2020年 1月 4日
新年早々、昨年11月位に読んだと記憶する「瞬間を生きる哲学/古東哲明(著)」を再度読み返してみた、実はこの本、第1章、2章、5章さえ読めば事足りる感じがする。他の章は哲学者の話からの抜粋解説なのでやたら難しいのである。だから読み返すのは一部だけ。内容がいいだけにもう少し凝縮すれば良かったのにと勝手にいらぬことを妄想する正月である。酒も飲んでいないのに・・・。
年末にちらっと読んだ本の一部に、昔々電車の駅が出来ると駅前に「時計屋」がどこからか自然と現れる。これが時間に正確な日本人と言われる一つの理由かな?沖縄には電車が走って無いので沖縄の人はちょっと変った時間感覚なのか?・・・と。
いや。隠岐や因島の人はそんなことはない。地方の山奥とまでは行かずとも、地方の友人知人に「最寄りの駅は?」と聞いても「ない」と言われ、「あるけど歩いて2時間くらい」という答えが返ってくる、現在でもこの程度である。
ただ沖縄の人は、いい意味で南国気質なんだと思う。
ただ沖縄の人は、いい意味で南国気質なんだと思う。
いま、未来の事を気にいして生きている。将来が不安とか、この本でいう「アリとキリギリス」のアリさんである。その将来が不安な為に、いま一瞬を台無しにしてまで夢中で生きている。資本家が自分の財産をより一層築きあげるには従業員に効率よく、生産性を上げて貰う必要がある。その為に時間というのは重要なツールである。遥か昔の江戸時代の人はそれほど勤勉で無かったという話をきいた事がある。
一日8時間も働けば、庭付き一戸建ての家が買えたそうだが、だれもそこまで無理に働かなかったそうである(杉浦日向子さんの本で読んだ記憶が)。寺子屋にしても毎日決まった時刻に登校(?)することは無かったそうである。
仕事よりも、職場の仲間とワイワイと楽しくすることが最優先で、効率は二番目だったそうだが、産業革命の波は明治時代に日本にやってきて、今に至るのである。
インターネットの普及により最大の恐怖は、人々をもうひとつの世界に監禁、束縛すること。昔はナチスがやっていたようなユダヤ人などの民族の強制移動をいまでは同じことをネットのやられているのだが、だれもそれに気がついていない、これは「シルダの住民」(愚かな人が住む街)と同じではないのか?
★★★
瞬間というのは永遠であるという。その瞬間というのは一瞬の事実であり、それは取り返しのつかない時間の経過という事実であり変更も取り消しも出来ない。つまりその一瞬は永遠に存在しているのである。その一瞬の大切さを見失って先ばかりのことをばかりを考えて生きているのではないかと著者は警告する。殆どの人が、この糞間抜けな日本列島に生きている以上、不安しかないのは事実である。そしてメディアが不安を煽っているのも事実である。
では、どうやって生きればいいのか?
今から江戸時代へは戻れないし、インターネットの無い世界へも戻れない。
著者は色々なエピソードを紹介している。
その中でも良かったのが、ヴォーカリストの鈴木重子氏の生き方である。
いまこの現在のこの一瞬を誠実に丁寧に味わって生きてみると、不思議な事が起きる。ゆたかな明日も充実した来年もちゃんとついてくる<必要なものは、必要な時期にやってくる。それはまるで至高ななにかに身を委ねて・・・人知のはからいを越えた。
明らかに「引き寄せの法則」とは異なると思うのだが、「いま、ここ」というのがそれほど重要なのだろう・・・。
そしてもうひとつ、タモリ氏の赤塚富士夫氏への別れのコトバにある、「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から開放され、軽やかになり、また時間は前後の関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。
そうだ一瞬、一瞬を大事に生きること、すなわち『これでいいのだ』。
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