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2020年6月17日水曜日

惡の読書日記  哲学・宗教の授業 佐藤優(著)

2020年 6月 17日

「世界のエリートが学んでいる 哲学・宗教の授業」というのが正しいタイトルである。しかしタイトルは出版社が付けたと思うのだが個人的には明らかに誤りだと感じる。「世界のエリートが」というコトバをタイトルにすれば良く売れるなどというデータがあるのかと思う。本屋にもアマゾンにも「世界のエリートが知ってる・・・」「世界のエリートが学んでいる・・・」などというタイトルの本があふれているが本書はそんなタイトルを付けなくても大学の授業の極一部分を抜粋して集めて編集しただけだが読むに値する本であり著者であり著者の佐藤優氏のお得意の閉鎖的日本への「警告書」である。この本を読んで次のステップへ行く為の本であり本書を読んでも教養が付く訳でもない。大学の授業を再現とも帯には書いているが「考える」ことが大事で「読む事」は考えることとは少し異なる。


もし「世界のエリート・・・」というコトバをタイトルに入れるのであれば「世界のエリートならこれくらいの事は知っている 宗教・哲学の授業」とした方が個人的にはスッキリする。出版業界も編集者の仕事の現実を知らないから小生は言いたいことをいってるだけなのであるがそれくらい我々日本人は無知なのであろうと感じて自分の知識レベルの低さを本書を読んで感じてしまった。そして世界のエリートはこれくらいの事は知っているが日本のエリートと呼ばれる人や政治家などはこんな事は全く解らないのであろう。それは大学で教える勉強が理系なら理系だけをマスターして文系なら文系だけをマスターすれば良いということから分数の計算が出来ない文系大学生が存在するという視界の狭い人間を作り出している問題もあるそうだ。海外の大学は理系でも文学や哲学を学びマスターしないと卒業できないそうだ。日本の文系卒業の大学生が分数の計算が出来ないというのは事実であり小生の勤務先の今年の新入社員の大卒新人君は分数の足し算が記憶の彼方で答えが解らず、工業高校を卒業した高卒新人達は電気科だったのでオームの法則を理解していたので深く考えること無く答えを導き出した。大学のレベルに関係なく日本はこうなっているのだと驚くばかりである。
それは大卒の新人君が悪いのではなくこんなバカな世界をここまで築いてしまった我々大人と政府の責任である。入学式を9月にしようとか言う前にすべきことは膨大でありそれが日本の未来に直結して繋がることを理解する必要があると言える。

日本人はよく自分を無宗教などというが実際は・・・と何度かこのブログで書いたと思う。我々は世界の宗教を知らな過ぎているのだとこの本を読んで感じる。その為海外で起きているとてつもない問題の本質が理解出来ていないのだ。バチカンが200年〜300年スパンで世界戦略を考えているなんて思ってもみなかった。バチカンもローマ教皇も単にキリスト教の宗派も大親分としかイメージがないので政治からは距離を置いて万が一のご意見番くらいにしか思っていなかったが実は話は複雑過ぎるのだ。
またビン・ラディンはサウジアラビアの悪態に手を貸すアメリカに腹を立ててアメリカに強烈なテロ行為をぶちかましたがテロという行為は悪いがサウジアラビアの宗教のレンジの広すぎる自己勝手な解釈は真面目な信者から見れば悪そのもであり。そのサウジアラビアをサポートするアメリカは本当に悪い奴等に見えてきたのだろう。昔はお互いに仲が良かった関係なのにと世界の宗教をいま以上知っていれば見る世界は非常に変わるのだろうが自分の宗教に関しては無宗教といいながら生きてる行動は常に仏教的な日本人なのである。無宗教を世覆う人が他国の宗教に興味を持つことなんてありえるのか?


冒頭に本書を読んでも教養が付く訳でもないと書いたが。ヒトラーは読書家であったがインテリでなかったそうだ、教養が無かったので「トンデモ本」を読んでユダヤ人陰謀説を真実と思い込んでユダヤ人を倒そう!と宣言したら、当時の世間がそれに賛同してしまった為に総統にまでホイホイとなってしまいあのような結果になったらしい。ちょうどその頃ドイツは戦争に負けて国民は疲れきっていたがユダヤ人は自分たちでうまくお金を回していたのでドイツ人から見れば目の敵だったのである。あのドイツ人でさえ方向性を謝るほど当時のドイツの人々は精神的に疲れきっていたのだ。

つまり下手をすると教養のない総理大臣に騙されてコロナ騒動で精神的に疲れた日本人が良からぬ方向へ走るかもしれず。その為には朝からワイドショーを観てコロナ騒動ウィルスに感染する様な事が無いよう、アホなメディアに騙されないように実学を学ばなければならない。
世界は我々日本人が思っているよりも遥かに複雑なのだと感じ過ぎた。日常はドメスティックな範囲での仕事しかしていないから『これで良いのだ』ではもう済まされない。天才バカボンのパパでは済まされない時代なのだ。

2020年5月30日土曜日

悪の毒書日記  超訳「般若心経」 苫米地英人(著)

2020年 5月 30日

素晴らしい天気の土曜日の午前中であったが、朝から読書であった。有名なチベット仏教僧と、彼の父親である哲学者の対談本を読んでいたが、仏教は哲学なのか?、息子よ!!などと内容がヘヴィ過ぎたのか、読んでいて非情に疲れてきたので本を読み替えた。『超訳「般若心経」』、著者の苫米地英人氏の本は、書いている本質、著者の目的は不変の一つであり、それを色々な視点からアプローチをしていることが多く、切り口は多いがどれを読んでも同じだ!と思われている事がよくあるようである。確かにそれはある程度は否定できないかもしれない。
しかし、時々著者の著作で最大風速ジミ・ヘンドリックス以上のパワーと爆風を出力を感じる本がある。その一冊が本書『超訳「般若心経」』である。過去に「超訳ニーチェ」とか「超訳ヴィトゲンシュタイン」みたいな本があったが、そういった類の本とは全く異なる内容である。


般若心経はどこからやってきたのだろうか?と、今まであまり考えたことも無く、実家では毎日の様に同居していた祖母が仏壇の迄に「般若心経」を唱えていたので、小学校低学年の頃には既に、ある程度は覚えていた。但し意味は有り難いコトバを並べているというくらいしか思っておらず、近年何冊か般若心経の解説本を購入して読んでみたが、これといった心に来る本は無かったに近い。本書によると、実は般若心経が仏教発祥の地であるインドからやってきた、しかも三蔵法師が天竺へ言って持ち帰ったものでもない説が有力らしい。全文漢字で構成されている為、天竺⇒中国ときて、中国でサンスクリット語から漢字に翻訳されたという説もあるのだが、どうやら色々な昔の書物や記録を紐解くと、般若心経の存在を示す資料は中国で般若心経の存在を示す資料より一世紀程インドは遅いらしい。さらにインドにはサンスクリット語で書かれた般若心経の原書すら存在していない。むしろインドに伝えたのが三蔵法師であるという説が実は非情に有力なのである。しかも最後の方に出てくる「羯諦ぎゃてい 羯諦ぎゃてい 波羅羯諦はらぎゃてい 波羅僧羯諦はらそうぎゃてい」は漢文でなく、シュメール語であり、シュメール語で作られたマントラであると著者は解説しており、これは適当な推論なのでは無く、本書の説明が明らかに正論であると読んでいて思える。
色々な諸説があるものの、決してこれらが般若心経の価値が劣る訳でもなく。むしろ般若心経を理解する事が生きていくうえで非常に重要なツールであると著者は言っている。

