2019年9月29日日曜日

悪の読書日記 空の気(くうのき) 近藤等則✕佐藤卓(著)

2019年 9月 29日

ここしばらく精神的に壊れそうな9ヶ月。そしていまそれがピークかもしれず、仕事で気を紛らわして生き。疲れたらサウナや銭湯を廻り汗をかき。脳ミソの滋養強壮にスマホで近藤等則の電気トランペットの音を聴くというような生活をしている気がする。果たしてこれから俺は何処へ行くのか?春先にすべきサボテンの植え替えを忘れ、来春まで待たなければいけないが来春まで生きているのかもどうかも怪しい・・・・と感じる9月末。



このブログで一番多く登場するのは著者は何故かミュージシャンの近藤等則氏である。何故かってよく考えたら人生で一番大きな影響を受けた人間だからである。そして文章で人を惹きつけるミュージシャンは出す音も面白い。文章が面白くないミュージシャンの本を出しているミュージシャンの音はつまらない、FxxK OFFだ!!
音とコトバを製造する脳ミソの部分は異なるのだが、何処かで繋がっているのか、コインの裏と表なのか・・・そんな事は俺は解らないし知らん。なんで人間が生きているかさえ解らないのだから。俺は科学者ではないし・・・よの中は解らないことが殆どなのだ。


90年代の初めだったか、半ばだったか・・・近藤等則氏は日本を離れてアムステルダムへ行ってしまった。そして、「地球を吹く」とか言ってだれもいない砂漠やヒマラヤの山奥や日本の海岸、海峡やアラスカの雪の平原のなかの大自然の客の居ない場所で電気トランペットを吹き始めた。どうしたことか・・・と思ったが。実は昔々、小生は高野山の大木に囲まれたあのお墓の石畳を歩いていて、こんな何百年も生きている大木にか囲まれた山の中で音楽が演奏できたら凄く気持ちがいいのでは?と思ったことがある、しかし、高野山は巨大な墓地で人生のこれまでの大先輩が眠るところ、こんなところで演奏するなんて論外、大バチあたりで高野山の僧侶に火あぶりにされる。しかし、自然のなかででの演奏っているのも「あり」なのでは?と思ったことが過去にあった。

『空と気』には、IMAバンドを一旦辞めて、どうしてアムステルダムへ行き、そして「地球を吹く」に至ったのかが語られている。IMAバンドを続けていれば収入は安定したが、近藤さんはそれを選択しなかったらしい。
この本が面白いのは、デザイナーの佐藤卓氏の語るデザインについての話である。どちらかと言うと正直なところ、近藤氏の話は過去に書籍や聴いた話や、ネットで流れているインタビューやSNSに掲載されている話で、どうしてアムステルダムへ行き、「地球を吹く」に至ったかと近藤家の夫婦喧嘩の話以外の殆どの話は既に少しは知っている話だったりする。つまり二十年以上前から言ってることが近藤氏はブレていないのである。既に近藤等則マニアの人はこの本では、ブレない精神の近藤等則に感動するしか無い!ということなのかなと。この本が最初の近藤等則の本である人は、それはラッキーということであろう。
で、その佐藤卓氏は「キシリトールガム」「おいしい牛乳」のパッケージをデザインされた方である。
その佐藤氏が言うには、「デザイン」という概念など昔々の日本にはそんな概念や考え方などは無かったらしい。明治時代にアホみたいになんでも輸入した一つが「デザイン」という概念のようで。元々よいデザインのものは「デザイン」なんて呼ばない。江戸時代までは「デザイン」として考えることは無かったそうである。
つまり、デザインが主役になるのでなく、「あいだをつなぐもの」で素晴らしいデザインはそもそも気づかれなくてもいいのだそうである。
そういえば二十年以上前、日々一緒に水泳の練習をしていたプロのクラシックギターリストの田頭雅法氏は僕に言ってくれてたのが、人が聴いて気持ちいいと感じてもらう音楽をしたいが、存在感がない・・・川で水が流れているけどそれが普通、あたりまえで誰も意識しないけど水の流れる音が気持ちがいいと感じるのと同じような音を出したい・・・と。
全く同じである!
「そこ」にある事に気づかない、気づかれない、存在が注意しないと解らないけど素晴らしい物それが「デザイン」であると佐藤卓氏は語る。
これだけでもこの本を読む価値はあったのである。二十数年前の小生の過去の記憶と経験が繋がるのである。

