブで出会った二人が結婚して生活を送っているストーリーでお祖母ちゃん役で出演しているデボラ・ハリーであるが、実際に年齢で言えばお祖母ちゃんだけど、それ以前に真のパンクなのだとデボラ・ハリーの事が心から好きになった。


最後に、この自伝に書かれた二節が、自分のココロから離れない・・・この二節の為に本書を読んでも十分である。

今の時代ロックンロールで生きていこうとしている人々は、なんというか私なんぞからすると、物事を相当四角四面に取り合い過ぎているに見えて仕方がない。だって、今やそいつは学校の教材の一つまでになっているのだ。でも、そういう持ち出され方はやっぱり全然違うと思う。私達はただ、あの頃のニューヨークで起きていた経済の衰退の、そのただ中に浮いたあぶくのさらにその内側へと閉じたこめられてしまっていたようなものだけだった。そしてそれがむしろ芸術面での強さでもあった。
(p.119より抜粋)

私は革新的な事をやりたかった。自分たちのことをニューウェーブと呼ぶつもりすらそもそもなかった。そいうい分類をしたのは多分批評家たちである。私たちが採っていたのは常にパンクの方法論だった。ただ目の前をぶち壊すのだ。ほかの人間が私に望んだり、あるいは期待したりしているようなことをやるのはうんざりだった。
(p.214より抜粋)


まさにデボラ・ハリーはパンクだ。
本書が、死ぬまえに読むべき10冊の本のうちの一冊になればと。

惡の読書日記 Into the deep forest  海の森、森の海へ  安達 建之(著)

 2021年 2月 20日

今回は写真集であります。写真と電子書籍は新しいコミニュケーションツールである。尊敬するクリエイターは写真は「言語」に匹敵するとまで言っている・・・。

80年代後半、サイバーというコトバが出現してから、サーバーというコトバと共にサイバー空間なんていう、ネットワーク上の架空の世界をそう呼ぶことがあったりするのだが、その空間は実際には存在しない人が意図してネットワーク上に最新テクノロジーを使って創りだした架空の世界と言えば良いのか、簡単に言えばネットワーク上にある非現実な架空の空間と言えるだろう。



今回発売された『Into the deep forest 海の森、森の海へ。』で撮影された世界は、架空の世界でも無ければ、人が意図して創りだした世界でもない。現実に存在している世界なのである。あえていえば最新のテクノロジーも使って撮影をされた一瞬の世界なのである。
それが何とも言えない美しさで、何枚かの写真は観たこともないような世界が写っているのである。

我々は架空の世界での出会いや繋がりと偶然性を中心に、間関係を求めている事が多いと感じるのだが、もっと身近な自国での素晴らしい現実の世界を体験・経験し、そこから次の世界を作らなければいけない段階に入っているのではないのかと感じでしまった。勿論、サイバー空間でなくリアルな世界であり、はたまた別の世界かもしれずだが。
本書は日本の熱帯雨林のジャングルや海の中などで撮影された写真であり、著者である安達 建之氏が天然のカカオを求めて南米アマゾンへ行った歳に撮影してきた写真もあるかと思えばそれは全く無く、すべて国内で撮影された写真だそうである。著者は写真家でも無ければ探検家でもなく、起業家で「green bean to bar CHOCOLATE」を創業したりしている方である。

 個人的に海の中の写真、この世界こそが本当のリアルなサイバー空間ではないのかと、感じざるを得ない。これこそ無限の世界であるサイバー空間そのものだ!

