2020年2月29日土曜日

悪の読書日記 じゃりんこチエ(1) はるき悦巳 (著)

2020年  2月  29日

笑いとは免疫力を上げる方法の一つで、笑うことで免疫力があがるだそうだ。今自宅で出来る新型コロナウィルス対策は笑うことであると言える。
関西で生まれて暮らして五十年ちょっと。織田信長が部下に謀反を起こされて殺されている歳を越えている。
「笑い」一つを考えても奥が深いのは当たり前だが、普段お笑いといえばテレビで観るのが殆どで劇場までお笑い芸人を見に行く事はなくお笑い芸人を見に行かないが色々な場所へ落語は聴きに行く。漫才師と落語家の決定的な違いは後者は伝統芸能(芸術でなく)であり、プロになるにはそれなりの時間が必要で漫才師やお笑いタレントや声優の様な養成学校などは存在しない。落語の深さが解ってきたのはここ数年のことである・・・



昔々、上岡龍太郎氏がテレビで大阪の笑いと一言で言ってもキタ(梅田)とミナミ(難波)の笑いは異なるものであると言っていた。あっ、ほんまや!とその時はたと気がついた。そうである、もっと言えばキタの笑いとミナミの笑いと新世界(動物園前〜通天閣周辺)の笑いはまったく異なるといえる。一概には言えないが北へ行くほど上品かもしれない。そして南へ行くほど下品かもしれない・・・。特に落語ではなく漫才など、「古典漫才」なんて存在しない世界は地域性がハッキリとするのではないだろうか?しかし、現在は吉本興行、松竹芸能の劇場はキタ(梅田)にはない。また現在は海外からの観光客が大阪の街で大量の買い物をしていたりと、昔々の笑いの感覚というかセンスが相当異なると言える。先月新世界へ何十年ぶりに行ったが古いものと新しいものが同居した「串かつ」の街、串かつパラダイスになっていた。でも下品さはまだ変わらず、まだまだ残っていると感じた。
それが少し嬉しかった。
そんな下品ともいえる地域を舞台にした漫画『じゃりン子チエ』を何十年か振りに復刻版(文庫サイズ版)を購入してみて久しぶりにじゃりン子チエで昔の動物園前位周辺へタイムスリップした・・・・。最初にこのアニメを知ったのは劇場版じゃりン子チエ。小学校の五年生か六年生の時であった。祖母とミナミの映画館へ観に行ったのである。劇場版のじゃりン子チエはTV版とは異なり声優が主要人物(チエ、テツ、ミツルなど)以外の登場人物含めて関西のお笑い芸人が声を演じている。花井先生(父)は笑福亭仁鶴氏だったり、マサルは島田紳助氏だったりと漫才師、落語家とかなりの芸人さんが声を演じている。劇場版を観た後日、単行本のじゃりン子チエを数冊買って何度も読んだのだが当時はまだ漫画アクションに連載が継続していたが、漫画週刊誌はこれまでの人生で毎週買って読んだという記憶も習慣もなし。そして劇場版公開数カ月跡にTV版のじゃりン子チエが土曜日の夕方から放映されるのである・・・80年代初頭の事である。

久しぶりに読んだじゃりン子チエにて80年代初頭にタイムスリップしたつもりだったが、実は最初の漫画アクション掲載は1978年だったらしいと最近わかった。元々連載でなく単発でアクションに掲載されていたが後日連載になったそうである。しかし、連載は1997年まで続いたそうである。なんと19年間も・・・。
舞台は大阪、動物園前周辺〜新世界周辺なのだが、この漫画の面白さは大阪の笑いなのだろうか?とこの歳で何十年かぶりに読んでいてふと思った。登場人物、舞台の地域、食文化だけが西成区で動物園前周辺。しかし、もしこれが東京下町の実際に存在する地域へ設定を変えても成り立つのでは?と考えた。この本、この漫画が面白いのは大阪在住の人間からしてみれば漫画のストーリーの面白さプラス知っている街と食文化と大阪弁・・・というだけで、大阪(関西)以外の人はなぜこの漫画を読む(買う)のだろう?いや、実際は関西人しか読んでいないのか?
それだったら「漫画アクション」で連載されないハズだ。





特に大阪人や関西人にしか解らない話は殆ど無いといえる。マニアックなストーリーは殆ど無いと思う。ストーリーは大阪らしいと言われたら、大阪らしいとは何なのか?大阪のどこを指しているのか?

