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2019年12月22日日曜日

悪の読書日記 OHANASHIおはなし なかい みさ(著)

2019年 12月 20日
姫路からの帰り、電車の車内で・・・
ふとしたことでSNSで知り合った方のパートナーが作家だったと知る。知り合ったきっかけがきっかけだけにかと思うのだが、奥さんの本の表紙はこんな感じで。
言わずと知れたパンクバンド、セックスピストルズの「勝手にしやがれ」アルバムジャケットのパロディーである。



揺れる電車で、一気に読みだした・・・そして一気に読み終えた。

短編小説であった、表紙が表紙だけにと考えてみたが・・・6つの小説でパンクが出てくる話はない。
今の自分にとってはちょっと痛い話と感じる「スナックかいわれ」と「消灯」、「ねんねこしゃっしゃりまっせ」・・・、
そして全く異質の「うちゅう人」「西日本座敷童子協会」などの計6編。

う〜ん、日常なのである。異質の「うちゅう人」「西日本座敷童子協会」以外は。
「スナックかいわれ」「消灯」「ねんねこ・・・」など、それは日常なのである。おそらく、著者が経験や体験してきたことや、ふと偶然知り得たことなどがベースかヒントで書かれていると想像するのであるが、書かれたストーリー、それは日常なのであり。もの凄い大展開や、最後の最後にバババーン!!ってことは無く。再び少し違った日常が始まるという感じなのである。
パンク作家と言われる町田康や、ブランク・ジェネレーションのリチャード・ヘルの書くストーリーの様に無茶苦茶な世界でもなく、無茶苦茶な終わり方などはない。表紙のイメージから読み始めると、ちょっと足をすくわれる。

ちょっとばかり暗い空の下での話、夜の世界の話、ちょっと小生には経験やあまり考えたことのない世界。こんな世界のあるのであると。


しかし、前述に異質と書いた「西日本座敷童子協会」は個人的に非常に興味深い。各地の座敷童子がSNSで近況を報告しお互い励ましあうという話。話というかSNSのやりとりである。これも「日常」なのであるが、アイデア、書き方など気に入った!!何十年か後にはSNSって何?っていう時代になると思うのだが、そんな事は関係なく「西日本座敷童子協会」はコトバとしてストーリーとして、日常の一部として本の中で残り続けるのである。

唯一、この話は俺にはパンクである。


どういう経緯で著者がこの本を出版したのか?編集者がどうやってこの本の出版を考えたのかは全く知らないし、著者ご本人んとも会ったこともないので解らないのだが、次作に期待したいと思う。


2019年11月28日木曜日

悪の読書日記 卍ともえ 野坂昭如(著)

2019年   11月   27日

何十年か前に読んだ野坂昭如の『エロ事氏たち』を読んだあとの感覚を思い出した。何十年か前のあの感覚である。
『無茶苦茶な話やんけ…』
そろ以外なはない。野坂昭如の小説はこれが生涯二冊目。『火垂るの墓』さえ原作を読んだことさえない。



簡単に言えば『エロ事氏たち』が江戸時代へタイムワープして大阪は天満を舞台にお化け話とエロ話が合体したという無茶苦茶な話。
骨、墓荒らし、死体愛好家、近親相姦、マゾ婆…何やねんこれは?
結局、関係ない方々が可哀想に殺されてく話やんけ!と、カルト小説だな、これは。
よくこんなストーリーを思い付いたものだと、何度読みながら感心したが、その都度脳裏には酔っぱらってる野坂昭如か大島渚を襲撃する野坂昭如の姿しか浮かばない。

読んでいて疲れてくる野坂昭如の文章は古文ちっくに書かれているから、これまた苦痛極まりなく、いったいこの荒唐無稽なアホ小説はどの様に結びに向かって行くのか、途中何度か挫折しかけるも、本来なら読み始めた本がつまらなくなったら直ぐに読むのを辞めて次の本を読めばいいというセオリーを無視して最後まで読み通したが、ブログのタイトル通りのリアルな悪の読書であった。

昭和という時代の小説であり、講談社文庫の昔々版(昭和50年初版本)で買った為か、今では使わないというか、使えないコトバが見受けられる。これに関しては野坂昭如が生前、朝まで生テレビで発言していた如く。面白い、素晴らしい落語が出来なくなったと、コトバ狩り(なんでもかんでも差別用語と決めつけて使用させない)を批判していたのを思い出させた。
最近、出版関係の方と話をした際、キチガイというコトバはいつの間にか差別用語にされてしまったが、語源はそうでないことを教えて頂いた。
時代は結局、説明したくないことを単に蓋だけをして何も解決策を思考せずここまできて、その処理に困り果てて結局は日本の得意である「無かったこと」にしているだけなのだろう。
野坂昭如氏の随筆を読むとその点も含み激しく現政権を激しく批判をしている。


著者は晩年テレビで酔っぱらってるオッサンでしか無かったが、『エロ事氏たち』、『火垂るの墓』と、この真面目過ぎる話から荒唐無稽なアホ小説といつもテレビでは酔っぱらっていたこの振り幅の広いイメージ全てが野坂昭如だったのだろう。