そして、近藤氏も佐藤氏もコンピュータで音を作る、線を引くという100%コンピュータに頼った製作があんまり宜しくないと。人が集まって演奏する事でほんの小さなズレができる感覚がとても気持ちがいいのだが、100%打ち込みで作るとそれが存在しないのでなんだかつまらない。佐藤氏に限っては「気持ち悪い」と・・・生まれた時から身近に携帯電話はある、街なかにコンビニはある。家にネットはあるという世代は既に型にハマっているのだと思う。それがなぜつまらないか、気持ち悪いかがその感覚が無い、ある程度色々なことを経験しないと感じないのであろう。
それに気がつくか付かないか?は一冊の良い本に巡りあうかあわないかの確率と同じくらいなのだろうか??

2019年9月16日月曜日

悪の読書日記 ワーカーズ・ダイジェスト 津村記久子(著)

2019年 9月 15日

今週はハッキリ言って働き過ぎなのである。先週は土曜日が出勤日で、翌日の日曜日も出勤して、今週は土曜日曜と出勤したので、どう考えても働き過ぎなのである。連続何日か?カウントするのもアホらしいというか、少々精神的に壊れてきているのでヤバイと思われているのかもしれない。仕事は好きか嫌いか?昔は嫌いだったが、いまは少し違うような気がする。というより、昔は勤務先の会社が嫌いで仕事は好きだった?いや反対か?そうでもないか?・・・働くことは嫌いじゃない。勤務先の会社もブラック企業じゃないから、休日に働いた分は休暇を頂くなり対応してもらってる。


『ワーカーズダイジェスト』を読まなければいけない(must状態)事に気がついたのは、今週の日曜か月曜であった。水曜日には噺家某SC氏が主催の恒例の読書会で、今回の課題本は『ワーカーズダイジェスト』なのである。噺家某SC氏の放った刺客がこの本なのである。水曜日は落語会と読書会・・・時間はあんまりなかった。


急いで読み始めたワーカーズダイジェスト。作者も初めてきく作者「津村記久子」さんで、どんな作家の方なのか、どんな本かも殆ど解らず。友人からはいい本で、友人は著者の大ファンだとか・・・それくらいしかこの本については知らず。
読み始めるとどうやらこれは大阪が舞台の話しではないか。同じ姓「佐藤」さん男女が仕事で大阪は梅田のホテルグランヴィアのロビーで待ち合わせて、向かって左の喫茶店で打ち合わせをする。コーヒーは高めだと。
実はその前の水曜日、とある会社の人から呼び出され、初めて合う方と同じホテルグランヴィアのロビーの前で待ち合わせ、そして左に曲がって喫茶店で打ち合わせをした。全く同じだ・・・違うのはこっちは男と男(俺)であるくらいか。

佐藤さん達は別々の職場で仕事をしていて、ホテルグランヴィアで初めて出会ってすぐに「おつかれさま〜って」別れて直後に地下のカレーのサンマルコで偶然合ったが。その後も二人が出くわすことはなく、この話は淡々と進んでいく・・・恋愛小説かと思ったが、二人がそのあとラーメン屋で偶然に合ったとかというエピソードはなく、並行した話が本当に淡々と進んでいくのである。たまたま男性の佐藤さんが女性の佐藤さんが文章を書いている本を見つけるが、佐藤さんに連絡を取ろうとかすることはぜす、そのまま話はまたしても淡々と進んでいく。