だがこの漫画から地域性をマイナスすると殆どつまらない漫画になる。かと言って大阪ー!!ってノリの話ではない。サザエさんの様に存在しない街のとある家族のほのぼのとした生活にショートカット(四コマ漫画)のギャグ的要素を細かくブチ込んだ脚本家の腕が強く影響したアニメ「サザエさん」とは全く異なる。
大阪の新世界や動物園近辺へいけば、主人公の父親「テツ」の様な人間が実際にいるような気がするし、70年代後半から80年代前半には実際に居たと思う、いや実際に居たと。そして昼間からなにをしているのか解らない人たちが実際にいた。そういった人たちが実際に漫画やアニメの中に登場していた。それは実際にこの地域へ行かないと解らないことであるが、大阪や関西の人はじゃりン子チエのアニメや漫画で出てくる地域が実際に存在する場所であり、登場してくる人々が実際に居そうで本当に居るひとのほのぼのとした漫画として楽しんでいたのだろう。それ以外の関西圏外の人は通天閣は存在は知っていたが、本当にあの変わった地域が存在すると思っていない人もいたのだろうが、ほのぼのとして二足歩行の猫はいないけどひょっとしてこんなけったいな人が大阪にいたら面白いやろうなあと思って居たのだろう。

その実際に居た人の大阪の笑いのセンスが動物園前~新世界周辺の笑いの文化でミナミやキタとは少し異なる大阪の笑の文化だと思う。二ヶ月くらい前に久しぶりに通天閣周辺に行ったが、いくら大量の外国人があの地域にやってきても、串カツ屋のパラダイスになってもそれはまだ変わっていない気がした。
この街へ来るとまだミナミの様に変わり果てた世界でなくどこかじゃりんこチエの時代がまだ残っている感じがする。

そして僕はじゃりんこチエの続きを読み始めるのだ。

2020年2月22日土曜日

悪の読書日記 迷える者の禅修行 ネルケ無方(著)

2020年 2月 21日

人生に迷っているからこの本を選んで購入したのか?
いや、著者であるネルケ無方さんの生き方、考え方に興味があったから購入に至ったのだろう。
いや、両方だ。高校の時、英語の教師が下手な現在社会の本を読むより「ゴルゴ13」を読むほうが勉強になる、と言ってた様に、このネルケ無方氏の本を読んでいるほうがビジネスホテルに置いてある仏教聖典を無理に読んで頑張るよりも何十倍も有効的な気がしてならない。どうしてドイツ人が仏教を勉強しに日本に来たのか?それは三蔵法師が仏教発祥の地であるインドへ行ったら既に仏教は壊滅していたという話に近いのではないだろうかと考えたりしたのだが・・・



読みはじめて、本書はネルケ無方氏の自叙伝であると解ったがそれだけでは無く、日本の仏教についての意見や現実の問題についてのエピソードもところどころに入れられていて、これまた面白いのだが著者がホームレス雲水と称して大阪城公園にホームレスとして住んでいたという話はぶっ飛んだ。ネルケ無方氏が実は日本にゆかりのある人であるというのも不思議だ。
「縁」というコトバや感覚は英語圏の言語には存在するのか?
そういえば昨年知り合いのトライアスロンのメンバーと夜中に大阪城公園に行くと天守閣の下で坐禅を組んでいる人を見たが、あれは大阪城公園は坐禅の聖地なのか?
と、最近の小生の話はともかく・・・正直いうと僧侶になるには予想以上に大変なんだとうのが一言それが強く感じた。
大変・・・というのは、昔々、小学校一年の時に漫画で「一休さん」を読んでこんな修行生活やってられない!と子供心に想い。お坊さんになるのはもの凄い修行を積まないといけないのかと考えていた。が、どうやら出家の世界も人間関係が大変なんだということである。時々、人間関係とかが嫌になってというか幻滅して、それまでの人生を捨てて突然出家する人がいると聴くが、結局は人間一人では生きられないので出家しても人間関係で悩まされるんである。だったら罪を犯して刑務所の独房へ入ればいいのかいう人もいるかもしれないだろうが、それはあまりにも後ろ向き。
結局、人間というのは一人で生きられない、それは日常の生活だけでなく、毎日の食事にしても誰かが働いて農作物を作り、加工して流通に乗って云々で自分の口の中に入るのである。著者のネルケ無方氏の安泰寺も自給自足といっておられるが著者もご理解されているはずだが、自給自足といって食べるものは自分たちで賄えても、生活するための電気は自家発電なんてことは出来ないし、インターネット回線は誰の所有物なのかというレベルまで考えてしまう始末である。人間が複数人居るとどうやっても人間関係からは逃れられない、それは家族であってもだ。
有名な人生アドバイザーであるアンソニー・ロビンズでさえ問題解決というのが人生で終わりを迎えるときは棺桶の中に入ったときだというような事を言ってるらしい。やはり、人間はみんな「迷える者」なのだろう・・・、ハッキリ言って「迷えていない」「問題がない人生」を送っている人間なんて、勘違いした人生かはたまた狂った人なんだろうと。