もし、可能であるならばこの本をタブレットやキンドルで読むのでなく、高画像の大画面で観れたらどれだけ素晴らしいのかと。やはり写真と電子書籍は新しいコミニュケーションツールであると実感したしだい。

 

 

ご興味があれば、サンプルもダウンロード出来ます。


 

2020年12月31日木曜日

惡の読書日記 自由への手紙 オードリー・タン(語り)

 2020年 12月 31日


年末年始は、貯まった積み上げられた本を読みまくる予定だったが、ここに来て本を更に買いまくる日々である。自己投資ほど利回りが高い投資が無いと解っているなら、やらない手はないので自己資産を本代に回してアウトプットするのだが、結局それをどうやって現金化するのか解らないのであるが、株を買っていつ売ればいいのかが完璧な判断が出来ないのと同様ではと納得しているが、マネタイズするのはこれからである。



一昨日購入した、オードリー・タン(語り)の『自由への手紙』。雑誌クーリエ・ジャパンがオンラインにて台湾のオードリー・タン氏に数回のインタビューを行い出来上がったこの本は、日本に住む若い世代に向けて出版社が製作した本であるが(帯によると)、実際読んでみると若い世代に向けにするのは明らかにナンセンスの講談社だと、既にこの時点でオードリー・タンの「自由」というコトバの意味から外れている。(単なる宣伝文句ならいいのだが、本当に若い世代向けのつもりだったら?)
本書を読むと、本当に日本は将来大丈夫かと心配になる。台湾は国土が日本よりも小さいから、日本よりも政策の浸透性が速いと考えていたら、それは狂気のさたである。台湾の政治は透明性で多種多様な文化やなんやらを受け入れている。恥かしいながら台湾にには20もの文化(言語)があるそうで、そこへ大陸からやってきた漢民族も含めて人種のるつぼなのである。色々な文化をお互い認識しあって進む政策は中国の様に、漢民族しか存在しないという思想のもとで巨大な土地と人口を動かす不透明な国家とは真逆なのである。いくらスピードがあっても中国の政府は日本と同じ不透明であり、実質は進まないのと同じである。
つまり、日本は中国よりも国土も人口も小さく、台湾よりも国土は大きいし、人口も多い。しかし政治が不透明。多種多様性を認めない、移民なんてもってのほか難民なんてこないで!といってる国なんである。これで国家ととして進歩も前進もあるのかと。

今年、いわゆる今回のコロナ騒動で日本という国の愚かさ、政府の愚かさ、国民の偶民化が非情にも理解できた。日本も台湾もマスクが不足したという同じ状況になったがどうやってそこを抜け出したか。その点は説明不足の内容なので詳細は書かないが、単にマスクが国民にうまく行き渡るシステムを速攻作り上げた台湾だが、そこには年寄りが薬局に並ばなくてもいいような細い配慮も含んでの複雑なシステムでありながら見事に解決して成り立っているということ。また小学生の男子にピンク色のマスクが渡ったことで、小学生男子にしてみれば、ピンク=女子という感じで、マスクを付けて登校することが恥ずかしく登校拒否なった子供の為にした政策が面白く、前述の多様性を認める一貫であると考えるのは想像しやすく決して難しくはない。
こういったことを日本でも出来るのか?出来たのかと考えると?考えるだけ無駄な気がする。気がするのではなく事実であり現実である。

昔は、台湾の人が日本に追いつけだったり、日本の事例を参考にしてきたが、そんな時代は過去の話である。我々は一歩も二歩も周りの国より遅れているのである。隣の韓国には文化で追い越され、台湾にはテクノロジーで追い越され、中国には経済で追い越されてている、にも係わらずいまだに日本の実力はこんなものでは無いと自信満々な人々と現実を理解していない人が多いのは驚きだ。

追い越し追い越されという低次元な議論を外して、日本が正常になるには、「自由」になることだと、日本に住む我々が自由にならなければいけない。「えっ?自由って何?」それにはどうすればいいのだろうか?何から「自由」になればいいのだろうか?とそのヒントがこの本にはいくつか載っているのだと思う。
オードリー・タン曰く、自分が自由になれるだけでなく、みんながみんなを自由にする為に行動を起こせたら、凄いことです。自由をお互いにシェアしよう、と。
 
勿論本書のどの自由を選ぶかは、読み手の自由である。
 
 

惡の読書日記 時間編集術 長倉顕太(著)