しかもやけに細いことばかり書いているのだ。
女性の佐藤さんはバズコックなんて聴いている・・・、嘘言うな、バズコックなんて誰が聴くんねん??!! バズコックなんて、Xレイスペックを聴いてる奴より少ないで!スミスかモリッシーくらいにしとけば良かったんや!!
男性の佐藤さんはモンティ・パイソンのDVDを持っている・・・、嘘言うな、日本のバラエティ番組が好きなやつはモンティ・パイソンなんて観ねーよ!!未来世紀ブラジルのDVDか12モンキーズにしとけば良かったんや!!
と、俺は変態だから「リアル感がない!」と一人突っ込みを入れながら読む。
話は描写が細い割に全体のスピードがやたら早い。男性佐藤さんの施工しているマンションは知らん間に完成しているし、気がつけばまた正月だったりと細い設定云々の描写とこの全体のスピード感のギャップが面白いというか気になる。前述の突っ込みの部分を差し引いてもこの感覚が面白いのだ。土地勘があるのでそれも幸いにして面白さがアップしているのだろうと思うのだが、何時になったらこの二人は再び出会うのか?と。
この本の大阪の地名などはトゲトゲしくも大阪です!!って感じが全く無いので東京の人でも、大阪の土地勘が無い人でも殆ど問題ないと思う。知らないより知っている方が面白いのは当たり前である。

ところでこの小説に出てくる『スパカツ』って本当にあるのだろうか、あればどこで食べれれるのだ?読書会に集まった十数人も噺家某SC氏も誰もネットで調べて来なかった・・・本当にあるのかどうか?誰も知らなかった、このインターネット全盛時代に。そして小生もまだ調べてない。

昔みた、香港のウォン・カーウェイ監督の映画に、こんな映画は無かったかな?2つの並行した話が淡々と進んでいく映画、タランティーノの初期作品なんてこんな感じだった、時間軸が無茶苦茶にしていて面白かったのを思い出す。
なんか、そんな映画を観ている感じが・・・香港では無いが、大阪の街で決して若いとは言えない男女の話が並行して最後まで進んでいく。
今、再度よく考えて解ったのだが、タイトルの通りワーカーズダイジェスト。仕事のこと、人間関係・・・どこの職場でもこんな事があるっていうのがダイジェスト。ものすごい時間の速い感覚の中でポンポンと出てくる。それが男性の佐藤さん、女性の佐藤さんの目で。
『仕事してますねん!!』と。だから恋愛よりも仕事の話が優先で、恋愛は脇役にしか過ぎないのかもしれない。

そして最後に二人は公演で偶然出くわす。再会するのである・・・

これからどうなったかって?
終わり方が花登筺脚本のドラマの終わり方みたいやんけ、大阪を舞台にした小説やからこうなるんか?

俺は来週も働く、バズコックは聴かないが、スリッツやXレイ・スペックは大好きである。


噺家某SC氏こと笑福亭智丸氏



2019年9月1日日曜日

悪の読書日記 教養としてのテクノロジー 伊藤穣一 AndreUhi(著)

2019年 8月 31日

昨年2018年3月に発売されて既に5万部以上読まれている「教養としてのテクノロジー」。「AI」「仮想通貨」「国家」「教育」「資本主義」「日本」などという視点で日本人に向けて書かれた新書である。「教育」のみ共著者のAndre Uhi氏によって書かれていて、他は全て伊藤 穣一氏によって書かれている。
改めて考えてみると、凄いテクノロジーの時代に我々は生きているのだと思う。シャープのザウルスは何処へ行った?のだ。アップルのニュートンは何処へいったのだ?3DOは何処へいったのだ?
ちなみに、冒頭から2020年のオリンピックに向けての伊東氏の期待の前書きから入るのだが、2019年8月、残念な事にこのまま行けばトライアスロン、オープンウオータースイムのレースは便器の中で開催されることは避けられない状況みたいである。


本書は一年以上前に書かれたテクノロジーに関する本なのだが、いま読んでもそれほどというか全く色褪せたり、時間の経過を感じないのは表面的な話ばかり書いているわけでなく、さらに深い部分や著者の経験に関する部分も交えて書かれているという処が大きく作用しているのではないかと思われる。また著者がテクノロジーの最先端を研究しているということもあるだろう。
但し、個人的にもっと突っ込んで欲しかったのは「仮想通貨」の部分である。「国家」「ブロックチェーン」「仮想通貨」となかなか興味深い話題で進んでいるのだが、昨今の「仮想通貨」が投資目的の「仮想通貨」という概念がほとんどで当初目指していた「サイバースペースは国家から独立」みたいな、脱国家的な「仮想通貨」の目的とはかなり変わってきているという点。「脱国家」と「通貨」・・・貨幣が現在どのようなルールで作られているかなど、さらにさらにこの点を掘り下げて欲しかったと・・・それこそが「教養」であり、パンク伊藤穣一(勝手に想像しています、すいません)では無いのだろうか?