本来、もっと宗教(宗教というより僧侶)が欧米人のように生活に入り込んで人生にアドバイス(というより、考え方を指南してくれるとか)をしてくれればいいのだろうが、現在の日本では僧侶は葬式と法事の時にしか用はない。これは檀家制度の負の財産なのかもしれず。その反面新興宗教がその代役をしているのではないか。そこへ行き高額なお金を払って得体の知れないものに答えを導き出してもらったりアドバイスを受けたりするのも多面的に考えると間違いではないが、それはもはや宗教や仏教ではない気がする。瀬戸内寂聴さんの話を聴きに行く人は実は欧米人が日曜日に教会へ行くというような感覚なのか?とも想像したりすのだが・・・。ネルケ無方氏や瀬戸内寂聴さんや露の団子さんのような檀家制度と関係が無く、扉や敷居のないの僧侶こそ、実はこれからの時代に必要なのかもしれず。


小生の悩みは今日も尽きる事はない・・・
今日もフランク・ザッパを聴きながら。




#ネルケ無方

2020年2月16日日曜日

悪の読書日記 パンクライナーノート 森脇美貴夫(著)

2020年 2月 16日

少々気分が重いのである・・・そんな時に自宅の天井裏から偶然『パンクライナーノート』、森脇美貴夫(著)を発掘できた。久しぶりに森脇さんの書いた70年代〜80年代の当時のパンクのレコードに一緒に入れられていたライナーノーツを読んでみる。
文章力強いし、コトバも切れ味が鋭い。今とは違いインターネットが無かった時代にロック雑誌やレコードのライナーノーツは聴きてや音楽好きの人間には貴重な存在であった。ロック雑誌は実際に何かが起こった、記者会見したなどの事象が発生してから2ヶ月くらい遅れての活字であったが、当時はそれでもそんな遅れた情報でも貴重であった。



それしか情報源として存在していなかったのである。そしてレコードのライナーノートである。
70年代〜80年代初期のパンク、ニューウェーブのライナーノーツはほとんどが雑誌DOLLの編集長であった森脇美貴夫氏だと思う。違うのもあるんだが・・・えっ、このレコードのライナーって森脇さんじゃないの?ってのも正直ある。だがセックスピストルズの日本盤は殆ど森脇さんがライナーを書いていたんではないんだろうか?

84年に発売された本書は前述、タイトルの通りライナーを集めて本にしただけの内容である。アルバム一枚だけ発売して消えたバンドや、全く知らないバンドなどかなりのアルバムのライナーが収録されている。
でもやはり特筆すべきはセックスピストルズのライナーである。この一冊の中には、グレートロックロール・スウィンドル、ベスト・オブ・セックス・ピストルズ、勝手にしやがれ(81年盤)と3枚のアルバムについて書かれている。多分、森脇さんのセックス・ピストルズのライナーを書く意気込みは他のアルバムのライナーを書くときよりテンションが高いと思わせる。やはり思い入れの強いバンドであり、パンクを確立させたバンドであったからなおさらである・・・。
前述の通り、一枚しかアルバムを出さなかったバンドはご存知の通りセックス・ピストルズである。一枚しかアルバムを出していないにも関わらず伝説として後世に名を残すのであるから凄いのである。何が凄いのかなんて説明できないが。しかし、一枚しかアルバムを発表していないが伝説となって今でもアルバムが売れているバンド、一枚しかアルバムを出さなかったが今ではアルバムが手に入らないバンド(マニアしか理解できない)と二種類に分別されると思う。X-Ray Spexなんてまさに前者であると思う。

