2020年12月30日水曜日

悪の毒書日記 モリッシー自伝 モリッシー(著)

 

2020年 12月 27日

何ヶ月か掛けてやっと読み終えた、モリッシーの自伝。
ハードカバーで400ページを超える大作である。これを翻訳した上村彰子氏は素晴らしい狂気の持ち主と言える。ここまでくると翻訳ではなく、共著であると言えるレベルである。
 
 


モリッシーは元スミスのヴォーカリスト。スミスは80年代イギリスで活躍したマンチェスター出身のバンドである。スミスは「Queen is Dead〜女王は死んだ」、「Meat is Murder〜肉食は殺人だ」というタイトルのアルバムを発表したバンドである。そのスミスの歌詞、レコードジャケットのヴィジュアル面をモリッシーが担当していた。作曲はジョニー・マーというギターリストが殆ど担当していた為、スミス=モリッシー+ジョニー・マーであると言われていた。バンドの後期のサポートギターリストが、グレック・ギャノンという人だったのを覚えてるが、ベーシストとドラマーの人の名前は忘れてしまった。「WHAM」はジョージ・マイケルともう一人は誰だっけ?

この自伝の凄いところは、ほとんどがモリッシーの恨み節なのである。幼年期の話は置いておいて、音楽活動を始めてから、モリッシーの苦行はスタートするのである。バンドメンバーの繋がりから、ラフ・トレードとの契約。実はこれまでラフ・トレードがスミスを発見発掘したのだと思っていたらそうではなく、モリッシーの戦略でラフ・トレードへ売り込んだらしい。しかし、スミスが売れまくった為に、ラフ・トレードのノンビリしたマイペース的な悪く言えば、そんなに売れなくてもいいかなという間違った非商業主義を壊滅させてしまった。そしてアメリカのレコード会社が全くPR活動をしない不満。しかもライブのギャラについては一切受け取っておらず、タダ同然でライブをやっていたらしい。誰が搾取をしていたのか?
そしてバンド解散後にソロ活動は順調に進んだのだが、記憶の彼方の元スミスのメンバーに音源の利益を25%遡ってよこせと、スミス時代に作曲もアレンジもビジュアルにも一切口を挟まなかったくせに裁判を起こされるという始末。しかも裁判所の裁判官は貴族のくせに裁判中に居眠り、鼻くそをほじる奴で弁護士もへんちくりんな糞野郎で結局モリッシーの敗訴ときた。
かのパンクバンド、スージー&バンシーズのスージーとのデュエット作も実はモリッシーがスタジオ代を払っているのにスージーの作品としてポリドールからの発売。英国の権威ある音楽ジャーナリズム雑誌NMEは嘘ばっかしのインタビューを書き上げるなど・・・という半分以上が、モリッシーの悲しくも苦行の音楽生活を綴った内容なのである。

しかし、そんな恨みの文章の中で、ときおり魅せるモリッシーの優しさが非情に切なく、これがモリッシーの本来の姿なのだと予想する。そして自分の作品のヒットチャートを非情に気にするのである。ライブも大切だが、やはりモリッシーにしてみれば、レコードやCDの音源こそが収入源であり、それ以上に自分の存在を証明する媒体として大切に意識をしているのだと思う。その為、DHISCOGRAPHYを見るとモリッシーはコンスタントにアルバムを発表し続けている。

おそらく、過去の権威と既得権にしがみつく英国音楽ジャーナリズムとその周辺が自由奔放に活動しているように見えるモリッシーを嫌っているのだろう。80年代にスミスで「女王は死んだ」「肉食は殺人だ」なんていうアルバムを出して売れまくり好きなことを言ってはと突然スミスを解散して、ソロシンガーになってもやはり売れまくる。NMEでは発売したアルバムを酷評しても、デタラメのインタビュー記事を掲載してもアルバムは必ず一定枚数は売れ続けている、それは英国だけでなくアメリカでは各会場ソールドアウトする程の勢いである。そして老舗音楽番組TOP OF THE POPS」に出演しなくてもアルバムは売れていく。元バンドの忘れられた名前のメンバーに訴えられて、メディアの格好の標的なって裁判に敗訴してもまた復活をしてしまう。それはモリッシーの地道な努力もあるのだろうが、彼の運や、本書のコトバの世界には出てこない彼の魅力が彼の周りにいい人脈やながれを導くのだろう。
決してモリッシーがベジタリアンというのは関係なく・・・・。結局、モリッシーは音楽を通じて自由になりたいだけなのだと思うのだが。その為余計な人間関係云々は好きでは無いのだと思う。