「教養」という意味では「働くこと」の定義?意味?、「人間とは?」などとテクノロジーとは真逆の内容も多く書かれているが、実はテクノロジーとはコインの裏と表(ビットコインに裏と表はあるのか?)というような内容で、答えが出てこない問題を読者に提議しているところは非常に面白い。
また共著であるAndre Uhi氏の「教育」に関する部分も興味深く、読みながら「そんな教育してて社会にでたらどないすんねん?」と思ったが・・・何を「学び」とするのか、そして何を人生の「成功」とするかはひとそれぞれ、前述のとおり正確な答えがでる事ではない。但し、そういったことが理解されるには社会が変わらないといけないのは大前提だと思ったのだが社会は変わるのか?。しかし、Andre Uhi氏の大学まで受けた教育の内容が、今は殆ど覚えていないという話は個人的には大好きだ。
さらに「都市」に関する部分に関しても「歩ける距離」を大切にするという部分は共感する。
テクノロジーがもたらす技術的進歩とその裏、人間的な進歩に関しての問題提議の本としては、各章の流れも非常に良く構成されているとしかいえない。

しかし、『第7章「日本」はムーブメントを起こせるのか?』という章であるが、はっきり言って章のタイトルの内容は無理である!これは「日本式システム」を変えないとムーブメントなんて起こせないということを著者が一番知っており、2018年初頭に期待を込めて書かれたと感じるのだが悲しいことにそれは残念というしか言えないのではないだろうか。先日の参議院選挙でもそうであったように、投票率から視ても、誰も社会には興味が無い世の中だといって過言では無い。これほどまでに現政権に好き放題されているにも関わらず、それを変えようという動きは結果として現れていないと感じ、そして只今日本は「大安売り」で売られていき、政治家のご子息や外資系の企業だけが儲かるシステムに移っているのではないでしょうか?と疑問を抱える状態なんだが・・・。
伊東氏が期待している2020年のオリンピックは誰の為のオリンピックなのだろうか?と思う日々。本書の『起きようとしている「兆し」に気づくことが大事です。』という「兆し」を気づく人がこの国には残っているのだろうか?日本が大安売りされている事にさえ気づかないのに・・・SNSというテクノロジーででもそういった問題が発信されているのも事実なんだが。

もし、気づくとしたらそれはオリンピックのあと・・・「しまった」という事ではないのだろうか?
その「しまった」はあと戻りできないことにも気づくのだろう。

2019年8月26日月曜日

悪の読書日記 湯遊ワンダーランド まんしゅう きつこ (著)

 2019年 8月 25日
精神的不健康を解消する為に、このブログを始めたのだが、精神的不健康を解消のひとつで気がつけばサウナ活動も始めていた。
今回は『悪の読書日記』では初めての漫画である。漫画は本ではないとか何とか言われるが、そんな事はなく海外では漫画といえば正義と悪のキャラクターが戦う幼稚なストーリーと決めつけられている感じがしないではないのだが、日本で身の回りで売られている漫画の幅の広さは世界一では無いのだろうか?と思う。それが良いのか悪いのかは別として・・・。



本書は大枠のストーリーは無く、どちらかと言えばエッセイに近く日記とも言える。作者のサウナ通いに関するサウナ活動と、その周辺の日常生活を表現した内容の漫画である。殆どが実話というのが笑えるが、恐ろしい内容も多々ある。作者はアル中から脱出した女性漫画家。アル中が先か漫画家が先かと調べたら、有名な漫画家のアシスタントをしていた時期もあるそうだが、著者が作品を世に出した時期をとアル中の時期を考えると、アル中→漫画家だろう。この漫画の前作のタイトルは『アル中ワンダーランド』である。

そういえば、インスタで知ったオープンウオータースイマーはアル中から脱出すべく、オープンウオータースイミングを始めたそうである。俺の周りはアル中が多いのか、職場の隣の席のどうしようもない年上の馬鹿社員もアル中の様で日常手元が震えている‥‥小生もリアルとネットの世界の区別がついていない感じだが、アル中では無い。アルコールも、スモークも、ドラッグもやりません。