この本にはパンクのライナーノーツながら「ポリス」や「エルビス・コステロ」のライナーが収められている。当時コステロはパンクに触発されてコンピュータープログラマーを辞めてミュージシャンになったとか・・・ポリスはちょっと解らないな。また本書に載っている「ブロンディー」は元々パンクなんかでなかったけど、パンクの波に乗ってしまえとばかり、パンクバンドみたいなイメージ戦略をレコード会社に組まれてしまったそうである。これは本書には書いていないが、この事実を知って本書を読めば納得できると思われる。

ところが80年代末期以降の森脇さんのライナーはどこか元気がないのである。
実は数年前から何を考えたのか、セックス・ピストルズの公式ライブ盤など(本当に公式かどうか不明、しかし日本の大手レコード会社が真面目に発売している)を買い集めているのだが、いくつか森脇さんのライナーが入っていたりするのだが、もうひとつ元気がないというか文章が力強くない。時はインターネットが普及しだした時期でありSNSなんてのはまだ出現していないし、ホームページを持っているバンドすらそんなに多くない時代であった。確かにセックス・ピストルズのライナーを書くことに対して既にモチベーションが上がらない程セックス・ピストルズについて書いていた為、これ以上何を書くねん?!!みたいなところがあったのかもしれない。
 
例えば・・・
またレコード会社からセックス・ピストルズのライナーの依頼かよ?
このアルバムって昔、海賊盤やったアルバムやんけ?あんまり音質変わってないやんけ?
テイチクレコードがなんでセックス・ピストルズのアルバム売るねん?演歌のテイチクやろ?
と、勝手に妄想と想像をしてみるのだが。

そういえば、スターリンのメジャー第一弾「ストップ ・ジャップ・・・」は森脇さんの プロデュースだった、セックス・ピストルズのファーストアルバムの様にギターの音を何度も重ねて録音したそうである。それほどセックス・ピストルズ『勝手にしやがれ』への想いれも強かったのかと・・・これ以上は無理だ!なのか?
文章やコトバはその時の人間の精神状態が強く打ち出されるものであると言われる。確かにそうかも知れずと最近は思う。

さて、現在本書の著者である森脇美貴夫氏はどうされているのだろうか、どこにも森脇さんの名前はでてこないのである・・・週に一度は考える日々。
会った事は一度も無いのだが・・・なぜなら本書は10代の人間の人生を変える位のパワーに満ちていたからである。

2020年2月12日水曜日

悪の読書日記 常識について 小林秀雄(著)

2020年 2月 12日

小林秀雄のエッセイ『常識について』という、タイトルながら。短いエッセイや講演が集められており、一部『考えるヒント』にも掲載された内容もあるが、この『常識について』は『考えるヒント2 』に収められている。またタイトルの『常識について』は本書の一番最後の章で、その章の少し前に『常識』というエッセイも収録されている、どういう意図でこの本が角川書店から角川文庫出版に至ったのか今となっては解らない。しかも『考えるヒント』の一番最初の章も『常識』なのであるが、前述の本書の『常識』とはタイトルは同じで中身は全く異なるのである。



本書の『常識について』では、デカルトのエピソードを中心に書かれている。デカルトのエピソードからはじまり、孔子の話で終わる。「我思う、ゆえに我あり」話以前になかなか普段考えないし、聞いたことのないデカルトの話というか、デカルトに至っては「我思う、ゆえに我あり」と、いったい俺は誰なのかという疑問を起草させるくらいの哲学者くらいしか知らない‥のが正直なところ。