本書でモリッシーがセックスピストルズについて言っている。
「文化の救い主でなく、文化を破壊していた。・・・自分たちで考えて歌う者たちの自由が、私を開放した。彼らのシャウトからだけ自由が見つかった。」。モリッシーは今も自由を追求しているのだと。たとえ文化を破壊することは無く、まだ病気なの?と言われても。
 
 

2020年11月1日日曜日

悪の毒書日記 詩人と女たち チャールズ・ブコウスキー(著)

 

2020年 11月 1日

 8月半ばからブログを更新していない。本読まなかったのではなく、ブログの更新をするよりも読みたい気持ちと行動が優先してブログを更新することをすっかり放置していた。本来ならばインプットとアウトプットはニアリーにすべきなのだが、インプットが増えてしまった。
 
昔々、みた映画「水の中の8月」という不条理な映画。美人の女性死体とやってしまうという無茶苦茶な話。これを観た時は原作者も知らず、リュックベッソ監督がプロデュースした白黒映画で、楽しそうなの観にい行ったが、話の内容が前述の通りの内容だった。5,6年前にアメリカの有名な小説家の短篇集を買った。読んでいると昔観た映画の話ではないか。死体とやってしまう男の話。
原作のチャールズ・ブコウスキーというおっさんで既にこの世には居られない方で、凄い奴らしいと。いま考えると、どうしてこのブコウスキーの小説を読み始めたのか記憶がない。




二年前くらいに名前を知った本の編集者をしていまは作家もしている「モテる読書」の著者である長倉顕太氏が、チャールズ・ブコウスキーの大ファンで前述の短篇集が相当気に入ってるらしいことが解った。それを機になん度かこの短編集を読みなおしたり、他の著作を探したりしている。「チャールズ・ブコウスキー」とAMAZONで検索すると、日本語訳になった小説が20点くらいヒットしてくると思う。ここ一年くらいは絶版になった本が別の出版社から再発されているので実際のヒット数は40点以上であると思う。
そしてこの短篇集は明らかに面白いのだ。映画の原作になったとんでもない話もあれば、趣味の競馬の話をテーマにした話。それはまるで著者本人の経験した話から大きく誇張して話を作り上げた感じがうっすらと感じとれるのである、それが事実かどうかは不明だが。また、ロック好きの長倉氏が面白いという感覚が解らないではない気がする(長倉氏も競馬好きな事がブコウスキーと合うのだろう)。

ここ最近、ブコウスキーの本が読みたくなり、AMZONやメルカリでブコウスキーの本を探し求めるありさま、正に貪るようにブコウスキーの本を探して購入している。その中でもブコウスキーの詩集は日本語訳では二冊しか発売されておらず。二冊とも既に絶版なのであると解った。どうしたことか、これはどうにかならないかと思うところである。
 