サウナはサウナ室(10分位)→水風呂(数分)→休憩を1サイクルとして、3サイクル程度を繰り返すのである。このサウナの世界に踏み入れた人がよくいうのは『水風呂が最高に気持ちいい』という事である。水風呂がサウナの醍醐味だそうである‥「そうである」とは何か他人事に聴こえるが。
確かにサウナの後の水風呂は最高である。最近ではよく『整いました!』という表現をするが、小生は水風呂のなかでカラダが溶けてしまうと言えば大げさ過ぎるが、水風呂の中でいつまでもいれそうな感じがしていい。『整いました!』というよりも何か脳ミソが最適化したような感じで水風呂の中にいつまでもいれそうな(実際には冷えてきてやばくなるのだが)、そんな感じが楽しいのである。
しかし、問題がこの水温で一般に18度以下といわれるのだが、サウナによっては15度とか、10度以下とか‥‥本書にも出てくるが、シングルとか(一桁)というらしい。流石に水温が低すぎて一分も入って居られないサウナもあるのでこの点は個人差で個人がどう楽しむかであろう。


ふとした事というか精神的不健康からの脱出というでサウナ活動を始めたのだが、週に二回程度サウナへ行く生活である(殆どがジムのサウナだが)。そしてふと何かで出会った『湯遊ワンダーランド』という不思議な漫画。はっきり言って絵は下手くそ。さらに前述の通り決まったストーリーはこの漫画にない、この絵でまともにストーリーがあったら絶対に読んでいない!逆にこの内容で絵が手塚治虫や石森章太郎みたいであれば全く面白くない。この絵であるからこの『湯遊ワンダーランド』
は絶妙な面白さで成り立つのである。しかし、絵でなくストーリーも無いこのアル中から脱出した著者の漫画は正直漫画では無いのである。単に日常を少しだけ脚色したって感じの絵日記と言ったほうが良いだろう。有名な週刊誌に連載していたので今回は話のネタに困ってこれか?とはっきり解るし、登場人物にもなっている編集者も漫画の内容の通り無茶苦茶なのである。その漫画家と編集者の苦悩も面白いのである、そして著者もどう見ても精神的不健康なのである‥‥それがこの漫画の魅力なのである。
例えば、実際に深く考え込んでいる顔があまりにも酷い為、散歩の途中で出会う老人に指摘されるエピソードも登場する。漫画というのも編集者と漫画家の共同作業的な過程で完成されていることがよく解るところも興味深い。

小生がサウナ活動に至った理由がもうひとつあり、有名なクリエイターによると、アメリカでは体内に蓄積さらた毒物を体外に排出する方法としてサウナが一番てっとり早くて効果的と言われているそうである。それがサウナ活動のきっかけの一つであるが、内蔵とくに腸が良くないと精神的に良くないらしく、腸の改善にも毒素を排出する事が有効的なのでサウナの効果は精神的不健康からの脱出には向いているらしい(鬱病からの脱出にも向いているという人もいるくらい)・・・。元アル中の著者とは精神的不健康に至る理由は小生とは異なるのだが、少しでもそれを改善したく著者も小生も日常、地球上のどこかのサウナで実際にサウナ活動をしているのだと思う。悩み事やサウナ活動を通じて一人の著者と多数の読者が悩みを共感する気は著者も読者もみじんも無いしはずだし、SNSで繋がってお互い傷を舐めあう糞なこともないのだが。
ただ・・・現状これではいかん!、と感じたらサウナなのである。
そして、そんな人間は自分だけでは無いはずである。

2019年8月17日土曜日

悪の読書日記 歯車vs丙午 疋田龍乃介(著)