 この本を読み終わり著者小林秀雄という人は、どれほど引き出しが多いのかと思ったが、それは引き出しでレベルでなく、年中無休で24時間使える倉庫というべきだろう。世の中には「知の巨人」などと言われる人がおり、その「知」を用いて動植物を研究したりする人や文献を投稿して収入を得ている人がいるんだが、この小林秀雄という人は「知」だけでなく、「ゴルフ」をやってはそれを自分の頭の中の知識と結びつけて書を書き、「骨董品」を購入してはう〜んと目利きと思考をこらしては同じく自分の頭の中の知識と結びつける。しかしそれだけでなく歴史的な有名無名な人物に関しては、よくこれほどコトバで書いて考えれるものだと、小林秀雄この人の本すべてそして小林秀雄自身が『考えるヒント』ではないのだろうか?と思わせる。
名作と言われる氏の『本居宣長』に至っては、新潮文庫の上下二冊(元々一冊のハードカバー単行本)と、本居宣長をテーマでどんだけ書けるねん?と思いきや。先日、梅田の古本街で上下セットで500円にて販売していたが、手にとってパラパラと見て「こりゃダメだ、いま読めないや」と今は読み切る実力がないとあきらめ購入には至らなかった。
「知」だけで生きてこられた人ではないと改めて想い、跡にも先にもこの人を超える人は存在するのだろうか?と考えた・・・。

正直、『常識について』というタイトルで書かれた小林秀雄の文献は薄っすらとしか理解しておらず、逆に言うなら殆ど理解していない。ただし、こんな難解な本を読んで少しでも理解しようとしたくなるのである。時々、時間を掛けてでも構わないので吐きそうな本を読みたくなる。それはスポーツの練習あとに疲れ過ぎて吐きたくなる自分がなんだか少しここちいいのと同じような感覚なのかもしれず・・・いや違うか?。
つまり、読めば読むほど頭がおかしくなりそうな感覚なのだが、ゲロは吐かずとも解らないことをわかろうとする自分がそこの居るということなのか?である。
今は亡き池田晶子氏が「新・考えるヒント」で小林秀雄全集新装版のキャッチコピー「わかる小林秀雄」に対して、「わからない小林秀雄」であってはいけないのか!!と苦言をぶち込んだのは小生が、わからない事をわかろうとするという話ではなく、もっと深く・・・わからないことをわかろうとする自分こそが自分の価値を作り上げているいるのではないか?他人からそれが価値ですと言われる価値など価値にあらずと・・・・「わかる小林秀雄」なんてありえないのでなく、「わかる」必然性などは無いのではと。
なんだか、この意味が少し解った感じである。


さて、小生は今日もゲロを吐きたくなるのである。精神的にも、肉体改造にも。

2020年2月2日日曜日

悪の読書日記 日本人に「宗教」は要らない ネルケ無方(著)

2020年 2月 1日
新渡戸稲造が『武士道』を書いたきっかけの一つが、知り合いの外国人牧師から日本の学校で宗教の時間がない?それじゃあ道徳の時間や人間形成の勉強はどうしているのだ?と言われたのが一つの起因らしい。
この時『日本には既に仏教が生活の中に入り込んでいます。』と新渡戸稲造は答えなかったようだ。皮肉にも『武士道』の「武士道とは死ぬことなり」という言葉だけがその後の戦争で政府に悪用されたのは、新渡戸稲造の意志とは真逆であるのは悪徳極まりない。

兵庫県にあるとあるお寺の住職をされている著者ネルケ無方氏の2014年の書籍だが、古い内容でなく今でも時代を感じさせること無く書かれている本であり、氏の本はあまり読んでもいないのだが著者が仏教を学び始めたきっかけなどが本社には興味深く書かれている。
悩んだ無方氏がハイデッカーやニーチェを読んだが答えは出ず、仏教、禅を学ぶことで答えが見つかり前に進めたと。ハイデッカーってドイツ人が読んでも難解なのかと、しかもドイツ語で書かれ原書であってっもか。こりゃハイデッカーなんて日本人が読んでもなかなか理解できないわな。