そんな中で買った一冊の分厚いブコウスキーの小説。
『詩人と女たち』、原題名は『WOMEN』である。


 
読む前に本のタイトルは「詩人と」は不要で、「女たち」とか「ウーマン」だけでもいいのではないか?と思ったが読むに連れて、日本語版のタイトルの意味が解ってくる。ブコウスキーという人の女性との関係を偽名で淡々と書き綴ったのが本書である。つまり女性との関係を本にした自叙伝なのである。多少は話しを大きく誇張したり、内容を変えたりはしているのだろうが、登場人物はブコウスキー本人なのである(一応、ブコウスキーではない。ヘンリー・ナチスキーこと通称ハンク)。主人公の通称ハンクことブコウスキーの女性との関係、電話が掛かってきたとか、空港まで迎えに行ったとか、挿入したとか・・・次から次へと女性との話が続く。
そしてハンクの職業は詩人なのである。アメリカ中のイベント会社や大学とか主宰者から、詩の朗読会のオファーが来て、ブコウスキーは女性との関係の隙間にアメリカ中を飛走り回るのである。時には女性と一緒に・・・。
AMAZONでブコウスキーを検索すると海外の出版社で詩集が非情に多く出版されていることに気がつく。日本では二冊しか出版がなく既に絶版なのだが海外では未発表詩集とか選び抜かれたベスト盤みたいな詩集とか、死後にも相当詩集が出版されているようである。
多分、ブコウスキー本人は、小説を書くことよりも詩を書くことに自分の力を注いで「詩人 チャールズ・ブコウスキー」でいたかったのではないだろうか?その為自伝的小説に出てくる架空の自分自身は小説家でなく詩人なのではないだろうか?いや、ひょとしてブコウスキーを知っている日本人の大半が、彼のシゴトは小説家であると思い込んでいるのかもしれない。
そして翻訳をした中川五郎氏もあとがきで「詩人としては日本ではあまり知られていない」であるという意味のことを書いておられる。中川五郎氏としてはブコウスキーの詩人としての評価を高めたかったり、もっと日本語訳の詩集を出版して欲しいという気持ちから『詩人と女たち』というタイトルにしたのでは無いのだろうか?と勝手に想像してしまう。
個人的にはブコウスキーの詩集の再発を願いたいが、現在の日本において『詩』は短歌や川柳などと比べると少しマイナーな感じがする。詩の朗読会とか詩の朗読のアルバムなんでアメリカなら相当存在するが日本ではかなり少ないのが事実である。出版社も乗り気ではないと考える。
(リディア・ランチの楽器の演奏がない詩の朗読アルバムなんてのもあるし、ヘンリー・ロリンズなんて大量に発売している)


長編でありながら、短編小説を集めたかの女性遍歴と女性とのトラブルを纏めたこの小説は、現在の自分tとほぼ同じ歳の50歳で、大雑把で酔っぱらいでいい加減なブコウスキーがどうしてこんなに女性にモテるのかと考えながら、どこか優しいブコウスキーの性格がちらちらと見えてくる短編集のような長編の一冊である。これはいつでも読めるように愛読書として手の届くところに置いておきたい一冊である。が。これが愛読書となるとちょっと廻りから変な目で見られてしまうのだろうか?
いや、ここには何だか憧れるブコウスキー本にが宿っている感じがするのだ。
 
 
追伸
 ブコウスキーの詩集が殆ど手に入らいないので、自分で買ってに翻訳(「糞訳」と称する)してNOTEにアップしています。よかったらこちらも。
 

2020年8月13日木曜日

悪の毒書日記 事典にない大阪弁 四代目旭堂南陵(著)

 2020年 8月 13日

久しぶりにブログである。
一ヶ月以上、何も読まなかったのではなく、ブログになりそうな本を読まなかっただけであり、本や文献や活字は毎日のように読んでおり、ただ悩んでいたのである。

先月7月半ば、生まれて初めて講談を観た。少し長く生き過ぎた歳なのかライブハウスに通う事はしばらく無く、最近は落語会へ行く機会が圧倒的に多い。しかし、先月・・・とある理由から初めて講談を観た、講談師は「旭堂小南稜」さん(ご出身は隣の市町村の八尾市らしい)、演目は「壺坂霊験紀」であった。実際の講談なんてテレビでもYoutubeでもまともに観たことが無いものを目の前で見ると、編集された動画の画面ではないので、講談師の放出するバイブレーションをガンガン感じて楽しめる、これは講談に限らず、落語や音楽、演劇なども同じだが。演目の「壺坂霊験紀」ってデビッド・リンチの「ワイルド・アット・ハート」みたいやんけ!!と、講談とD・リンチを繋げるのは失礼か否?と、演目よりも「これはもの凄いものを体験した!」という、凄まじい気持ちで会場を後に後にした。