2020年 12月 31日


普段はフルタイムでシゴトをいているので本を読む時間帯が限られ、本を読むために各駅電車に乗って移動したり、朝早くから開店早々のコーヒーショップでノンカフェインのお茶を飲みながら本を読んだりしているのだが、今回の年末年始は、昼間の太陽が登る間はシゴトに関する本を技術書を読んだり実際の業務に関することを纏めたりしているが、太陽が沈むとあとはいつもの読書として自分を内省する事にしている。




どう考えてもシゴトに直接関係の無い本、明らかに高額な太い本、ネットでなくリアルな本屋へ行って何が売れているか、話題の本は何かを自分で探れ!と本の読み方の一つを教えてくれた元ビジネス書の編集、編集長をしていた長倉氏の著書『「やりたいこと」が見つかる時間編集術』である。元々時間術の本や多種多様のビジネス書の出版を手がけていたにも係わらず、今となっては実際に編集の長倉氏があれは何だったのか?的な、否定的な事を自らの著書で書いていたりするんだが、今回も時間術の本をこれまで出版してきたが肝心ところを書いた本は無かった、抜けていると。

要するに、基本的な部分はどの本も同じなのである、それは「時間が最も重要で一人一人に与えられた一日24時間は、増えることなどは無い」ということ。時間は短縮することが出来ても増やすことが出来ないから時間に集中することの大切さ。日常のシゴトで費やす時間はフルスピードでシゴトをやっつけて、残りの時間を大切にすることが、人生を豊かにするという。これまでの色々な時間術の本では、隙間時間を埋めろとか、効率重視したものばかりで、結局は継続する事のハードルが高かったり、効率アップを優先しすぎて余裕が無く新しいモノが生まれない、視界が狭くなってしまう状況を作っているに過ぎないと著者は指摘し。それよりも効率や生産性重視の時間術を継続するのではなく、真逆の時間帯を作り、そこで生産性や効率をアップを度外視した活動をすることが人生にとっては有利でそれが、自分の目標に繋がるハズであると。そしてそれを継続すること、ルーティン化してしまえばあとは日常になるのだと。確かにこういった時間術の本は殆どというか読んだことは無かった。

噓かホンマかの人生100年の時代、いったい死ぬまで何をすれば良いのか解らないのが今の状況では無いだろうか?、現在51歳、仮に65歳でリタイヤしても、80歳まで生きたとして、15年何をする、間違って100歳まで生きてしまったら35年という長い歳月、どうするのだろう?と。そんな事を考えて不安な事を想像するよりも、今の生活でもうひとつの時間を作り最大限に時間を使うことがどれほど大事なのかを紹介している。
その為には、ありふれた無意識な「巨人、大鵬、玉子焼き」みたいな、もうひとつの時間を過ごすのであれば何の為のもうひとつの時間なのか解らない。どのようにすれば無意識な日常にならないかも紹介している。

本書の大半は、以前より著者長倉氏が自らYoutubeやオンラインセミナーで触れていたことなのだが、著者本人もどこかで言っていたと思うのだが、本という媒体にすることで自分の存在を強く出来る(ブランド化を強化)のは明らかで、情報発信という概念から考えても、形として残る書籍という媒体はあるいみYoutubeという形があって無い媒体よりかは有利である面が多い。

また、長倉氏が以前より提唱している「ギブ(give)」、「ギブ」、「ギブ」、「ギブ」・・・の見返りを求めず与えるという精神は小生が今年最も後押しされた部分であり、今年は、時間を作っては出来るだけボランティア活動をやることにしたのである。
本書は自分にとっては特に大きな発見がある本では無かったのだが、今年最後の日に自分の内省としてはベストな本であった。

惡の読書日記 死をポケットに入れて チャールズ・ブコウスキー(著)

 2020年 12月 31日

この本を読んだの一ヶ月以上前、いや二ヶ月以上前だったか?
 