その説明のなかで著者の「空」(くう)についての説明が実に最大風速ジミヘン以上なのである。「空」とは「有」と「無」も包括してしまう。では「有」と「無」とは何なのか?つまり、「線」とは何か「線は点が集まって並んだもの(極めて簡単に言えば)」で、「点」という存在は「ここ」「そこ」という定義として存在として示すことができるが「点」には「面積」も「体積(厚み)」も無い、「あるのかないのか?」・・・「どっちやねん?」。あるとも言えるし、無いともいえる。これが「空」である。これは「点」だけに限らず、結局人間も我々は今ここに存在しているが、それを証明するのは困難である。なぜなら「私」とは何なのか?こうちている間にもカラダの細胞は入れ変わっているが、自分の意思は入れ替わること無く存在している。果たして「わしはどこにおるんじゃ」とまさしく「有」であり「無」である。
もっと大きな意味で考えると、一つの何かの存在が宇宙のすべてとつながっているという「一念三千」に繋がり。一つの「有」が、ケタ違いの「超ぶっちぎりの有」であるという考え方や認識が大乗仏教の「空」であると。

「空」は「無」も「有(モノ=物質)」も飲み込んでいるに値する。それと同じように、我々は心で感受したり想起したりする意識や認識もすべて「空」なのである。すべての現象は「空」なのである・・・と般若心経は著者の超訳では「空」についての超指南書であり、人間一人々の悩みも「空」の中に存在しているのであり、この用のすべてのものが「空」なのである。仏教は哲学なのか?形而上学なのか?現象学なのか?などと言われるて、定義を求めたり、考えたりする人が多いそうであるが、結局は仏教でいえばすべてのものは「空」でしかないのである。そう考えるとやはり、普段の悩みや考え事は 非常に小さな存在であり、存在しないかも?と言えるのレベルなのである。


漫画「攻殻機動隊」の第一巻の最後に、草薙素子が言う「ネットワークは無限だは・・・」。これは「一念三千」と同様。一つの物質は無限に近い「有」で「縁起」でつながっている。それを包括してしまう「空」は無限でしかない。しかも有るのか、無いのか解らない。
まさにネットワークではないのか・・・?



2020年5月9日土曜日

悪の毒書日記 音楽入門 伊福部昭(著)

2020年  5月  9日

数年前にご近所にお住まいの電子系音楽家の方に奨められて購入したけど読んでなかった、いわゆる積ん毒状態から脱出させた一冊。本書は昭和26年に最初に発行された本らしく、どうやらその時はは小冊子であったようであり、その後何回か再発に至り本書は2016年に角川文庫からの再発であり。2003年の再発版には無かった、1975年に同人誌か何かに掲載された著者のインタビューを追加したものらしい。著者、伊福部氏は1914年生まれで既に2006年にお亡くなりになっておられる。



本人による「あとがき」にもあるように、今読むと時代遅れ的な部分もある。それは音楽的な話が古いとかでなく、その頃の研究では判明してなかった(科学的な)歴史的事実や昭和26年には無かった音楽技術を前提に書かれているからで、その為現在の世界を考えると成り立たないと感じる部分もある。当時はロックもフリージャズも生まれていないし、音楽用コンピュータやシーケンサーも無ければ、シンクラヴィア、シンセサイザーもムーグも本格的なエレキギターさえも存在していない、つまり開拓者であるジミ・ヘンドリックスもクラフトワークも現れていない。それを差し引いても今読んでも十二分に内容に存在感というか重みのある本であり、気付くことがあまりにも多い。いやこれは・・・・こうだろうと思ったが、それは音楽においての現在の技術だからできることだったりするという技術のなせる技である。

 伊福部氏といえばあの映画「ゴジラ」のあの曲である。あの映画があれほど素晴らしいのはやはり、あの音楽の力が相当影響していると感じる。もし、あの曲でなければ、あれほどの影響力は無かったかもしれない。「大魔神」の音楽も伊福部氏の作曲らしく、東宝の特撮は殆ど伊福部氏が音楽を担当されている。

音楽について書くのに、古代の哲学者やショーぺンハウアーの現象学まで引き出してきて説明する、ザッパとビーフハートが学生時代に二人で聴き込んだエドガー・ヴァレーズも本書では登場する、伊福部氏にはもはや敵わない。しかも元々音楽になろうとしたのではなく、北海道で地元の大学の農学部出身で、戦時中は木製飛行機の部品の製造研究をしていて終戦後にコロナ放電の研究をしていたら事故になって一年間休職。その後東京に移り色々あって東宝にてそれまで趣味で好きだった音楽の仕事で生きていくという凄い方なのであるが、本当は画家になりたかったそうである。
なんと1950年〜51年の僅か2年間に29本の映画音楽を担当しているそうだ。当時の映画音楽のほとんどは、脚本を読んで内容を想像して音楽を作るという手順だったらしい。しかも映画の内容は自分で選ぶのではないから、会社(東宝)からジャンル無法で指示されて、脚本を読んで作曲するっていう方法だったので、やはり相当量の知識と想像力の賜物であると考える。おそらく伊福部氏が農学部出身で、終戦前後に木製飛行機の部品製造に関する研究なんてしておらず、普通に音大卒業の人間であれば、これほど迄の功績は残せなかったのでは無いだろうか。
この本を読んでいくと明らかに前述の通り伊福部氏の知識量に圧倒される。しかも、音楽学校で音楽を学んだ方ではないのが、許容範囲の広さと脳ミソの柔軟性が凄かったのだろう。多分,E・ノイバウテンとか観たら絶賛していたのではないだろうか。
しかし、自分には「音楽」とは何なのかという疑問というか、筆者との意見の食い違いではないが、モヤモヤとした感じが残ったのだが、それが悪い感じではなく、脳ミソがその答えを求めようとして、何だか気分が良いのだ。

著者がこれだけの良質のアウトプットをするには、大量の良質なインプットが必要だと実感した、それにはそのインプットする情報が、情報なのか知識なのか、さらに自分にとって必要かそうでないかの判断できるスキルを磨かねばならない。良いか悪いか必要か否の直感は自分自身そのものである。小生は圧倒的にインプットが不足していると改めて実感した。さらに、尊敬するクリエイターが言うように好きなことは続けることの重要性、大切さ。最初は収入にならずともである。
ゆえに、芸は身を助ける、のであると。

2020年5月4日月曜日

悪の毒書日記 天使のいる星で 鈴木重子(著)

2020年 5月 4日

ラブ・ザ・アースだぜ!! と先月くらいから言いまくってた気がする。
以前、有名な日本の哲学研究者の方が、ジャズボーカリストの鈴木重子は良いと、言ってたのを思い出した。普通ならまず、ここで鈴木重子さんのアルバムを買うのだが、先に本を買ってしまうのである。
もし、これから聴こうとするミュージシャンが本を出版していたり、ブログでコトバを綴っているのなら先にそちらに触れるべきだというのは完全な持論である。コトバが面白いミュージシャンは出す音、奏でる音も面白い気がする。コトバだけでなく、考えてること、日々生きていくなかで何を想いながら生きているのかを、音を聴くよりも先にコトバである。
脳ミソの構造や各パーツの役目はよく解らないが、今までの経験でこの持論は当てはまることが多い。近藤等則に、44広瀬”Jimmy”聡は典型的な代表人物だ。ヴォーカリストに至っては、元々詩人になりたかったという人も居る。リチャード・ヘルなんてそのものだ。



今回は毒書でなく、読書である。
『天使のいる星で』は鈴木重子氏本人が日々感じたことを、数行のコトバで表現したのを集めて、イラストと共にまとめた内容である。コトバは非常にシンプルに纏めて余分なコトバは削られているのでなく、最初から思いつくことは無く、必要なコトバだけが浮かび、そのコトバを書き出して書かれているのかと思う。

その内容はあまりにもシンプルで、普通という日常が非常に大切だった、いや大切である。と、いま一度認識させられる。多分、本人は読者にそう感じてほしく書いたつもりは全くないのだが、昨今の事情が普段以上にそう思わせる。作者からは決して「こう生きようぜ!」なんて事は一切語られることなく、「こう生きています」とコトバを並べているに過ぎず、イラストがそのコトバ達の意味や重みを快く増長させている。 どこか哲学的なのだ・・・というと、かなり纏まりが無い表現なのだが、大切なのはいま現在だとか、人生は無限大の選択肢であるということを本当に解りやすく表現している。著者鈴木重子氏が「ここは◯◯の考えよ!」とか「マインドフルネスだわ!」とか意識して書いたとは絶対に考えられないが、多分著者の生き方の根底にある部分なのであろう。
そして、彼女は宇宙との繋がりを意識して毎晩、地球の上に生きている事に感謝して眠るらしい。
で、小生はアマゾンでCDをオーダーする。

これからは、地球を愛して生きようと日々想う。
LOVE  The  EARTHだぜ!!


