2020年4月18日土曜日

悪の読書日記 プロの尼さん 露の団姫(著)

2020年  4月  18日

露の団姫(つゆのまるこ)さんを最初に観たのは繁昌亭の夜遅く始まる金曜日の公演の時である。いまから一年ちょっとまえ、露の棗さんが『餅屋問答』という餅屋の大将が坊主に扮して、問答勝負に挑んできた旅の僧侶との戦いを挑む話である。その一席のあとにスキンヘッドの露の団姫さんが現れた、座るや直ぐに「偽物坊主の噺のあとに、本物の坊主が現れました〜」と言って団姫さんは一気に繁昌亭の客先を笑いに包んだ。
どうしてこの噺家は、噺家と僧侶をやっているのか?と考えたが、その時はあまり深く考えなかった。一昨年より、マインドフルネスの本を読んだり試したり、その関係で仏教の本を読んだりしているので、この噺家:露の団姫さんについて知りたくなり、彼女の著書を一冊手にとってみた、
『プロの尼さん 落語家・まるこの仏教修行』。



著者は単に興味本位や、ちょっと仏教学んでみたら興味があったので二足わらじで噺家と僧侶をやってみようとか、軽いきっかけ・・・というわけでなく。純粋に落語、宗教や仏教をココロより愛する女子高生が高校卒業後にまず噺家になり、そして尼さんにもなったという事である。なんちゃって尼さんってことでは全くない。団姫さん自身が高校生の頃に思い悩み自殺しようと思ったけど仏教に救われたという筋金入の仏教徒である。

同じ仏教でありながら、最近よく読んでいるドイツ人ネルケ無方氏の書籍と比べると、圧倒的に露の団姫さんの本はコトバが軽いのである。
ネルケ無方氏はやはりドイツ人、彼の本はやはりジャーマンメタル・仏陀イズムの如く硬い。これがまたなんとも言えず魅力であり、団姫さんの文章はこう書くとかなり失礼なのだが、対照的なのだ。団姫さんは噺家でありここで硬い文書は場違いだろう・・・いやそれだけでなく、これは噺家とか職業や宗派といより、ここに行き着くまでのお二人の人生の違いではないんだろうか?

ネルケ無方氏は仏教に至るまでにハイデカーやフッサールの哲学を学んでいた経験があるそうである。その為か文章の中には、「いま一瞬を生きること」が行間に見え隠れしている気がするし、言葉の一つ一つがやはり固く感じて、コトバの向こうに強さを感じる。団姫さんは「死んだらどうなる?」という怖さを感じた幼少期、宗教と仏教を学び落語を通じて仏教を広めたいという気持ちである。同じ僧侶であり、噺家という武器にもなる職業にてハードルはかなり下げて『みなさん、誰でも入ってきて下さい!』と、かなりオープン気味である。
多分お二人の最終の最終ゴールはよく似ているんだと思うのだが、過程は大きく異なると思う。勿論どちらが正解とか間違いなどというものは無く仏教の道そのものなのだが。もし、この本を単にタレント本と読者に思われると残念であり、そうなって欲しくない。

しかし、二人の言っていることが同じな事がある。それは日本人の宗教観である。
日本人は自分のことを「無宗教」だというが、行動は仏教の影響をかなり強く受けている。それなのに「無宗教」ですと普通に言ってるが。どこかで必ず神仏に頼った経験がある。ネルケ無方さんに言わせると、マインドフルネス(瞑想だけのことではない)しなくちゃ・・・みたいなことを言ってるが、既に日本人の生活の中にマインドフルネスが入り込んでいるという。日本人の大人が子供に教える道徳観はどうみても仏教の世界だそうである。
我々は格好つけてか、あまり宗教の話題は避けたいのか「無宗教」ですなんと言ったりするる人も少なく無いが、行動や道徳観はやはり仏教思想に準じているのであろう。


昨今の新型コロナウィルス騒ぎで、社会が大きく変わろうとしている中で、かつての日本人のココロの中の道徳観は消えないで欲しい、むしろこれが世界標準にならないものかと思う。「ワンチーム」だなんていう、メディア優先の嘘っぱちのココロでなく。
いまだからこそ、もういちど過去から学び、考えなおして新しい世界を見るべきではないだろうか。

その為には、お寺の住職、僧侶一人ひとりも、葬儀屋家業と法事要員から脱出する必要もあるのだと思う・・・

ちなみに、露の団姫さんの目標は、
噺家としての目標:名人になること、
尼さんとしての目標:自殺する人を少なくすること、ゼロの世界をつくること。
である。

小生のオープンウオータースイミングの目標:世界が平和であるべきだと広め、国家間の戦争を無くすこと。
友人Anna Wardleyのオープンウオータースイミングの目標:自殺する人を減らす為、両親が自殺した子供達への基金の運営費用を集める為である。Annaは仏教徒ではない。

そして、
元噺家の明石家さんま氏は言っている「生きているだけでまる儲け」であると。

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