この小説は野坂昭如の代表作では無かったが、野坂昭如の才能を超変化球で見せ付けられた作品であった。当時は書き下ろしでなく、某スポーツ新聞に連載されていた作品らしい。それも時代を感じるが、やはりドラッグはやらないけど日本のウィリアム  バロウズなんだろうと、『火垂るの墓』以外の野坂昭如の本を読みたいと思う。




2019年10月31日木曜日

悪の読書日記 頭の中がカユいんだ  中島らも(著)

2019年 10月 31日

小生の二十歳そこそこまでを形成していた細胞は間違いなく上岡龍太郎氏、笑福亭鶴光氏、そして今は亡き遠藤ミチロウ=スターリンと、中島らもだった。
先日、落語会/読書会の帰り、笑福亭智丸さんと電車のなかでふとした事から、中島らもの話になった(ちなみに智丸さんは、らもさんの大学の後輩にあたる)。智丸さんは中島らもの『頭の中がカユいんだ 』が好きらしい。遥か〜昔、『頭の中がカユいんだ 』は読んだと記憶するのだが、らもさんの本は殆ど手放してしまった記憶があり、一部の本は今になって買い直したりしている。『頭の中がカユいんだ 』どんな内容だったかは全く覚えていないに等しい。文庫化されて現在は外国人女性の表紙は知っているくらいのレベルである。



それは高校二年か三年の頃であった、当時関西ではFM大阪で『中島らもの月光通信』という番組が放送されていた。無茶苦茶なラジオドラマちっくな爆笑コントとその間にパンク系の音楽、そしてスタックオリエンテーション(現在のスマッシュ・ウエスト)の南部氏と、とんでもないゲストのコーナーなどと・・・今考えたら無茶苦茶な内容だった。途中でアル中で病院に入院させられた中島らもに替わって、漫画家ひさうちみちおさんが何週かに渡り司会をしている時があったが、そんな時のとんでもないゲストが戸川純(ヤプーズ)だった。
この放送を熱狂的に聴いていた、当時はテレビよりラジオの方が面白かった。上岡龍太郎氏は晩年テレビ(関東圏)に良く出ていたが、天才上岡龍太郎の本当の面白さはラジオであったと思う。上岡氏が当時ラジオで語った内容は今でも小生の生きる指針となっている(民主主義とは何か?、三島由紀夫と石原慎太郎の違い、プロ野球とは?…など)。
そしてまた、当時読み漁った中島らものエッセイなども今の自分の生きる指針となているのも事実である。

『頭の中がカユいんだ 』のオリジナル版はどんなんだったのか?ネットのオークションやメルカリで検索してからやっと思い出した。当時、大阪書籍から発行されていたのである。東京方面の方は解らないかも知れないが、大阪書籍という出版社は教科書を発行している出版社なのである。その出版社が結果的にはジャンキーの書いた本を出版していたのであるという有害図書から教科書までのなんでも来いの出版社である。
既にオリジナル版は高価な値段がついて買う気はしないが、表紙を見て思い出した・・・・そうだ、こんな表紙だった。当時ラジオ番組でよく、大阪書籍が教科書の出版社のくせに、なんでか中島らもの本を出版したと話題になっていた。
当時は多分深く考えて居なかったのだが、この『頭の中がカユいんだ 』は中島らもの身の回りでの事実をベースに書いた本だということである。

ヤフオクから拝借


とりあえず再読したくなった小生は文庫版の『頭の中がカユいんだ 』を購入して、おそらく30年ぶりに読み返した。すると過去の記憶が断片的に蘇る。山口富士夫さんのエピソード、朝日新聞の社員の名刺を持っていたらタクシーに現金を持っていなくても乗れる話。天王寺野外音楽堂で小生が音楽を始めるきっかけとなったリザードを観にいったという話、印刷屋を退職するとき一緒に退職する先輩と勝手に好きな名刺を作って印刷して退職したという話、ダイビングしていて海上に浮上したら陸地が見えなかったこと・・・・など。
どうやらそれらの僕の記憶の断片の原本はこの本の内容だったらしい。
十年くらい前から、中島らもさんの奥さんや、鮫肌文殊が書いたらもさんについての思い出の本を読んでいたので、色々な話や中島らもという人間が本の内容と結びつき、30年前に読んだ時とは全く違う感覚に陥っているのだと自覚する。前述したが、これは事実をベースに書いた本なのだ、多分最初に読んだときは適当な事を言って、本当はつくり話で実話を大きく盛ったのだろうなんて思っていたに違いない。しかし、違っていた。
前述のらも夫人や鮫肌文殊の本などから考えても、この『頭の中がカユいんだ 』が事実であり、たいして脚色していないし、話を大きく変えてもいない。その後の中島らもさんのエッセイなどから想像しても『頭の中がカユいんだ 』は明らかに実話である。

当時、中島らもさんはこの本を数日で書き上げたらしい・・・
今となってはどういう意図でこの本が教科書の大阪書籍から出版されるに至ったのかなどはよくわからない。らもさんもどういう事でこの本を書き始めたのだろう?広告屋なのにどうしてFM大阪でラジオ番組をやっていたのだろう?その頃はまだ「中島らも事務所」じゃなかったし・・・
この時、売れっ子作家になる自分を想像していたのだろうか? そして作家を辞めて本当にやりたかった音楽をやる事も想像していたのだろうか?
鬱病になること、逮捕されること・・・・想像していただろうか?
(「なげやり倶楽部」というテレビのバラエティ番組の司会もしていて、レギュラー出演者がダウンタウンで電柱の被り物で出演していた。)

