2020年2月12日水曜日

悪の読書日記 常識について 小林秀雄(著)

2020年 2月 12日

小林秀雄のエッセイ『常識について』という、タイトルながら。短いエッセイや講演が集められており、一部『考えるヒント』にも掲載された内容もあるが、この『常識について』は『考えるヒント2 』に収められている。またタイトルの『常識について』は本書の一番最後の章で、その章の少し前に『常識』というエッセイも収録されている、どういう意図でこの本が角川書店から角川文庫出版に至ったのか今となっては解らない。しかも『考えるヒント』の一番最初の章も『常識』なのであるが、前述の本書の『常識』とはタイトルは同じで中身は全く異なるのである。



本書の『常識について』では、デカルトのエピソードを中心に書かれている。デカルトのエピソードからはじまり、孔子の話で終わる。「我思う、ゆえに我あり」話以前になかなか普段考えないし、聞いたことのないデカルトの話というか、デカルトに至っては「我思う、ゆえに我あり」と、いったい俺は誰なのかという疑問を起草させるくらいの哲学者くらいしか知らない‥のが正直なところ。

 この本を読み終わり著者小林秀雄という人は、どれほど引き出しが多いのかと思ったが、それは引き出しでレベルでなく、年中無休で24時間使える倉庫というべきだろう。世の中には「知の巨人」などと言われる人がおり、その「知」を用いて動植物を研究したりする人や文献を投稿して収入を得ている人がいるんだが、この小林秀雄という人は「知」だけでなく、「ゴルフ」をやってはそれを自分の頭の中の知識と結びつけて書を書き、「骨董品」を購入してはう〜んと目利きと思考をこらしては同じく自分の頭の中の知識と結びつける。しかしそれだけでなく歴史的な有名無名な人物に関しては、よくこれほどコトバで書いて考えれるものだと、小林秀雄この人の本すべてそして小林秀雄自身が『考えるヒント』ではないのだろうか?と思わせる。
名作と言われる氏の『本居宣長』に至っては、新潮文庫の上下二冊(元々一冊のハードカバー単行本)と、本居宣長をテーマでどんだけ書けるねん?と思いきや。先日、梅田の古本街で上下セットで500円にて販売していたが、手にとってパラパラと見て「こりゃダメだ、いま読めないや」と今は読み切る実力がないとあきらめ購入には至らなかった。
「知」だけで生きてこられた人ではないと改めて想い、跡にも先にもこの人を超える人は存在するのだろうか?と考えた・・・。

正直、『常識について』というタイトルで書かれた小林秀雄の文献は薄っすらとしか理解しておらず、逆に言うなら殆ど理解していない。ただし、こんな難解な本を読んで少しでも理解しようとしたくなるのである。時々、時間を掛けてでも構わないので吐きそうな本を読みたくなる。それはスポーツの練習あとに疲れ過ぎて吐きたくなる自分がなんだか少しここちいいのと同じような感覚なのかもしれず・・・いや違うか?。
つまり、読めば読むほど頭がおかしくなりそうな感覚なのだが、ゲロは吐かずとも解らないことをわかろうとする自分がそこの居るということなのか?である。
今は亡き池田晶子氏が「新・考えるヒント」で小林秀雄全集新装版のキャッチコピー「わかる小林秀雄」に対して、「わからない小林秀雄」であってはいけないのか!!と苦言をぶち込んだのは小生が、わからない事をわかろうとするという話ではなく、もっと深く・・・わからないことをわかろうとする自分こそが自分の価値を作り上げているいるのではないか?他人からそれが価値ですと言われる価値など価値にあらずと・・・・「わかる小林秀雄」なんてありえないのでなく、「わかる」必然性などは無いのではと。
なんだか、この意味が少し解った感じである。


さて、小生は今日もゲロを吐きたくなるのである。精神的にも、肉体改造にも。

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