小生は日本に生きて五十年。正確には日本で生まれて生きて五十年と少し、生まれた家には信心深い祖母が毎日仏壇と神棚に手を合わせていた。これが普通だと思っていた。しかし、今考えると家には仏教と神道が同居していたのである。
高校時代のある日、リビングのテレビでストーリートスライダーズの『レイダウン シティ』のライブ映像を観ていると部屋にいた祖母が、この人言ってること解ってるんかいなというではないか‥蘭丸がブラウン管の中で唄っている。この時、小生は祖母が毎日仏壇や神棚で唱えているお経の意味を祖母は理解せず唱えているだけだ、ただありがたい言葉というだけで毎日コトバを唱えているだけだろう。ちなみに祖母は新聞やメディアの媒体で活字で書かれている事はすべてが正論と思い込む傾向があったと思う。ストリートスライダーズの歌詞とお経はさほど日本人の宗教感から考えれば変わらないんでは?とこの時考えた。

極端すぎる外国人を集めたバラエティー番組『ここが変だよ日本人』では無いが、『ここが変だよ日本の仏教』と考えると『もっと変だよ欧米人のキリスト教』である。インドで発祥した仏教が中国を経て日本に渡ってきたのは西暦538年、すでに1400年以上がたち国教では無いがはっきり言って日本で生活している日本人の生活に溶け込んでいるのは事実だろう。だがそれを再度認識する必要も無いことから自分は『無宗教』だと思っている。外国人から見れば、それ仏教的行動ですよ!となるわけだ。
この本に書かれていないことでもキリスト教徒の極端すぎる考えはオウム真理教の新興宗教と寸分変わり無いし、とにかく他の宗教は認めないといって他の宗教の寺院や仏像を破壊する行為を非難する権利はアメリカ人をはじめキリスト教徒には無いはずだ。
逆に何でも受け入れて『みんなでやったらええやんか』と和を大事にし過ぎる我々も本当に良いのかどうかである。我々がコントロールできない天災は誰に文句を言っても意味はないが、原発事故等はやはり「事故」であり、想定されていて事故前に指摘されていたことを軽視していた政府に非があるのが当然ではないか。その点もっと主張すべきだろう。和をもってではない!
何でもかんでも入ってこいとばかりに戦国時代に織田信長はキリスト教を受け入れたのは良かったが、キリスト教徒が好き放題しはじめ寺院の破壊や日本人を奴隷として売り買いするポルトガル人が現れたこともあり秀吉はキリスト教を禁止にしたが、当時の日本人が西洋思想に走るのでは無く、日本にやって来たキリスト教徒が日本人的になればもっと違った形の日本文化ができていただろうというネルケ氏の指摘は実に面白い。ここが日本人が好きな『みんなでやったらええやんか』的な揉めることが好きでないところがキリスト教徒にあるかないかである。自分達が学んだキリスト教をそのまま日本に持ち込んだのである。そりゃあかんわな。

ネルケ氏は定年リタイアしてから仏教を学ぼうとするのでは無く、今からでも始めることを奨めている。それは写経することでも無く、何か一心にやってみることだと。
仏教が哲学に似ているのか、哲学が仏教に似ているのか?
どちらが先か後かはどうでも良いことであり


今を生きて、今日も一瞬を大切に生きていきたいと思う。






#ネルケ無方

2020年1月26日日曜日

悪の読書日記 新・考えるヒント 池田晶子(著)

2020年 1月 26日

約2週間掛けて読んだのだが、途中に個人的な失敗した創作活動と日常生活のあいまに読みあさり、何とか読破するもやはり池田晶子の本は難解であり、難解であるがゆえ本を読むという行為を楽しませてもらう。いや、考えることの重要さを学ぶトリガーである。



本書は雑誌の原稿として書いていたが出版社より「難しい」という理由でボツになったのを一冊にしたらしい。各タイトルは小林秀雄の「考えるヒント」から拝借し、小林の文章、コトバを交えながら池田の意見や考えていることを書いた内容であり、決して小林秀雄の「考えるヒント」の解説本ではないし、続編でもない。小林秀雄の「考えるヒント」も難解を極め、何度も読んで考え続ける本であるが、前回のブログに書いたようにこの「考えるヒント」は、雑誌や新聞等に載せた文責を集めた本である。池田晶子の本書のあとがきには、40年前は小林の文献が雑誌の載ったが、自分の文献は難しいという理由で断られた事に怒っているのが面白く、それだけ日本人は劣化したのだと思う。但し、「新・考えるヒント」が2004年に出版された本であるから16年前。日本人はさらに劣化している。
2019年の年間ベスト売上の1位、3位は樹木希林さんの本で1位はエッセイ、3位は発言したコトバを集めた本であり、2位は「おしりたんてい かいとうねらわれたはなよめ」である。樹木希林にも、おしりたんていにも罪はないし、悪意のかけらも微塵もないし、政府の陰謀も考えられないが、これで劣化していないという理由があるのなら教えて欲しい。