全く関係ないが先日、クリエイターの高城剛のメールマガジンのQ&Aのコーナーで高城氏がこんな回答をしていた・・・
【 Q 】・・・高城さんが私のような境遇であれば、何を生活の糧とし生計をたてて生きていくか、お考えいただけますと幸いです。
【 A 】彼女は、やっと地方に派遣の仕事を見つけましたが、母親が若くして急死。恋人とも別れ、結局仕事もクビ。
次に付き合った男性の子供を宿しますが、流産してしまいます。
そんな中、カフェでひたすら自分と向き合い、一冊の本を書きました。
タイトルは、「ハリーポッター」。その彼女の名は、J・K(ジョアン)ローリング。
のちに年収数百億円を生み出す小説は、ボロボロのノートに書き留められた短いメモからはじまります。
貴君が、いかなる境遇なのか、深く知るところではありませんが、僕なら、本を書きます。
いきなり書くことなんてできなくとも、日々少しづつ。
そっと未来の重い扉を開くように。
(高城未来研究所「Future Report」Vol.434より抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
残念だが、らもさんの扉は既に開くことは無いが、10代の終わりに感じた事はいまでも、これからもその感覚や感情は消えることは無いだろう。
次は僕の重い扉をゆっくりと開きたい。
そこに何が居るのかはわからないど・・・・。

2019年10月22日火曜日

悪の読書日記 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上春樹(著)

2019年 10月 22日

今日は国民の祝日である。右も左も関係ない自称「なんちゃってアナーキスト」において、単に休日なのである。
先日10月18日に開催された読書会の課題図書である村上春樹(著)「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」に関しての小生の読書会用のメモを纏めてブログにあげてみた。また読書会の中でのあれこれ持論云々や他社批判も纏めてメモとしてブログにあげてみた。
(ランダムにアップしてあるだけである)




ーーーーーー
村上春樹氏・・・について

実は村上春樹氏の本を読むのは初めて。正直興味が無いのである・・・80年代村上龍と村上春樹と、どちらかといえば当時は村上龍の方が好きだった、簡単に言えば村上龍はいい意味での暴力的なロック、村上春樹はお子様ランチ的なロックってイメージだったが。結果的にその通りではないか、村上龍はジャンキーバンドのローリングストーンズが似合う感じがする、村上春樹は万人にウケるビートルズだ。
小生、ビートルズは嫌いだ!!

読書会で知った事だが、世の中には熱狂的な村上春樹ファンの方がいるようだった。読書会ではアホみたいに現在の世界の大衆メディア(ハリウッド映画や漫画)などに村上春樹が影響を与えている・・・という意見は笑えたが、ハリウッド映画に影響を強く与えているのは村上春樹でなく士郎政宗など日本の漫画である。そしてハリウッドのSF映画のベースはなんと言ってもP.K.ディックである。ディックとマーベルコミックなしにあらず。

村上春樹氏が80年代半ばに「啓蒙かまぼこ新聞/中島らも(著)」の「あとがき」を書いていることさえ知らず、マニアとは言えず脇が甘い。
その「あとがき」は笑えるくらい面白い内容なのである。そしてそこに今から世界旅行へ言ってくると書かれているのだが、どうやら読書会の色々な方の意見や話から時期的に言えば日本から脱出して次作「ノルウェーの森」を執筆するための旅行だったようである。


