2019年8月3日土曜日

悪の読書日記 映画ブレードランナー ウィリアム・S. バロウズ(著) 

2019年 8月 3日

久しぶりに悪夢のような本である。良い意味で・・・ 
先日友人がSNSにてP.K.ディックの「電気羊はアンドロイドの夢を見るか?」とリドリー・スコット監督の映画「ブレード・ランナー」について書いていたので、この本を思い出して急遽天井裏のダンボールから本書バロウズの『映画ブレードランナー』を救出して読み始めた。だが本書は全くと言っていいくらいリドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」やディックの「電気羊は・・・」と全く関係ない。簡単にいえば、三菱系財閥グループと三菱鉛筆くらいの関係なのである。
タイトルに『映画』が付くのは、映画の原作なんかでもなく(前述のとおり)、小説なんだが映画みたいな小説というか、映画や音楽よりも文学は何十年も遅れていると発言していたバロウズの手法の一つの手法で書かれている(手法でもないが)。

著者自ら表紙に登場することは珍しいだろう。

昔々のこの本が発売された1990年に読んだ後、1回くらい読みなおしている記憶はあるが、多分20年以上は読んでいなかったはず。その20年の間に色々なバロウズの本を読んだのであるが、基本的にバロウズの長編は一冊まるまる読み返すことはまず無い。理由は簡単、非常に疲れるからである・・・極めて偶に”ほい”と一冊段ボール箱から手にとって数ページ読んでみたりするが、それで数ページ読めば十分なのである。長編を一冊読んでも全体を把握する事は相当難しく、最初から読んでも途中の部分を多少読んでもあまり変わらないのかもしれない。ストーリーはあるけど、ないんかもしれず。適当に読んでも良いのである。読んでいると別の本に書かれていた用語や登場人物が突然現れてくることも少なくなく、バロウズを楽しむには、質より量なのだと思う。
20年後位(70歳になったら)、再び読み直す時間があればと思い、古本屋に捨てずにおいてある。生きていたらの話しである・・・・、生きていたら。

今から30年くらい前に買った本だった。

『映画ブレードランナー』は一冊の本であるが、長編でなく・・・正直、短編小説を抜き出して一冊の本にしたような感じだが、短篇集には入れたくないという著者の想いがあったのか否、一冊として成り立つと考えたのかもしれず。それだったら三島由紀夫の短編小説のほとんどが一冊の本でも成り立つから大変な事になるなあああああと。

最初に読んだ時は、アメリカの健康保険制度もよく知らなかったし、製薬会社ってそんなに悪どいという事も知らなかったので、いま読むとなんだか昔読んだ薄っすらとした記憶以外の感情が湧き出てくる。
なんか読んでてゾクゾクと変な気になる、やはり疲れてるのか俺は?と思いながら読み進める。
しかも、なんかいま読んでいてリアル感があったりするんだが、現実はニューヨークで過去にとてつもない大規模な暴動は無かったし、いまも地下鉄も普通に運行している。リアル感はやはり人種差別や移民、製薬会社のやり方とかになるんだろう。バロウズが時代を先読みしてたのではなく、単に昔からアメリカが抱えていた問題なんだろうと思う。
つまり何十年経っても変わらないアメリカなんだ。どこかと同じ。むしろ悪化している、お互い。



多分、最初に読んだバロウズがこの本だったと思う。この次が『ワイルド・ボーイズ』を読んだんだったと記憶する。1990年代初頭、バロウズはまだ生きていたし、『ドラッグストアー・カウボーイ』なんていう薬屋を襲撃するジャンキーの若者を描いた映画にも出演していたりもした。
ある日、ネットを起動したらバロウズが死んだというニュースがやってきたのも覚えている。いま正確にいつバロウズが逝ってしまったのか記憶にないが…
この本が最初のバロウズで良かったと今になって想う。前述の通り短編みたいな小説であり、内容も解りやすい…解りにくいのが楽しいなら別だが、解りにくいのが最初の一冊としたらNGだろう。バロウズの解りにくいのが楽しいと思うひとは明らかにバロウズ・ジャンキーの人だ。
最初が肝心なのである。

前述の三島由紀夫氏がかつて、私をよく知らない方で、長編小説を読む時間のない人はまず短編の『憂国』を読んで欲しい…と言っていた。これが本人のいう三島テイストが満載しているそうである。
もし、バロウズを初めて読む人は『映画ブレードランナー』を個人的にはオススメする。
これでウィリアム.S.バロウズを挫折した人は、ウィリアム.S.バロウズを読まずに、別のもう一人のバロウズを読まれるといいだろう。

次にこの本を読むのは20年後なんだろうな。

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