2019年 8月 16日

昔々、高城剛が初めてW.S.バロウズの小説を読んだ時、俺って頭が悪いのか?と思ったと聞いたことががる。バロウズの小説はカットアップという技法を使っているので訳が解らなかったりする(特に初期の名作は、迷作ですね)。この詩集を読んだ時、「詩」ってどうやって読んだら良かったのだろう?と思い.Googleで『詩の読み方』と検索したのが正直事実である。なんせ、義務教育+高校3年間の国語の時間ほど嫌いな時間は無かった。日常まともに日時場会話が出来て、好きな本屋漫画を読んで暮らせるのに国語の時間とは意味が解らない、「作者はどう思ったでしょう?」というテストの問題も、「おまえ、作者じゃないくせいに、作者に確認もせず勝手に好きなこといいやがって!」と12年間思っていた。
詩集はこれまでパティ・スミス詩集とジム・モリソンの詩集くらいしか持っていない。英文⇒日本語へ変換される時点で著者+翻訳家の作品になるので、やはり英語だとダイレクトにコトバが頭に入らないという欠点がある。もう少し英語をまともに勉強すれば良かったのだが(パティ・スミスの詩集もジム・モリソンの詩集も原文が掲載されている)。
多分、この詩集のどれか一遍でも、高校の国語の教科書に掲載されることは無いと思う。こんな自由で摩訶不思議なコトバの世界を未来ある若者に教えて、本当に素晴らしい未来を手に入れたら国家として大問題である。



読み進めるうちに、実は頭の中は詩集のコトバの攻撃でガロに掲載されていた丸尾末広氏の漫画の世界が頭の中で確立されていくのである。なんか薄暗い見たらあかん世界の見てしまうような、覗くでなくバーンと見てしまう感覚。あの青林堂の丸尾氏の作品のダークな世界が広がっていく・・・漫画でなく「コトバ」のだけの表現だけで頭のなかがダークモードである。しかし著者はそんな世界を描くつもりで書いたわけでは全くない筈である、小生が丸尾末広氏の初期の作品が好きだからこうなるのだ。つまり、小生以外の人、丸尾末広氏を知らない人が読むと全く違った世界が頭の中に広がるの筈である。
他の人はこの詩集の「コトバ」でどんな世界を想像するんやろう?
コトバの世界なんて、読者がどう感じるかどんな世界を想像するかに正解はないのである。これを逆手に取られると政治の世界の過大解釈になって好き放題の悪徳政治になるのだが、同じコトバの世界であるのだが、コトバには恐ろしさもある。
また作者が読者に何かを求めるのか?何かを感じて欲しい!!そんな事は詩の世界では成り立たないのではないだろうか。

今は亡き、スターリンの遠藤ミチロウ氏のソロアルバムに「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」という曲がある(同タイトルで遠藤ミチロウ氏の詩集も出ている、持ってないけど)。なんだかその歌詞を読んでいる時の感覚にも似てくる。遠藤ミチロウ氏と著者には30歳以上の年齢差があるのだが、それは関係ないか?それよりあの曲もなんかダークモードのイメージなのである。スターリンのアルバムのジャケットを丸尾末広氏が描いているのもあるから、多分小生の頭の構造がやはりおかしいのか?単一思考なのか?
最近の丸尾末広氏の作品はなんか、パッとした景色というか青空の景色があって、ストーリーは昔と変わらないが絵がダークサイドではない感じがかなりするんだけど。そんなパッとした景色はいくらこの詩集を読んでも頭の中では広がることはなく、グチャグチャとなった豆腐や蕎麦やうんこが爆発してうごめいているのだ。小説じゃないのにそいった世界が広がる・・・。
FBでは何度か書いたのだが、著者は絶対にコトバのテロリストなんだと思う。

実は著者は関西では有名な若手落語家の一人、笑福亭智丸さんなのである。彼が高座で演じる大ボケの丁稚や小僧がなんとも言えず、てんしきの『珍念』などは格別で、創作落語の「桃太郎」の話の元ネタを教える子供の話、子供の姿は格別である。そんな彼が小生にとってこの詩集『歯車vs丙午』でコトバの世界で魅せるダーサイドは彼のダークな姿の一面にしか見えず。実はあいつ、智丸さんはダースベイダー卿ではないのか?と思わさざるをえず。高座で笑いながら「本名疋田龍乃介で詩人もやってまして、◯◯賞の選考にも残ってましたが・・・」と笑顔でいう彼の影が怖ろしい事にダースベーダー卿に見えてくるのである。実は繰り返し読めば読むほど・・・。
やっぱり智丸さんはコトバのテロリストなのである、
あああぁぁぁぁぁ、怖ろしい。

2019年8月14日水曜日

悪の読書日記  絹と明察 三島由紀夫(著)