2020年4月12日日曜日

悪の読書日記 大衆の反逆 オルテガ・イ・ガゼット(著)

2020年 4月 12日
本書は第一世界大戦後1930年に書かれた文献である。
後に著者オルテガが経験した第二次世界大戦、ナチスの暴走。大東亜戦争での原爆の使用などの報道の後に書かれていたなら表現は大きく変わったであろうと考える。だが内容の本質はそれほど変わらないのではないだろうか。



「大衆」は今も変わっていない、
『人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。
第一は、自分に多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自分に対してなんら特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外の何者でもなく、したがって自己完成へ努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である。
中略
つまり自分の人生に最大の要求を課すか、あるいは最小の要求を課すかである。したがって社会を大衆と優れた少数者に分けるのは社会階級による分類ではなく、人間の種類による分類なのであり、上流階級と下級階級という階級的序列とは一致しないのである。(抜粋)』

結局、我々人類は1930年以降、何も変わらず2020年も風のまにまに漂う浮標の様に流されているのではないだろうか・・・・と思う日々。しかし、この本はそういったことを書き綴った文献ではない。
大衆が反逆を決起し、これまでの風のまにまに漂う浮標から脱するのはありえるのか、この今。
自分自身どうやって生きていくべきがと日々でなく、一日何回も考える日常である。

今日現在の今の日本での本当の敵は新型コロナウィルスなんかでなく、今の社会状況であると考える。
本書の『慢心しきったお坊ちゃん』の時代、まさにこれなのだ。本書では貴族の世襲となっているが、この時点で普通の人間であれば何を言いたいのか想像がつくはずである。
いわゆるこういったタイプの人が国家の舵取りをすると危険極まりないということである。
どうして日本ではこういった人々が国家の舵取りをしているのだろうか?

簡単な話、
大衆は反逆せず、風のまにまに生きているからだろう。
その割には文句だけを言い続ける、選挙にも行かないのに。
反逆をするのは今しかないだろうと思うのだが。

2020年3月8日日曜日

悪の読書日記 もういちど読む 山川倫理 小寺聡(編)

2020年 3月 7日

あの佐藤優氏が推奨する『もうしちど読む 山川倫理』を読んでみた。
高校の時、理系コースだったので倫理は勉強していないと思うのだが、高校の時にこの本の内容を学んでも多分、全く記憶に無かったであろうと思うし、やはりこれを高校生が読むなら例えば、読むという勉強よりも映画やなんかを観て考える方がいいと思うのだが、自分の高校時代を振り返ると、『考える』という時間はあまり無かったのかもしれず、考えた事で記憶にあるのは・・・「パンクロックで世界平和が実現できるか?」程度で。いまもこの結論は導き出せていない。映画みてレポート書いてこいと教師に言われて、まともに書いて提出しただろうか?



しかし、どこかの高校で教材として『未来世紀ブラジル』が使われていることを聞いたことがある。
もし、高校の倫理の授業で使うとすれば『ハンナ・アーレント』がお薦めだと・・・あとフィクションからノンフィクションになった『1984』とかも。
ここまで書いたが、今だから「ハンナ・アーレント」について書けるので、高校生の時の頭でこれを観てどう小生は感じる事ができたのか疑問でかつ怪しい。


さて、「もういちど読む山川倫理」だが内容的には「もう一度」では無い事は前述の通りで「はじめて」が殆どである。
しかし、色々な哲学の本でも必ずと言っていい出てくる「デカルト」については、どの本を読んでも面白い。
「いったい俺は誰なのか」「俺の存在は何なのか?」それは本書でも同様、
そして『世界十五大哲学』(ちくま文庫)の「Ⅴ.デカルトの哲学」の章を読みなおす。
やっぱりこのデカルトという人はおかしいというくらい面白い。
「すべてのものを疑うべし」

***

最後に明治、大正時代に、与謝野晶子が1904年に日露戦争へ批判的な作品を作り『明星』が発禁処分を受けたエピソードも載っている。歴史の時間で本来重視しなければいけないのが、江戸幕府末期以降の明治時代〜大正〜昭和初期の1945年前後のあたりなのだが、多分、倫理の勉強をするのであればこの部分の歴史の時間を2in1のワンセットで学ぶ方が良いのだろうと思う。以前、ラモーンズを心から愛する友人が、この時期の歴史の時間は一年間掛けてやったほうがいいのでは?と言ってたがまさしくではないかと過去の記憶が繋が・・・「やりなおし山川倫理」を読んで思った。

我々はもっと考えなくてはいけないのでは?決して答えがでないとしても。
常識ということは怪しい、いまは正解だが、過去と未来で今の「常識」はどう判断されて今後どう判断されるのか?だから今、ひたすら考えるしかないのだろう。

この本を読んで教養は身に付かないし、「1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365」を読んでも教養は身に付くことはありえないが、明らかに安倍晋三夫妻よりは賢くなれると想う。

2020年2月12日水曜日

悪の読書日記 常識について 小林秀雄(著)

2020年 2月 12日

小林秀雄のエッセイ『常識について』という、タイトルながら。短いエッセイや講演が集められており、一部『考えるヒント』にも掲載された内容もあるが、この『常識について』は『考えるヒント2 』に収められている。またタイトルの『常識について』は本書の一番最後の章で、その章の少し前に『常識』というエッセイも収録されている、どういう意図でこの本が角川書店から角川文庫出版に至ったのか今となっては解らない。しかも『考えるヒント』の一番最初の章も『常識』なのであるが、前述の本書の『常識』とはタイトルは同じで中身は全く異なるのである。



本書の『常識について』では、デカルトのエピソードを中心に書かれている。デカルトのエピソードからはじまり、孔子の話で終わる。「我思う、ゆえに我あり」話以前になかなか普段考えないし、聞いたことのないデカルトの話というか、デカルトに至っては「我思う、ゆえに我あり」と、いったい俺は誰なのかという疑問を起草させるくらいの哲学者くらいしか知らない‥のが正直なところ。

 この本を読み終わり著者小林秀雄という人は、どれほど引き出しが多いのかと思ったが、それは引き出しでレベルでなく、年中無休で24時間使える倉庫というべきだろう。世の中には「知の巨人」などと言われる人がおり、その「知」を用いて動植物を研究したりする人や文献を投稿して収入を得ている人がいるんだが、この小林秀雄という人は「知」だけでなく、「ゴルフ」をやってはそれを自分の頭の中の知識と結びつけて書を書き、「骨董品」を購入してはう〜んと目利きと思考をこらしては同じく自分の頭の中の知識と結びつける。しかしそれだけでなく歴史的な有名無名な人物に関しては、よくこれほどコトバで書いて考えれるものだと、小林秀雄この人の本すべてそして小林秀雄自身が『考えるヒント』ではないのだろうか?と思わせる。
名作と言われる氏の『本居宣長』に至っては、新潮文庫の上下二冊(元々一冊のハードカバー単行本)と、本居宣長をテーマでどんだけ書けるねん?と思いきや。先日、梅田の古本街で上下セットで500円にて販売していたが、手にとってパラパラと見て「こりゃダメだ、いま読めないや」と今は読み切る実力がないとあきらめ購入には至らなかった。
「知」だけで生きてこられた人ではないと改めて想い、跡にも先にもこの人を超える人は存在するのだろうか?と考えた・・・。

