2019年8月17日土曜日

悪の読書日記 歯車vs丙午 疋田龍乃介(著)

2019年 8月 16日

昔々、高城剛が初めてW.S.バロウズの小説を読んだ時、俺って頭が悪いのか?と思ったと聞いたことががる。バロウズの小説はカットアップという技法を使っているので訳が解らなかったりする(特に初期の名作は、迷作ですね)。この詩集を読んだ時、「詩」ってどうやって読んだら良かったのだろう?と思い.Googleで『詩の読み方』と検索したのが正直事実である。なんせ、義務教育+高校3年間の国語の時間ほど嫌いな時間は無かった。日常まともに日時場会話が出来て、好きな本屋漫画を読んで暮らせるのに国語の時間とは意味が解らない、「作者はどう思ったでしょう?」というテストの問題も、「おまえ、作者じゃないくせいに、作者に確認もせず勝手に好きなこといいやがって!」と12年間思っていた。
詩集はこれまでパティ・スミス詩集とジム・モリソンの詩集くらいしか持っていない。英文⇒日本語へ変換される時点で著者+翻訳家の作品になるので、やはり英語だとダイレクトにコトバが頭に入らないという欠点がある。もう少し英語をまともに勉強すれば良かったのだが(パティ・スミスの詩集もジム・モリソンの詩集も原文が掲載されている)。
多分、この詩集のどれか一遍でも、高校の国語の教科書に掲載されることは無いと思う。こんな自由で摩訶不思議なコトバの世界を未来ある若者に教えて、本当に素晴らしい未来を手に入れたら国家として大問題である。



読み進めるうちに、実は頭の中は詩集のコトバの攻撃でガロに掲載されていた丸尾末広氏の漫画の世界が頭の中で確立されていくのである。なんか薄暗い見たらあかん世界の見てしまうような、覗くでなくバーンと見てしまう感覚。あの青林堂の丸尾氏の作品のダークな世界が広がっていく・・・漫画でなく「コトバ」のだけの表現だけで頭のなかがダークモードである。しかし著者はそんな世界を描くつもりで書いたわけでは全くない筈である、小生が丸尾末広氏の初期の作品が好きだからこうなるのだ。つまり、小生以外の人、丸尾末広氏を知らない人が読むと全く違った世界が頭の中に広がるの筈である。
他の人はこの詩集の「コトバ」でどんな世界を想像するんやろう?
コトバの世界なんて、読者がどう感じるかどんな世界を想像するかに正解はないのである。これを逆手に取られると政治の世界の過大解釈になって好き放題の悪徳政治になるのだが、同じコトバの世界であるのだが、コトバには恐ろしさもある。
また作者が読者に何かを求めるのか?何かを感じて欲しい!!そんな事は詩の世界では成り立たないのではないだろうか。

今は亡き、スターリンの遠藤ミチロウ氏のソロアルバムに「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」という曲がある(同タイトルで遠藤ミチロウ氏の詩集も出ている、持ってないけど)。なんだかその歌詞を読んでいる時の感覚にも似てくる。遠藤ミチロウ氏と著者には30歳以上の年齢差があるのだが、それは関係ないか?それよりあの曲もなんかダークモードのイメージなのである。スターリンのアルバムのジャケットを丸尾末広氏が描いているのもあるから、多分小生の頭の構造がやはりおかしいのか?単一思考なのか?
最近の丸尾末広氏の作品はなんか、パッとした景色というか青空の景色があって、ストーリーは昔と変わらないが絵がダークサイドではない感じがかなりするんだけど。そんなパッとした景色はいくらこの詩集を読んでも頭の中では広がることはなく、グチャグチャとなった豆腐や蕎麦やうんこが爆発してうごめいているのだ。小説じゃないのにそいった世界が広がる・・・。
FBでは何度か書いたのだが、著者は絶対にコトバのテロリストなんだと思う。

実は著者は関西では有名な若手落語家の一人、笑福亭智丸さんなのである。彼が高座で演じる大ボケの丁稚や小僧がなんとも言えず、てんしきの『珍念』などは格別で、創作落語の「桃太郎」の話の元ネタを教える子供の話、子供の姿は格別である。そんな彼が小生にとってこの詩集『歯車vs丙午』でコトバの世界で魅せるダーサイドは彼のダークな姿の一面にしか見えず。実はあいつ、智丸さんはダースベイダー卿ではないのか?と思わさざるをえず。高座で笑いながら「本名疋田龍乃介で詩人もやってまして、◯◯賞の選考にも残ってましたが・・・」と笑顔でいう彼の影が怖ろしい事にダースベーダー卿に見えてくるのである。実は繰り返し読めば読むほど・・・。
やっぱり智丸さんはコトバのテロリストなのである、
あああぁぁぁぁぁ、怖ろしい。

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