2019年 8月 14日

よくもまあ三島由紀夫は戦後の工場のストライキの話をベースに、こんな小説を作り上げたものである(1954年の実際にあった近江絹糸争議の話しである)。
話は経営者の駒沢は個人敵利益の為に紡績工場を経営していたわけでは一切無かったが、今考えても当時としては相当従業員のプライベートへの関与はやり過ぎである。利益が経営者個人の為で無かったゆえに、そこに気が付かなかったのえあろう・・・・。若い従業員の手紙を寮母が勝手に開封する、外出は許可制など、軍需工場かよ?と戦後の時代にはこの勘違いというのになかなか経営者は気が付かなかったのだろうか?と、しかし気がついていたにせよ、当時の従業員は東北地方出身者などが多く、兎に角毎月給料が貰えれば・・・というような両親と親孝行の心で成り立っていたので暗黙の了解みたいなところがあり、クレームはたいしたことないと会社側も考えて適当にしていたのだと思う。それが高度成長を支えていたのは事実で、その後に起こる公害問題なんかは当時行政にかけあってもその工場のおかげで市がなりたっているので市民の訴えを退けていたお陰で状況が悪化したのも事実である。非常に良くない時代であった。



そんなあんまり良くない時代と実際に起こった近江絹糸のストライキ事件、ストライキを先導する若者と工場の経営者、哲学好きのオッサンの個人的利益追求の駆け引きをうまく混ぜあわせて小説にしている三島の手腕はなんとも言えない技術である。経営者は人間は苦労してなんぼ、だから若者は苦労したらええんや・・・という従業員の事を息子、娘の様に思ってやっていたことが結果的に裏目に。小説には一切書かれていないが、近江商人はやたら「金(カネ)」に細くセコいそうだ!。多分、経営者は私腹を肥やさなかったけれど従業員の給料は低く抑え、時間外労働は激しいがきっちりと時間外労働分はの給料は払わなかったのだろう。マルクスの資本論にもあるように時間外労働(この分の給料を払わない)こそが利益だ!という思想で爆走し、内部保留金は相当あってこの金で将来の設備増設などと考えていたのだと思う。残念ながらこの場合必要なの福利厚生なのだ!それが経営者として大きく抜けていたのだ。
その抜けた部分を利用されて結果的に・・・・経営者は自分の命さえ縮める。

どう考えても今の時代に読むと、そんな経営者おるんか?になるんだが。戦後十数年なんて、実はこういった企業は多かったんでは無いだろうか?この小説に出てくると駒沢という経営者は私腹の為に利益を追求はしていなかったが、私腹の為に利益を求める経営者が普通であろう。今なら私腹のために会社を経営しないのなら社会起業家だ。


舞台が彦根〜京都と琵琶湖周辺なので関西人には土地勘があるので実際に出てくる場所や神社仏閣など直ぐに想像出来たりする。また三島の書く言葉の美しい表現がまた興味深い。三島は文章を美しくコトバを書く事を優先する場合と、お手軽な面白さを優先する場合があり、この小説は間違いなく前者である。前者も後者も小説としては完全に三島由紀夫ワールドなので手を抜いたストーリーはこれまで読んだ記憶はなく、どれも100%全力三島ワールドに近いと思える。つまり読者層を考えてストーリーを難しく美しく表現するか、ポップに表現するかのバランスを上手く使い分けていた結果と言える。
毎回『お見事!』と読んで言ってしまう三島由紀夫ワールドであるが、今回もである。

実は極端に言えばこのストーリーは会社乗っ取り大作戦なのである。それは結果的にそうなったのか、そこまで計算されていた話なのかは小生の頭の中ではよく解らないが。多分、三島にしてはどっちでもいいところで、三島はこの話のなかでは全く違ったテーマを含めていたようである。
それが「父親」である。
ここからは人それぞれの想いがココロに巡るんであろう。またしてもやられた。

2019年8月12日月曜日

悪の読書日記  運をつかむ瞑想法 青木宏之(著)

 2019年  8月  12日

昼間から、動画サイトでThe CUREの何処かの国での完全ライブ動画を見ながら読書日記を書く。

この世でもっとも尊敬するミュージシャンの一人と言える近藤等則氏が昔々から実践している武術が『新体道』である。近藤氏の書籍やインタビューにはかなりの高確率で登場するのが『新体道』である。かのマイルスはボクシング、近藤等則は新体道、三島由紀夫は剣道にボディビル、ボクシングである。