自宅に戻り、講談師の旭堂小南稜さんをgoogleで検索すると、四代目旭堂南稜氏のお弟子さんにあたられるとのこと。次に旭堂南稜さんをアマゾンで検索すると「事典にない大阪弁 増補改訂版」という書籍がヒットした。



これはひょっとして、かの名作「大阪呑気大事典」(宝島社)に匹敵するものなのか?と、大阪呑気大事典は事典でなく、単にコラム等を集めた作品で80年代雑誌宝島に連載されていたものを一冊の本にしたものだが、石田長生氏、桂べかこ氏(現:南光氏)、中島らも氏など有名な方が書いておられる。イラストもひさうちみちお氏、いしいひさいち氏など・・・まさに大阪呑気である。
という訳でこれは「大阪呑気大事典」にならぶ名作では?と思い、早速「事典にない大阪弁 増補改訂版」をアマゾンでなく、梅田の書店で購入するに至った。


本書は、大阪呑気大事典とは異なり、四代目旭堂南陵氏が執筆した文献を纏めたり、執筆した内容である。前半半分があいうえお順に事典にない大阪弁が並べられ解説がさえており。のこり半分がコトバに纏わるエッセイ「大阪弁笑解」と昭和時代の街の写真などである。どうみても十分に事典といえる。
小生は「大阪生まれの大阪育ち」、今は大阪に隣接する兵庫県の市町村に住んでいるが、選挙の時と偶然テレビでNHKを観た時くらいしか兵庫県県民と意識することは無い。普段自分が口にするコトバが関西弁なのか、そんな事はあまり考えたことは無い。
 
例えば本書によると、「足をつる」ことを「こむら返り」というが「こぶら返り」という人がいる。「こぶら返り」とはおかしいのか、聴き違いなのかと思ったが、厳密には「こぶら返り」といのは大阪訛りらしく、珍説でコブラに噛まれたくらいに痛いからというまさに珍説、コブラに噛まれたことあるんかというところ。他に「ねこ」猫餅のこと、細長くした餅・・・スーパーマーケットでは見ることは無いが、天神橋筋商店街を歩いていると店先に売ってるのを見かける。古書店の「天牛書店」は「てんぎゅう・・・」でなく「くもじ・・・」が正式というか遥か昔はそう読んだとか。さらに「お●こまんじゅう」は堺方面では昭和40年代までは出産などの慶事ごとには注文されていたそうだ・・・流石に事典には載っていない。
どこかほんの少し懐かしく、そして知らないことだらけの本当のおもろい大阪である。
「関東煮」と「おでん」の違いがこれまた複雑、本当のおでんは薄口醤油にだしのきいた煮込み田楽など、食に関してもかなりの話が満載されていて、飽きることなく気軽に何処のページからでも拾い読みができ、何度でも読んでみたい内容であり、大阪呑気大事典に勝とも劣らぬ、100年後に本当に学術的な価値がでるのはまさしく「事典にない大阪弁 増補改訂版」と「大阪呑気大事典 増補改訂版」であるのは確実であると言える。

ひとくくりに「大阪弁」といえども、「船場」「島之内」で使うコトバが若干ことなることも興味深い。以前ブログにも同じようなことを書いたが大阪の笑いですら「うめだ」「なんば」「天王寺界隈」と場所により笑いのポイントが若干異なる。コトバも同様に「船場」「島之内」と距離に関係なくその地域の文化でコトバが少し異なるのである。コトバというのは常に変化していくのであるが、これからいったい大阪弁どうなるのだろうか?と思いながら、そんな事を考えてもどうにもならないのである、所詮コトバである。

数カ月前に勤務先の20歳代のベトナム人が一時帰国して買ってきてくれたお土産について、ベトナム人に尋ねたところ「あれ、おかんに持たされたんです」とコトバが返ってきた。
ベトナム人よ「おかん」っていうな!