★★★★★★★★

個人的感想:世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド・・・メモ

・これはP.K.ディックの小説と言ってもいいだろう・・・ニューヨークの街でおこる話にすれば、明らかにディックの小説になる。しかし、小生が読んでいるのはディックの原文でなく日本語訳なのでそのへんの細い描写は双方難しい関係であるが、話の内容は明らかにディックである。と、間違ってもJ.G.バラードの小説ではない。不条理、不正義の世界をそのまま押し通すストーリ展開のあのバラードの小説ではないと思いながら読んでいたら一行だけバラードについて書いてあった。
・登場人物は固有名詞が一切出てこない。日本人で出てきた固有名詞は近藤正彦と松田聖子である。最初は時代を感じさせない為にあえて時代を感じさせないように書いているのかと思っていたが。全くそうでなく、ドアーズが解散してから十数年とか、松田聖子云々など80年代半ばが舞台だとハッキリ解ってしまう、これは意図的なのか?(海外翻訳版はSEIKO MATSUDAなのか?:英語なら)
・意識の中で生きていく?それ、サイバーパンクやろ?ウィリアム・ギブソンの小説みたいやんけ・・・としかし「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」も80年代半ば時同じ時期に発表されているので、サーバーパンクは関係なし。ウィリアム・ギブソンがテレビ番組Xファイルの為に書いたストーリは、システムのなかことサイバー空間に意識を逃がす奴らの話だった。
・世界の終わりにでてくる図書館の女の子・・・記憶の母親が奏でるメロディーと主人公の男が現実世界で聴く音楽のメロディー・・・「ドアーズ」の「the END」ではないのね。この歌詞の方が重いし内容にあっている気もするんだが。でもこれ使ったら、映画「地獄の黙示録」のラストになってしまう。
・2つの世界(ストーリー)が同時に進む、やり方というか書き方としては斬新かと言えばそんな感じはしない。むしろバロウズ(ジャンキーのほう)が言っているように、文学の世界は映画や音楽に比べて何十年も遅れている。それはいまだに変わらない。かと言ってバロウズの手法カットアップは斬新過ぎる(今でも)。
・絶望的なラストで終わる。男は死に、女はいつもの日常に戻り、博士は悪気もないかの如く海外へ・・・結局主人公の男だけが死んで終わる。「ええっ?」って感じだが、芸術的な話(結末)である。南河内万歳一座の座長内藤氏が、ハッピーエンドで終わるのでなく、「ええっ?なんでこう終わるの?と問題提議して終わる」というギリシャ人の哲学家の芸術理論があると昔ラジオで言っていた、この理論はその後の小生の人生を大きく変えた。実際に南河内万歳一座のストーリーはハッピーエンドというよりかは・・・である。まさしくこの小説は前述の理論に近い。
・ハードボイルドの世界、幻想(意識)の世界・・・、ハードボイルの世界が(主)で、幻想(意識)の世界が(副)である。これが逆転したらどうであろう?
・ウィキペディアでちょっと調べたら、この小説を読んで人生観が変わったとかいう作家さんがいるとか。「お前、もの知らんのか?」と言いたくなる。


★★★★★★★★

読書会:世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド・・・メモ

・カフカ⇒安倍公房⇒村上春樹の流れ・・・南河内万歳一座の内藤氏も安倍公房をよく読んでいたらしい。明らかに安倍公房の影響を強く受けている。
・80年代のバブル経済の感覚が残っている。そういった感覚は小生にないが、80年代に既に社会人だった方やリアルタイムに本書を読んだ方はそう感じるのかもしれない。
・必要のない部分が多い。確かに、バラードに関する記述などは不要としか言えない。それが著者の魅力ではないのか?他の小説は解らんが。
・幻想(意識)の話は著者の初期短編がベースになっているらしいが、その小説は本として出版はされていない、月刊誌に掲載されてそれ以降は陽の目をみていないそうである。ミュージシャンで初期作品は気に入らないから販売差止めしたり自分で買い占めたりする人に近いな。
・村上春樹の小説には共通して出てくるコトバやセリフがあるらしい。残念なことに村上春樹氏の小説はこれ以上読まないので小生には関係ない・・・。次作の「ノルウェーの森」についてもどうでもいい、ビートルズ、ジョン・レノン云々などは糞食らえである。
・主人公の頭の中の回路図、よくわからない。小生も読みながら先を急いだ為、深く考えずに飛ばしたが、それはそれで問題が無いようにストーリーはできている。
・結局、地底人「やみくろ」はなんやったのか?そういった結論はでていない。むしろ主人公が所属する組織云々の話などはそのままで終わっている。
・村上春樹の小説は映画よりも進んいる、かといえば決してそうではないだろう。比較すること自体が間違いかも知れないが。この作品の映画化なんてのは2〜3時間でまとまる話ではない。このストーリーをベースに違った話し(テーマをすり替えたるするような)でいくという手法や、SWの様な三部作にぶち切りそれぞれに起床完結を付ける話にするしかないのでは?映画化しないのは作者が映画化を許可しないのか?だれも作りたがらないのかは不明。
・これは作者の自叙伝なのか?

★★★★★★★★

久しぶりにかなり長いといえる長編小説(上下二巻)を読んだが、確かにこの小説は凄い。前述の通りの芸術作品で、三島作品のように読者を裏切って終わる作品では無かった。よくこんな作品が書けたものだ。しかし、明らかに安倍公房の影響は強いと思う。

俺の読書人生で最初で最後の村上春樹氏の小説である。
最高の小説さえ読めばそれいいのだ・・・

2019年9月16日月曜日

悪の読書日記 ワーカーズ・ダイジェスト 津村記久子(著)

2019年 9月 15日

今週はハッキリ言って働き過ぎなのである。先週は土曜日が出勤日で、翌日の日曜日も出勤して、今週は土曜日曜と出勤したので、どう考えても働き過ぎなのである。連続何日か?カウントするのもアホらしいというか、少々精神的に壊れてきているのでヤバイと思われているのかもしれない。仕事は好きか嫌いか?昔は嫌いだったが、いまは少し違うような気がする。というより、昔は勤務先の会社が嫌いで仕事は好きだった?いや反対か?そうでもないか?・・・働くことは嫌いじゃない。勤務先の会社もブラック企業じゃないから、休日に働いた分は休暇を頂くなり対応してもらってる。


『ワーカーズダイジェスト』を読まなければいけない(must状態)事に気がついたのは、今週の日曜か月曜であった。水曜日には噺家某SC氏が主催の恒例の読書会で、今回の課題本は『ワーカーズダイジェスト』なのである。噺家某SC氏の放った刺客がこの本なのである。水曜日は落語会と読書会・・・時間はあんまりなかった。