小生は毎日同じリズムで生きている日常、これでは何だかワンパターンでかつゾンビと化しているのではないか?、毎日同じ電車に乗れば職場付近まで運んでくれる…それはやっぱり不思議かな?と思いながら考えながら日常を生きている。既に一部区間の通勤電車に乗って職場に行くことは辞めて毎日歩いて職場まで行くことにしたのは良いが、毎日同じ道を同じ時刻にあるいているのでは?何が変ったのか?健康になっただけか?と想い。この歩く通勤がだれか毎日中崎町あたりで歩いている俺を見ては時計代わりにされているのではないか?これやったら「カント」やんけ?とそんな偉い人と同じレベルで考えたのを少々恥ずかしく思い。歩くルートを色々とバリエーションを決めてみたが、職場へ通って仕事して帰ってくるという生活はやはりソンビで俺はWALING DEADなのか?

池田晶子の本は、俺にゾンビの振りをしていたらいいんじゃないの?と言ってる感じがする。考える、考える、思考する、思考する、思索する、思索する・・・人間はコトバを話。言語を使うのである。それが猿やゴリラとの違いである。魂って、猿や犬やクラゲにもあるのだろうか?よくテレビで死んだ人や死んだ飼い犬と交信してくれる人がいるが、家の水槽でクラゲを飼ってる人、メダカの一匹飼いをしている人のクラゲやメダカが死んだあと、死んだ魂と交信してくれるのだろうか?『メダカやクラゲは下等動物だから無理』と言われるのだろうか?
魂というのは何なんだ?

新・生きるヒントを読むと不思議なことにどうでもいいことを考えてしまうのである。極めつけは、帰りの通勤電車で読んでいて眠くなってきて、そのままウトウトしてしまい夢の中で本を読んでいた=文字(本)を読んでいる夢をみたことである。
夢の中で文字=本を読んだのは実はあんまり記憶がない(夢のなかで、ギターを弾いてい音を出していた事とその音の記憶はあった、今は忘れたけど)。猿も犬も夢をみるようなのだが、そこにコトバが出てくる事はないだろう。人間だからコトバがあり、言語があるから深く考える事が出来るということを少々忘れている、深く考えることを置き去りにしているのではないだろうか。
池田晶子の「新・考えるヒント」に関わらず、小林秀雄の「考えるヒント」もヒントといより、直撃弾なのである。

高度情報化時代、遠方から来る友を待つのは至難である。質の低下は防ぎ難い。しかし言葉だけは裏切らない。人を信頼することの喜びは、未だわれわれから失われてはいないのである。言葉だけが、時代を越えて、われわれを強く結ぶ事ができる内なる生きた紐帯なのだ。これを信頼することは、すべてを肯定することだ。
(「十 ヒューマニズム」より抜粋)

通勤鞄に入れておきたい一冊だか、文庫本にもなっていないし、電子書籍にもなっていない。小林秀雄の「生きるヒント」同様、繰り返し読むべき本である。

考えるヒントは生きるヒントであり、ヒントという単純なモノではないのであると思う。コトバはネットワークよりも無限なのだ。なぜなら、そこには時間も存在しないのであるから。




#池田晶子
#考えるヒント
#小林秀雄

2020年1月18日土曜日

悪の読書日記  考えるヒント  小林秀雄(著)

2020年 1月 16日

『考えるヒント』をやっと読み終えたというか、二回目の読破だろうか?いや最後まで読んだのは初めてか?いや一度は読破したと記憶する。自分の記憶ほどいい加減な事はなく、自分の好きなように都合の良いように書き替えるのが記憶である?真実などどうでもよい。