正直、『常識について』というタイトルで書かれた小林秀雄の文献は薄っすらとしか理解しておらず、逆に言うなら殆ど理解していない。ただし、こんな難解な本を読んで少しでも理解しようとしたくなるのである。時々、時間を掛けてでも構わないので吐きそうな本を読みたくなる。それはスポーツの練習あとに疲れ過ぎて吐きたくなる自分がなんだか少しここちいいのと同じような感覚なのかもしれず・・・いや違うか?。
つまり、読めば読むほど頭がおかしくなりそうな感覚なのだが、ゲロは吐かずとも解らないことをわかろうとする自分がそこの居るということなのか?である。
今は亡き池田晶子氏が「新・考えるヒント」で小林秀雄全集新装版のキャッチコピー「わかる小林秀雄」に対して、「わからない小林秀雄」であってはいけないのか!!と苦言をぶち込んだのは小生が、わからない事をわかろうとするという話ではなく、もっと深く・・・わからないことをわかろうとする自分こそが自分の価値を作り上げているいるのではないか?他人からそれが価値ですと言われる価値など価値にあらずと・・・・「わかる小林秀雄」なんてありえないのでなく、「わかる」必然性などは無いのではと。
なんだか、この意味が少し解った感じである。


さて、小生は今日もゲロを吐きたくなるのである。精神的にも、肉体改造にも。

2020年1月26日日曜日

悪の読書日記 新・考えるヒント 池田晶子(著)

2020年 1月 26日

約2週間掛けて読んだのだが、途中に個人的な失敗した創作活動と日常生活のあいまに読みあさり、何とか読破するもやはり池田晶子の本は難解であり、難解であるがゆえ本を読むという行為を楽しませてもらう。いや、考えることの重要さを学ぶトリガーである。



本書は雑誌の原稿として書いていたが出版社より「難しい」という理由でボツになったのを一冊にしたらしい。各タイトルは小林秀雄の「考えるヒント」から拝借し、小林の文章、コトバを交えながら池田の意見や考えていることを書いた内容であり、決して小林秀雄の「考えるヒント」の解説本ではないし、続編でもない。小林秀雄の「考えるヒント」も難解を極め、何度も読んで考え続ける本であるが、前回のブログに書いたようにこの「考えるヒント」は、雑誌や新聞等に載せた文責を集めた本である。池田晶子の本書のあとがきには、40年前は小林の文献が雑誌の載ったが、自分の文献は難しいという理由で断られた事に怒っているのが面白く、それだけ日本人は劣化したのだと思う。但し、「新・考えるヒント」が2004年に出版された本であるから16年前。日本人はさらに劣化している。
2019年の年間ベスト売上の1位、3位は樹木希林さんの本で1位はエッセイ、3位は発言したコトバを集めた本であり、2位は「おしりたんてい かいとうねらわれたはなよめ」である。樹木希林にも、おしりたんていにも罪はないし、悪意のかけらも微塵もないし、政府の陰謀も考えられないが、これで劣化していないという理由があるのなら教えて欲しい。

小生は毎日同じリズムで生きている日常、これでは何だかワンパターンでかつゾンビと化しているのではないか?、毎日同じ電車に乗れば職場付近まで運んでくれる…それはやっぱり不思議かな?と思いながら考えながら日常を生きている。既に一部区間の通勤電車に乗って職場に行くことは辞めて毎日歩いて職場まで行くことにしたのは良いが、毎日同じ道を同じ時刻にあるいているのでは?何が変ったのか?健康になっただけか?と想い。この歩く通勤がだれか毎日中崎町あたりで歩いている俺を見ては時計代わりにされているのではないか?これやったら「カント」やんけ?とそんな偉い人と同じレベルで考えたのを少々恥ずかしく思い。歩くルートを色々とバリエーションを決めてみたが、職場へ通って仕事して帰ってくるという生活はやはりソンビで俺はWALING DEADなのか?

池田晶子の本は、俺にゾンビの振りをしていたらいいんじゃないの?と言ってる感じがする。考える、考える、思考する、思考する、思索する、思索する・・・人間はコトバを話。言語を使うのである。それが猿やゴリラとの違いである。魂って、猿や犬やクラゲにもあるのだろうか?よくテレビで死んだ人や死んだ飼い犬と交信してくれる人がいるが、家の水槽でクラゲを飼ってる人、メダカの一匹飼いをしている人のクラゲやメダカが死んだあと、死んだ魂と交信してくれるのだろうか?『メダカやクラゲは下等動物だから無理』と言われるのだろうか?
魂というのは何なんだ?

新・生きるヒントを読むと不思議なことにどうでもいいことを考えてしまうのである。極めつけは、帰りの通勤電車で読んでいて眠くなってきて、そのままウトウトしてしまい夢の中で本を読んでいた=文字(本)を読んでいる夢をみたことである。
夢の中で文字=本を読んだのは実はあんまり記憶がない(夢のなかで、ギターを弾いてい音を出していた事とその音の記憶はあった、今は忘れたけど)。猿も犬も夢をみるようなのだが、そこにコトバが出てくる事はないだろう。人間だからコトバがあり、言語があるから深く考える事が出来るということを少々忘れている、深く考えることを置き去りにしているのではないだろうか。
池田晶子の「新・考えるヒント」に関わらず、小林秀雄の「考えるヒント」もヒントといより、直撃弾なのである。

高度情報化時代、遠方から来る友を待つのは至難である。質の低下は防ぎ難い。しかし言葉だけは裏切らない。人を信頼することの喜びは、未だわれわれから失われてはいないのである。言葉だけが、時代を越えて、われわれを強く結ぶ事ができる内なる生きた紐帯なのだ。これを信頼することは、すべてを肯定することだ。
(「十 ヒューマニズム」より抜粋)

通勤鞄に入れておきたい一冊だか、文庫本にもなっていないし、電子書籍にもなっていない。小林秀雄の「生きるヒント」同様、繰り返し読むべき本である。

考えるヒントは生きるヒントであり、ヒントという単純なモノではないのであると思う。コトバはネットワークよりも無限なのだ。なぜなら、そこには時間も存在しないのであるから。




#池田晶子
#考えるヒント
#小林秀雄

2020年1月18日土曜日

悪の読書日記  考えるヒント  小林秀雄(著)

2020年 1月 16日

『考えるヒント』をやっと読み終えたというか、二回目の読破だろうか?いや最後まで読んだのは初めてか?いや一度は読破したと記憶する。自分の記憶ほどいい加減な事はなく、自分の好きなように都合の良いように書き替えるのが記憶である?真実などどうでもよい。


難解というか、簡単の様で難しい本、『考えるヒント』は小林秀雄の文藝春秋や大手新聞へ掲載された文献を集めた本であるようだ。本書のために書いた本で無いことからか、著者による後書き等はない。二巻、三巻と計四巻まで発売されているようだが、一巻でこのありさまである。いつになったら四巻まで読み終えることが出来るのだろう。五木寛之氏の『いきるヒント』とは対照的だ。なかなか進まない。
しかし、既に『考えるヒント』の第一巻冒頭『常識』だけは何回も読んだという記憶だけは間違いない。ネットで『考えるヒント』を検索すると難しいけど何回も読んでいる人が居るようだ、学生時代から読み続けているとか、読んだ後に読み終えた日付を本の中に書き込んでいて今回は⚪⚪回目とか‥‥色々な人がいる。
先日年末に友人の奥様(高校の国語の教師)と話をしていて小林秀雄の話になった、その方も小林秀雄は読むたびに印象がまったく変わると言われていたのが興味深かった。そうなのであると思う‥‥殆どの読者が何度読んでも印象が異なり、読むたびに気付きが違うように、そう感じるのだろう。それは著者の小林秀雄がそういうふうに意図して文章を書いた訳では無いがそうなったのだと思う、結果的にそうなっただけで。


『考えるヒント』の中でも『漫画』は個人的に気に入った一遍である。
「のらくろ」の作者・田河水泡氏が小林秀雄の義理の弟であったとは知らなかったが、「のらくろ」の主人公(動物)は紙面でサボってばかりいるので当時の日本の軍部から嫌がらせを受けていたという話は知っていた(実は反戦漫画なのだ)。しかし、「のらくろ」は作者田河水泡自身であったことは知らなかった。サザエさんの作者・長谷川町子氏が田河水泡のアシスタントをしていたということを昔々聞いたことがある。つまり、サザエさんはよく考えたら長谷川町子本人であったはずだ。長谷川町子本人は生涯独身であったが、彼女の理想はマスオさんの様な旦那さんとタラちゃんの様な子供が欲しかったのではないだろうか?