大阪呑気大事典より抜粋


追伸
本書の著者である四代目旭堂南稜氏が7月30日に他界されました。これから講談といものも観たいと思っていた矢先、ちょうどこの本を読んでいた時期でしたので、驚きというか表現の出来ない感じです。

ご冥福をお祈りさせて頂きます。

 

 

2020年7月8日水曜日

悪の毒書日記 中央線は今日もまっすぐか? イヌイ・ジュン(著)

2020年 7月 8日

30年位前に読んだ本や雑誌のコラムやなんかでよく遠藤ミチロウは良いようには書かれていなかった。ウケ狙って裸になったとか、パンクじゃないとか、パンクを利用しただけの人だとか、喧嘩が弱いとか、エゴイストだとか。しかし、ここ数年、いや十年くらいか・・・温厚な人だとか、気遣いの人だとか。スターリンの事をあんまりよく言ってなかったミュージシャンも何故か「ロマンチスト」をライブでカバーしていたりと。いったいあれは何だったんだ?
よく考えてみたら、その当時(30年位前)は、単にみんな若かって、人間の本質を理解していなかったかもしれずである。所詮パンク、だれかを攻撃したい性格なのかもしれない。それが若さゆえ・・・。



スターリンのオリジナルメンバーであった、ドラムのイヌイ・ジュン氏による『中央線は今日もまっすぐか? 俺と遠藤ミチロウのザ・スターリン生活40年』という本が発売された。イヌイ氏がミチロウと出会うところから、つい先日の話まで時間軸に書かれたインサイドストーリーであり決して暴露本なんかでなく、「へえ〜そうだったのか」という思いが強く印象にのこった。
色々なうわさ話や、うそかホンマか解らん話の真相なども正直笑えたし、やはり話を盛っていたのか、あえて伝説を作っていた、作られていたようなことかと本当に面白かった。
どうしてヒゴ・ヒロシさんがスターリンでベースを弾いていたのか?これが一番驚いた。スターリン側からヒゴさんへベースを弾いて欲しいとお願いしたら、条件としてヒゴさんのバンド「チャンス・オペレーション」でイヌイさんがドラムを叩いてくれるならOKという逆提案をされてスターリンが解散したあと、イヌイさんがドラムを叩いていたのか、てっきりスターリン時代にヒゴさんとイヌイさんが意気投合してイヌイさんがそのままチャンス・オペレーションへ加入したと思っていたが違った。当時はそんな話はロック雑誌なんかに掲載されていたのかも知れずだが、当時の「DOLL」や「宝島」くらいしかパンクが載ってる雑誌は無かったので、いったいどうだったのかは今としては解らず。小生は初めて聞いた話であった。
よくスターリンはパンクじゃ無いと言われたりするが、日本でパンク・ロックを始めた人間の一人であるヒゴ氏が参加していたのであるから、パンク以外の何でもない。
しかし、パンクロックなんて「定義」はこの世の中には存在しておらず、定義されないこそがパンクロックではないか?それは情報と同じ様に、情報を受け取った時点でその情報は古い、過去の情報であるということと同じの様な気がする。
あのション・ライドンが昔々のはるか昔、小生が学生の頃の日本の雑誌のインタビューで、パンクファッションについても同じことを言ってた。「パンク」はこうあるべきみたいな革ジャン、破れたジーンズを履いたりする様なスタイル(形式)そのものが既にパンクじゃないと。

最近、他に読んだ本で既に今は個人そのものがメディアでありコンテンツであると。それは個人本人が「コンテンツ」化したいという欲望からそなるのではなく。SNSやなんちゃらインターネット上で使っている限り、既にそこには自分は知らないけどFACEBOOKの方が自分をよく知っているという嘘のような本当の話が現実には存在しているのである。つまり人生そのものがコンテンツ化されていまっているのだ、意図的に。
そうなれば、情報を受ける側でなく発信するアウト側にならければ面白くも何にもないではないのだろうか?そして既に焼き回しの形式通りのスタイルでは面白くも何もない。
いま、今日の時点で遠藤ミチロウとスターリンについて考えて感じたことは、スターリンというバンドの中で普段とは違う自分を演じていた温厚な遠藤ミチロウという人が、スターリンというコンテンツ、メディアをどう作り上げたかである。当時はインターネットもなければレコード会社といえばマスである。どうやってミクロを制してマスを制したのか?。でもそれは遠藤ミチロ本人が本当にやりたかった音楽だったのか・・・