そんな尊敬するミュージシャンがやってる武術なんて、やってみようとか興味を持つのが普通だが、興味はあるが武術なんて実は相当苦手である(高校時代の柔道なんて特に・・・)。そんな事を思っていたのは30年近く前からで、ここ数カ月人生色々あってさらに近藤等則IMAバンドが再結成したこともあり、精神的不健康からの脱出と併せて、ほぼ毎日近藤等則の奏でる電気ラッパの音階とヴァイブレーションを頻繁に聴いて感じているしだい・・・・。



そんななか古本で見つけたのが本書である。新体道の第一人者である青木宏之氏(著)『できるビジネスマンが実践している―運をつかむ瞑想法』。タイトルから言えば最近の本の様な感じだが、2004年発行の本である。この頃に瞑想の本を書いている事が凄いという感じであり、「できるビジネスマンが実践している」という(出版社が着けたと思われる)サブタイトルの一部も、2004年でこのタイトルは珍しかったのでは?と感じる。少し変えれば「できる外資系ビジネスマンが実践している―運をつかむ瞑想法』など、2019年の本屋に並ぶ本のタイトルに相当近くなる気がするし、相当売れそうな気もする。
著者も出版社もかなり時代を進んでいたのかと思わせる・・・青木宏之氏が瞑想の本を出版していたことさえ知らなかった。何冊か新体道の書籍はだされているとは聞いたことがあったが。

最近では瞑想といえば、Googleが採用して実践している事で世の瞑想に関する書籍の殆どにこの事が書かれている。マインドフルネスなんて言葉も当たり前だが本書には一切出てこない。しかし、全く時代を感じさせないのである(当たり前の話であるが)。そもそもマインドフルネスは瞑想だけの事ではないのだが・・・いつの間にか=(イコール、同じ定義)として捉える人も居られる感じだ。

これまで数冊瞑想やマインドフルネスに関する本を読んできたが、明らかにこの本は瞑想に関する敷居を素晴らしく低く設定して書かれているのが読んでいて解かる。当時の時代背景もあったのだと思うが解りやすく、瞑想に至った過程についての説明なども面白く、興味をひかれる。
特に瞑想中は心を「無」にしましょう、「空」にしましょう・・・とよく言われるのだが。実際に人間の脳は心を「無」にする事は簡単に出来ない仕組みなのである、その点をこの本は強く説明している。実は瞑想をする人で心を「空」に出来なくて、うまく行かないと感じる人が多いのだが、そういった人からみても良くできている瞑想の本であると思う。
なぜなら、青木氏は心を「空」にするのは結果であり、瞑想の目的は「空」にすることではないと書いている。まさにこれであったとやっと気がついた。

さらに武道家の書かれた瞑想だけあって「礼」にはじまり「礼」に終わるという瞑想も始めて読んだしだいである。しかもウォーミングアップまであるのである。この点は非常に面白い、瞑想というスタイルが出来た頃にウォーミングアップなんて発想や考えは無かったはずである。確かに10分以上同じ姿勢を続けたりするには正直ウォーミングアップは必須だと言える。

また、この本を読めば読むほど人間と自然の繋がりを強く感じる。近藤等則氏の奏でる音の根源はきっとここにあるんだろうと確認できる。近藤氏は自然の繋がりを求めてアラスカやヒマラヤ、中東の砂漠でラッパを吹いたりすのだろうと思う。誰もいない雪山や砂漠でラッパを吹くなんて、観客の居ない競技場での格闘家の自己満足な試合と同じではないかと思っていたのが正直なところ。(尊敬するがゆえに正直な気持ちであった)。しかし、この本でそれは相当違うと解った。

おそらく、この本の瞑想法はGoogleや外資系の企業では採用されない瞑想法だと思うが、もし今から瞑想を始めようと思うのであれば、世に出ているどの本よりも最初に読むにはふさわしいのではないだろうか。『きるビジネスマンが実践している』なんていうタイトルは不要である!!

正直小生も、瞑想のスタイルを変えてみようと実践中である。しかし、瞑想なんて正直、自己流でいいのではないかとも最近思い始めたのも事実である。

正解なんていうのが存在しないことも世の中には沢山ある・・・。