急いで読み始めたワーカーズダイジェスト。作者も初めてきく作者「津村記久子」さんで、どんな作家の方なのか、どんな本かも殆ど解らず。友人からはいい本で、友人は著者の大ファンだとか・・・それくらいしかこの本については知らず。
読み始めるとどうやらこれは大阪が舞台の話しではないか。同じ姓「佐藤」さん男女が仕事で大阪は梅田のホテルグランヴィアのロビーで待ち合わせて、向かって左の喫茶店で打ち合わせをする。コーヒーは高めだと。
実はその前の水曜日、とある会社の人から呼び出され、初めて合う方と同じホテルグランヴィアのロビーの前で待ち合わせ、そして左に曲がって喫茶店で打ち合わせをした。全く同じだ・・・違うのはこっちは男と男(俺)であるくらいか。

佐藤さん達は別々の職場で仕事をしていて、ホテルグランヴィアで初めて出会ってすぐに「おつかれさま〜って」別れて直後に地下のカレーのサンマルコで偶然合ったが。その後も二人が出くわすことはなく、この話は淡々と進んでいく・・・恋愛小説かと思ったが、二人がそのあとラーメン屋で偶然に合ったとかというエピソードはなく、並行した話が本当に淡々と進んでいくのである。たまたま男性の佐藤さんが女性の佐藤さんが文章を書いている本を見つけるが、佐藤さんに連絡を取ろうとかすることはぜす、そのまま話はまたしても淡々と進んでいく。

しかもやけに細いことばかり書いているのだ。
女性の佐藤さんはバズコックなんて聴いている・・・、嘘言うな、バズコックなんて誰が聴くんねん??!! バズコックなんて、Xレイスペックを聴いてる奴より少ないで!スミスかモリッシーくらいにしとけば良かったんや!!
男性の佐藤さんはモンティ・パイソンのDVDを持っている・・・、嘘言うな、日本のバラエティ番組が好きなやつはモンティ・パイソンなんて観ねーよ!!未来世紀ブラジルのDVDか12モンキーズにしとけば良かったんや!!
と、俺は変態だから「リアル感がない!」と一人突っ込みを入れながら読む。
話は描写が細い割に全体のスピードがやたら早い。男性佐藤さんの施工しているマンションは知らん間に完成しているし、気がつけばまた正月だったりと細い設定云々の描写とこの全体のスピード感のギャップが面白いというか気になる。前述の突っ込みの部分を差し引いてもこの感覚が面白いのだ。土地勘があるのでそれも幸いにして面白さがアップしているのだろうと思うのだが、何時になったらこの二人は再び出会うのか?と。
この本の大阪の地名などはトゲトゲしくも大阪です!!って感じが全く無いので東京の人でも、大阪の土地勘が無い人でも殆ど問題ないと思う。知らないより知っている方が面白いのは当たり前である。

ところでこの小説に出てくる『スパカツ』って本当にあるのだろうか、あればどこで食べれれるのだ?読書会に集まった十数人も噺家某SC氏も誰もネットで調べて来なかった・・・本当にあるのかどうか?誰も知らなかった、このインターネット全盛時代に。そして小生もまだ調べてない。

昔みた、香港のウォン・カーウェイ監督の映画に、こんな映画は無かったかな?2つの並行した話が淡々と進んでいく映画、タランティーノの初期作品なんてこんな感じだった、時間軸が無茶苦茶にしていて面白かったのを思い出す。
なんか、そんな映画を観ている感じが・・・香港では無いが、大阪の街で決して若いとは言えない男女の話が並行して最後まで進んでいく。
今、再度よく考えて解ったのだが、タイトルの通りワーカーズダイジェスト。仕事のこと、人間関係・・・どこの職場でもこんな事があるっていうのがダイジェスト。ものすごい時間の速い感覚の中でポンポンと出てくる。それが男性の佐藤さん、女性の佐藤さんの目で。
『仕事してますねん!!』と。だから恋愛よりも仕事の話が優先で、恋愛は脇役にしか過ぎないのかもしれない。

そして最後に二人は公演で偶然出くわす。再会するのである・・・

これからどうなったかって?
終わり方が花登筺脚本のドラマの終わり方みたいやんけ、大阪を舞台にした小説やからこうなるんか?

俺は来週も働く、バズコックは聴かないが、スリッツやXレイ・スペックは大好きである。


噺家某SC氏こと笑福亭智丸氏



2019年8月3日土曜日

悪の読書日記 映画ブレードランナー ウィリアム・S. バロウズ(著) 

2019年 8月 3日

久しぶりに悪夢のような本である。良い意味で・・・ 
先日友人がSNSにてP.K.ディックの「電気羊はアンドロイドの夢を見るか?」とリドリー・スコット監督の映画「ブレード・ランナー」について書いていたので、この本を思い出して急遽天井裏のダンボールから本書バロウズの『映画ブレードランナー』を救出して読み始めた。だが本書は全くと言っていいくらいリドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」やディックの「電気羊は・・・」と全く関係ない。簡単にいえば、三菱系財閥グループと三菱鉛筆くらいの関係なのである。
タイトルに『映画』が付くのは、映画の原作なんかでもなく(前述のとおり)、小説なんだが映画みたいな小説というか、映画や音楽よりも文学は何十年も遅れていると発言していたバロウズの手法の一つの手法で書かれている(手法でもないが)。