謎は深まるばかりではなく、謎でも無ければ都市伝説でもない。そこには絶妙はメディア戦略があるだけである。
スターリンはパンクロックかそうでないかは、どうでもいい話しである。何もかも定義できない時代に突入してしまったのだ。そして誰もがスターリンになれる時代がやってきたのだ?

さあ、どう生きようか?


誰だぁー!!?

2020年7月5日日曜日

悪の毒書日記 洗脳広告代理店電通 苫米地英人(著)

2020年 7月 5日

2012年、今から約8年前に発売された苫米地英人氏の「洗脳広告代理店電通」を読破。今だから読んだのではなく、たまたま適当に苫米地氏の本を読み漁っていたら時代と同期したのである。



そもそも「電通」ってなんの会社やねん?という疑問。これに関しては本書には創業に至る経緯から今に至る過程を解りやすく説明している。結論から言えば、電通=テレビメディアなのである。そして「アヘン」みたいな存在なのである。
英国がアヘンを利用して某国の国民を糞以下にしたのと同様、アメリカは電通を利用して日本人を糞以下にしているのである。つまり、テレビの見過ぎは人間を糞以下にしてしまうのだ。なぜならテレビは電通だからである。そして日本はアメリカ政府主導で動いているのである。
「電通」ひとことで言えば「広告屋」。TV局の代行業務で番組のスポンターを探してくるのが業務だが。TV局まで広告屋が手中におさめると、これは広告屋ではなく、情報操作会社なのである。つまり、日本人の数々の思い込みは、意図的に操作されて思い込んでいるのである。

以前からおかしいと感じる、テレビのニュース番組や報道特集番組。スポンサーの悪事をニュース番組で叩きまくることはない。スポンサーがある報道番組って報道なのか?都合のいいことだけを流しているのではないのか?そもそもこの国にはやはりまともなマスメディアが必要であると感じていたが、現状ではそんなものが現れることもなく日本は滅んでしまうといえる。テレビ番組に広告は必要だ、だが日本のテレビでの広告は政府の情報操作が多すぎる。特に東日本大震災前の電力会社のCMは酷かった。
怖ろしい事に電通の株主はTBSだったりと、いったいこれは何やねん?と。つまりTBSテレビは電通であり国営放送なのか?と思ってしまう。

本書が書かれたのは2012年である、それから世界も日本もまるで漫画の如く変化した、
 電通が大好きなスポーツ事業「オリンピック」がやって来る、はずだった。今年。
 アメリカの大統領はアホみたいな知性のないオッサンがやっている。

「復興五輪」は何処へ?「コンパクトなオリンピックをやりまっせ」という話は無かったことに、金(かね)、金、金のオリンピック。来年の開催さえ疑わしいとしか言えない。誰の為のオリンピックだったのか? 4年前のアメリカ大統領選挙の報道は酷かった。トランプ大統領、元々不動産屋で破産しても這い上がってくる程の実業家。もしヒラリーが大統領になったら、第3次世界大戦に突入することを報道することはなく、トランプの「あほ話」ばかりを強調している。ホワイトハウスを私物化したクリントン夫妻の話も併せて報道するのがマスメディアのはずだが。オバマ大統領の政策で泣いている人の話はあまり出てこなかった・・・殆ど日本のメディアでは出てこない。
いいかげん、今回のコロナ騒ぎをはじめ我々は報道番組、テレビ番組すべてを疑ってかかることが必要であるとことを一層解った筈ではないのか。日本を変えるにはマスメディアが変わらないと変わらないという高城剛氏の意見であるが。それ以前に日本が潰れてしまうのではないだろうか?

