2019年9月29日日曜日

悪の読書日記 空の気(くうのき) 近藤等則✕佐藤卓(著)

2019年 9月 29日

ここしばらく精神的に壊れそうな9ヶ月。そしていまそれがピークかもしれず、仕事で気を紛らわして生き。疲れたらサウナや銭湯を廻り汗をかき。脳ミソの滋養強壮にスマホで近藤等則の電気トランペットの音を聴くというような生活をしている気がする。果たしてこれから俺は何処へ行くのか?春先にすべきサボテンの植え替えを忘れ、来春まで待たなければいけないが来春まで生きているのかもどうかも怪しい・・・・と感じる9月末。



このブログで一番多く登場するのは著者は何故かミュージシャンの近藤等則氏である。何故かってよく考えたら人生で一番大きな影響を受けた人間だからである。そして文章で人を惹きつけるミュージシャンは出す音も面白い。文章が面白くないミュージシャンの本を出しているミュージシャンの音はつまらない、FxxK OFFだ!!
音とコトバを製造する脳ミソの部分は異なるのだが、何処かで繋がっているのか、コインの裏と表なのか・・・そんな事は俺は解らないし知らん。なんで人間が生きているかさえ解らないのだから。俺は科学者ではないし・・・よの中は解らないことが殆どなのだ。


90年代の初めだったか、半ばだったか・・・近藤等則氏は日本を離れてアムステルダムへ行ってしまった。そして、「地球を吹く」とか言ってだれもいない砂漠やヒマラヤの山奥や日本の海岸、海峡やアラスカの雪の平原のなかの大自然の客の居ない場所で電気トランペットを吹き始めた。どうしたことか・・・と思ったが。実は昔々、小生は高野山の大木に囲まれたあのお墓の石畳を歩いていて、こんな何百年も生きている大木にか囲まれた山の中で音楽が演奏できたら凄く気持ちがいいのでは?と思ったことがある、しかし、高野山は巨大な墓地で人生のこれまでの大先輩が眠るところ、こんなところで演奏するなんて論外、大バチあたりで高野山の僧侶に火あぶりにされる。しかし、自然のなかででの演奏っているのも「あり」なのでは?と思ったことが過去にあった。

『空と気』には、IMAバンドを一旦辞めて、どうしてアムステルダムへ行き、そして「地球を吹く」に至ったのかが語られている。IMAバンドを続けていれば収入は安定したが、近藤さんはそれを選択しなかったらしい。
この本が面白いのは、デザイナーの佐藤卓氏の語るデザインについての話である。どちらかと言うと正直なところ、近藤氏の話は過去に書籍や聴いた話や、ネットで流れているインタビューやSNSに掲載されている話で、どうしてアムステルダムへ行き、「地球を吹く」に至ったかと近藤家の夫婦喧嘩の話以外の殆どの話は既に少しは知っている話だったりする。つまり二十年以上前から言ってることが近藤氏はブレていないのである。既に近藤等則マニアの人はこの本では、ブレない精神の近藤等則に感動するしか無い!ということなのかなと。この本が最初の近藤等則の本である人は、それはラッキーということであろう。
で、その佐藤卓氏は「キシリトールガム」「おいしい牛乳」のパッケージをデザインされた方である。
その佐藤氏が言うには、「デザイン」という概念など昔々の日本にはそんな概念や考え方などは無かったらしい。明治時代にアホみたいになんでも輸入した一つが「デザイン」という概念のようで。元々よいデザインのものは「デザイン」なんて呼ばない。江戸時代までは「デザイン」として考えることは無かったそうである。
つまり、デザインが主役になるのでなく、「あいだをつなぐもの」で素晴らしいデザインはそもそも気づかれなくてもいいのだそうである。
そういえば二十年以上前、日々一緒に水泳の練習をしていたプロのクラシックギターリストの田頭雅法氏は僕に言ってくれてたのが、人が聴いて気持ちいいと感じてもらう音楽をしたいが、存在感がない・・・川で水が流れているけどそれが普通、あたりまえで誰も意識しないけど水の流れる音が気持ちがいいと感じるのと同じような音を出したい・・・と。
全く同じである!
「そこ」にある事に気づかない、気づかれない、存在が注意しないと解らないけど素晴らしい物それが「デザイン」であると佐藤卓氏は語る。
これだけでもこの本を読む価値はあったのである。二十数年前の小生の過去の記憶と経験が繋がるのである。

そして、近藤氏も佐藤氏もコンピュータで音を作る、線を引くという100%コンピュータに頼った製作があんまり宜しくないと。人が集まって演奏する事でほんの小さなズレができる感覚がとても気持ちがいいのだが、100%打ち込みで作るとそれが存在しないのでなんだかつまらない。佐藤氏に限っては「気持ち悪い」と・・・生まれた時から身近に携帯電話はある、街なかにコンビニはある。家にネットはあるという世代は既に型にハマっているのだと思う。それがなぜつまらないか、気持ち悪いかがその感覚が無い、ある程度色々なことを経験しないと感じないのであろう。
それに気がつくか付かないか?は一冊の良い本に巡りあうかあわないかの確率と同じくらいなのだろうか??

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