著者自ら表紙に登場することは珍しいだろう。

昔々のこの本が発売された1990年に読んだ後、1回くらい読みなおしている記憶はあるが、多分20年以上は読んでいなかったはず。その20年の間に色々なバロウズの本を読んだのであるが、基本的にバロウズの長編は一冊まるまる読み返すことはまず無い。理由は簡単、非常に疲れるからである・・・極めて偶に”ほい”と一冊段ボール箱から手にとって数ページ読んでみたりするが、それで数ページ読めば十分なのである。長編を一冊読んでも全体を把握する事は相当難しく、最初から読んでも途中の部分を多少読んでもあまり変わらないのかもしれない。ストーリーはあるけど、ないんかもしれず。適当に読んでも良いのである。読んでいると別の本に書かれていた用語や登場人物が突然現れてくることも少なくなく、バロウズを楽しむには、質より量なのだと思う。
20年後位(70歳になったら)、再び読み直す時間があればと思い、古本屋に捨てずにおいてある。生きていたらの話しである・・・・、生きていたら。

今から30年くらい前に買った本だった。

『映画ブレードランナー』は一冊の本であるが、長編でなく・・・正直、短編小説を抜き出して一冊の本にしたような感じだが、短篇集には入れたくないという著者の想いがあったのか否、一冊として成り立つと考えたのかもしれず。それだったら三島由紀夫の短編小説のほとんどが一冊の本でも成り立つから大変な事になるなあああああと。

最初に読んだ時は、アメリカの健康保険制度もよく知らなかったし、製薬会社ってそんなに悪どいという事も知らなかったので、いま読むとなんだか昔読んだ薄っすらとした記憶以外の感情が湧き出てくる。
なんか読んでてゾクゾクと変な気になる、やはり疲れてるのか俺は?と思いながら読み進める。
しかも、なんかいま読んでいてリアル感があったりするんだが、現実はニューヨークで過去にとてつもない大規模な暴動は無かったし、いまも地下鉄も普通に運行している。リアル感はやはり人種差別や移民、製薬会社のやり方とかになるんだろう。バロウズが時代を先読みしてたのではなく、単に昔からアメリカが抱えていた問題なんだろうと思う。
つまり何十年経っても変わらないアメリカなんだ。どこかと同じ。むしろ悪化している、お互い。



多分、最初に読んだバロウズがこの本だったと思う。この次が『ワイルド・ボーイズ』を読んだんだったと記憶する。1990年代初頭、バロウズはまだ生きていたし、『ドラッグストアー・カウボーイ』なんていう薬屋を襲撃するジャンキーの若者を描いた映画にも出演していたりもした。
ある日、ネットを起動したらバロウズが死んだというニュースがやってきたのも覚えている。いま正確にいつバロウズが逝ってしまったのか記憶にないが…
この本が最初のバロウズで良かったと今になって想う。前述の通り短編みたいな小説であり、内容も解りやすい…解りにくいのが楽しいなら別だが、解りにくいのが最初の一冊としたらNGだろう。バロウズの解りにくいのが楽しいと思うひとは明らかにバロウズ・ジャンキーの人だ。
最初が肝心なのである。

前述の三島由紀夫氏がかつて、私をよく知らない方で、長編小説を読む時間のない人はまず短編の『憂国』を読んで欲しい…と言っていた。これが本人のいう三島テイストが満載しているそうである。
もし、バロウズを初めて読む人は『映画ブレードランナー』を個人的にはオススメする。
これでウィリアム.S.バロウズを挫折した人は、ウィリアム.S.バロウズを読まずに、別のもう一人のバロウズを読まれるといいだろう。

次にこの本を読むのは20年後なんだろうな。

2019年5月5日日曜日

悪の読書日記 地図にない町 フィリップ.K.ディック(著)

2019年 5月 5日

P.K.ディックの小説、短編小説を読むのは久しぶりである。数ヶ月前に「高い城の男」という長編小説を読んで以来のP.K.ディックの作品であるが短編はいつ読んだのか記憶がない。所有するディックの短編小説は多分、アーノルド・シュワレツネッガーが出演した鬼才バンホーベン監督の「トータルルコール」が公開された前後に買った短篇集ではなかろうか(しかし、表紙はHRギーガのなんでか角川文庫のハズ)。ディックといえば前述の通りハリウッド製作のSF映画の原作にされる作品が数多く、もし生きていたら大金持ちになっていたのだろうと思う日々で、多分ハリウッドなんどは原作に困ったらP.K.ディックを読め!みたいね風潮や傾向があるのだろうと勝手に想像している。なんせ読むきっかけが.AMZONビデオで配信しているP.K.ディック原作の映像ストーリー「エレクトリック・ドリーム(1話完結全11話)」を観てからである。おそらくAMZONはこれを観たからと言ってディックの作品がバカ売れして、アマゾンの売上に貢献するなんてなことは全くといって考えていないはずだ。もしこんな事を考える発想があるのは日本企業くらいだろう・・・。
前述の「高い城の男」はAMZON・プライムビデオで映像化(連続ドラマ化)されている。



