2020年2月22日土曜日

悪の読書日記 迷える者の禅修行 ネルケ無方(著)

2020年 2月 21日

人生に迷っているからこの本を選んで購入したのか?
いや、著者であるネルケ無方さんの生き方、考え方に興味があったから購入に至ったのだろう。
いや、両方だ。高校の時、英語の教師が下手な現在社会の本を読むより「ゴルゴ13」を読むほうが勉強になる、と言ってた様に、このネルケ無方氏の本を読んでいるほうがビジネスホテルに置いてある仏教聖典を無理に読んで頑張るよりも何十倍も有効的な気がしてならない。どうしてドイツ人が仏教を勉強しに日本に来たのか?それは三蔵法師が仏教発祥の地であるインドへ行ったら既に仏教は壊滅していたという話に近いのではないだろうかと考えたりしたのだが・・・



読みはじめて、本書はネルケ無方氏の自叙伝であると解ったがそれだけでは無く、日本の仏教についての意見や現実の問題についてのエピソードもところどころに入れられていて、これまた面白いのだが著者がホームレス雲水と称して大阪城公園にホームレスとして住んでいたという話はぶっ飛んだ。ネルケ無方氏が実は日本にゆかりのある人であるというのも不思議だ。
「縁」というコトバや感覚は英語圏の言語には存在するのか?
そういえば昨年知り合いのトライアスロンのメンバーと夜中に大阪城公園に行くと天守閣の下で坐禅を組んでいる人を見たが、あれは大阪城公園は坐禅の聖地なのか?
と、最近の小生の話はともかく・・・正直いうと僧侶になるには予想以上に大変なんだとうのが一言それが強く感じた。
大変・・・というのは、昔々、小学校一年の時に漫画で「一休さん」を読んでこんな修行生活やってられない!と子供心に想い。お坊さんになるのはもの凄い修行を積まないといけないのかと考えていた。が、どうやら出家の世界も人間関係が大変なんだということである。時々、人間関係とかが嫌になってというか幻滅して、それまでの人生を捨てて突然出家する人がいると聴くが、結局は人間一人では生きられないので出家しても人間関係で悩まされるんである。だったら罪を犯して刑務所の独房へ入ればいいのかいう人もいるかもしれないだろうが、それはあまりにも後ろ向き。
結局、人間というのは一人で生きられない、それは日常の生活だけでなく、毎日の食事にしても誰かが働いて農作物を作り、加工して流通に乗って云々で自分の口の中に入るのである。著者のネルケ無方氏の安泰寺も自給自足といっておられるが著者もご理解されているはずだが、自給自足といって食べるものは自分たちで賄えても、生活するための電気は自家発電なんてことは出来ないし、インターネット回線は誰の所有物なのかというレベルまで考えてしまう始末である。人間が複数人居るとどうやっても人間関係からは逃れられない、それは家族であってもだ。
有名な人生アドバイザーであるアンソニー・ロビンズでさえ問題解決というのが人生で終わりを迎えるときは棺桶の中に入ったときだというような事を言ってるらしい。やはり、人間はみんな「迷える者」なのだろう・・・、ハッキリ言って「迷えていない」「問題がない人生」を送っている人間なんて、勘違いした人生かはたまた狂った人なんだろうと。

本来、もっと宗教(宗教というより僧侶)が欧米人のように生活に入り込んで人生にアドバイス(というより、考え方を指南してくれるとか)をしてくれればいいのだろうが、現在の日本では僧侶は葬式と法事の時にしか用はない。これは檀家制度の負の財産なのかもしれず。その反面新興宗教がその代役をしているのではないか。そこへ行き高額なお金を払って得体の知れないものに答えを導き出してもらったりアドバイスを受けたりするのも多面的に考えると間違いではないが、それはもはや宗教や仏教ではない気がする。瀬戸内寂聴さんの話を聴きに行く人は実は欧米人が日曜日に教会へ行くというような感覚なのか?とも想像したりすのだが・・・。ネルケ無方氏や瀬戸内寂聴さんや露の団子さんのような檀家制度と関係が無く、扉や敷居のないの僧侶こそ、実はこれからの時代に必要なのかもしれず。


小生の悩みは今日も尽きる事はない・・・
今日もフランク・ザッパを聴きながら。




#ネルケ無方

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