数カ月前に公開された、東日本大震災の福島原発の電力会社の方の功績を描いた映画。観てはいないが、震災の起こる前に国会で「原子力発電所に非常用電源が必要では?」と指摘した共産党議員と不要だと回答した関係者(総理大臣?)も描いているんですよね?


果たして本日の東京都知事選挙の報道はどうだったのか?
報道番組は立候補者全員の紹介をしてこそ公平な報道なのであるが。

ところで、日本の首都って「東京」だったんですか?


2020年6月17日水曜日

惡の読書日記  哲学・宗教の授業 佐藤優(著)

2020年 6月 17日

「世界のエリートが学んでいる 哲学・宗教の授業」というのが正しいタイトルである。しかしタイトルは出版社が付けたと思うのだが個人的には明らかに誤りだと感じる。「世界のエリートが」というコトバをタイトルにすれば良く売れるなどというデータがあるのかと思う。本屋にもアマゾンにも「世界のエリートが知ってる・・・」「世界のエリートが学んでいる・・・」などというタイトルの本があふれているが本書はそんなタイトルを付けなくても大学の授業の極一部分を抜粋して集めて編集しただけだが読むに値する本であり著者であり著者の佐藤優氏のお得意の閉鎖的日本への「警告書」である。この本を読んで次のステップへ行く為の本であり本書を読んでも教養が付く訳でもない。大学の授業を再現とも帯には書いているが「考える」ことが大事で「読む事」は考えることとは少し異なる。


もし「世界のエリート・・・」というコトバをタイトルに入れるのであれば「世界のエリートならこれくらいの事は知っている 宗教・哲学の授業」とした方が個人的にはスッキリする。出版業界も編集者の仕事の現実を知らないから小生は言いたいことをいってるだけなのであるがそれくらい我々日本人は無知なのであろうと感じて自分の知識レベルの低さを本書を読んで感じてしまった。そして世界のエリートはこれくらいの事は知っているが日本のエリートと呼ばれる人や政治家などはこんな事は全く解らないのであろう。それは大学で教える勉強が理系なら理系だけをマスターして文系なら文系だけをマスターすれば良いということから分数の計算が出来ない文系大学生が存在するという視界の狭い人間を作り出している問題もあるそうだ。海外の大学は理系でも文学や哲学を学びマスターしないと卒業できないそうだ。日本の文系卒業の大学生が分数の計算が出来ないというのは事実であり小生の勤務先の今年の新入社員の大卒新人君は分数の足し算が記憶の彼方で答えが解らず、工業高校を卒業した高卒新人達は電気科だったのでオームの法則を理解していたので深く考えること無く答えを導き出した。大学のレベルに関係なく日本はこうなっているのだと驚くばかりである。
それは大卒の新人君が悪いのではなくこんなバカな世界をここまで築いてしまった我々大人と政府の責任である。入学式を9月にしようとか言う前にすべきことは膨大でありそれが日本の未来に直結して繋がることを理解する必要があると言える。

日本人はよく自分を無宗教などというが実際は・・・と何度かこのブログで書いたと思う。我々は世界の宗教を知らな過ぎているのだとこの本を読んで感じる。その為海外で起きているとてつもない問題の本質が理解出来ていないのだ。バチカンが200年〜300年スパンで世界戦略を考えているなんて思ってもみなかった。バチカンもローマ教皇も単にキリスト教の宗派も大親分としかイメージがないので政治からは距離を置いて万が一のご意見番くらいにしか思っていなかったが実は話は複雑過ぎるのだ。
またビン・ラディンはサウジアラビアの悪態に手を貸すアメリカに腹を立ててアメリカに強烈なテロ行為をぶちかましたがテロという行為は悪いがサウジアラビアの宗教のレンジの広すぎる自己勝手な解釈は真面目な信者から見れば悪そのもであり。そのサウジアラビアをサポートするアメリカは本当に悪い奴等に見えてきたのだろう。昔はお互いに仲が良かった関係なのにと世界の宗教をいま以上知っていれば見る世界は非常に変わるのだろうが自分の宗教に関しては無宗教といいながら生きてる行動は常に仏教的な日本人なのである。無宗教を世覆う人が他国の宗教に興味を持つことなんてありえるのか?