ミッキーマウスがディズニー本人であるという小林秀雄の考えは、ディズニーがミッキーマウスの発表当時の映像を見るとやはりそうかもしれない?と考えることが出来る、たとえディズニーが誰かの書いたネズミのキャラをパクったとしても。そのキャラクター=ネズミ=ミッキーマウスの動く様子(アニメ動画)からは、作者の人を楽しませたい、笑わせたいという気持ちが十分に伝わってくる(ミッキーマウスの最初期の動画を観たことがある)。

最後に「笑いの芸術」は『一番純粋で力強いものは、日本でも外国でも、もはや少数の漫画家の手にしか無い、とさえ思われる。今日の文学者には、もう陰気な喜劇しか書かない。それは、皆が思っているほど当たり前なことであろう。』(抜粋)でこの『漫画』は幕を締めるのだが、これが書かれたのは昭和34年、1959年である。そんな過去に総小林秀雄は感じたのだろう。
「芸術」としての文学作品的なものは、やはり今でもどこか暗い感じがするのが事実。あのウィリアム・S・バロウズでさえ、文学は映画や音楽の文化に比べると何十年も遅れているといって60年代にカットアップという手法を発明して「裸のランチ」をラリって書き上げた位である。それに比べてやはり漫画は2020年の現時点でも多種多様であるが上手く使えばまだまだ日本を引っ張っていける作品があるといえる。少し表現としておかしい、又は少し違うかもしれないが、何かパワーというか漫画の勢いは今でも落ちてはいないと思う。いまは前述の通り多種多様であるのが現実で、漫画とアニメの境界線はあるのか無いのか定義としては定めるのは難しいのであるが、明らかに笑いの芸術にとどまらず、海外を含め世界的規模でを考えるとやはりそこは「漫画」という芸術でありメディア、笑い以外ででも「漫画」という芸術は不変であり力強いと思う。

それを60年前に感じていた小林秀雄はやはり鋭い感性で生きておられたのであろう。
インターネットがあたりまえの時代であっても小林秀雄のコトバや感性は消えてしまうことは無いようだ。
(不定期に続く・・・)

2020年1月4日土曜日

悪の読書日記  瞬間を生きる哲学 古東哲明(著)

2020年 1月 4日

新年早々、昨年11月位に読んだと記憶する「瞬間を生きる哲学/古東哲明(著)」を再度読み返してみた、実はこの本、第1章、2章、5章さえ読めば事足りる感じがする。他の章は哲学者の話からの抜粋解説なのでやたら難しいのである。だから読み返すのは一部だけ。内容がいいだけにもう少し凝縮すれば良かったのにと勝手にいらぬことを妄想する正月である。酒も飲んでいないのに・・・。



年末にちらっと読んだ本の一部に、昔々電車の駅が出来ると駅前に「時計屋」がどこからか自然と現れる。これが時間に正確な日本人と言われる一つの理由かな?沖縄には電車が走って無いので沖縄の人はちょっと変った時間感覚なのか?・・・と。
いや。隠岐や因島の人はそんなことはない。地方の山奥とまでは行かずとも、地方の友人知人に「最寄りの駅は?」と聞いても「ない」と言われ、「あるけど歩いて2時間くらい」という答えが返ってくる、現在でもこの程度である。
ただ沖縄の人は、いい意味で南国気質なんだと思う。


いま、未来の事を気にいして生きている。将来が不安とか、この本でいう「アリとキリギリス」のアリさんである。その将来が不安な為に、いま一瞬を台無しにしてまで夢中で生きている。資本家が自分の財産をより一層築きあげるには従業員に効率よく、生産性を上げて貰う必要がある。その為に時間というのは重要なツールである。遥か昔の江戸時代の人はそれほど勤勉で無かったという話をきいた事がある。
一日8時間も働けば、庭付き一戸建ての家が買えたそうだが、だれもそこまで無理に働かなかったそうである(杉浦日向子さんの本で読んだ記憶が)。寺子屋にしても毎日決まった時刻に登校(?)することは無かったそうである。
仕事よりも、職場の仲間とワイワイと楽しくすることが最優先で、効率は二番目だったそうだが、産業革命の波は明治時代に日本にやってきて、今に至るのである。

インターネットの普及により最大の恐怖は、人々をもうひとつの世界に監禁、束縛すること。昔はナチスがやっていたようなユダヤ人などの民族の強制移動をいまでは同じことをネットのやられているのだが、だれもそれに気がついていない、これは「シルダの住民」(愚かな人が住む街)と同じではないのか?

★★★

瞬間というのは永遠であるという。その瞬間というのは一瞬の事実であり、それは取り返しのつかない時間の経過という事実であり変更も取り消しも出来ない。つまりその一瞬は永遠に存在しているのである。その一瞬の大切さを見失って先ばかりのことをばかりを考えて生きているのではないかと著者は警告する。殆どの人が、この糞間抜けな日本列島に生きている以上、不安しかないのは事実である。そしてメディアが不安を煽っているのも事実である。


では、どうやって生きればいいのか?
今から江戸時代へは戻れないし、インターネットの無い世界へも戻れない。

著者は色々なエピソードを紹介している。
その中でも良かったのが、ヴォーカリストの鈴木重子氏の生き方である。
いまこの現在のこの一瞬を誠実に丁寧に味わって生きてみると、不思議な事が起きる。ゆたかな明日も充実した来年もちゃんとついてくる<必要なものは、必要な時期にやってくる。それはまるで至高ななにかに身を委ねて・・・人知のはからいを越えた。
明らかに「引き寄せの法則」とは異なると思うのだが、「いま、ここ」というのがそれほど重要なのだろう・・・。
そしてもうひとつ、タモリ氏の赤塚富士夫氏への別れのコトバにある、「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から開放され、軽やかになり、また時間は前後の関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。


そうだ一瞬、一瞬を大事に生きること、すなわち『これでいいのだ』。


2019年12月31日火曜日

悪の読書日記  君自身に還れ 池田晶子✕大峰顕(著)

2019年 12月 30日

このブログへアップしようとして2回読んでみた。というか、書物は複数回読んでこそ自分の身のためになるというが、どう為になるのか?
それは人それぞれ違うことであり、HOW TO本を殆ど読まなくなり、いわゆる「考える」本へ移行できたとそれによって得たことは自分の生き方が全く変ったという事で本を読むことの返礼品は現物や金額に換算できないもので誰にも盗み出せない自分自身の一部になったのではないかと思う。



『君自身の還れ〜知と信を巡る対話』大峰顕✕池田晶子(著)。仏教vs哲学の対談かと思って古書にて購入した書籍であるが、全く違った。哲学・池田vs哲学+仏教ハイブリット・大峰の対談である。本書後半の池田氏の大峰氏への突っ込みはお互い笑いながらの会話ながら、直球勝負の池田氏は流石である。約12年以上前に出版された本で、池田晶子は45歳であり、時代はまだ携帯電話が主流の時代である。

