2019年9月1日日曜日

悪の読書日記 教養としてのテクノロジー 伊藤穣一 AndreUhi(著)

2019年 8月 31日

昨年2018年3月に発売されて既に5万部以上読まれている「教養としてのテクノロジー」。「AI」「仮想通貨」「国家」「教育」「資本主義」「日本」などという視点で日本人に向けて書かれた新書である。「教育」のみ共著者のAndre Uhi氏によって書かれていて、他は全て伊藤 穣一氏によって書かれている。
改めて考えてみると、凄いテクノロジーの時代に我々は生きているのだと思う。シャープのザウルスは何処へ行った?のだ。アップルのニュートンは何処へいったのだ?3DOは何処へいったのだ?
ちなみに、冒頭から2020年のオリンピックに向けての伊東氏の期待の前書きから入るのだが、2019年8月、残念な事にこのまま行けばトライアスロン、オープンウオータースイムのレースは便器の中で開催されることは避けられない状況みたいである。


本書は一年以上前に書かれたテクノロジーに関する本なのだが、いま読んでもそれほどというか全く色褪せたり、時間の経過を感じないのは表面的な話ばかり書いているわけでなく、さらに深い部分や著者の経験に関する部分も交えて書かれているという処が大きく作用しているのではないかと思われる。また著者がテクノロジーの最先端を研究しているということもあるだろう。
但し、個人的にもっと突っ込んで欲しかったのは「仮想通貨」の部分である。「国家」「ブロックチェーン」「仮想通貨」となかなか興味深い話題で進んでいるのだが、昨今の「仮想通貨」が投資目的の「仮想通貨」という概念がほとんどで当初目指していた「サイバースペースは国家から独立」みたいな、脱国家的な「仮想通貨」の目的とはかなり変わってきているという点。「脱国家」と「通貨」・・・貨幣が現在どのようなルールで作られているかなど、さらにさらにこの点を掘り下げて欲しかったと・・・それこそが「教養」であり、パンク伊藤穣一(勝手に想像しています、すいません)では無いのだろうか?

「教養」という意味では「働くこと」の定義?意味?、「人間とは?」などとテクノロジーとは真逆の内容も多く書かれているが、実はテクノロジーとはコインの裏と表(ビットコインに裏と表はあるのか?)というような内容で、答えが出てこない問題を読者に提議しているところは非常に面白い。
また共著であるAndre Uhi氏の「教育」に関する部分も興味深く、読みながら「そんな教育してて社会にでたらどないすんねん?」と思ったが・・・何を「学び」とするのか、そして何を人生の「成功」とするかはひとそれぞれ、前述のとおり正確な答えがでる事ではない。但し、そういったことが理解されるには社会が変わらないといけないのは大前提だと思ったのだが社会は変わるのか?。しかし、Andre Uhi氏の大学まで受けた教育の内容が、今は殆ど覚えていないという話は個人的には大好きだ。
さらに「都市」に関する部分に関しても「歩ける距離」を大切にするという部分は共感する。
テクノロジーがもたらす技術的進歩とその裏、人間的な進歩に関しての問題提議の本としては、各章の流れも非常に良く構成されているとしかいえない。

しかし、『第7章「日本」はムーブメントを起こせるのか?』という章であるが、はっきり言って章のタイトルの内容は無理である!これは「日本式システム」を変えないとムーブメントなんて起こせないということを著者が一番知っており、2018年初頭に期待を込めて書かれたと感じるのだが悲しいことにそれは残念というしか言えないのではないだろうか。先日の参議院選挙でもそうであったように、投票率から視ても、誰も社会には興味が無い世の中だといって過言では無い。これほどまでに現政権に好き放題されているにも関わらず、それを変えようという動きは結果として現れていないと感じ、そして只今日本は「大安売り」で売られていき、政治家のご子息や外資系の企業だけが儲かるシステムに移っているのではないでしょうか?と疑問を抱える状態なんだが・・・。
伊東氏が期待している2020年のオリンピックは誰の為のオリンピックなのだろうか?と思う日々。本書の『起きようとしている「兆し」に気づくことが大事です。』という「兆し」を気づく人がこの国には残っているのだろうか?日本が大安売りされている事にさえ気づかないのに・・・SNSというテクノロジーででもそういった問題が発信されているのも事実なんだが。

もし、気づくとしたらそれはオリンピックのあと・・・「しまった」という事ではないのだろうか?
その「しまった」はあと戻りできないことにも気づくのだろう。

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