1990年代前半のブコウスキーの日記というか、エッセイを編集した本である。邦題は『死をポケットに入れて』であるが、本当のタイトルの日本語訳のようなタイトルでなく、全く違う(「船長が昼飯に行ってる間に、船乗りに船は乗っ取られた」というタイトル、直訳だけど)。93年2月で本書は終わるのだが、翌年3月9日にブコウスキーは旅達つので、日本の出版社は本書の1節をとってこのようなタイトルにしたのだと予想する。




これを読むとブコウスキーって、裕福そうな家に住んでいることが解る。家にはプール(ジャグジーバスも)あるようだし、二階建て、庭付き一戸建てである。相変わらずの競馬場へ行っての競馬人生は尽きること無く、競馬の話は今回も大量である。そんなに競馬が楽しいのかと、一度やってみようか「ふと」考えてしまう始末。小生は基本的にギャンブルはやらないので、ブコウスキーの話を体験談として自分の中で消化してギャンブルをやっているつもりになるのが正しいのであると自覚して原点に戻り納得している。
本書は、ブコウスキーがこれまで使っていたタイプライターをやめて、パソコンはアップルコンピュータを使用することで執筆した前述の内容である。
タイプライターでは、間違って打ってしまった場合の修正が相当面倒だったが、パソコンに変えたのでそんなことは簡単に修正できると、いま考えれば当たり前の話しであるがブコウスキーのシゴトはかなり効率が良くなったようで本人は高評価だ。確かにそうである、但しこのブコウスキーが使っているパソコンは1990年代初頭のアップルコンピュータ。いまの10代、20代の人には想像できないかもしれないが、デスクトップパソコンと大きなCRT、決して液晶画面では無いのである。多分、これだけのパソコンでも当時40万円〜50万円以上は掛かったと思う(記憶する)。それだけ、ブコウスキーは家もプールもあり、パソコンもありと、相当潤った生活をしていたのだと予想する。当たり前である日本語のブコウスキーの作品は出ているし、短編小説はリュック・ベッソのプロデュースで映画化されている、相当数の出版数であるのだから当然である。むしろブコウスキーをパンク作家と呼ぶことじたいが間違っているといえよう。

以前、読んだ小説「詩人と女たち」もそうだったのだが、ブコウスキーの家には色んな人が取材だとか、ドラマ化、映画化の契約云々ということでやって来るが実際は偽物だったりすることがあり、単にブコウスキーと飲みたいだけだったりする事がよくある。インターネットの普及がそれほど民間に無かった時代なので、検索などが手軽でなかったので仕方ないが、おそらく世界中でこういったことが良く行われていたのだろうと想像する。
時々、インターネットが普及していなかった、インターネットって何ですか?という1990年以前のストーリーやエッセイを読むと懐かしくなる。通信手段は専ら電話、よくてファックス。ブコウスキーは1994年に他界しているので、彼のエッセイに限らず殆どの文献がその時代に書かれているので、時代のスピードを感じる事無く読めるのである。携帯電話なんて現状殆ど使われることは少なく、時々読んでいる小説などで携帯電話が話に出てくると、どこか時代を特定できてしまい。懐かしさと自分では嫌な懐古趣味てな方向へ頭を向けてしまうのである。
そんなことを気にせず読めるブコウスキーの文章は小説、エッセイ、詩に限らず。どこか自分をブコウスキーという「沼」へと誘うのである。特にブコウスキーがとてつもなく文学的に素晴らしいとかいうことでなく、ブコウスキーの日常と、ちょっと常識をぶち壊したストーリーが何ともいえないのだ。同じ酔っぱらいの中島らも氏だったらどこか柔らかい笑いを挟む感じなんだが、そんなことは一切ありえない。むしろドラックも殆ど出てこない、キーワードは、競馬、アルコール、女である。
そしてこんなオッサンになりたいと、いつしかブコウスキーの沼へ落ちてくのである。
但し、購入は専ら時代のテクノロジーである、インターネットを使ってである。