難解というか、簡単の様で難しい本、『考えるヒント』は小林秀雄の文藝春秋や大手新聞へ掲載された文献を集めた本であるようだ。本書のために書いた本で無いことからか、著者による後書き等はない。二巻、三巻と計四巻まで発売されているようだが、一巻でこのありさまである。いつになったら四巻まで読み終えることが出来るのだろう。五木寛之氏の『いきるヒント』とは対照的だ。なかなか進まない。
しかし、既に『考えるヒント』の第一巻冒頭『常識』だけは何回も読んだという記憶だけは間違いない。ネットで『考えるヒント』を検索すると難しいけど何回も読んでいる人が居るようだ、学生時代から読み続けているとか、読んだ後に読み終えた日付を本の中に書き込んでいて今回は⚪⚪回目とか‥‥色々な人がいる。
先日年末に友人の奥様(高校の国語の教師)と話をしていて小林秀雄の話になった、その方も小林秀雄は読むたびに印象がまったく変わると言われていたのが興味深かった。そうなのであると思う‥‥殆どの読者が何度読んでも印象が異なり、読むたびに気付きが違うように、そう感じるのだろう。それは著者の小林秀雄がそういうふうに意図して文章を書いた訳では無いがそうなったのだと思う、結果的にそうなっただけで。


『考えるヒント』の中でも『漫画』は個人的に気に入った一遍である。
「のらくろ」の作者・田河水泡氏が小林秀雄の義理の弟であったとは知らなかったが、「のらくろ」の主人公(動物)は紙面でサボってばかりいるので当時の日本の軍部から嫌がらせを受けていたという話は知っていた(実は反戦漫画なのだ)。しかし、「のらくろ」は作者田河水泡自身であったことは知らなかった。サザエさんの作者・長谷川町子氏が田河水泡のアシスタントをしていたということを昔々聞いたことがある。つまり、サザエさんはよく考えたら長谷川町子本人であったはずだ。長谷川町子本人は生涯独身であったが、彼女の理想はマスオさんの様な旦那さんとタラちゃんの様な子供が欲しかったのではないだろうか?

ミッキーマウスがディズニー本人であるという小林秀雄の考えは、ディズニーがミッキーマウスの発表当時の映像を見るとやはりそうかもしれない?と考えることが出来る、たとえディズニーが誰かの書いたネズミのキャラをパクったとしても。そのキャラクター=ネズミ=ミッキーマウスの動く様子(アニメ動画)からは、作者の人を楽しませたい、笑わせたいという気持ちが十分に伝わってくる(ミッキーマウスの最初期の動画を観たことがある)。

最後に「笑いの芸術」は『一番純粋で力強いものは、日本でも外国でも、もはや少数の漫画家の手にしか無い、とさえ思われる。今日の文学者には、もう陰気な喜劇しか書かない。それは、皆が思っているほど当たり前なことであろう。』(抜粋)でこの『漫画』は幕を締めるのだが、これが書かれたのは昭和34年、1959年である。そんな過去に総小林秀雄は感じたのだろう。
「芸術」としての文学作品的なものは、やはり今でもどこか暗い感じがするのが事実。あのウィリアム・S・バロウズでさえ、文学は映画や音楽の文化に比べると何十年も遅れているといって60年代にカットアップという手法を発明して「裸のランチ」をラリって書き上げた位である。それに比べてやはり漫画は2020年の現時点でも多種多様であるが上手く使えばまだまだ日本を引っ張っていける作品があるといえる。少し表現としておかしい、又は少し違うかもしれないが、何かパワーというか漫画の勢いは今でも落ちてはいないと思う。いまは前述の通り多種多様であるのが現実で、漫画とアニメの境界線はあるのか無いのか定義としては定めるのは難しいのであるが、明らかに笑いの芸術にとどまらず、海外を含め世界的規模でを考えるとやはりそこは「漫画」という芸術でありメディア、笑い以外ででも「漫画」という芸術は不変であり力強いと思う。

それを60年前に感じていた小林秀雄はやはり鋭い感性で生きておられたのであろう。
インターネットがあたりまえの時代であっても小林秀雄のコトバや感性は消えてしまうことは無いようだ。
(不定期に続く・・・)