冒頭いきなり池田氏の「言葉の価値が下落してきた」という携帯電話の「話し放題」というサービスについてから始まる。
言葉の価値だけが下落しているのではなく、人が考えることをしなくなっているという危険性や、自分のコトバで表現しないことへ大嶺氏と対談して危惧している。
しかし、時代はさらに進み、今では携帯電話ということでなく、スマホである。会社から支給された携帯電話/スマホは事務所の固定電話の生まれ変わりだが、個人所有のスマホは、何の生まれ変わりでもなく、電話の会話よりかは、メールを使ってのコミニュケーション手段のツールである。
つまり、
 コトバの価値は、さらに下がっている。
 考える事も減っている。

のである、
自分で考えるよりもパソコンでGOOGLE検索を使えば、簡単に正解にちかいアンサーが帰ってくる。スマホでAiに尋ねれば殆どの事を教えてくれる。パソコンで調べた結果をマウスで範囲指定してコピーしてペーストすれば、それらしいモノが出来上がる。しかし、パソコンで調べたアンサー、その結果が本当に正しく、裏付けされた事実であるのかという事を考える人や、それを調べる人は少ない。もはや考える事は減って、「内省することもしあいからおしゃべりばかり(携帯で)している」と池田氏は言うが、おしゃべりでなくメールとSNSが今なのである。東大へ行くために0歳からの教育なんてやっているそうだが、教える事はテクニックを教えるので、自分で考える事を知らない人間になると・・・。

世界的に考えると、劣化しているのは日本人だけでは無いような。
さて、俺はどうやって生きようか?


★★★

釈迦は哲学者だったので、お経は考えて考えて読んでいかないと解らない。しかし、その解った事が正解なのかどうかも解らない。キリストは哲学者ではなかった、詩人である。その為に聖書にメタファーで書いた内容、水の上を歩いたとか、これを本当に水の上を歩いたと真に受ける人も居る。さらに伝導意識が高すぎて時に戦争までしてしまう。

格差社会というが、「格差」とは? 「幸せ」を求めるのではなく、「幸せ」とはいったい何か?を考える。
幸せとは「お金」なのか?これはありふれている。


読めば読むほど、本の世界、コトバの世界に引き込まれる対談本である。ヘーゲルとかハイデカーの話はちょっと難しく、ヘーゲルとかの本を探して読まないと解らない部分もあるが、その部分を多少差し引いても面白く読めるのは、僧侶という仕事がら、説明や人を納得させるのが得意と思われる大峰氏の手腕かと考える。


★★★

生きていたらそろそろ還暦の池田晶子の対談本は池田の死後数日経って発売された本である。大嶺氏は池田氏へ「10年もすればわかりますよ」なんて言ってたりするが、おそらく対談のあと数年で池田氏はこの世を去ったようだ。解らずに死んでしまったのかよ??

「死んだらどうなる」のだろうか?と言ってた池田晶子。人間は必ず死ぬのである。
さて、どうなったのだろう?


★★★

コトバについて考えて始めたブログであったが、2019年の最後は、コトバについての本で締めることになってしまった。
11月以降は更新回数が極端に減ったが、本を読んでいないわけではなく、読む本は減ったがブログとしてアップ出来る本に巡り合わなかったという理由も一つ。

昨夜2回目を読み終えた本書である。池田晶子の本当の遺作はこの本かもしれずと。
あとがきの池田晶子の文章が2007年3月(死後)になっているのは何故か?と、まあどうでもいいか。

手元に置いておくにはいい本である、間違いなく。

2019年5月29日水曜日

悪の読書日記 事象そのものへ! 池田晶子(著)

2019年 5月 29日

やっとのこと池田晶子『事象そのものへ』を読み終えた。古本屋の店頭の木箱にて百円並べてで売られていた本ながら、これほど読みごたえがあると百円しか払っていない事に後ろめたさがあるが、古本屋はただ同然で買い取ったからいいのかと思い。会ったことのないと思われる新品での本の購入者にも申し訳ない、へへへ・・・と思ってみたが、肝心のこの本を書いた今は亡き著者はあの世でどう思っているのか?と考えてみると、あの世なんてあるんか?となる。
というのがあり著者の主張であり、あんたあの世行ったことあるんか?、誰も行ってきて帰ってきたことないやろ?と言うのよう内容を著者が常日頃書はよく書いていたのだから、著者には失礼かもしれないが100円という価格ながら素晴らしい本に巡り合った。



50才にも届かない歳でこの世を腎臓癌で去った著者は死ぬ寸前本当に恐怖を感じなかったのか?自分がコトバにした想いは本当に自分の本当のココロからの本心だったけど最後まで貫いたのだろうか?本人に聴くにも既に他界し死後の世界の存在なんかワケわからんのに確かめられず。そんなことを考えるのが失礼だなとここまで書いて申し訳ない気持ちになった、やっぱり俺がおかしい・・・最近、自分の死について考える事が多く、やたらこんな事が気になる。

ただ、著者の数々の書籍から感じとれるコトバの重さから、池田晶子は死ぬことは遂に自分のこれまでのコトバで表現し確立した世界を確めてやるという気持ちを持ってこの世を去ったと思うのである。著者はそんな方なんだと思っている。


難しいことばかり書いてある本なのだが、時折好きな言葉が突然現れる・・・
『詩人とは、ことばと宇宙が直結していることを本能的に察知してる者をいう・・・』
『意識でありながら歴史であること、普遍でありながら個別であること、これは私たちの人生のまぎれも無い事実である・・・』
しかし、殆どが理解するには一苦労する。

元格闘家の須藤元気氏は誰か忘れたが有名な哲学者の本を常に鞄に入れているらしい、精神科医の名越先生は道元の難しい本を鞄に入れているらしい、小生もこの池田晶子『事象そのものへ!』をいつも鞄に入れておきたい、なぜなら前述のとおり解らないこと知らない事がいっぱいだからである。
解らないこと、知らないことを知りたい、考えたいのである。
気分がいつもよりおかしくなったら、いや普通以上になったら鞄からこの本を取り出し読んで、考えて考えて考えたい。
問題はハードカバーの単行本なので重いのである。

この本の最後の章『禅についての禅的考察』の最後にこうかかれている、
神や宇宙や始原について考えるのは宗教だけではない。何ということもなく日々を暮らしてゆく人々が、ふと「なぜ」と問えば、それは既に、神と宇宙と始原の問題だ。生まれてきた理由も、死ななければならない理由も、生きてゆかなければならない理由も、わからない。そんな問いを問うてしまう理由もわからない。これらの「なぜ」を「神」に答えるのが宗教であり、答えず問い続けるのが哲学であり、そして問いも答えずもせずに、とぼけてそのまま生きていくのが禅というものなのだ。

いくら読んで考えても答えはないのだ、考え続けて苦しくなったらとぼけて、また考えるだけなのだ。
それが死ぬまで続くのである。

2019年5月20日月曜日

悪の読書日記 あたりまえのことばかり 池田晶子(著)

2019年 5月 21日

ソクラテスは、正義のために死刑になることに自分の主張を覆さなかったのではなく、死刑…『死』については解らなかった、『死』とはなにか?恐れべきものなのか知らない。知らないことを知ってるようなものであるかのように恐れるのは正しいことではない・・・