今回読んだ『地図にない町』は日本語版で発行されたのが昭和51年、今回購入したのは昭和62年の10刷版であり、平成とかいう時代のさらに前である。おそろく過去に相当売れた本であると思える。SFファンだけでなく、映画「ブレードランナー」の原作者の短篇集というふれこみで当時早川書房が宣伝活動をしたかもしれない。兎に角、当時はP.K.ディックの短篇集や長編が早川書房から相当発売されている。確かにSF小説の老舗といえば早川書房であるのは間違いのない事実である。

前述のAMZONビデオの「地図にない町」などを観て、再びP.K.ディックの本を読みたくなり古本で探した短篇集が本書である、タイトルの「地図にない町」以外に「エレクトリック・ドリーム」で観た「ありえざる星」が収録されている事で、1冊で2本の原作が読めるというお得感だけで本書を選んだわけである。はっきり言えば、読みたかった2本の短編以外に、流石のP.K.ディック、あと50年分のハリウッドのSF映画の原作があるのでは?と思うくらいまだまだ映像化P.K.されていない作品があると感心し、短篇集「地図になち町」は充実した一冊である。

書かれた頃の時代背景もあり、やはりP.K.ディックの作品はアメリカとソ連が核戦争した後の設定などが多いのは事実だ。本短篇集に収録された「クッキーおばさん」の様な怪談ちっくな話もこんな話も作ってしまうのかと感動。「おもちゃの戦争」は多分、日本の某有名な漫画の中で使われた元ネタであると想像できる。「森の中の笛吹」は実に個人的に興味深く、落語にアレンジ出来るような感じがするのだが、落語にしては面白い笑える部分が無い・・・と言えるか。などと想像力を掻き立てられる。

P.K.ディックの小説にアメリカとソ連の核戦争後の設定が多い理由はよくわからないし、P.K.ディックが平和主義者だったのかどうかもよくわからない。亡くなられたのは1980年代初頭、まだアメリカもソ連もピリピリしていた時代。ただ知っていいるのはP.K.ディックがドラック・ジャンキーだったこと、特に昔々に読んだ長編「ヴァリス」にはその影響が強くでている。

これ以上P.K.ディックの小説を読んで、読み直してディックの世界を深めたいのであるが、部屋の積毒(読)を解消しなければならない事を忘れてはいけない。こっちは読書ジャンキーなのである。

2019年3月3日日曜日

悪の毒書日記 GO NOW Richard hell(著) 滝沢 千陽(訳)

2019年 3月 3日

ひな祭りである・・・こんな日にこんな本、小説である。『GO NOW』 、ニューヨークのパンク・・・本物のパンク、Richard  Hellの自叙伝的なフィクション小説である。ふとしたことで、SNSで知り合いのデザイナーさんが、インスタグラムでRichard  HellのTシャツを着ていたのがきっかけである。「Richard  Hellですやん」とコメントを入れたら、「そうですよ! 東ちづるもすきなRichard  Hellです」という返事がかえってきた、これにはぶったまげた。まず第一に因島で「Richard  Hell」をどうやって知るのか?昔々は大阪ローカルのバラエティ番組に出まくっていた東ちづるが何故パンクのRichard  Hellが好きなのか?
そんな事を考えるより、昔々挫折した「R.I.P.」という、ROIRから発売されたレアテイクを集めたのアルバムを再度買って聴いてみることに。よく小生はSNSにて、昔は聴けなかったけど、いまなら素直に聴けることがあるなどと述べているが、まさしてもこのRichard  Hellはそうであった。


前述の「R.I.P.」というアルバムは、二枚組になって『TIME』というアルバムで販売されている(既に廃盤)。ふと、これを買い求めそして、Richard  Hellは何をしているのだ?とアマゾンで検索すると『GO NOW』という小説を書いているではないか。しかもかなり以前に日本語になって発売されている。アマゾンのレビューによると自叙伝的小説でロード小説みたいなと・・・・
というわけで、早速購入して読んでみた。


ロード小説というと、ケルアックの『路上』を思い出す。この小説にはバロウズやギンズバーグが出てくるのだが、やはりこのての小説は『ドラッグ』というキーワードが重要なのだろうか?と感じるが、それは勝手な解釈、固定概念じゃないの?と言われそうだが、事実なのである。アメリカの西から東を車で走り抜けて、そこに「悪」のエピソードや材料が無ければ何があるのだ?!!
しかし、はっきり言って犯罪であり、カラダにも周囲の人々にも良くないのは事実である。

ここでこんな一節が小説にある
『ヘロインに溺れるのは一種の通過儀式だと俺は考えていた。砂漠て過ごすとか戦争に行くと言った類の経験さ。で、俺が何を学んだかって?
自分がしたことはすべて自分に返ってくる、誰も責められないということだ。俺は自分を擁護するためにこの世を罵ることなどしない。』
主人公ビリーのコトバだが、明らかにRichard  Hellのコトバである。
結局はそれを選択した自分自身に不合理な責任はある、世間にあーだこうだ言うのはちょっと違う。それを解ってドラッグをやっていたと。