冒頭に本書を読んでも教養が付く訳でもないと書いたが。ヒトラーは読書家であったがインテリでなかったそうだ、教養が無かったので「トンデモ本」を読んでユダヤ人陰謀説を真実と思い込んでユダヤ人を倒そう!と宣言したら、当時の世間がそれに賛同してしまった為に総統にまでホイホイとなってしまいあのような結果になったらしい。ちょうどその頃ドイツは戦争に負けて国民は疲れきっていたがユダヤ人は自分たちでうまくお金を回していたのでドイツ人から見れば目の敵だったのである。あのドイツ人でさえ方向性を謝るほど当時のドイツの人々は精神的に疲れきっていたのだ。

つまり下手をすると教養のない総理大臣に騙されてコロナ騒動で精神的に疲れた日本人が良からぬ方向へ走るかもしれず。その為には朝からワイドショーを観てコロナ騒動ウィルスに感染する様な事が無いよう、アホなメディアに騙されないように実学を学ばなければならない。
世界は我々日本人が思っているよりも遥かに複雑なのだと感じ過ぎた。日常はドメスティックな範囲での仕事しかしていないから『これで良いのだ』ではもう済まされない。天才バカボンのパパでは済まされない時代なのだ。

2020年6月14日日曜日

悪の毒書日記 最強の働き方 佐藤優(著)

2020年 6月 14日

世の中は知らないことばかりだ、一人の人間からの情報や知識だけを100%鵜呑みにして物事を考えていくことは怖ろしいと思った。それは佐藤優氏でも同じである。佐藤優氏の書籍からの事だけを指針として生きていくというのは余りにも危険で、新聞の書いてあることは正しいと思い込み、朝日新聞を読み、報道ステーションを観ている日常までは行かないも。行為としては同じかもしれない。



さて、これからの残りの人生をどう働くかである。職場の上司は57歳かなんかで、60歳になったら定年退職してやる、60歳を過ぎたらもうおらんからな!!と嘘かほんまか小生に脱出宣言の如く60歳定年退職宣言してくる。「死ぬまでどうないすんねん?」。逆に数カ月前に職場に入社してきた新入社員に「新入社員一年目の教科書」という本を渡して読ませたが(選んだのは小生ではない)、この本でも良かったのかと思ったが、いや違う。一瞬だけだった。ただ、新入社員にも言っておくべき内容がところどころに有るのは事実。しかし、この本はある意味相当難しい・・・。漫画「攻殻機動隊」の様に欄外に細かく説明が書かれているが、これを読んでも、興味を持っても少しの就職経験が無ければかなりピンとこないはずだ。小生も資本論を読んでいないので解らない部分や、資本論を理解しておけば佐藤氏の言ってることの本質が深く理解できたはずだ。

そして、マスメディアが報じていることを完全に鵜呑みにしてはいけない・・・
AI技術が主流になっても、人間が判断する仕事は相当ある。
ベーシックインカムは荒唐無稽。
トマス・ピケティはマルクス経済学を全く勉強していない。
など
しかし、これは佐藤氏の意見であり、真実かどうか?果たして真実と認識するかどうか、最後は自分の頭で考えなくてはいいけないのだ。

「最強の働き方」というタイトルながら、働き方のハウツーなんて全く書いていない。ハウツー本であるならば、そもそも購入していないのだが。こうやって働きましょう!ってなことでもない。ただ、これからはこうやって行きたほうが良いですよ!ってくらいの事は書いているが、そこは佐藤優氏のいい意味で優しさ、自分で勉強して考えないと身にならないとばかりに本書を纏めている。
確かにそうである、1500円の本だけで人生の指針となればそれは大問題である。本はきっかけやスタート地点に過ぎないのだ。それを知っている著者であるから、安易に答えを書いてはいないし、答え自身が読者によって千差万別なにに簡単に書けるわけはないのである。


残りの人生、どう生きるか?
残りの労働者人生、どう生きるか?
さて、何を学ぶ?

で、労働ってなんなんや?