2020年5月9日土曜日

悪の毒書日記 音楽入門 伊福部昭(著)

2020年  5月  9日

数年前にご近所にお住まいの電子系音楽家の方に奨められて購入したけど読んでなかった、いわゆる積ん毒状態から脱出させた一冊。本書は昭和26年に最初に発行された本らしく、どうやらその時はは小冊子であったようであり、その後何回か再発に至り本書は2016年に角川文庫からの再発であり。2003年の再発版には無かった、1975年に同人誌か何かに掲載された著者のインタビューを追加したものらしい。著者、伊福部氏は1914年生まれで既に2006年にお亡くなりになっておられる。



本人による「あとがき」にもあるように、今読むと時代遅れ的な部分もある。それは音楽的な話が古いとかでなく、その頃の研究では判明してなかった(科学的な)歴史的事実や昭和26年には無かった音楽技術を前提に書かれているからで、その為現在の世界を考えると成り立たないと感じる部分もある。当時はロックもフリージャズも生まれていないし、音楽用コンピュータやシーケンサーも無ければ、シンクラヴィア、シンセサイザーもムーグも本格的なエレキギターさえも存在していない、つまり開拓者であるジミ・ヘンドリックスもクラフトワークも現れていない。それを差し引いても今読んでも十二分に内容に存在感というか重みのある本であり、気付くことがあまりにも多い。いやこれは・・・・こうだろうと思ったが、それは音楽においての現在の技術だからできることだったりするという技術のなせる技である。

 伊福部氏といえばあの映画「ゴジラ」のあの曲である。あの映画があれほど素晴らしいのはやはり、あの音楽の力が相当影響していると感じる。もし、あの曲でなければ、あれほどの影響力は無かったかもしれない。「大魔神」の音楽も伊福部氏の作曲らしく、東宝の特撮は殆ど伊福部氏が音楽を担当されている。

音楽について書くのに、古代の哲学者やショーぺンハウアーの現象学まで引き出してきて説明する、ザッパとビーフハートが学生時代に二人で聴き込んだエドガー・ヴァレーズも本書では登場する、伊福部氏にはもはや敵わない。しかも元々音楽になろうとしたのではなく、北海道で地元の大学の農学部出身で、戦時中は木製飛行機の部品の製造研究をしていて終戦後にコロナ放電の研究をしていたら事故になって一年間休職。その後東京に移り色々あって東宝にてそれまで趣味で好きだった音楽の仕事で生きていくという凄い方なのであるが、本当は画家になりたかったそうである。
なんと1950年〜51年の僅か2年間に29本の映画音楽を担当しているそうだ。当時の映画音楽のほとんどは、脚本を読んで内容を想像して音楽を作るという手順だったらしい。しかも映画の内容は自分で選ぶのではないから、会社(東宝)からジャンル無法で指示されて、脚本を読んで作曲するっていう方法だったので、やはり相当量の知識と想像力の賜物であると考える。おそらく伊福部氏が農学部出身で、終戦前後に木製飛行機の部品製造に関する研究なんてしておらず、普通に音大卒業の人間であれば、これほど迄の功績は残せなかったのでは無いだろうか。
この本を読んでいくと明らかに前述の通り伊福部氏の知識量に圧倒される。しかも、音楽学校で音楽を学んだ方ではないのが、許容範囲の広さと脳ミソの柔軟性が凄かったのだろう。多分,E・ノイバウテンとか観たら絶賛していたのではないだろうか。
しかし、自分には「音楽」とは何なのかという疑問というか、筆者との意見の食い違いではないが、モヤモヤとした感じが残ったのだが、それが悪い感じではなく、脳ミソがその答えを求めようとして、何だか気分が良いのだ。

著者がこれだけの良質のアウトプットをするには、大量の良質なインプットが必要だと実感した、それにはそのインプットする情報が、情報なのか知識なのか、さらに自分にとって必要かそうでないかの判断できるスキルを磨かねばならない。良いか悪いか必要か否の直感は自分自身そのものである。小生は圧倒的にインプットが不足していると改めて実感した。さらに、尊敬するクリエイターが言うように好きなことは続けることの重要性、大切さ。最初は収入にならずともである。
ゆえに、芸は身を助ける、のであると。

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