ストリーは架空の「旅」の話で、セックスとドラッグの話に尽きるのだが、時折マルキ・ド・サドの小説の如く、主人公の発言が著者の発言を代弁していて、前述のようなコトバや、ジャンキーのくせに詩人ボードレールや翻訳について語り、それだけでなく古書や活字にまで語るのである。元々Richard  Hellは詩人になることを夢みてニューヨークにやってきた人なので、それを知っている人から見ればある程度納得の話だが、全くしらない人が読むと多少戸惑うのでは無いだろうか?
しかし、このギャップがRichard  Hellの魅力なのである。ジャンキーのくせに詩人で古書を集め、貪りつくように本を読む。

この小説は自分からみると、ケルアック+マルキ・ド・サドにヘルのテイストを混ぜあわせた小説ってな感じがする。そして最後、マルキ・ド・サドの小説に近いような展開で話は終息へ一気に向かっていくのである。こんな展開なのか?と思ってしまう、架空の小説でよかった、これが本当に自叙伝だったらえらい事である。

ドラックに溺れる著者、実際には溺れていた著者であるが、
『要するに俺はヘロインで暇つぶしをするという贅沢に人生を費やしてきただけなんだ。そういう「健全な恐怖心」を排除するのがヘロインの力だ。なんだか裏切られたような気がした。ヘロインはフィルム・ノワールに登場する宿命の女のように運命を狂わせ、破壊へと導く、到底俺が太刀打ちできる相手じゃなかったんだ』とヘロインの禁断症状のなかでこう感じる部分がある。
そして訳者のあとがきのなかでRichard  Hell本人から翻訳するにあたり、『ヘロイン中毒をいたずらに魅惑的、ロマンチックに描かないことであり、同時に中毒者を犯罪者として断罪したり人間以下のクズのようにも扱わずヘロイン中毒者の運命として受け止めたうえで、それによってその人間の全てが決定づけられはしない状況を描きたかった』とメールを貰ったそうである。

Richard  Hell本人が処女作の中で書きたかったことは、架空の小説で自分の過去を罰したり、ドラッグの服用禁止を訴えたり、周りを罰したりするのではなく…それを選択したのは自分自身であり。誤りだと気づけばやり直せばいいだろう…と言ってるように想う。

なんだか読んでいるうちに最近悩みっぱなしの自分自身から、主人公ビリー=Richard Hellのコトバといまの自分が重なる部分があるように思われてきた。小生はジャンキーでなく対象的なストレート・エッジなのだが。パンクだから読むべきとか、そういった本ではなく少しでもRichard Hellを知ってるなら読んでみて欲しい。


もし本書を読まれるなら、一気に読むことを推奨致します。

2019年1月31日木曜日

悪の毒書日記 コンビニ人間 村田 沙耶香(著)

2019年  1月 31日

日常のコンビニ
  バイトの人が実は気になる。どうしてこのバイトをしているのか?実はいつも気になっている。

 ・バイト研修中人、初心者マークの店員
 ・美しい人妻のコンビニ店員
 ・ほぼ毎日来ているのに、同じ事を毎回たずねる店員
 ・明らかに接客に手を抜いている二十歳そこそこの店員
 ・都心に行けば行くほど店員はアジア人のバイトへになり
 ・店員に訳の解らん事を話しかける同僚、真面目に笑顔で接客にする店員

店員に話をこちらからしたことは無いが、人それぞれ理由があるハズである。
だからどう?なのであるが、つまらない事を何故か気にしてしまう…そんな自分が嫌になったりする。


 コンビニ店員の 朝、昼、夜のメンバーが変われば、店の空気も変わる。毎朝通うコンビニに夕方行くと雰囲気が違った、店員が違うだけで売ってるモノは殆ど変わらない。

  昔々、桜ノ宮駅前にあったコンビニで、モヒカンの店員が居たが、明らかにNGである。雰囲気は最悪である。バイトだから気楽でいい?そんなハズはない。お金をもらって仕事をしたら、それはプロであり責任というものが付いてくるという考えは日本企業的なのか?

既にコンビニは日本の日常世界に、何の違和感もなく入り込んでいる。

スペインとかイタリアにはコンビニはない。
個人商店を守るという意味もあり。こんなにコンビニがありあらゆるところにあるには日本くらいらしい。
海外ではあくまで誰が作っているか解らない食品は買わないとか(高城剛の書籍より)。
イタリアでコンビニ(二十四時間営業の店)は無いかときくと、誰が夜中に買い物に行くのか?と言われるらしい。




本題の『コンビニ人間』、実はわけあって恐る恐る購入した一冊、自分から選んで買った本でなく。芥川賞を取った作品だとも知らなかった。あの有名なお間抜け映画の『武器人間』よりは遥かにまともだろう思ったが、雲泥の差であった。読みはじめて一気に引き込まれて一時間程度一気読んでしまった、読み終わり『お見事!』と言ってしまった一冊。

音の描写で始まるこの小説は最後に音で攻めてくる。これが唸らせる。
主人公はどこまでもコンビニ店員のプロフェッショナルなのであろうか?
バイトとか社員とか店長とか関係なく。主人公はコンビニと共にこれからも生きていくんであろう。

しかし、我々も客として消費者として、コンビニと共に生きていくのだ。