先日より自分のSNSで何度か死について書いたことがある。
死なれた方の人生が短い人生だったのか、長い人生だったのか、それを言えるのは死んだ本人だけしかなく、その答えを述べるべき本人はすでに存在しないのである・・・と。
そんな事を書いていた矢先、元スターリンの遠藤ミチロウ氏が4月に他界していた事が、5月1日なって公表された・・・・彼の人生が長いものであったのかどうか、まだまだやる事があった短い人生だったのかは前述の通り、本人しか解らない。我々が言えるのは彼の記憶からみての個人的見解でしかない。
本書の『生きているとはどういうことか』、『死ぬのは不幸なことなのか』、『他者の死はなぜかなしいか』を何度読みなおしても、死についての自分の答えは見つからない。見つかる訳はないのである・・・読めば読むほど混乱するばかり、「これはちょっと違うのでは?」と思ったりもするのだが、とにかく言えることはただひとつ、死んだらどうなるのか誰も解らないのである。
解らない事に上手くぴったりと嵌り込んだ宗教というのは、悪く言えば凄いビジネスなのかも知れず。『死』とは肉体が滅んだこととなっているが、それ以外は何処へいくのだろうか?と。
 
そんな日、ネットの動画サイトを観て知ったのだが、死刑囚の死刑執行は、死刑当日の朝9時に死刑囚に伝えられるらしい。つまり、今日あなたは死刑執行されるのですよ!と言われるのと同じである。人の命を奪った死刑囚だが(おそらくというか多分)、死刑が執行されるのは突然である・・・いつ死ぬのか毎日待っているような気がする。犯罪を犯したときは悪人でも、何年も刑務所の独房にいると善人に変わっているかもしれず。
いまは善人となった人を殺すのはよくないというのは死刑反対論の理由の一部であると思う。しかし、過去に大きな罪を犯したのだから死刑になるのは当然であるというのは死刑を肯定する人の意見の理由の一部だろうと予想する。死刑を執行されるより、執行される日を待っている日々の方が残酷な気もするが、それはそれなりの罪を犯したから当然であるという意見もあるだろう。
死刑執行が決まったあと、お寺の関係者というか、それなりの方が来て死刑囚を説得して心を落ちつかせるそうだが、アメリカのドラマで死刑執行前に牧師さんがやってくるのと同じようだ。果たしてどんな事をいうのだろうか?どんな話をするのだろう? 悪い言い方をすれば、死刑囚は大きな罪を犯しておきながら、死の恐怖を和らげるかの如く ・・・これでは死に勝ちかもしれず。

池田晶子曰く、「死」とは「死」というコトバだけでしか存在していないという。死んだあとの世界、その世界がるのかどうかさえ解らず、行って帰ってきた人さえいないのである。肉体は消えたが本人は何処へいったのか?

亡くなった方に会えない悲しさ、記憶の中でしか会えない悲しさ・・・それが死ぬという悲しさなのか。その逆の悲しさもあるだろう。それは恐怖なのかもしれない・・・

子供の頃、幼稚園くらいの頃だった。死んだらどうなるのか夜中に一人考えて怖くなって泣いた事がある。
来月50歳になるが、いまでも死んだらどうなるのか、解らない。
つまり、死ぬまで解らないのである。死んでみなくては解らないのである。

2019年5月6日月曜日

悪の読書日記 哲学入門 三浦つとむ(著)

2019年 5月 5日

今年のゴールデンウィークは久しぶりに休んだ気がする、それは色々な意味でである。
自宅の書斎には積ん読(未読本のストック)が大量に準備されている、近頃はアマゾンKINDLEの中にでさえ積ん読(未読本)が増えてきた傾向にあるのも事実である。ゴールデンウィークはとりあえずご存知の通り、読みまくりの一週間であったが、主にマインドフルネスの本や小説が殆どで折角の一週間が読んだけどあんまり思考する事に力を注がなかったのではないか?と今更後悔してしまった、今日は5月5日であるにも関わらず・・・。で、積んどくから一冊の本を抜いてみた『哲学入門』三浦つとむ(著)、どうやら新品である。実は購入した記憶があるのだが、何をきっかけに購入に至ったたのか全く記憶にない。佐藤優氏の本で推奨されていたのかどうか?佐藤氏の本をひっくり返す事が面倒くさいし、AMAZONが奨めたかもしれないので、とりあえず読み始めることにした。



本書は戦後(1948年)に出版された本の復刻版であるが、発行は1975年、本書は1998年第6刷:累計12000部と記載されているので再発分だけで約20年間に12000刷というのは少ない気もすると考えるが、この種類の本ではどうなのだろう?
出版された時代が時代だけに、内容は興味深い、大東亜戦争後の裁判で裁かれた戦犯に関して相当批判的であり、さらに過去の哲学者が大東亜戦争に加担したことをかなり批判している。

しかし、その批判が論理的なのである・・・
哲学には二種類存在する。「科学的な哲学」そして「神がかりな哲学」。前者は唯物論で後者は観念論であると、過去の哲学者は大東亜戦争で、神がかりな哲学を悪用して国民を戦争に巻き込んだ事に相当怒りがあるようだ、そのうちの一人の哲学者に至っては昨年、佐藤優氏の哲学に関する本によく書かれており、哲学はマインドコントロールに悪用出来ると佐藤氏が警告していれう哲学者であり、一昨年佐藤氏は『学生を戦地へ送るには: 「悪魔の京大講義」を読む』という本も出されている。
確かに、神がかりな哲学は悪用すれば、マインドコントロールに使えるので、この延長で三浦氏は宗教団体の関係者への批判もエピソードとして書かれている。

しかし、そういった部分を仮に、仮にである。削除したとしてもこの本は『哲学入門』というタイトルから見れば、入門書としては非常に良く出来ている。
義経と弁慶はどっちが偉い?。裸の王様、吾輩は猫であるは、嘘をついて本当の事を教えている。落語の『一つ目の国』をもとに技術や科学が発達するという事はどういうことか。実に分かりやすく解説している。
弁証法については、ヘーゲルの大論理学からの定義をそのまま引用しながら、『・・・事実を正しくとらえてはいますが、それは一面の真理だけであって、全く反対の、対立した規定で補われてはじめて本当の本当の正しい規定である』、『対立した規定がその統一においてほんとうの真理であり、これが弁証法的な考え方なのです』・・・と、自ら解説しながら、前述の牛若丸と弁慶のエピソードも使って説明しています。
併せてレーニンのノートからも引用をしていますが、レーニンは書籍を持って移動できなかったので、本を読んで学んだことで大事なことはノートに書いて持ち歩きしていたということを最近何かの本で読んだのですが、そのノートのことだと思います。
また、マルクス=エンゲルスのエピソード等も引用しているので、それらから考えても本書は入門書と適していると思います。しかしマルクス主義を一押しし過ぎているように思いますが、その点は少し距離を置いて読むほうがいいのかもしれません。既にソ連は崩壊して、中国もご都合主義に移行し、既に世界的に資本主義は行き詰まって貧富の差が開くばかりの現実問題が大きな問題になってきています。

つまり、そんな時代だから哲学が必要なのだと思います、神がかりでない哲学が・・・。

2019年3月27日水曜日

悪の読書日記 ハイデガー=存在神秘の哲学 古東 哲明(著)

2019年 3月 27日 完全なメモ

人は死を意識して生きると、時間を大切にするようになり幸福度が上がるらしい。時間を大切にすることは、その人の幸福度を上げる作用があるそうである。家族よりも友達よりも、時間を大切にする事が回りの人を大切にする事に繋がっていくのである。よく考えたら当たり前である・・・。



