2019年5月20日月曜日

悪の読書日記 あたりまえのことばかり 池田晶子(著)

2019年 5月 21日

ソクラテスは、正義のために死刑になることに自分の主張を覆さなかったのではなく、死刑…『死』については解らなかった、『死』とはなにか?恐れべきものなのか知らない。知らないことを知ってるようなものであるかのように恐れるのは正しいことではない・・・



先日より自分のSNSで何度か死について書いたことがある。
死なれた方の人生が短い人生だったのか、長い人生だったのか、それを言えるのは死んだ本人だけしかなく、その答えを述べるべき本人はすでに存在しないのである・・・と。
そんな事を書いていた矢先、元スターリンの遠藤ミチロウ氏が4月に他界していた事が、5月1日なって公表された・・・・彼の人生が長いものであったのかどうか、まだまだやる事があった短い人生だったのかは前述の通り、本人しか解らない。我々が言えるのは彼の記憶からみての個人的見解でしかない。
本書の『生きているとはどういうことか』、『死ぬのは不幸なことなのか』、『他者の死はなぜかなしいか』を何度読みなおしても、死についての自分の答えは見つからない。見つかる訳はないのである・・・読めば読むほど混乱するばかり、「これはちょっと違うのでは?」と思ったりもするのだが、とにかく言えることはただひとつ、死んだらどうなるのか誰も解らないのである。
解らない事に上手くぴったりと嵌り込んだ宗教というのは、悪く言えば凄いビジネスなのかも知れず。『死』とは肉体が滅んだこととなっているが、それ以外は何処へいくのだろうか?と。
 
そんな日、ネットの動画サイトを観て知ったのだが、死刑囚の死刑執行は、死刑当日の朝9時に死刑囚に伝えられるらしい。つまり、今日あなたは死刑執行されるのですよ!と言われるのと同じである。人の命を奪った死刑囚だが(おそらくというか多分)、死刑が執行されるのは突然である・・・いつ死ぬのか毎日待っているような気がする。犯罪を犯したときは悪人でも、何年も刑務所の独房にいると善人に変わっているかもしれず。
いまは善人となった人を殺すのはよくないというのは死刑反対論の理由の一部であると思う。しかし、過去に大きな罪を犯したのだから死刑になるのは当然であるというのは死刑を肯定する人の意見の理由の一部だろうと予想する。死刑を執行されるより、執行される日を待っている日々の方が残酷な気もするが、それはそれなりの罪を犯したから当然であるという意見もあるだろう。
死刑執行が決まったあと、お寺の関係者というか、それなりの方が来て死刑囚を説得して心を落ちつかせるそうだが、アメリカのドラマで死刑執行前に牧師さんがやってくるのと同じようだ。果たしてどんな事をいうのだろうか?どんな話をするのだろう? 悪い言い方をすれば、死刑囚は大きな罪を犯しておきながら、死の恐怖を和らげるかの如く ・・・これでは死に勝ちかもしれず。

池田晶子曰く、「死」とは「死」というコトバだけでしか存在していないという。死んだあとの世界、その世界がるのかどうかさえ解らず、行って帰ってきた人さえいないのである。肉体は消えたが本人は何処へいったのか?

亡くなった方に会えない悲しさ、記憶の中でしか会えない悲しさ・・・それが死ぬという悲しさなのか。その逆の悲しさもあるだろう。それは恐怖なのかもしれない・・・

子供の頃、幼稚園くらいの頃だった。死んだらどうなるのか夜中に一人考えて怖くなって泣いた事がある。
来月50歳になるが、いまでも死んだらどうなるのか、解らない。
つまり、死ぬまで解らないのである。死んでみなくては解らないのである。

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