ハイデガーの本を読むにはそれなりの態度と根性(モチベーション)で望まなければいけない。そんな態度も根性も今はなく、そもそもこのブログを始めたきっかけは精神的不安定からの脱却になればと日常を記録しておきたいからであるのに、ハイデガーの『存在と時間』などいきなり読んでブログに纏めることなんど出来る事は不可能である。数年前に偶然購入したハイデガーの哲学について纏められた古東 哲明氏の『ハイデガー=存在神秘の哲学』を前回は何時ものように途中で挫折した為、再度読み直してみた。
結果的に読み終えるに至ったが、難しすぎるのか、精神的不健康だからか、小生の頭が着いてこないのか、理解出来ない部分が大半であった。著者の古東氏は出来るだけ解りやすいように、コトバを丁寧に選んで文章を書いているのが伝わってくる内容であるのは読み出せば直ぐに理解できるにも関わらず難しいのである。ハイデカーの残したコトバを選んでその説明も多岐に渡って載せられているにも関わらずである。
面白く興味深かったのは『世界劇場』。映画マトリックスかよ??と、幼少の頃にテレビとは別の世界をこちらから覗き見できる道具なのかとテレビドラマを見て思っていたこともあり、色々な事を思い浮かべながら読むことができた。
ただ、本というのは書いたこと全てを理解するなんて著者でさえありえない事で数カ所自分が理解できたり、発見出来たりしたらそれでいいのであると常に考える。
もし、この古東氏の書いている内容が殆ど理解できれば、そもそもこの本を読む必要はないのである。世の中に出回っている本の殆どが読んで納得して、あ~良かったというものである。読んで、読んで考え尽くさなければならないのは学生の勉強の問題集、哲学書か仏教の本か禅のなどである。

つまり、哲学について書かれた本なので、誰でもふ~ん、なるほど!!! なんて本は哲学の解説書である。これは解説書ではないのだ。
ハイデガーは、自身の本では書くだけ書いて、あとは読んだ人が考えるのだみたいな問題定義の投げつけスタイルみたいな考えで書いていたそうであるが。古東氏はそんな様にこの本を書いたのでなく、ただ単に自分が理解できないだけのことを勝手にそう考えて読んでいるだけなのだが・・・。
但し、有名な『存在と時間』は未完成なのである。そんなもん売ってもええんか??状態である。

人生100年なんて政府の糞コピーに騙されそうな時代。こんな時代を五十年近く生きてきて、只今迷宮の奥底へ墜ちていく日々、もはやどうすれば良いのか迷宮の奥底で頭を抱えているのが現実だ。時間とは映画のフィルムの様に一瞬、一瞬、一瞬の組合せだそうである。そして死を前提に生きているのであると。このままこの一瞬でありフィルムの1コマを俺は増やして行くことが出来るのだろうか?
決してハイデガーを読んで理解できたとしても救われる事は無いかもしれない、どうやって時間というものを考えて行けば良いのかを真面目に考えるきっかけにしかならないかも知れない。しかし、このハイデガーは簡単と思えるが実は簡単でない事を深く深く掘り下げて考えぬいているような気がしてならない。存在?時間?考える必要があるんか?っていう人も少なくはないと思う。それをあえて考えぬくのはよほど性格が悪いのだろう。
正直、このハイデカーという人が良く解らない。永遠に解らないのかもしれないが、もう少しこの「ハイデガー=存在神秘の哲学」と一緒に付き合ってみたい。そうすれば、なにかどうでもいいことかもしれないが、今以上に時間を大切に行きていける事が出来るのではないだろうか。心理学でも自己啓発でもないいままで知らなかった時間の考え方に。

きっとあるハズである。俺はそこへ行きたいのである。

2019年2月28日木曜日

悪の毒書日記  武器になる哲学 山口 周(著)

2019年 2月 27日
この個人的なブログに出現する哲学入門第2弾である。

この書籍が最も優れている点は、著者の山口氏が書籍の冒頭で説明している
1.時間軸で目次が進んでいない
 冒頭、プラトン、ソクラテス・・・・・最後の方にハンナ・アーレント云々という流れではない、
 人物を中心に進むのではなく、キーワードを軸に進んでいる。

2.個人的な有用性
 著者がコンサルティング業の為、何かとコンサルティング業で使用する場合の話が多い、
 コンサルティング業であるから、言ってしまえばある意味業種は問わないという発想もあり。
3.哲学以外も含まれる
 哲学者の話だけでなく、仏教の僧とかヨセフ・ボイスも登場する。
 キーワードを中心に進むが、そのキーワードに対して一人の哲学者だけを説明せず、
 色々な哲学者の考えやエピソードを含めて説明、解説をしている。

というところである。
また、著者が冒頭で述べている通り、昔々の古代ギリシャの賢者が考えて考えて考えぬいた結論が、当時の科学をベースにしているところがあり、現在科学からみればあまりにもレベルの差が激しく、結論は全く現在では使えないが、思考のプロセスは十分に使えるという点である。


50に至る大量のキーワードを中心に、そのキーワードに関する哲学者を説明し、こういった時に使えますという説明と前述の通り一人の哲学者でなく、それにまつわる方々も併せてエピソードや考え方も説明している。50という大量のキーワードに関しては小生も知らない内容が殆どでまだまだ読みたらぬ、考えが足らぬと自分の知識の少なさの現実を理解するも。
最後の参考文献というか、読むべき本の紹介は、数年前の自己啓発書をブームにして「こんな本読んでいます」「こんな本を読みましょう」というビジネス書作家と出版社の為の自己啓発入門書を一瞬思い出してしまったが、この本で紹介されている哲学書などの参考文献は、紹介している本を簡単に次々と読み続けて読破する事は非常に難しく、もしそんな人が日本に大量に存在すれば、日本はもう少し今よりは正常になると思うのであるが、そうなって欲しく、そうなりたく・・・それが哲学書を読むべき目的であり、過去の賢者達が望んでいたことではないのだろうか?と、著者にうまくしてやられたかと感じた。

前述の出版社の為に本を売るための本でななく、読者の為=世の中の為と考えれば、こういった本が出版されて、本を読んだ人が考えて、考えて、考えて生きれば周り(=世間)も変わるのだろう。但し、諸刃の刃というかコンサルティング業という業種に囚われない世界で使えるということで、ここといった哲学を使う状況のターゲットが絞れていない点があるように思えて、過去に紹介している『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』のピンポイント攻撃の方が哲学入門としてはこの本よりかは敷居は低いが効果としては有効的だと感じた。
また、個人的に残念なのかどうか、著者があまりにも分かりやすく親しみやすく書いた為か、軽い書き方、現在にしか通用しないようなモノが出てきたりと、30年先の人に読まれているのかどうか?と何を犠牲にして、何を優先させたのか・・・これは著者の裁量であったのだろうか?

前回も書いたと思うのだが、記憶は定かでないが、『その悩み、哲学者がすでに答えを出しています』も『武器になる哲学』も、ここから出発でしかないと改めて思うのである。

2019年2月22日金曜日

悪の読書日記 その悩み、哲学者がすでに答えを出しています 小林昌平(著)

2019年 2月 22日
その悩みを解決するために、哲学者は考えこんで考え込んで本を書いたりしたということは無いが、うまく世間の悩みに哲学者の考えを嵌めこんで一冊の本にした著者の知識量と構成力は凄いと思ったら、著者は慶応大学の哲学科卒業だったりする。
それほどの人でないと書けなかったのか、そうでないかはどうでもよく・・・、ちょっと心が病んでいる自分のような人にはいい一冊であった。
世間一般の悩みを、数々の名作を生み出した哲学者の考えを使って悩みの解決策を提示するという内容。
ハイデガーやカント、道元、ショーペンハウアー、ヴィトゲンシュタイン、ヘーゲル…のコトバや思想を、死にたいとか、人間関係や仕事の悩みの解決策を導くという内容。


哲学書でいえば、10段階の『ステップゼロ』で、ステップ1には『1ステップ』足りない。これから哲学書を読みはじめようとしている人とか、小生のようにまた読みなおして学び直す人には起爆剤みたいな本である。残念ながら先日知り合いの方に奨められた、『武器としての哲学』はまだ購入もしていないので比較は出来ないが、読み方によっては『史上最強の哲学入門 飲茶(著)』よりも解りやすく入り込みやすい。